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第16代仁徳天皇

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

仁徳天皇(大鷦鷯尊)

 第16代仁徳天皇は応神天皇と仲姫命との間に第四皇子として生まれた。応神天皇には王位継承者が3名いた。 難波の仲姫の子・大鷦鷯(おおささぎ)、 奈良県北部の高城入姫の子・大山守、 京都南部の山背の宮主宅姫の子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)である。 菟道稚郎子には百済の渡来人・王仁(わに)という、卓素という技術者などと渡来した師がいた。和邇吉師のことであるが、書首(ふみのおびと)らの始祖である。 3人の中では最年長の高城入姫の子・大山守は山野を管理する仕事をしていたが、応神天皇が亡くなり次の天皇が決まるまでの空白期間にある事件が起きた。 大和の三輪山の麓に屯田と屯倉があり、出雲臣の祖・淤宇宿禰が屯田司を務めていたが、大山守の兄・額田大中彦が「この屯田は大山守の地であるから、淤宇宿禰はやめよ」と言い出した。この時大鷦鷯が乗り出して、大和の古事に詳しい倭直吾子籠が、淤宇宿禰の主張を支持し決着した。この頃に応神天皇の意思により菟道稚郎子は皇太子となり、大鷦鷯は補佐役となったのである。大山守は反乱を起こしたが、宇治川に落とされ、那羅山に葬られた。 その後、残った大鷦鷯と菟道稚郎子は王位を譲り合ったが、菟道稚郎子が自殺することにより大鷦鷯が仁徳天皇として王位についたのである。

 仁徳の皇后は葛城襲津彦の娘・磐之媛である。 葛城襲津彦の本拠地は奈良・葛城地方であるが、御所市にある室大墓古墳が葛城襲津彦の墓とみられている。 また、磐之媛は奈良市の佐紀古墳群、神功皇后陵のすぐ東1kmくらいのところにある磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)に眠っている。

 仁徳天皇は難波の高津宮にいた。難波と葛城は大和川水系の河口と上流の位置関係であり、舟による交通が発達していた当時を考えると、そのつながりは強い。 あるとき仁徳天皇は宮廷に仕えていた玖賀姫(丹波南部の出)に関心を示したが、おかげで玖賀姫は国に帰らされた。 その後仁徳は菟道稚郎子の妹・八田皇女を妃にしようと言い出した。 当時、異母兄弟の結婚は不思議ではないが、嫉妬深い磐之媛が応じることはなかったが、皇后の留守中に八田皇女とまぐわってしまい妃にしたのである。 それを知った皇后・磐之媛は高津宮へ帰らず、その数年後の349年に乃羅山に葬られた。 磐之媛は民間からでた最初の皇后で、後に光明子が異例の皇后になっている。 磐之媛が亡くなった翌年に仁徳は八田皇女を皇后とし、その二年後に八田皇女の妹・雌鳥皇女を妃にしようとしたが、ある事件が起こり雌鳥皇女は殺された。

 仁徳天皇が眠る堺の大山古墳(仁徳天皇陵)は墳丘の長さ486mと日本一で有名であるが、最近になって大山古墳の被葬者が疑われだした。明治の初期に古墳の前方部で石棺がみつかった。前方後円墳では主要な被葬者は後円部に葬られるのが原則で、前方部に埋葬者がいる場合には後円部の主人に従属する人が考えられる。つまり八田皇女の可能性があるのである。

第16代仁徳天皇百舌鳥耳原中陵

 正面から向うの丘陵手前までで100m、全周2.8kmは想像を絶する巨大古墳です

 

 日本最大の前方後円墳。北側の反正陵古墳(田出井山古墳)・南側の履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。前方部を南に向けた墳丘は、全長約486m、後円部径約249m、高さ約35m、前方部幅約305m、高さ約33mの規模で、3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。葺石と埴輪があり、埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、犬、家などが出土しています。昭和30年代と最近の調査で、造出しから須恵器の甕が出土しました。古墳が造られた年代を知る資料として、話題になっています。明治5年(1872)には前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。この時の出土品は再び埋め戻されたと言われていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようです。アメリカのボストン美術館には本古墳出土と伝えられる細線文獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されています。日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚と考えられる古墳が10基以上あります。仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)よりも、あとで築造されたことが、わかっています。全周2.8kmの周遊路として整備されています。

 

大山公園からみた仁徳天皇陵              博物館内石棺説明

 

仁徳天皇の皇子たち

 仁徳天皇と皇后・磐之媛との間に大兄去来穂別尊おおえのいざほわけのみこと、履中天皇)、 住吉仲皇子すみのえのなかつみこ)、瑞歯別尊みずはわけのみこと)、反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊おあさつまわくごのすくねのみこと、允恭天皇)をもうけた。 応神天皇の死後、王位継承問題が起きたのと同じように、仁徳天皇の場合も大兄去来穂別尊と住吉仲皇子が争いを起こす。住吉仲皇子は淡路の野嶋の海人を統括し、難波津を拠点にしたのに対して、大兄去来穂別尊は後に大和の磐余を本拠地とし、難波津を軽視した。 これにより住吉仲皇子が大兄去来穂別尊を攻めたのである。 大兄去来穂別尊は平群や物部をとともに大和の石上に逃げたとき、弟の瑞歯別尊に住吉仲皇子を殺すように命じた。 瑞歯別尊は申し出を受けたものの、相手は実の兄であり、迷っていた。 瑞歯別尊は、住吉仲皇子の近習である隼人に大臣の椅子を餌に、主の住吉仲皇子を殺させたのであるが後に口封じをしている。 この事件のあと大兄去来穂別尊についた瑞歯別尊が反正天皇になった。 反正天皇陵は堺市の田出井山古墳で、仁徳の大山古墳や履中陵とされる百舌鳥陵山古墳に比べると大変小さい。

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磐之媛陵

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

仁徳天皇の皇后・磐之媛

 仁徳の皇后が葛城襲津彦の娘・磐之媛である。 葛城襲津彦の本拠地は奈良・葛城地方であるが、御所市にある室大墓古墳が葛城襲津彦の墓とみられている。 また、磐之媛は奈良市の佐紀古墳群、神功皇后陵のすぐ東1kmくらいのところにある磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)に眠っている。

磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)(撮影:クロウ)

 

 仁徳天皇は難波の高津宮にいた。難波と葛城は大和川水系の河口と上流の位置関係であり、舟による交通が発達していた当時を考えると、そのつながりは強い。 あるとき仁徳天皇は宮廷に仕えていた玖賀姫(丹波南部の出)に関心を示したが、おかげで玖賀姫は国に帰らされた。 その後仁徳は菟道稚郎子の妹・八田皇女を妃にしようと言い出した。 当時、異母兄弟の結婚は不思議ではないが、嫉妬深い磐之媛が応じることはなかったが、皇后の留守中に八田皇女とまぐわってしまい妃にしたのである。 それを知った皇后・磐之媛は高津宮へ帰らず、その数年後の349年に乃羅山に葬られた。 磐之媛は民間からでた最初の皇后で、後に光明子が異例の皇后になっている。 磐之媛が亡くなった翌年に仁徳は八田皇女を皇后とし、その二年後に八田皇女の妹・雌鳥皇女を妃にしようとしたが、ある事件が起こり雌鳥皇女は殺された。

 佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群で代表されるのが磐之媛陵であるが、すぐ隣には小奈辺陵・宇和奈辺陵がある。 丁度、平城宮跡の北へ1kmくらいのところに位置します。

小奈辺陵・宇和奈辺陵(撮影:クロウ)

 

 

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第17代履中天皇陵

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

仁徳天皇陵の南に隣接する履中天皇百舌鳥耳原南陵 住宅地側からの景観は勇壮です

 

 石津ヶ丘にある前方部を南に向けた前方後円墳です。現在は百舌鳥耳原三陵の南陵・履中天皇陵として宮内庁が管理しています。墳丘の全長約360m、後円部径205m、高さ約25m、前方部幅約237m、高さ約23mの規模で、日本で3番目の大きさの巨大前方後円墳です。墳丘は3段築成で、西側のくびれ部には造出しがあります。主体部の構造や副葬品などはわかっていませんが、葺石と埴輪があり、一重の盾形周濠と堤がめぐっていますが、平成6年(1944)に、外側に幅10m程の2重目の周濠が見つかっています。陪塚は、10基以上あったことがわかっていますが、現在は、七観山古墳の出土資料などから、仁徳陵古墳(大仙古墳)よりも古くに造られたことがわかっています

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第18代反正天皇陵

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

仁徳天皇陵の北に隣接する反正天皇百舌鳥耳原北陵

右は陵の隣の方違神社方向から撮影 (撮影:クロウ)

 

 北三国ヶ丘町にある前方部を南に向けた前方後円墳です。百舌鳥古墳群の中では北端にあり、現在は百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として宮内庁が管理しています。墳丘の規模は全長約148m、後円部径約76m、高さ約14m、前方部幅約110m、高さ約15mで百舌鳥古墳群では7番目の大きさです。墳丘は3段に築かれ、そのかたちや出土した埴輪から、5世紀後半頃に造られたと考えられています。現在、一重の盾型周濠がめぐっていますが、前方部外周で行われた発掘調査で、かつて二重濠があったことが確認されています。陪塚と推定される古墳の存在や二重濠など、大型前方後円墳として不足のないすがたの古墳ですが、仁徳陵古墳(大仙古墳)や履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)あるいはニサンザイ古墳に比べ、その規模がかなり小さいことから反正天皇陵とすることに疑問とする意見も少なくありません。

御廟山(ごびょうやま)古墳 どちらも百舌鳥古墳群を代表するもの  いたすけ古墳 

 

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第19代允恭天皇陵

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

大阪・羽曳野古市古墳群にある允恭天皇恵我長野北陵

何故か天皇陵の前に住宅が・・・近くまでより付けません。(撮影:クロウ)

 

 このとき、雄朝津間稚子宿禰尊(おあさつまわくごのすくねのみこと、允恭天皇)は中立の立場をとっていた。 二人の兄からは愚であると軽んじられていたが、応神天皇の子孫である忍坂大中姫の働きかけにより允恭天皇として即位すると、忍坂大中姫を皇后とし、安康、雄略天皇を出している。忍坂大中姫の妹に弟姫という絶世の美女がおり、衣通郎姫と呼ばれていた。 皇后が後の雄略を出産しているときに、衣通郎姫のいる高市の藤原宮に通ったのが知れ、産屋を焼いて自殺しようとした。 姫は姉である皇后の気持ちを和らげようと河内の茅渟に宮をつくったが愛欲の生活は続いたという。 古事記では、この衣通郎姫は允恭天皇の娘・軽大娘皇女ということになっている。 同母兄の木梨軽皇子と通じたため、木梨軽皇子は失脚し伊予に流された後自殺している。軽大娘皇女は木梨軽皇子の後を追って自殺をしたとか、これも諸説さまざまである。こうして安康天皇が誕生することになる。

 允恭天皇陵は古市古墳群の市野山古墳とされているが、忍坂大中姫の墳墓は諸説あるが不明である。

安康天皇

 安康天皇は允恭天皇の子である。 一方仁徳天皇と日向の髪長姫との間に生まれたのが大草香皇子と若日下部命である。 安康天皇は大草香皇子と対立し、大草香皇子の子・眉輪王によって殺され、この時、難波吉士日香香とその子が殉死する。 安康天皇は大草香皇子の死後、彼の妻だった長田大郎女を妃とした。 長田大郎女は履中天皇の皇女であり、中磯姫ともいう。 連れ子の眉輪王は幼くして、自分の父・大草香皇子が安康天皇に殺されたことを知ると天皇の寝首を斬って葛城の大豪族・円大臣のもとに逃げた。 安康天皇暗殺の知らせを聞いた允恭の子・幼武皇子(後の雄略天皇)は、兄を疑い殺すと、葛城円を囲んだ。 円大臣はかねてから幼武皇子が望んでいた娘・韓媛を仕えさせ、五箇所の屯倉を幼武皇子に献上したあと、眉輪王を匿ったからには幼武皇子に応戦する他はなく、見事に戦いきった後、眉輪王を殺して、自害した。これにより幼武皇子は雄略天皇として即位した。倭王武とされる雄略天皇に比べると安康天皇への関心は低く、陵も雑な扱いを受けており、宮内庁は戦国期の城跡を陵と指定しているらしく、当時の古墳最盛期を考えると、立派な前方後円墳であったと考えられる。

雄略天皇 

 雄略天皇が排除した皇子に市辺押磐皇子(安康が次の王位に推していた人物)と御馬皇子がいた。 二人とも履中天皇と黒媛の子である。 市辺押磐皇子の子に億計王(後の24代仁賢天皇)と弘計王(後の23代顕宗天皇)がいたが、市辺押磐皇子が殺されたあと、身分を隠して播磨の地を流浪していたことが「播磨風土紀」に印されている。この播磨風土紀では市辺押磐皇子のことを市辺天皇として大王位にあったとしている。 雄略が幼武皇子の頃に市辺押磐皇子を殺したのであるが、近江の蚊屋野での狩に誘った幼武皇子は市辺押磐皇子と舎人を殺した。蚊屋野は今の滋賀・蒲生で、滋賀随一のケンサイ塚古墳が市辺押磐皇子の墳墓かもしれない。 父・市辺押磐皇子を殺された億計王と弘計王の兄弟は雄略天皇の死後、彼に陵の破壊を企てている。弟・顕宗天皇の死後、兄が仁賢天皇として即位した。 雄略天皇が葛城円大臣の娘・韓媛を妃として、清寧天皇と稚足姫皇女を残した頃から大和朝後期が始まるのである。  

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第22代清寧天皇陵

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

雄略天皇皇子・清寧天皇河内坂門原陵

大阪羽曳野にて(撮影:クロウ)

 

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手白香皇女・衾田陵

2006年10月28日 | 天皇・皇后陵

竜王山の中腹に小さく見えるのが手白香皇女・衾田陵(ふすまだりょう)(黒塚古墳から撮影:クロウ)

 継体天皇から始まった大和王朝後期は、崇峻天皇の代で終わりを告げる。 これは巨大古墳を王朝の権威として位置付けた場合の話であり、次の時代では前方後円墳に代わって飛鳥寺に代表されるような本格的な伽藍の建立が始まるのである。

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第21代雄略天皇陵

2006年10月19日 | 天皇・皇后陵

第21代雄略天皇丹比高鷲原陵 

 丸山と呼ばれる経75mの大円境と平塚と呼ばれる一辺50mの方墳からなる。当初は円墳のみであったが、後世に前方部が付け加えられたもので、宮内庁によって雄略天皇陵に治定されている。 しかし、父・允恭天皇等の天皇陵の規模と比較してあまりにも小さい。(撮影:クロウ)

 

大塚山古墳(撮影:クロウ)

実際の雄略陵は、墳丘長375mの前方後円墳河内大塚山古墳と考える説もあるが、最近では岡ミサンザイ古墳を雄略陵と考える説が有力になってきている。

 

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第24代仁賢天皇陵

2006年10月14日 | 天皇・皇后陵

羽曳野・古市古墳群にある第24代 仁賢天皇陵(撮影:クロウ)

 

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