祟る応神天皇
大阪市羽曳野市誉田にある応神天皇陵は面積で日本第二位、体積で第一位と化け物のように大きい。 このように巨大であるにもかかわらず、日本書紀には応神天皇を埋葬した記載が無く、異例中の異例である。 というわけで、羽曳野にある古市古墳群の当古墳に行ってみたが確かに巨大である。 ところが仁徳天皇陵と違って参拝者用の駐車場も何もないのには驚いた。
第15代応神天皇恵我藻伏岡陵(撮影:クロウ)
応神天皇の父は仲哀天皇、母は神功皇后である。 仲哀天皇は神功皇后を引き連れて九州の熊襲討伐を行うが、神託を無視したなっかりに変死した。 神功皇后は神託通りに新羅まで平定して九州に戻ってきた。 このときに応神天皇を九州で産み落とすのであるが、仲哀天皇が父であるというのは怪しい。 神功皇后は応神を連れて大和入りをするとき、応神を喪船に乗せて、死んだことにした。 継体の祖・応神の謎は深まるばかりである。
応神天皇は大和の変革期に迎えられた。 それまでの天皇の宮は大和に造られたが、応神の宮は大阪平野にある。 父の仲哀天皇から清寧天皇までが大阪である。 また倭名にも特徴の変化があり、崇神天皇は御間城入彦というように”イリ”、景行、成武、仲哀天皇は”タラシ”、応神天皇の場合は”ワケ”である。 イリ王朝からワケ王朝へと変化があったのは確実である。
仲哀天皇(ヤマトタケルの第二皇子)が神功皇后(開花天皇の曾孫・息長宿禰王の娘で母は葛城高額媛)とともに熊襲征伐を行おうとしたときに、仲哀天皇は神託を無視し変死したが、その時に同行していた武内宿禰自ら神主となり、殯を行った。 祟り神の存在を知った神功皇后は、神託通りに新羅を征伐し、大和攻めが始まった。 応神の大和入り・即位を阻止しようとしたのが、仲哀天皇と大中姫の子・麛坂皇子と忍熊皇子である。 播磨に陣を張り狩占いをしたところ、麛坂皇子は猪に食い殺されるという凶がでたため、兵士は動揺し、 忍熊皇子は大阪・住吉まで退いたという。 その後、神功皇后に菟道に追い詰められ近江で果てた。 翌年、仲哀天皇が河内で葬られると、神功皇后は磐余に宮を置いて、応神は3歳で皇太子になった。 ところが、このあと69年間も王位にはつけずに、神功皇后が摂政として大和に君臨したという。 仲哀天皇記には以上の事が印されているが、ただ、応神についてのみ記載がなく、全く無視されているのは何故なのでしょう。
住吉大社神代記には、仲哀天皇がなくなった夜に神功皇后が住吉大神と秘め事があったとしている。 また武内宿禰が応神の父親であるという説もある。 武内宿禰の末裔の多くは朝廷の中枢部にあって、女人たちは大王家の妃となった。 武内宿禰は藤原氏が行った政治手腕を既に行っていたのである。 もしも応神が武内宿禰の子であるならば、応神は天皇家の血が極めて薄いことになる。 すると天皇家の血筋を欲しがって即位した継体天皇が応神の末裔である、というのは理解しがたいことになる。