仁徳天皇(大鷦鷯尊)
第16代仁徳天皇は応神天皇と仲姫命との間に第四皇子として生まれた。応神天皇には王位継承者が3名いた。 難波の仲姫の子・大鷦鷯(おおささぎ)、 奈良県北部の高城入姫の子・大山守、 京都南部の山背の宮主宅姫の子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)である。 菟道稚郎子には百済の渡来人・王仁(わに)という、卓素という技術者などと渡来した師がいた。和邇吉師のことであるが、書首(ふみのおびと)らの始祖である。 3人の中では最年長の高城入姫の子・大山守は山野を管理する仕事をしていたが、応神天皇が亡くなり次の天皇が決まるまでの空白期間にある事件が起きた。 大和の三輪山の麓に屯田と屯倉があり、出雲臣の祖・淤宇宿禰が屯田司を務めていたが、大山守の兄・額田大中彦が「この屯田は大山守の地であるから、淤宇宿禰はやめよ」と言い出した。この時大鷦鷯が乗り出して、大和の古事に詳しい倭直吾子籠が、淤宇宿禰の主張を支持し決着した。この頃に応神天皇の意思により菟道稚郎子は皇太子となり、大鷦鷯は補佐役となったのである。大山守は反乱を起こしたが、宇治川に落とされ、那羅山に葬られた。 その後、残った大鷦鷯と菟道稚郎子は王位を譲り合ったが、菟道稚郎子が自殺することにより大鷦鷯が仁徳天皇として王位についたのである。
仁徳の皇后は葛城襲津彦の娘・磐之媛である。 葛城襲津彦の本拠地は奈良・葛城地方であるが、御所市にある室大墓古墳が葛城襲津彦の墓とみられている。 また、磐之媛は奈良市の佐紀古墳群、神功皇后陵のすぐ東1kmくらいのところにある磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)に眠っている。
仁徳天皇は難波の高津宮にいた。難波と葛城は大和川水系の河口と上流の位置関係であり、舟による交通が発達していた当時を考えると、そのつながりは強い。 あるとき仁徳天皇は宮廷に仕えていた玖賀姫(丹波南部の出)に関心を示したが、おかげで玖賀姫は国に帰らされた。 その後仁徳は菟道稚郎子の妹・八田皇女を妃にしようと言い出した。 当時、異母兄弟の結婚は不思議ではないが、嫉妬深い磐之媛が応じることはなかったが、皇后の留守中に八田皇女とまぐわってしまい妃にしたのである。 それを知った皇后・磐之媛は高津宮へ帰らず、その数年後の349年に乃羅山に葬られた。 磐之媛は民間からでた最初の皇后で、後に光明子が異例の皇后になっている。 磐之媛が亡くなった翌年に仁徳は八田皇女を皇后とし、その二年後に八田皇女の妹・雌鳥皇女を妃にしようとしたが、ある事件が起こり雌鳥皇女は殺された。
仁徳天皇が眠る堺の大山古墳(仁徳天皇陵)は墳丘の長さ486mと日本一で有名であるが、最近になって大山古墳の被葬者が疑われだした。明治の初期に古墳の前方部で石棺がみつかった。前方後円墳では主要な被葬者は後円部に葬られるのが原則で、前方部に埋葬者がいる場合には後円部の主人に従属する人が考えられる。つまり八田皇女の可能性があるのである。
第16代仁徳天皇百舌鳥耳原中陵
正面から向うの丘陵手前までで100m、全周2.8kmは想像を絶する巨大古墳です
日本最大の前方後円墳。北側の反正陵古墳(田出井山古墳)・南側の履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。前方部を南に向けた墳丘は、全長約486m、後円部径約249m、高さ約35m、前方部幅約305m、高さ約33mの規模で、3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。葺石と埴輪があり、埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、犬、家などが出土しています。昭和30年代と最近の調査で、造出しから須恵器の甕が出土しました。古墳が造られた年代を知る資料として、話題になっています。明治5年(1872)には前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。この時の出土品は再び埋め戻されたと言われていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようです。アメリカのボストン美術館には本古墳出土と伝えられる細線文獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されています。日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚と考えられる古墳が10基以上あります。仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)よりも、あとで築造されたことが、わかっています。全周2.8kmの周遊路として整備されています。
大山公園からみた仁徳天皇陵 博物館内石棺説明
仁徳天皇の皇子たち
仁徳天皇と皇后・磐之媛との間に大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと、履中天皇)、 住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)、瑞歯別尊(みずはわけのみこと)、反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(おあさつまわくごのすくねのみこと、允恭天皇)をもうけた。 応神天皇の死後、王位継承問題が起きたのと同じように、仁徳天皇の場合も大兄去来穂別尊と住吉仲皇子が争いを起こす。住吉仲皇子は淡路の野嶋の海人を統括し、難波津を拠点にしたのに対して、大兄去来穂別尊は後に大和の磐余を本拠地とし、難波津を軽視した。 これにより住吉仲皇子が大兄去来穂別尊を攻めたのである。 大兄去来穂別尊は平群や物部をとともに大和の石上に逃げたとき、弟の瑞歯別尊に住吉仲皇子を殺すように命じた。 瑞歯別尊は申し出を受けたものの、相手は実の兄であり、迷っていた。 瑞歯別尊は、住吉仲皇子の近習である隼人に大臣の椅子を餌に、主の住吉仲皇子を殺させたのであるが後に口封じをしている。 この事件のあと大兄去来穂別尊についた瑞歯別尊が反正天皇になった。 反正天皇陵は堺市の田出井山古墳で、仁徳の大山古墳や履中陵とされる百舌鳥陵山古墳に比べると大変小さい。