平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

第72代白河天皇陵

2007年03月11日 | 天皇・皇后陵

第72代白河天皇陵 成菩提院陵

 父は後三条天皇、母は藤原茂子。皇后には源顕房の娘・藤原賢子、女御には源高明の孫で頼宗の子である能長の娘・道子を迎えた。 後三条天皇が皇太子の時に産まれた第一皇子・貞仁親王は母茂子の養父・藤原能長の庇護のもとに育った。 幼少の頃は父とともに藤原氏に冷遇されたが、父の即位によってようやく親王となり20歳で皇位を継いだ。 が、父後三条の意向は白河天皇の異母弟である実仁親王(母は源基子)や輔仁親王に皇位を継がせることであり中継ぎ的なものであったが、皇太子の実仁親王が1085年に15歳で病死する。 後三条の意思に反して、白河天皇は寵愛深かった藤原賢子との間に産まれた善仁親王を皇太子に立てるとすぐに堀河天皇として即位させた。 これは寵愛深い賢子の没を悼み、藤原の政治の実権を取り戻す意図もあった。 また媞子内親王を最も愛し、1096年に没したときに出家し法皇となっている。 譲位された堀河天皇はまだ8歳であり病弱な上におとなしい性格であったため政治は上皇に任された。 堀河天皇が 1107年に崩御すると、その子宗仁親王が鳥羽天皇として5歳で即位する。 当然のように白河上皇が後見をすることとなり、 鳥羽天皇の皇子が5歳になると上皇は鳥羽天皇に譲位させ、その子顕仁親王が崇徳天皇として即位した。 白河上皇は孫・鳥羽天皇、ひ孫・崇徳天皇の時代約23年間に渡って院政をという新たな政治形態を生み出した。 引き続き摂政関白は置かれていたが実質上は実権を失っていた。 白河上皇は父同様に自身の判断で政務をとり、受領階級や武家出身の近臣を用いて専制的な政治を展開し、摂関家の権勢を弱めることに務めた。 また院の護衛のために「北面の武士」という武装集団を創設した。これは儀礼的な存在ではなく、本格的な武力集団で、平正盛・忠盛親子、歌人で有名な西行も属し、これが後の平家台頭のきっかけとなる。 また女性関係も派手で、平清盛が白河上皇の落胤であるとか崇徳天皇が上皇の子であるとかの噂が根強くあった。

(撮影:クロウ)

 

コメント

第82 84代後鳥羽 順徳天皇陵

2007年03月07日 | 天皇・皇后陵

第82代後鳥羽天皇 第84代順徳天皇大原陵

 後鳥羽天皇の第三皇子で母は贈左大臣高倉範季の娘・修明門院重子。姉の昇子内親王(春華門院)を准母とし、土御門天皇の弟 雅成親王の同母兄である。 子には仲恭天皇がいる。

 1200年に立太子、後鳥羽天皇の強い意向で、土御門天皇の譲位により1210年即位。 穏和な土御門天皇とは反対に激しい気性の持ち主だと言われているが、後鳥羽上皇による院政により政治に関与することはなかった。 1221年に、後鳥羽上皇の倒幕活動に参加するために、仲恭天皇に譲位し承久の乱を引き起こし、乱後は佐渡へ流され、同地で二十一年を過ごし、1242年に46歳で崩御する。 絶食の果ての自殺と伝わる。 佐渡の真野陵に葬られたが、1243年、遺骨は都に持ち帰られ、後鳥羽院の大原法華堂の側に安置された。1249年、順徳院の諡号を贈られる。(それ以前は佐渡院と通称されていた)

 幼少期から藤原定家を和歌の師とし、詠作にはきわめて熱心であり、その息子為家も近習・歌友として深い仲であった。 俊成卿女とも親しく、1215年、俊成卿女出家の際などに歌を贈答している。 歌集『順徳院歌集』を出すなど歌の才能に長けていたと言われており、百人一首にも採録されている 「百敷やふるき軒端の しのぶにもなほあまりある昔なりけり」 は承久の乱の5年前に詠まれたもので宮中の古風が廃れていく様を嘆いた。 

順徳天皇陵は京都大原三千院の隣に位置するために参拝客の多い御陵となっています。3月も中旬だというのに雪が降ってくるという天気でした。(撮影:クロウ)

 

 

昇子内親王(春華門院)

  後鳥羽天皇第一皇女。母は九条兼実の女・中宮任子。 土御門天皇とは4ヶ月違いの異母姉弟。 昇子内親王の誕生の翌年、政変により外祖父・兼実が失脚。母任子は内裏を退出する。  14才で東宮守成親王(後の順徳天皇)の准母となり、皇后宮に冊立。翌年、15才で女院号を宣下される。  幼時より八条院・璋子内親王の養育受け、その死後、八条院の莫大な所領を相続するが、同じ年の11月、崩御。八条院に仕えた女房の健寿御前(建春門院中納言)が、後に日記に追悼を述べ、 比類無き美しさであったと『愚管抄』に記されています。

  ┣後白河天皇77代1127-1192(紀伊の局が乳母)           
鳥羽天皇┃(藤原通憲(信西)、後白河側近で平治の乱で死す) 
 ┃   ┃  ┣藤原成範
 ┣近衛 ┃藤原朝子┗小督?-?         坊門局  
 ┃76代 ┃(紀伊局) ┃ ┃          ┣礼子内親王(嘉陽門院)1200-1273 
美福門院┃      ┃ 藤原隆房       ┃源在子1171-1257 
    ┃     ┃ ┃          ┃┣83土御門天皇1195-1231藤原立子
    ┃  葵前 ┃ 清盛・娘四女     ┃┃高倉重子(修明門院) ┣仲恭天皇
    ┃  ┣  ┣範子内親王1177-1210斎院┃┃┣守成親王(84順徳天皇)           
    ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181   ┃┃┣雅成親王1200-1255

    ┃         ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239         
    ┃         ┃藤原殖子(七条院)    ┃┣昇子内親王1195-1211春華門院      
    ┃        ┃            ┃九条任子(宜秋門院)1173-1238 
藤原祐子┃   平清盛┃                   ┃九条兼実┛
   ┣滋子1142-1176 ┃ ┣言仁親王トキヒト     亀菊

  ┃(建春門院)  ┃ ┃(81代安徳天皇1178-1185) 
 平時信       ┣徳子1155-1214(建礼門院)
  ┣時子1126-1185┛                      
  ┣時忠1127-1189院政期の政治家                    
  ┣親宗1142-1199   ┣讃岐中将時実                  
 藤原家範娘      ┣右大弁時宗                  
            ┃  ┗娘(敦盛の許婚)                  
            ┣夕花の君(壇ノ浦後義経凱旋し、妻室に迎えた)                  
            ┣ゆかり姫                  
         師の局(安徳乳母 待賢門院に出仕)
<rdf:RDF xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#" xmlns:trackback="http://madskills.com/public/xml/rss/module/trackback/" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"> </rdf:RDF> -->

コメント

第27代安閑・第28代宣化天皇陵

2007年02月16日 | 天皇・皇后陵

第27代安閑天皇古市高屋丘陵

第28代宣化天皇身狭桃花鳥坂上陵

 大阪・羽曳野にある安閑天皇陵(撮影:クロウ)

 

 勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)(古事記では広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)尊は、継体天皇(男大迹天皇)の長子で、母を目子媛(めのこひめ)といいます。尾張連草香(くさか)の娘である。 天皇の人となりは幼少のころから器量すぐれ、いつまでも奢らず寛大で、人君としてふさわしい人柄であった。 二十五年の春二月辛丑朔丁未の日に、男大迹天皇は大兄尊を天皇とされ、その日に男大迹天皇は崩御され、元年歳次甲寅の春正月に、都を倭の勾(まがり)の金橋宮(かなはしのみや)といいます。 三月癸未の朔戊子の日に、役人に命じて高御坐を設け即位し、春日山田(かすがのやまだ)皇女をむかえて皇后とする。 皇后のまたの御名は山田赤見皇女、億計天皇の皇女である。 別に許勢男人(こせおひと)大臣の娘、紗手媛(さてひめ)、紗手媛の妹、香香有媛(かかりひめ)、物部木蓮子大連の娘、宅媛(やかひめ)の三人の妃を立てたが、御子はなかった。 二年の冬十二月癸酉の朔己丑の日に、天皇は、勾の金橋宮で崩御され、(七十歳)河内の古市高屋丘陵(ふるいちのたかやのおかのみささぎ)に、皇后春日山田皇女と、天皇の妹・神前(かんざき)皇女とともに合葬された。

奈良・橿原神宮南西にある宣化天皇陵

 

 檜隈高田皇子(古事記では武小広国押盾(たけおひろくにおしたて))は、男大迹天皇の第二子で、勾大兄広国押武金日天皇の同母弟である。二年十二月、勾大兄広国押武金日天皇が崩御されたが跡継がなかったため群臣達が奏上して神器の剣・鏡を武小広国押盾尊にたてまつり、元年の丁巳の日に即位した。 天皇のひととなりは清らかで心がすっきりとし、才能や地位などで人にほこり、王者らしい顔をされることがなく、君子らしい人であったという。 二年の春正月に、都を檜隈(ひのくま)に遷し、廬入宮(いおりのみや)とし、前からの正妃、億計皇子(顕宗天皇)の娘・仲(なかつ)皇女を立てて皇后とした。皇后は一男三女(長女:石姫(いしひめ)皇女、次女:小石姫(こいしひめ)皇女、三女:稚綾姫(わかやひめ)皇女はいずれも欽明天皇妃となっている。長男:上殖葉(かみつうえは)皇子)をもうけた。 前からの庶妃・大河内稚子姫(おおしこうちのわくこひめ)は、火焔(ほのお)皇子を生んでいる。 三年の春二月己酉の朔甲午の日に、天皇は廬入宮で七十三歳のときに崩御。冬十一月庚戌の朔丙寅の日に、天皇を大倭の国の身狭の桃花鳥坂上陵(つきさかのうえのみささぎ)に葬り、皇后橘仲皇女とその孺子をこの陵に合葬しています。

24代仁賢天皇449-498 
   ┣ 第25代武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)489-507 
   ┣ 春日山田皇女      堅塩姫(石川渡来系豪族)          
   ┣ 手白香皇女       ┣ 大兄皇子(第31代用明天皇)
   ┃    ┃        ┣ 磐隈皇女,臘嘴鳥皇子,額田部皇女,椀子皇女          
   ┃    ┃        ┣ 大宅皇女,石上部皇子,山背皇子,大伴皇女          
   ┃    ┃        ┣ 桜井皇子,肩野皇女,橘本稚皇子,舎人皇女          
 春日大娘皇女 ┃        ┣ 豊御食炊屋姫(推古天皇)          
            ┣ 第29代欽明天皇 509-571        ┣ 菟道貝鮹皇女  
           ┃     ┣32代崇峻天皇  ┣八田大兄皇子┣ 竹田皇子
           ┃     ┣茨城皇子    ┣第30代敏達天皇  
             ┃     ┣穴穂部間人皇女┣笠縫皇女  ┣ 押坂彦人大兄皇子
           ┃     ┃  ┗厩戸皇子 ┃     広姫(息長真手王・娘)
           ┃     ┣穴穂部皇子  ┃
           ┃     ┣宅部皇子   ┃
           ┃   小姉君(物部系)  ┃
        振姫 ┃ 橘仲皇女(顕宗天皇娘)┃
         ┣ 第26代継体天皇450-531┣石姫皇女
         ┃        ┃      ┣小石姫皇女(欽明妃)
         ┃        ┃      ┣倉稚綾姫皇女(欽明妃)━石上皇子
         ┃        ┃      ┣上殖葉皇子(欽明妃)
         ┃        ┣ 神前皇女  ┃ ┏日影皇女(欽明妃)━倉皇子
     ┣ 迂斯王      ┣ 第28代檜隈高田皇子(宣化天皇)467-539
   ┣ □             ┣ 第27代勾大兄皇子(安閑天皇)466-536
 ┣ 大郎子        目子媛(尾張連草香の女) ┃┃┃┃
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃┃春日山田皇女(仁賢天皇皇女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃紗手媛(許勢男人大臣の女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃
香香有媛(紗手媛の妹)  
美美濃美濃豪族娘(息長氏系?)            宅媛(物部木蓮子大連の女)

コメント

巫女・飯豊青皇女

2007年02月15日 | 天皇・皇后陵

飯豊天皇陵に祀られた巫女・飯豊青皇女

 4世紀が呪術的、祭祇的であったのに比べて5世紀になると軍事的な国に変わっていきます。応神天皇から雄略天皇の時代です。河内の仁徳天皇陵や応神天皇陵から多くの馬具がでてきたところを見ると4世紀とは様相が変わっていることが伺えます。 5世紀の中国は宗が支配し、宋書和国伝には倭の五王が記されています。「讃」「珍」「済」「興」「武」ですので、日本書紀の七王(応神天皇から雄略天皇)と一致しませんが、この五王が宗王朝に朝貢したのです。五王がそれぞれ誰に当たるのかについては色々説があるようで、「讃」は仁徳天皇、「珍」は履中天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇という具合です。 雄略天皇は日本書紀では「幼武大王」としており「武」であることは間違いないようです。

 倭の五王の中で中央集権化をはかり一番専制者として君臨したのは雄略天皇です。弟である八釣白彦皇子、坂合黒彦皇子、伯父の大草香皇子、履中天皇の皇子・市辺押磐皇子を殺害してまで権力を握ろうとしたほどの御方です。 雄略の皇子・清寧天皇には子がなかった為、王位継承問題が浮上します。 忍海造が所轄していた播磨の縮見屯倉に逃げ込んでいた市辺押磐皇子の皇子、億計王、弘計王を見つけ、呼び戻したのです。 葛城系の清寧天皇は同じ葛城系の皇子達を飯豊青皇女に呼び寄せさせたのです。 そして弟の弘計王が顕宗天皇として即位し、兄が仁賢天皇として即位します。ところがこの二人には雄略天皇のような実力は全くなかったようで、各豪族の傀儡大王であったとされています。

 飯豊青皇女は以上の時代背景に生きた女帝とも云われていますが125人の天皇の中には入っていません。もしも清寧天皇崩御ののち、弘計王(顕宗)と億計王(仁賢)とが皇位を譲り合って空位となった時に、一時女帝として(葛城の)忍海角刺宮で 政治を行ったのであれば日本で最初の女帝は推古天皇ではなくなります。奈良県北葛城郡新庄町見南花内には『飯豊天皇陵』が何故存在しているのでしょう。 飯豊青皇女は、第23代顕宗、第24代仁賢天皇の姉(日本書紀)とも叔母(古事記)とも云われています。第22代清寧天皇が崩御の時のことを古事記には 「是に日継知らず王を問うに、市辺忍歯別王の妹、忍海郎女亦の名は飯豊王、葛城の忍海の高木の角刺宮に坐しましき・・・」 仁賢・顕宗兄弟による皇嗣の決定をみるまでの間、一時的に飯豊青皇女が一時的に国政をとっていたと思われます。そして、その宮があったと言われる角刺宮跡の前方後円墳を「飯豊天皇陵」と宮内庁も認定しているようです。 日本書紀(清寧3年の条)には、「秋七月に飯豊青皇女、角刺宮にして、与夫初交したまう。人に謂りて曰わく、一はし女の道を知りぬ。又安にぞ異なるべけん。終に男に交わんことを願せじ・・・。」 飯豊青皇女は生涯で1度だけ男性との経験をしたが、多分に巫女的な要素を持ち、群臣の信望を集めていたと想像できます。尚、「扶桑略記」では、飯豊天皇が第24代天皇となっており、後世、天皇就任を渋る炊屋姫(推古天皇)に対して聖徳太子が、「女性の天皇は飯豊青皇女という前例があります」といって説得するという話がある事でも確認できる。

飯豊青皇女は飯豊天皇として宮内庁管轄下で祭られています。(撮影:クロウ)

 

 

                                                  春日大娘皇女
但馬清日子孫┓    宮主宅媛                    ┣橘仲皇女 
  葛城高額媛     ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)     ┣白香皇女 
    ┣神功皇后170-269┣菟道稚郎子皇子   ┣飯豊青皇女440-484 ┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498 
     ┣15代応神天皇-394(誉田別尊)  黒媛 ┣弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
14代仲哀天皇 ┣荒田皇女         ┣市辺押磐皇子(忍歯王)-456
 ┣麛坂皇子 ┣16代仁徳天皇257-399    ┣御馬皇子
 ┃     ┣根鳥皇女┃        ┣飯豊青皇女(記紀) 
 ┣忍熊皇子┏仲姫命  ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人) 
大中姫   ┣高城入媛 ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守 ┣ 18代反正天皇336-410
       応神天皇 ┣ 19代允恭天皇  -453
       ┏━磐之媛命   ┣木梨軽皇子 ━━━━━━━━━━┓
  開化天皇 ┃ 仁徳天皇   ┃長田大郎女           ┃
   ┣和気王┃  ┃    ┏┃┻眉輪王┣           ┃
  鸇比売  ┃  ┣大草香皇子┣20代安康天皇(穴穂皇子)401--456┃
垂見宿禰┛  ┃  ┣若日下部命┣軽大娘皇女 ━━━━━━━━━━┛
 ┗□□┓   ┃ 日向髪長媛   ┃┣境黒彦皇子   和珥童女君
甘美内宿禰  ┃       ┗┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰   ┣葛城葦田宿禰  ┣21代雄略天皇(大長谷王)418-479
 ┣葛城襲津彦-347┣葛城玉田宿禰┃ ┣磐城皇子  ┃
 ┃       ┃ ┣葛城円 ┃ ┣星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 ┃ ┗毛媛  ┃吉備稚媛    ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰 ┃吉備臣┃┏━┃━┛      ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰   ┃  ┗田狭 ┣ 八釣白彦皇子 ┏葛城韓姫
 ┣羽田矢代宿禰 ┣黒媛 応神┓┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
 ┗巨勢小柄宿禰 ┗葛城蟻臣 ┣忍坂大中姫      
   ┃       ┗荑媛 ┗衣通姫(そとおりひめ)
   ┗□-□-巨勢男人-529
        ┣胡人-巨勢徳太-658-巨勢黒磨
        ┣紗手媛 (安閑天皇妃)
        ┗香香有媛(安閑天皇妃)

コメント

第26代継体天皇陵を訪ねて

2007年02月04日 | 天皇・皇后陵

第26代継体天皇三嶋藍野陵の謎

24代仁賢天皇449-498 
   ┣ 第25代武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)489-507 
   ┣ 春日山田皇女      堅塩姫(石川渡来系豪族)          
   ┣ 手白香皇女       ┣ 大兄皇子(第31代用明天皇)
   ┃    ┃        ┣ 磐隈皇女,臘嘴鳥皇子,額田部皇女,椀子皇女          
   ┃    ┃        ┣ 大宅皇女,石上部皇子,山背皇子,大伴皇女          
   ┃    ┃        ┣ 桜井皇子,肩野皇女,橘本稚皇子,舎人皇女          
 春日大娘皇女 ┃        ┣ 豊御食炊屋姫(推古天皇)          
            ┣ 第29代欽明天皇 509-571        ┣ 菟道貝鮹皇女  
           ┃     ┣32代崇峻天皇  ┣八田大兄皇子┣ 竹田皇子
           ┃     ┣茨城皇子    ┣第30代敏達天皇  
             ┃     ┣穴穂部間人皇女┣笠縫皇女  ┣ 押坂彦人大兄皇子
           ┃     ┃  ┗厩戸皇子 ┃     広姫(息長真手王・娘)
           ┃     ┣穴穂部皇子  ┃
           ┃     ┣宅部皇子   ┃
           ┃   小姉君(物部系)  ┃
        振姫 ┃             橘仲皇女┃
         ┣ 第26代継体天皇450-531┣石姫皇女
         ┃        ┃      ┣小石姫皇女(欽明妃)
         ┃        ┃      ┣倉稚綾姫皇女(欽明妃)━石上皇子
         ┃        ┃      ┣上殖葉皇子(欽明妃)
         ┃        ┃      ┃ ┏日影皇女(欽明妃)━倉皇子
     ┣ 迂斯王      ┣ 第28代檜隈高田皇子(宣化天皇)467-539
   ┣ □             ┣ 第27代勾大兄皇子(安閑天皇)466-536
 ┣ 大郎子        目子媛(尾張連草香の女) ┃┃┃┃
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃┃春日山田皇女(仁賢天皇皇女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃┃紗手媛(許勢男人大臣の女)  
 ┣ 伊自牟良君              ┃
香香有媛(紗手媛の妹)  
美美濃美濃豪族娘(息長氏系?)            宅媛(物部木蓮子大連の女)

 摂津の地の伊勢寺や能因法師を訪れたときに、何故か継体天皇陵が近くにあったのでいってみた。何故か・・・と書いたのは、奈良の大和にある手白香姫皇女陵は継体天皇の妃の御陵であるが、ここ摂津の地と離れて位置することが妙であるからである。 継体天皇は、第25代武烈天皇の後を継いで天皇となったが血縁関係は無く、政治的に、外交的に有利である男大迹王(おおどのおおきみ越の出身とか近江の出身とか言われており、また応神天皇の5世であるとも言われている)が河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)の説得で担ぎ出された。 継体天皇はいよいよ大和にはいろうとするが、平群氏以外にも反対が多く、なかなか大和に入ることができず、511年に山背の筒城宮にはいり、518年には弟国宮に移ります。 継体天皇を拒否する勢力はかなり大きく、結局大和の磐余玉穂宮入りができたのは即位後20年ほど経ったときであったという。亡くなったのが531年というから、大和入りしてすぐに亡くなっているというのも、謎多き天皇を象徴しているかのようである。 妃の手白香皇女は男大迹王が王位を継承した時に大伴金村に薦められた人で武烈の姉であり、妃となったときは継体は57歳である。手白香皇女陵は大和の西殿塚古墳が当てられているが古墳の年代と200年近くずれており実は西山塚古墳が手白香皇女陵ではないかという説もある。 (撮影:クロウ)

 

 宮内庁管轄の継体天皇陵そのものにも謎があり、すぐ東にある今城塚古墳が実はほんとうの御陵ではないかとの説もある。大田茶臼山古墳から発掘された円筒埴輪の年代が継体の年代と100年ほどずれていることが謎の原因である。 (撮影:クロウ)

 

祟り神

 継体天皇の祖は応神天皇であると、「日本書紀」は言う。また、日本書紀よりも古い「上宮記」では継体の祖は凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)としている。この凡牟都和希王が応神天皇(誉田別皇子ほむだわけのみこ)と考えられている。 「ほむつわけのみこ」といえば垂仁天皇と皇后・狭穂姫との子・誉津別皇子という言葉を発しない皇子がいる。出雲の神の進言通りに出雲に赴き、仮宮を建てることにより言葉を取り戻したという。

 誉津別皇子の障害は祟りであり、継体天皇をはじめ、この頃の天皇は「祟り」との関わりが深い。 神武天皇は大和入りの際、長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いで破れたが、迂回して天の香具山の呪術により熊野からの大和入りに成功している。 つまり神武天皇は霊的な能力を持ち、祟る神であったという。時代の節々には祟る神としての要素を持つ天皇が登場し、武力では成し得ない何かが関与していたと言える。

田舎貴族・継体天皇 

 雄略天皇が殺害した市辺押磐皇子の子・24代仁賢天皇の子・武烈天皇には子供が無く、越から迎えた継体天皇が第26代天皇として即位した。 応神天皇・仁徳天皇の系統の王朝には王位継承者がもはやおらず「後嗣絶ゆべし」ということになった。 継体は男大迹天皇(おおどのすめらみこ)、彦太尊ともいい、彦主人王(迂斯王)と振姫の子である。 彦主人王が近江国の振姫の美貌を聞き、妃とした。継体が生まれて間もなく父は亡くなると、振姫の実家・高向で継体は育った。武烈の後、57歳の老人にして王位を継承したというから普通ではないことはわかる。 大伴大連の勧めで武烈の姉・手白香皇女を皇后とし生まれたのが欽明天皇である。 もっとも、継体には先妻の尾張連草香の娘・目子媛との間に勾大兄皇子(後の安閑天皇)、檜隈高田皇子(後の宣化天皇)がおり、他の妃との間に多くの御子がいたが・・・。

大阪・羽曳野にある安閑天皇陵

 

 

奈良・橿原神宮南西にある宣化天皇陵

  

コメント

第77代後白河天皇陵

2006年12月30日 | 天皇・皇后陵

第77代後白河天皇法住寺陵

 雪の京都を見ようと渉成園を訪れた後、ここ天皇陵にも参拝してきました。 後白河天皇といえば平安院政期に法皇として長きに渡って政権を振るった御方で、源頼朝から日本随一の狸親父と誹られたことでも有名で、誰もが知っています。 その御陵は京都・東山区の三十三間堂の向かい側に位置し、養源院(淀君が父・浅井長政を供養するために建立)と法住寺(平安中期に太政大臣・藤原為光により建立)に挟まれたところにあり、何故か休日は参道入り口が閉まっています。

 この法住寺をを中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」がいとなまれ、法住寺殿が木曾義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河上皇もなくなると、法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続し、明治期に御陵と寺が分離され現在にいたっています。

 法住寺殿の敷地は十余町、平家をうしろだてにした上皇の権威で、周囲の建物はとりこわされ、広大な敷地に南殿、西殿、北殿の三御所がつくられた。狭義の法住寺殿はこの南殿をいう。南殿には上皇のすまいとともに、東小御堂、不動堂、千手堂がたちならび、広大な池もあった。 1163年に、蓮華王院(三十三間堂)が平清盛の寄進で南殿の北側に造立された。 また新日吉神社、新熊野本宮も法住寺殿内に建立された。 1176年後白河上皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなると、女御の御陵として法華堂が建てられたのです。

養源院       (撮影:クロウ)         法住寺・南殿

 

 

後白河天皇陵(撮影:クロウ)

 

 

   藤原成子-1177                 
    ┣ 式子内親王1149-1201斎院                 
    ┣ 守覚法親王1150-1202                 
    ┣ 以仁王1151-1180 (┣源頼政1104-1180と挙兵)              
    ┃         源仲政       
    ┃1078-1162 ┣(養女)━━━━ 藤原呈子シメコ九条院1131-(伊通コレミチ娘)              
    ┃  忠実┳藤原忠通1097-1164  ┃雑子女:常盤御前         
    ┃    ┃  ┣基実     ┃     ┣今若
    ┃    ┃  ┣基房     ┃     ┣乙若
    ┃    ┃  ┗兼実     ┃     ┣牛若
    ┃    ┗藤原頼長1120-1156  ┃    源義朝     
    ┃1115-1161 ┃(保元の乱で死亡) ┃     
    ┃サネヨシ実能┳幸子        ┃    
    ┃  教長┃          ┃      
    ┃    ┃徳大寺     76近衛天皇1139-1155      
    ┃    ┗公能右大臣     ┃                  
    ┃        ┣藤原実定  ┃     
    ┃        ┣藤原多子1140-1201(幸子が養母 頼長の養子)       
    ┃        ┣ 娘    ┃  
    ┃     藤原豪子 ┗一条能保┃             
    ┃┏藤原経宗1119-1189      ┃藤原顕頼┣藤原信頼1133-1160後白河寵臣                     
    ┃┗源懿子1116- ┏━━━━━━━┛ ┣  女                    
    ┃ ┃  1143 ┃ 伊岐致遠女   ┣勧修寺光頼           
待賢門院┃ ┃     ┃ ┣六条天皇79代 ┣藤原惟方1125-(洛検非違使長)   
  ┃ ┃ ┣二条天皇78代1143-1165藤原惟方母俊子、時子が乳母               
  ┃ ┃ ┃     ┃   
  ┃ ┃ ┃    女朱内親王1141-1176    
  ┣後白河天皇77代1127-1192(紀伊の局が乳母)           
鳥羽天皇  ┃  (藤原通憲(信西)、後白河側近で平治の乱で死す) 
74代┃   ┃     ┣藤原成範
  ┣近衛 ┃  藤原朝子┗小督?-?           
  ┃76代 ┃  (紀伊局) ┃ ┃        
美福門院  ┃      ┃ 藤原隆房        
      ┃      ┃ ┃        
      ┃   葵前 ┃ 清盛・娘四女        
      ┃   ┣  ┣範子内親王1177-1210斎院              
      ┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181
    
      ┃              ┃  ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239         
      ┃              ┃ 藤原殖子(七条院)          
      ┃           ┣言仁親王(81代安徳天皇1178-1185)
  藤原祐子┃           ┃トキヒト
     ┣滋子1142-1176  *  ┃
 
     ┃(建春門院)   ┃  ┃ 
   平時信        ┣徳子1155-1214(建礼門院)
    ┣時子1126-1185 ┛                      
    ┣時忠1127-1189院政期の政治家                    
    ┣親宗1142-1199   ┣讃岐中将時実                  
   藤原家範娘      ┣右大弁時宗                  
              ┃  ┗娘(敦盛の許婚)                  
              ┣夕花の君(壇ノ浦後義経凱旋し、妻室に迎えた)                  
              ┣ゆかり姫                  
           師の局(安徳乳母 待賢門院に出仕)

コメント

第78代二条天皇陵

2006年12月30日 | 天皇・皇后陵

第78代二条天皇香隆寺陵

 二条天皇は後白河と源懿子の間に守仁親王として生まれ、藤原惟方母俊子、時子を乳母とした。守仁は祖父である鳥羽上皇から寵愛を受けるが、皇位には叔父の近衛天皇が即位しており、更に同じく美福門院の養子として先に入っていた重仁親王(崇徳上皇の長男)がいたために皇位継承の望みは低く、伯父である覚性法親王のいる仁和寺に預けられたが1155年に近衛天皇が崩御し、重仁親王も鳥羽法皇と崇徳上皇の不仲が原因で即位が絶望的になると、鳥羽法皇はまだ正式に出家を済ませていなかった守仁親王を呼び戻して皇位を継がせるために、まず父である後白河天皇を即位させたと言われている。

 1158年、父から譲位されて即位、後白河上皇による院政が行われたが、太政大臣・藤原伊通ら二条近臣は、鳥羽法皇の意向は天皇による親政であったとして、後白河院政に対抗するようになる。 1159年、平清盛が熊野詣のために京都を離れると、親政派と結んだ源氏の源義朝らが挙兵して平治の乱が起こる。 天皇らは信頼に確保されるが、清盛が帰還すると、六波羅邸へ避難、清盛ら平家により乱は鎮圧される。

 清盛の支持を得て、後白河との二頭政治から、1161年には後白河院政を停止して親政を開始する。この過程で後白河が親政派の藤原経宗、惟方を流刑にし、天皇も対抗して院近臣である平時忠を流刑にしたために、急速に台頭してきた平家を敵に回す事になり政治は混乱した。 二条天皇は病弱だったため、1165年には前年に生まれた実子の順仁・六条天皇に譲位し、7月に押小路東洞院で崩御した。 優れた人物であったが、父・後白河上皇との確執や叔父である近衛天皇の妃であった藤原多子を妃に迎えた(二代后)事から、「不孝」であるという悪評も囁かれた。

二条天皇陵(撮影:クロウ)

二条天皇陵は北野天満宮のすぐ西側の住宅地内に位置する。

 

コメント

初代神武天皇・イワレ彦 VS 饒速日命(将軍は長髄彦・ナガスネヒコ)&物部氏 ホツマツタヱ追記

2006年11月10日 | 天皇・皇后陵

初代天皇・神武天皇(イワレ彦)                                  

オオクニヌシは八尋の鰐に化けて三島の玉櫛媛に通って生ませたのがタタリスキ媛という。
 ・容姿麗しい乙女・玉櫛媛が川で大便をしていたときに、丹塗り矢に化けたオオクニヌシは彼女のホト(陰部)に突き刺さったというのです。
 ・日本書紀ではすっきり結婚したと記しているらしいが、古事記では生々しい限りです。
 ・そして矢を持ち帰って置いていたら、矢が麗しい男になり結婚して生まれたのが富登多々良須々岐比売命です。
  (日本書紀で媛とか姫は、古事記では売命) 

イワレ彦(神武天皇)が日向にいた頃に隼人系の吾平津姫(アヒラツヒメ)を妃にして手研耳命(タギシミミノミコト)を産んだ。 
 ・その後、大船団で大和入りをして、畝傍山東南の橿原に橿原宮を造る。 
 ・その後何故か大阪北東部の三島出身の富登多々良須々岐比売命を正妃とした。 
 ・大和の橿原宮に落ち着いたのであるから、大和の豪族の女を妃にしてもよさそうであるが謎…。 
 ・イワレ彦の首脳である大久米(久米直の祖)の勧めで富登多々良須々岐比売命を妃にしたらしいが、
  理由は先ほどの陰部に突き刺さった矢の話を持ち出して「神の子」ということである。 
 ・富登多々良須々岐比売命との間にふたりの皇子をもうける  
   ひとりが後の綏靖天皇 
   綏靖天皇は即位前に、兄とともに義兄・タギシミミを討つ  
   タギシミミが不貞を働いたというのが理由
   兄神八井耳は討伐の時に怖気づいて弟に任せることから、2代天皇の即位は綏靖
 

「丹塗り矢がホト(陰部)に突き刺さって富登多々良須々岐比売命が産まれた」に関して、
 ・福岡市の早良平野に拾六町ツイジ遺跡があり、鏃に陰部を彫った遺物が出ているらしい。
 ・また早良平野に昔、多田羅村があったり、流れる川が多田羅川だったりすることから記紀だけの伝承ではなさそうである。
 ・イワレ彦は富登多々良須々岐比売命との間に渟名川耳尊をもうけたが、
  日向の手研耳命との間に対立が生じ、手研耳命は殺され綏靖天皇が誕生したのである。

    

  ┏玉櫛媛(溝橛媛)               
 溝橛耳神  ┣ 媛蹈鞴五十鈴媛(富登多々良須々岐比売命)
 天照大神 ┏事代主         ┣ 渟名川耳尊(綏靖天皇) ━┓     
  ┣大国主命          神武天皇(磐余彦)       x  
  ┃ ┃┣下照姫          ┣ 手研耳命      ━┛
  ┃ ┃┣アジスキタカヒコネ  吾平津姫(日向)
  ┃ ┃多紀理姫
  ┃ ┣建御名方(タケミナカタ) 
  ┃ 高志沼河姫         
  ┣加夜臣奈留美     
 スサノオノミコト             
 天稚彦(大国主神・大黒様 出雲に祀られる)          
  ┣神武天皇                 
 宋像神                 
                       
 *事代主神:武内宿禰・恵比寿様・蘇我入鹿の祖                
               
 饒速日命(ニギハヤヒノミコト 神武の前の王 大物主神 三輪山の祀られる) 
  ┃ ┣宇摩志麻遅命 (ウマシマデニミコト・物部守屋の祖) 御炊屋姫が母の説                
  ┃登美夜姫           
┏御炊屋姫(ミカシギヤヒメ)            
┗長髄彦(ナガスネヒコ:軍勢を率いていた 神武天皇に敗れた)    

   

 降臨は瓊瓊杵尊(天照大御神の孫)だけではなかった      
  ・ヤマトには饒速日王権があった      
    降臨の先駆者       
    天の磐船に乗ってくる    
    現在の交野市には饒速日の墓がある     
    大和郡山にある「矢田坐久志玉比古神社」は饒速日(櫛玉彦饒速日)の宮殿跡      
            二宮忠八(無人プロペラ機開発@1891)ゆかりの地      
    蘇我氏との政争で敗れた物部氏の祖      
    四国高地など各地に物部伝承がある      
    宮中にわずかに残った忌部氏は存在を「古語拾遺」に残す@805       
    政権闘争に敗れた物部氏が何か伝承を残すことはありうる   
  ・先代旧事本紀:岩船神社には饒速日が天の磐船に乗って降臨したと伝わる      
    先代旧事本紀とは物部氏が残した歴史書     
    平安中期以降長らく「我が国最初の史書」として信じられた    
    偽書として扱われている@学会     
    記載内容は記紀には登場しない       
    偽書ではないとしたのは皇学館大学の鎌田純一教授(1923-2014徳島出身)       
    旧事本紀大成経:先代旧事本紀を誇張@江戸時代      
       
  ・神武東征により饒速日王権と戦う    
    饒速日は国を神武に譲るが、ナガスネヒコは譲らない     
    かくしてナガスネヒコは饒速日に殺される?      
    饒速日一族は天照大神一族に国を譲って衰退する 
  ・十種神宝      
    先代旧事本紀に登場      
    石上神社に奉納   
  ・奈良の鹿は元々茨城県鹿島神宮の鹿である    
    
饒速日の降臨の地は東北にもある      
  ・唐松神社       
    御祭神は神功皇后     
       →側近に物部胆咋がいた             
    小野寺氏や佐竹氏の崇敬社            
    源義家が前九年の役のときに神社に祈祷して勝利----社を寄進      
    江戸時代になって佐竹氏がここに転封            
    佐竹義処1637-1703が唐松岳から現在の鎮座地へ拝殿を移設     
    宮司は物部さん     
       →饒速日に仕えた豪族
        蘇我氏に敗れるも、ここに逃れて饒速日を祀っていた
        「秋田物部文書伝承」@1980     
        十種神宝は唐松山に埋められているという

 

 

 

饒速日の墓 と 関わりのある神社 @生駒    

 ところで、イワレ彦が日向を出発して大和に向かう所謂、神武東征で大和土着の長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗を受けて、やむなく紀伊半島を迂回して熊野から大和入りを果たした。 実はこの時、既に大和では饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という王が君臨していた。 イワレ彦はこの饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の地で都を作りたいと言って大和を目指したのである。 饒速日命は、長髄彦(ナガスネヒコ)の妹・御炊屋姫(ミカシギヤヒメ)と結婚して宇摩志麻遅命(ウマシマデニミコト)を産んでおり、長髄彦は饒速日命に仕えていた。因みに宇摩志麻遅命(ウマシマデニミコト)が物部連の祖である。

 大和の古墳は3世紀半ばから登場し、前方後円墳は大和・吉備・出雲・北九州の四地域の埋葬文化が合体して完成したものらしい。 大和の方形周溝墓の溝は前方後円墳の堀になり、吉備の特殊器台形土器が入り込み、出雲の四隅突出型墳丘墓の四方が前方後円墳の前方部に、北部九州の豪華な装飾品が埋葬文化に採用された。 この全要素がはいったものを定型化した前方後円墳と呼んでいる。

奈良の橿原神宮の隣に位置する神武天皇陵

  

 神武天皇(神日本磐余彦尊かむやまといわれひこ)の別名をハツクニシラス天皇(すめらみこ)ともいうが、実はもう一人同じ名前の天皇がいる。 それが崇神天皇である。 このふたりが日本書紀が認めた初代天皇であり、ひょとしたら同一人物なのかもしれない。 つまり、神武天皇は九州から海路、大和を目指したが、大和入りをするまでが神武天皇で、大和入りをしたあとが崇神天皇。 ”神”の字がつく天皇はこれ以外に応神天皇(仲哀天皇と神功皇后の子)がいて、この人も九州から海路大和を目指し、異母兄弟である麛坂皇子・忍熊皇子(母は大中姫)という政敵を蹴散らした。この3人の天皇はどうやら関係がありそうである。

 

コメント

日葉酢媛命陵

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

垂仁天皇(イクメイリ彦)の妃・日葉酢媛命

 奈良市・佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の一つ日葉酢媛命陵に、垂仁天皇(崇神天皇の第三皇子)の皇后である日葉酢媛命が眠っている。 日葉酢媛命陵は、かつては神功皇后陵にあてられたこともあり、野見宿禰(のみのすくね)の献策で人身御供にかえて埴輪を初めて立てたという『日本書紀』の説話でも有名。 橿原市鳥見町にある枡山古墳に眠る倭彦命(垂仁の兄弟)が亡くなった時、従者を殉死させたので生き埋めになった人たちの泣き叫ぶ声が何日も続いた。それが哀れなので、次に日葉酢媛命が亡くなった時に野見宿禰の建言によって人を殉死させる代わりに埴輪を立てた。 その為に出雲の国から100人の土師部を呼んで埴輪を作らせたという。 

 丹波道主王の娘・日葉酢媛命には、渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)、真砥野媛(まとのひめ) 、 薊瓊入媛(あざみにいりひめ)という妹がおり、いずれも垂仁天皇の妃となっている。 実はこの4姉妹の他にも妹がいたが不細工であったため里に返され、その途中で身投げ自殺をしたという。 また日葉酢媛命を皇后に迎える前に、狭穂姫という皇后がいたが死なれている。 垂仁は狭穂姫を愛していたが、狭穂姫の兄・狭穂彦が王位を狙って謀反をおこし、狭穂姫は兄の稲城にはいってしまった。 稲城が垂仁により焼かれる前に、皇后親子を助けようとしたが、あえなく狭穂兄妹は焼死する。 焼死する直前に生まれた子の本牟智和気御子だけは助け出されたが30歳になっても喋ることができなかったという。 本牟智和気御子は狭穂姫が火中から生まれたために付けられた名前であるが、そのときの逸話は哀しい物語である。

佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の西に位置する日葉酢媛命陵

 


  肥長姫(蛇)                    葛城高額姫
狭穂姫命┃                         ┗ 神功皇后
 ┣誉津別   播磨稲日太郎姫-122       垂仁天皇      ┃ 
11代垂仁天皇-69-70┣櫛角別王           ┣両道入姫命  ┣ 15代応神天皇
 ┣五十瓊敷入彦 ┣大碓皇子          綺戸辺 ┣14代仲哀天皇 
 ┃       ┣小碓尊             日本武尊   ┣麛坂王
 ┣12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130                          ┣忍熊皇子
 ┣倭姫命    ┣ 稚足彦尊  (わかたらしひこのみこと13代成務天皇) 大中姫 
┏日葉酢媛命   ┣ 神櫛皇子  (かむくしのみこ)讃岐国造の祖   
┣渟葉田瓊入媛  ┣ 稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ)針間国造の祖 
┣真砥野媛    ┣ 五百野皇女 (いおののひめみこ、久須姫命)伊勢斎宮   
┣薊瓊入媛    ┣ 豊国別皇子 (とよくにわけのみこ)日向国造の祖  
丹波道主王    ┣ □ 
10代崇神天皇   ┣ □ 
  ┣八坂入彦命 ┣ □
 御間城姫 ┗八坂入媛命(やさかいりびめのみこと

 日葉酢媛命陵とぴったりと隣接して並ぶ成務天皇陵。両者ともほぼ同じくらいの規模の前方後円墳。

日葉酢媛命の孫・成務天皇の陵墓

 

コメント

第12代景行天皇陵:景行天皇山辺道上陵 日岡陵 日本武尊 伊吹山 

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

大足彦忍代別天皇(景行天皇)は、
  ・后が五十数人 ---- 各地の数多ある国を支配下に置くため ---- 列島統一成就
  ・活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇)の第三子なり。
  ・母の皇后をば日葉洲媛命と曰す。丹波道主王の女なり。
  ・播磨稲日太郎姫を立てて皇后とす。
  ・第一をば大碓皇子と曰す。第二をば小碓尊と曰す。
  ・大碓・小碓と曰ふ。是の小碓尊は、亦の名は日本童男。亦は日本武尊と曰す。
  ・323年に景行天皇即位し2年の春3月3日に 播磨稲日太郎姫(吉備出身)を皇后とすると、双子が生まれそのひとりが日本武尊

 ・播磨稲日太郎姫という御方の「褶墓」と名付けられた墓が加古川の北西、日岡山の山頂に大きな前方後円墳として残っています。
  ・「播磨国風土記」:播磨の国にとても美しい姫がいると聞いた景行天皇が、三種の神器を身につけて妻招ぎに訪れたというのです。
  ・驚いた印南別嬢は 「なびつましま」(加古川河口の三角州) に隠れてしまう。
  ・到着した天皇は、彼女がいないので捜していると、海に向かって吠えている白い犬を見つけ、「これは誰が飼っている犬か?」 と尋ねる
  ・「別嬢の犬です」と応える者がいて、居場所がわかるのである。
  ・天皇は(隠れていた愛しい妻よ)と呼びかけ、ふたりは島から出て印南の六継村 (高砂米田のあたりか) で結婚
  ・やがてふたりの間には、大唯命と小唯命(日本武尊)が産まれるが、しばらくして印南別嬢は亡くなってしまう。
  ・そこで墓を日岡に造ってやろうと遺骸を加古川で渡している時、突然大きな竜巻が渦を巻き、遺骸が川の中に沈んでしまったのだ。
  ・印南別嬢は見つからず、厘と褶(ひれ)だけが発見され、その2つをおさめて墓としたため 「褶墓」と名付けられたという。

 日本書紀の景行紀には景行天皇の九州巡幸のことが記されている。
  ・その巡幸の地は、福岡・大分の各地を抜け、祖母山を越えて高千穂へいき、さらに南下して子湯県を通り、西都市にある高屋宮にきた
  ・高屋宮は西都原考古博物館のすぐ南に位置する。景行天皇は高屋宮に6年間いて、また日向にお帰りになったという。
  ・そしてこの巡幸のルートには数多くの古墳や由緒ある神社地名が残されている。
  ・西都市の高屋宮に6年間いたときに、その地の日向御刀媛という美人を娶って皇子を産んでいる。
  ・皇子の名は豊国別皇子といい、日向国造の始まりとされる。
  ・記紀によれば、景行天皇から雄略天皇の時代にかけて日向出身の男女が盛んに活躍しているのである。
  ・西都原古墳群の男狭穂塚を邇邇芸命ではなく、豊国別皇子の墓であるとする説もある。
  ・景行天皇の九州巡幸および熊襲征伐
    やがて神功皇后の新羅征伐につながり、応神天皇の皇子である仁徳天皇は日向の娘・カミナガヒメを娶り、
     その皇子たちが大和王朝において重要な役割を果たしたことはほんとうのようである。

 ところで、景行天皇は何故九州巡幸の本拠地として西都市を選んだのか。それは天孫邇邇芸命がこの日向の地に降臨され、火照命・海幸彦が本格的な都とした伝承を重んじたからといえる。歴史の跡が西都市に集中し、考古学的な遺物が大和のものと類似しているということも、日向神話が真実性を帯びていると主張できる要因であろう。

日本武尊の伊吹山伝説
  ・景行天皇の命で関東遠征(親子の関係性が悪い@古事記)、その帰りに、伊吹山に立ち寄る
  ・朝廷に背く輩の退治の時に、伊吹の神(伊吹度主)が蛇に化身して現れる
  ・日本武尊はそれを知らずに跨ぐと、蛇は怒って氷柱を降らして大怪我させる
  ・日本武尊は怪我が原因で後に死亡
  ・日本武尊は素戔嗚命の生まれ変わりだと思っていたらしい@ホツマツタヱ
  ・ところが日本武尊は素戔嗚命の恩人の伊吹度主のことを知らなかった ---- ホツマツタヱに残し文
  ・ホツマツタヱの著者:大田田根子:賀茂氏、三輪氏の祖 大物主 崇神天皇と同世代の神
    →景行天皇に献上された (アマノコヤネ 中臣系の歴史書とともに)

 

    

彦坐王
┣狭穂彦肥長姫(蛇)                葛城高額姫
┗狭穂姫命                        ┣神功皇后170-269
  ┣ 誉津別    播磨稲日太郎姫-122    垂仁天皇 息長宿禰王┃ 
11代垂仁天皇-69-70      ┣櫛角別王   ┣両道入姫命      ┣15代応神天皇
  ┃┣ 磐衝別命(三尾氏の祖)  ┣大碓皇子 綺戸辺┣14代仲哀天皇-200 
  ┃綺戸辺         ┣小碓尊  (日本武尊)       ┣麛坂王  -201
  ┃(山背大国不遅の女)  ┃┃┣武卵王(讃岐綾君祖)   ┣忍熊皇子-201
  ┃               ┃┃┣十城別王(伊予別君祖) 大中姫
  ┃               ┃┃吉備穴戸武媛
  ┣ 五十瓊敷入彦      ┃┣稚武彦王(東征同行)
  ┃ イニシキイリヒコ    ┃弟橘比売
  ┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130 
  ┣ 倭姫命  ┣稚足彦尊(13代成務天皇)  ┃     
 ┏日葉酢媛命  ┣五百城入彦  ┃┣和珂奴気王┣神櫛皇子(母:五十河媛 讃岐国造祖)   
 ┣渟葉田瓊入媛┣忍之別皇子┃弟財郎女  ┣稲背入彦皇子(母:五十河媛 針間国造祖) 
 ┣真砥野媛  ┣稚倭根子皇子┃     ┣五百野皇女(母:水歯郎媛)伊勢斎宮   
 ┣薊瓊入媛  ┣大酢別皇子┗吉備郎女   ┣豊国別皇子(母:御刀媛)日向国造の祖 
丹波道主王   ┣五百城入姫        ┣武国凝別皇子(母:高田媛)
10代崇神天皇  ┣五十狭城入彦       ┣日向襲津彦(母:日向髪長大田根)
 ┣ 八坂入彦命 ┣吉備兄彦        ┣豊戸別皇子(母:襲武媛)
尾尾張大海姫┣八坂入媛命         五十河媛
      ┗弟媛

 

奈良天理市の第12代景行天皇山辺道上陵

 

奈良 天理市にある景行天皇陵

 

コメント

第13代成務天皇陵

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

第13代成務天皇狭城盾列池後陵

 成務天皇の父は景行天皇、母は八坂入媛命で、弟財郎女(建忍山垂根の女) を皇后とし、吉備郎姫(稚倭根子皇子の女)を妃とした。 景行天皇が崩御した後、日本武尊が健在であれば皇位を継承したはずだったが、日本武尊は五十葺山の山神の祟りにあって亡くなった。 そこで異母弟の 稚足彦尊が成務天皇として即位した。同じ日に生まれた武内宿禰を大臣(古代の最高執政官)とした。 成務天皇は武内宿禰とともに政治を行い、諸国に令して国造や県主を設置したと云われている。 また山河を境にして国県を分け邑里を定め、天下は平穏だったという。

 

    肥長姫(蛇)                                         葛城高額姫
狭穂姫命┃                                                                                        ┣ 神功皇后
  ┣ 誉津別   播磨稲日太郎姫 -122                        垂仁天皇                  ┃ 
11代垂仁天皇-69-70 ┣ 櫛角別王(くしつのわけのみこ)        ┣両道入姫命       ┣ 15代応神天皇
  ┣ 五十瓊敷入彦┣ 大碓皇子(おおうすのみこ) 綺戸辺┣ 14代   仲哀天皇 
  ┃ イニシキイリヒコ    ┣ 小碓尊  (おうすのみこと) 日本武尊 弟財郎女    ┣坂王
  ┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130             ┣和謌奴気 ┣忍熊皇子
  ┣ 倭姫命      ┣ 稚足彦尊 (わかたらしひこのみこと13代成務天皇)        大中姫
 
 ┣日葉酢媛命     ┣ 神櫛皇子(かむくしのみこ)讃岐国造の祖   
 ┣渟葉田瓊入媛  ┣ 稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ)針間国造の祖 
 ┣真砥野媛    ┣ 五百野皇女(いおののひめみこ、久須姫命)伊勢斎宮   
 ┣薊瓊入媛    ┣ 豊国別皇子(とよくにわけのみこ)日向国造の祖 
丹波道主王    ┣ □ 
10代崇神天皇   ┣ □ 
  ┣ 八坂入彦命 ┣ □
 御間城姫 ┣ 八坂入媛命(やさかいりびめのみこと

 日葉酢媛命陵とぴったりと隣接して並ぶ成務天皇陵。両者ともほぼ同じくらいの規模の前方後円墳。

日葉酢媛命の孫・成務天皇の陵墓(撮影:クロウ)

 

コメント

第14代仲哀天皇陵

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

仲哀天皇と神功皇后

  第十四代仲哀天皇は日本武尊と両道入姫命(垂仁天皇の皇女)との間に生まれた。 仲哀天皇は神功皇后(気長足姫)を立てるとすぐに、敦賀にうつり、笥飯宮(けひのみや)を造営し、紀伊国から出発した仲哀天皇は筑紫で後に死を迎えた。 また越から出兵した神功皇后は出雲を経て、仲哀天皇のいる豊浦津に着き穴門豊浦宮を作った。(山口西端部) その後筑紫で岡県主の熊鰐(くまわに)に歓迎され、特に海産物が取れる地域を献上されている。 その後一向は奴国のいにしえの地である儺県(なのあがた)に移り、熊襲を討ったのである。 このとき神功皇后に乗移った神が、熊襲の追討をやめるように進言したが、それを無視した仲哀天皇は神の怒りに触れて樫日宮(かしひのみや)でなくなるのである。 実は神功皇后は新羅追討を考えており、熊襲追討の仲哀天皇との意見の食い違いが神の怒りとして描かれたといっても良い。 神功皇后が降臨した神(三柱の神といって底筒男・中筒男・上筒男である)を鎮める為に奇怪なことを行っている。 タブーとされるまぐわいを行う事による鎮魂であったらしい。 その後神功皇后が新羅討伐に出たときには誉田を身篭っていた。後の応神天皇を生んだのは新羅王えお屈服させ、九州に戻ってからである。

 仲哀天皇の陵は河内の応神天皇陵と雄略天皇陵にはさまれて位置し、神功皇后陵は奈良市日葉酢媛命陵の西、成務天皇陵と並んで、ひときわ大きい。

 仲哀天皇が亡くなると、王位を狙って神功皇后の大和入りを阻止したのが、坂(かごさか)皇子、 忍熊(おくしま)皇子の兄弟である。二人は仲哀天皇の妃・大中姫との間にできた皇子で、近江の豪族、犬上君の祖・倉見別と難波の吉師の祖・五十狭芽(いさち)宿禰を見方にした。この戦いで五十狭芽(いさち)宿禰は戦死したが、難波吉師は推古朝で活躍し、摂津の大豪族となっている。 神功皇后との戦いの前の狩占いで坂(かごさか)皇子は猪に食い殺され、凶と出ているにもかかわらず、忍熊(おくしま)皇子は難波の住吉に陣を置き戦いを続けた。神功皇后の将軍は、丸邇臣(奈良北部の豪族)の祖難波根子建振熊とも武内宿禰とも言われている。かくして神功皇后側が勝利した。

応神の父・仲哀天皇恵我長野西陵(撮影:クロウ)

 

コメント

神功皇后陵

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

神功皇后陵

  第十四代仲哀天皇は日本武尊と両道入姫命(垂仁天皇の皇女)との間に生まれた。 仲哀天皇は神功皇后(気長足姫)を立てるとすぐに、敦賀にうつり、笥飯宮(けひのみや)を造営し、紀伊国から出発した仲哀天皇は筑紫で後に死を迎えた。 また越から出兵した神功皇后は出雲を経て、仲哀天皇のいる豊浦津に着き穴門豊浦宮を作った。(山口西端部) その後筑紫で岡県主の熊鰐(くまわに)に歓迎され、特に海産物が取れる地域を献上されている。 その後一向は奴国のいにしえの地である儺県(なのあがた)に移り、熊襲を討ったのである。 このとき神功皇后に乗移った神が、熊襲の追討をやめるように進言したが、それを無視した仲哀天皇は神の怒りに触れて樫日宮(かしひのみや)でなくなるのである。 実は神功皇后は新羅追討を考えており、熊襲追討の仲哀天皇との意見の食い違いが神の怒りとして描かれたといっても良い。 神功皇后が降臨した神(三柱の神といって底筒男・中筒男・上筒男である)を鎮める為に奇怪なことを行っている。 タブーとされるまぐわいを行う事による鎮魂であったらしい。 その後神功皇后が新羅討伐に出たときには誉田を身篭っていた。後の応神天皇を生んだのは新羅王えお屈服させ、九州に戻ってからである。

 仲哀天皇の陵は河内の応神天皇陵と雄略天皇陵にはさまれて位置し、神功皇后陵は奈良市日葉酢媛命陵の西、成務天皇陵と並んで、ひときわ大きい。

 仲哀天皇が亡くなると、王位を狙って神功皇后の大和入りを阻止したのが、麛坂(かごさか)皇子、 忍熊(おくしま)皇子の兄弟である。二人は仲哀天皇の妃・大中姫との間にできた皇子で、近江の豪族、犬上君の祖・倉見別と難波の吉師の祖・五十狭芽(いさち)宿禰を見方にした。この戦いで五十狭芽(いさち)宿禰は戦死したが、難波吉師は推古朝で活躍し、摂津の大豪族となっている。 神功皇后との戦いの前の狩占いで麛坂(かごさか)皇子は猪に食い殺され、凶と出ているにもかかわらず、忍熊(おくしま)皇子は難波の住吉に陣を置き戦いを続けた。神功皇后の将軍は、丸邇臣(奈良北部の豪族)の祖難波根子建振熊とも武内宿禰とも言われている。かくして神功皇后側が勝利した。

 平城京跡の北西2kmくらいのところにある神功皇后陵は奈良市・佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の中では最大の規模を誇ります。

 

神功皇后陵・五社神古墳(撮影:クロウ)

 


    

肥長姫(蛇)                            葛城高額姫
狭穂姫命┃                                             ┣ 神功皇后
  ┣ 誉津別   播磨稲日太郎姫 -122        垂仁天皇       ┃ 
11代垂仁天皇-69-70┣ 櫛角別王(くしつのわけのみこ)  ┣両道入姫命  ┣ 15代応神天皇
  ┣ 五十瓊敷入彦┣ 大碓皇子(おおうすのみこ) 綺戸辺┣ 14代仲哀天皇 
  ┃ イニシキイリヒコ    ┣ 小碓尊  (おうすのみこと) 日本武尊    ┣麛坂王
  ┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130                  ┣忍熊皇子
  ┣ 倭姫命      ┣ 稚足彦尊(わかたらしひこのみこと13代成務天皇)大中姫 
 ┣日葉酢媛命     ┣ 神櫛皇子(かむくしのみこ)讃岐国造の祖   
 ┣渟葉田瓊入媛  ┣ 稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ)針間国造の祖 
 ┣真砥野媛    ┣ 五百野皇女(いおののひめみこ、久須姫命)伊勢斎宮   
 ┣薊瓊入媛    ┣ 豊国別皇子(とよくにわけのみこ)日向国造の祖 
丹波道主王    ┣ □ 
10代崇神天皇   ┣ □ 
  ┣ 八坂入彦命 ┣ □
 御間城姫 ┣ 八坂入媛命(やさかいりびめのみこと

                                                  春日大娘皇女
但馬清日子孫┓    宮主宅媛                    ┣橘仲皇女 
  葛城高額媛     ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)     ┣白香皇女 
    ┣神功皇后170-269┣菟道稚郎子皇子   ┣飯豊青皇女440-484 ┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498 
     ┣15代応神天皇-394(誉田別尊)  黒媛 ┣弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
14代仲哀天皇 ┣荒田皇女         ┣市辺押磐皇子(忍歯王)-456
 ┣麛坂皇子 ┣16代仁徳天皇257-399    ┣御馬皇子
 ┃     ┣根鳥皇女┃        ┣飯豊青皇女(記紀) 
 ┣忍熊皇子┏仲姫命  ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人) 
大中姫   ┣高城入媛 ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守 ┣ 18代反正天皇336-410
       応神天皇 ┣ 19代允恭天皇  -453
       ┏━磐之媛命   ┣木梨軽皇子 ━━━━━━━━━━┓
  開化天皇 ┃ 仁徳天皇   ┃長田大郎女           ┃
   ┣和気王┃  ┃    ┏┃┻眉輪王┣           ┃
  鸇比売  ┃  ┣大草香皇子┣20代安康天皇(穴穂皇子)401--456┃
垂見宿禰┛  ┃  ┣若日下部命┣軽大娘皇女 ━━━━━━━━━━┛
 ┗□□┓   ┃ 日向髪長媛   ┃┣境黒彦皇子   和珥童女君
甘美内宿禰  ┃       ┗┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰   ┣葛城葦田宿禰  ┣21代雄略天皇(大長谷王)418-479
 ┣葛城襲津彦-347┣葛城玉田宿禰┃ ┣磐城皇子  ┃
 ┃       ┃ ┣葛城円 ┃ ┣星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 ┃ ┗毛媛  ┃吉備稚媛    ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰 ┃吉備臣┃┏━┃━┛      ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰   ┃  ┗田狭 ┣ 八釣白彦皇子 ┏葛城韓姫
 ┣羽田矢代宿禰 ┣黒媛 応神┓┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
 ┗巨勢小柄宿禰 ┗葛城蟻臣 ┣忍坂大中姫      
   ┃       ┗荑媛 ┗衣通姫(そとおりひめ)
   ┗□-□-巨勢男人-529
        ┣胡人-巨勢徳太-658-巨勢黒磨
        ┣紗手媛 (安閑天皇妃)
        ┗香香有媛(安閑天皇妃)

コメント

第15代応神天皇

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

祟る応神天皇

 大阪市羽曳野市誉田にある応神天皇陵は面積で日本第二位、体積で第一位と化け物のように大きい。 このように巨大であるにもかかわらず、日本書紀には応神天皇を埋葬した記載が無く、異例中の異例である。 というわけで、羽曳野にある古市古墳群の当古墳に行ってみたが確かに巨大である。 ところが仁徳天皇陵と違って参拝者用の駐車場も何もないのには驚いた。

第15代応神天皇恵我藻伏岡陵(撮影:クロウ)

 

 応神天皇の父は仲哀天皇、母は神功皇后である。 仲哀天皇は神功皇后を引き連れて九州の熊襲討伐を行うが、神託を無視したなっかりに変死した。  神功皇后は神託通りに新羅まで平定して九州に戻ってきた。 このときに応神天皇を九州で産み落とすのであるが、仲哀天皇が父であるというのは怪しい。 神功皇后は応神を連れて大和入りをするとき、応神を喪船に乗せて、死んだことにした。 継体の祖・応神の謎は深まるばかりである。

 応神天皇は大和の変革期に迎えられた。 それまでの天皇の宮は大和に造られたが、応神の宮は大阪平野にある。 父の仲哀天皇から清寧天皇までが大阪である。 また倭名にも特徴の変化があり、崇神天皇は御間城入彦というように”イリ”、景行、成武、仲哀天皇は”タラシ”、応神天皇の場合は”ワケ”である。 イリ王朝からワケ王朝へと変化があったのは確実である。

 仲哀天皇(ヤマトタケルの第二皇子)が神功皇后(開花天皇の曾孫・息長宿禰王の娘で母は葛城高額媛)とともに熊襲征伐を行おうとしたときに、仲哀天皇は神託を無視し変死したが、その時に同行していた武内宿禰自ら神主となり、殯を行った。 祟り神の存在を知った神功皇后は、神託通りに新羅を征伐し、大和攻めが始まった。 応神の大和入り・即位を阻止しようとしたのが、仲哀天皇と大中姫の子・坂皇子と忍熊皇子である。 播磨に陣を張り狩占いをしたところ、坂皇子は猪に食い殺されるという凶がでたため、兵士は動揺し、 忍熊皇子は大阪・住吉まで退いたという。 その後、神功皇后に菟道に追い詰められ近江で果てた。 翌年、仲哀天皇が河内で葬られると、神功皇后は磐余に宮を置いて、応神は3歳で皇太子になった。 ところが、このあと69年間も王位にはつけずに、神功皇后が摂政として大和に君臨したという。 仲哀天皇記には以上の事が印されているが、ただ、応神についてのみ記載がなく、全く無視されているのは何故なのでしょう。

 住吉大社神代記には、仲哀天皇がなくなった夜に神功皇后が住吉大神と秘め事があったとしている。 また武内宿禰が応神の父親であるという説もある。 武内宿禰の末裔の多くは朝廷の中枢部にあって、女人たちは大王家の妃となった。 武内宿禰は藤原氏が行った政治手腕を既に行っていたのである。 もしも応神が武内宿禰の子であるならば、応神は天皇家の血が極めて薄いことになる。 すると天皇家の血筋を欲しがって即位した継体天皇が応神の末裔である、というのは理解しがたいことになる。

コメント

仲津姫陵

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

 応神の妃・仲津姫陵 大阪・羽曳野にて(撮影:クロウ)

 

コメント