初代天皇・神武天皇(イワレ彦)
オオクニヌシは八尋の鰐に化けて三島の玉櫛媛に通って生ませたのがタタリスキ媛という。容姿麗しい乙女・玉櫛媛が川で大便をしていたときに、丹塗り矢に化けたオオクニヌシは彼女のホト(陰部)に突き刺さったというのです。日本書紀ではすっきり結婚したと記しているらしいが、古事記では生々しい限りです。そして矢を持ち帰って置いていたら、矢が麗しい男になり結婚して生まれたのが富登多々良須々岐比売命です。(日本書紀で媛とか姫は、古事記では売命)
イワレ彦(神武天皇)が日向にいた頃に隼人系の吾平津姫(アヒラツヒメ)を妃にして手研耳命(タギシミミノミコト)を産んだ。 その後、大船団で大和入りをして、畝傍山東南の橿原に橿原宮を造る。 その後何故か大阪北東部の三島出身の富登多々良須々岐比売命を正妃とした。 大和の橿原宮に落ち着いたのであるから、大和の豪族の女を妃にしてもよさそうであるが謎…。 イワレ彦の首脳である大久米(久米直の祖)の勧めで富登多々良須々岐比売命を妃にしたらしいが、理由は先ほどの陰部に突き刺さった矢の話を持ち出して「神の子」ということである。
「丹塗り矢がホト(陰部)に突き刺さって富登多々良須々岐比売命が産まれた」に関して、福岡市の早良平野に拾六町ツイジ遺跡があり、鏃に陰部を彫った遺物が出ているらしい。また早良平野に昔、多田羅村があったり、流れる川が多田羅川だったりすることから記紀だけの伝承ではなさそうである。 イワレ彦は富登多々良須々岐比売命との間に渟名川耳尊をもうけたが、日向の手研耳命との間に対立が生じ、手研耳命は殺され綏靖天皇が誕生したのである。
┣ 玉櫛媛(溝橛媛)
溝橛耳神 ┣ 媛蹈鞴五十鈴媛(富登多々良須々岐比売命)
天照大神 事代主 ┣ 渟名川耳尊(綏靖天皇)━┓
┣ オオクニヌシ 神武天皇(磐余彦) x
┣ 加夜臣奈留美 ┣ 手研耳命 ━┛
スサノオノミコト 吾平津姫(日向)
天稚彦(大国主神・大黒様 出雲に祀られる)
┣ 神武天皇
宋像神
┣ 下照姫
┣ 事代主神(武内宿禰・恵比寿様・蘇我入鹿の祖)
饒速日命(ニギハヤヒノミコト・大物主神 三輪山の祀られる)
┣ 宇摩志麻遅命(ウマシマデニミコト・物部守屋の祖)
御炊屋姫(ミカシギヤヒメ)
長髄彦(ナガスネヒコ)
ところで、イワレ彦が日向を出発して大和に向かう所謂、神武東征で大和土着の長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗を受けて、やむなく紀伊半島を迂回して熊野から大和入りを果たした。 実はこの時、既に大和では饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という王が君臨していた。 イワレ彦はこの饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の地で都を作りたいと言って大和を目指したのである。 饒速日命は、長髄彦(ナガスネヒコ)の妹・御炊屋姫(ミカシギヤヒメ)と結婚して宇摩志麻遅命(ウマシマデニミコト)を産んでおり、長髄彦は饒速日命に仕えていた。因みに宇摩志麻遅命(ウマシマデニミコト)が物部連の祖である。
大和の古墳は3世紀半ばから登場し、前方後円墳は大和・吉備・出雲・北九州の四地域の埋葬文化が合体して完成したものらしい。 大和の方形周溝墓の溝は前方後円墳の堀になり、吉備の特殊器台形土器が入り込み、出雲の四隅突出型墳丘墓の四方が前方後円墳の前方部に、北部九州の豪華な装飾品が埋葬文化に採用された。 この全要素がはいったものを定型化した前方後円墳と呼んでいる。
奈良の橿原神宮の隣に位置する神武天皇陵(撮影:クロウ)
神武天皇(神日本磐余彦尊かむやまといわれひこ)の別名をハツクニシラス天皇(すめらみこ)ともいうが、実はもう一人同じ名前の天皇がいる。 それが崇神天皇である。 このふたりが日本書紀が認めた初代天皇であり、ひょとしたら同一人物なのかもしれない。 つまり、神武天皇は九州から海路、大和を目指したが、大和入りをするまでが神武天皇で、大和入りをしたあとが崇神天皇。 ”神”の字がつく天皇はこれ以外に応神天皇(仲哀天皇と神功皇后の子)がいて、この人も九州から海路大和を目指し、異母兄弟である麛坂皇子・忍熊皇子(母は大中姫)という政敵を蹴散らした。この3人の天皇はどうやら関係がありそうである。