大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

高野槇を持って聖林寺へ

2008年08月14日 | 桜井市
先日、親父がお盆の準備にと、梯子を使って裏庭で高野槇の枝を切った。
切り始めるとなかなかいい枝があったとのこと。
家の仏さまではモッタイナイからと、聖林寺に供えてくるようにと私に言った。
それで私は、胸の高さくらいある高野槇の枝を2本、ミニバイクに乗せて聖林寺へ行ったのだ。
その高野槇の枝、バイクの前籠には当然入らない、籠の上に横にすると幅をとる。
後ろの荷台に括り付けるにも長すぎる。
なにせ私が、この世で一番美しいと思う観音さまへのお供え物、絶対傷めてはいけないのだ!
長い木の枝を持っての久々のバイクの運転、しかもお寺前の坂道はかなり急。
それもこれも“天平観音さま”が喜んでくださるのなら・・・
そこで今日は、“聖林寺”と私が一番好きな仏像である“国宝十一面観音”について解説。
多武峯二十六勝志に見るように、この寺は談山・妙楽寺(現在の談山神社)の支院の一つであり、先日のNHKTVで放映された『神に なった日本人 藤原鎌足』の長男・定慧を開基としている。
明治初頭の神仏分離のとき、談山山中の伽藍が尽く神社に改装され、山中の塔中すべて民家に還俗した中で、唯一仏教寺院として残る幸運を得たようである。
国宝十一面観音は、よく知られているように、かつては三輪山・大御輪寺の本尊であった。大御輪寺は奈良時代の中頃、大神神社の最も古い神宮寺として設けられたという。
明治になると神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れるが、既に幕末はその前触れがあったのであろう。十一面観音はじめの三体の仏像は慶応四年五月十六日、大八車で三輪からこの聖林寺に避難された。
聖林寺に移った観音さまは明治二十年、アメリカの哲学者フェノロサによって秘仏の禁が解かれ、人々の前にその美しい姿を初めて現した。この時、フェノロサの驚き尋常でなく、門前から大和盆地を指して、「この界隈にどれ程の素封家がいるか知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでない。」と述べたと伝えられている。
昭和二十年六月、新国宝制度が発足すると第一回の国宝に選ばれた。この時指定された国宝仏はわずかに廿四を数えるに過ぎないのだという。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天理の町を迂回 | トップ | 母がいない御詠歌に »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

桜井市」カテゴリの最新記事