日曜昼前に、祖母を見舞うため都営新宿線からJR総武快速線に乗り換える階段で、スイカをバッグからごそごそ出しているとき、携帯が鳴った。父からだった。10分前に祖母が亡くなったことを知らされた・・・・。間に合わなかった・・・。
馬喰町から稲毛まで大粒の涙を人目はばからずぼろぼろ流しながら、鼻水をずるっとさせながらも、夫と子どもたちに宛ててメールで知らせた。千葉に着くと弟が迎えに来てくれて病院に急いだ。長く通ったお見舞いの道、私達家族は行きはいいけどいつも帰るときはせつなさと涙を流し病院&施設を後にしたここ4年間だった。2年前に祖父が亡くなったのも同じ病院だった。
金曜日に見舞ったときはもう下あごで呼吸し、熱も高く、顔も赤く、むくみ、ぜいぜいし、喉を鳴らして苦しがっていた祖母はあまりにあんまりだった。死亡診断書上では5日間の肺炎での結果となっていたが、それはほんとうに最後でもし、これが日本の統計になるのだとしたら、これからは違う目でみなくては。
弟と霊安室に入ると、おばと姉が泣いて待ってた。私はその寝顔があまりに安らかであることに安心し、息子の寝顔に似ている祖母になぜか安心して、霊安室なのにコワくもなんともなく、それがいわゆる遺体なのに、ほっぺをくっつけてみた。冷たくはあるものの、まだ「許せる冷たさ」だった。喉元はまだほんのりあったかかった。伸縮包帯でぐっと顔を巻かれた祖母は、昔の面影はすっかり消えてしまってたけど、2年前の脳梗塞以来後遺症で残った片麻痺がとれているので2年ぶりに均衡のとれた面差しに戻っていて、とてもうれしかった。このまま待っていると、どんどん戻ってそのうちにしゃべり始めたら・・なんて希望を持ってしまう。
おばの希望で祖母はやっと「帰宅」した。いつもの寝室に祖母はなんのチューブもなく、寝かされた。親戚の葬儀ではどこか「怖い」感じがするけれど、祖母が帰ってきてくれてうれしくて、自然で、両親、おば家、うちの兄弟達はなぜか盛り上がってきた。
伊丹十三監督が「お葬式」を作りたくなったのもわかる。母が棺は布張りがいいか白木がいいかということを、祖母の枕元でみんなにまるで「カツどん」がいいか「天重」がいいかのようにききに来たときには、笑うしかなかった。そう、わが実家方の葬儀はなぜかいつも笑い泣きをする。せっかくだからゴージャスに、と私は意見を言った。
祖母はホントに優しくて、いつも自分はあとまわし。みんなが集まるときに、祖母がちゃんと着席して箸をとっているのを見たことがない。いつも台所といったりきたりして、お正月になるとキロ単位で揚げる鳥のから揚げも、じっくり焼くイソベまきも、昔は高級品だったご進物用メロンも祖母は自分では食べていなかったと思う。誰が帰るときにもお土産をたくさん持たせてくれて、お客さんや親戚の話にはいつもふんふん聴き役になっていた。そして自分でもよく話していた。
クリスマス会に、私と姉がピンクレディーを踊ったり、歌ったりするたびに、ほんとに上手だわ、かわいらしいこと、と眼を丸くしてほめてくれて、祖母にほめてもらうのが私はほんとうにうれしかった。
今、いったん帰宅してこれを書いている。日付変わって今日は通夜、明日は告別式。もう何度も覚悟したはずなのに、どうしたことだろう。全くだめだ。祖父も祖母もいない実家はメインメニューを出せないレストランのような(へんなたとえ)物足りなさがある。
11時間半待てば月命日が祖父と同じとなる時刻。私が最後に見舞ってから47時間後。祖母は力尽きた。最初の脳梗塞から意識と身体の自由を失って生還して2年。危篤から8ヶ月。最後は肺炎には勝てなかった。命の火を自分の発熱に燃やして昇天したような高熱だった。苦しいのに、生きていてくれてありがとう、そしてさようなら。さようならではないな。待っててね、かな。生かされ族の私としては三途の川は「ちょっとその辺」の近所感がある。祖父とあまりに仲良しだったので、お互い寂しかったと思う。今頃、手を取り合ってふたりの好きだった「赤ぶどう酒」(祖父はワインとは呼ばない)で湯豆腐をつつきながら晩酌して仲良く休んでくれていたら、すごくうれしい。
亡くなった人の話をするのが供養と私のグリーフワーク(悲しみを癒す作業)になるそうなので、しばしおつきあいくださいませな。そうそう、この井戸端で危篤を知った親戚、知人のおじさまたちが、「いつも見てるよ」と言ってくださったので、これからは襟を正して書き続けたいと思います。お役に立ててよかったです。
哀しすぎると、涙って出ないね。はぁ。