深谷 歴史散歩

2013年03月02日 | まち歩き

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深谷 歴史散歩 渋澤栄一の故郷を訪ねて

誠之堂 国指定重要文化財 

(武蔵国榛沢郡血洗島村)現埼玉県深谷市血洗島で生まれた近代日本資本主義の父と呼ばFukaya_seishido_103れる渋澤栄一に関わる記念施設などを訪ねてみたいと思っていた。浦和からだと17号線を北に約60km2時間ほどで、まず最初に誠之堂(せいしどう)と清風亭を訪ねた。深谷バイパス(17号)大寄交差点を右折、1キロほど走ると右手に「深谷市大寄公民館」がある。公民館とは思えないほど立派な建物で、事務所でFukaya_seishido_102見学を申し込む。中の庭に誠之堂と清風亭がある。ボランティアの方が案内してくれて、内部も公開してくれる。トップの写真・左が「誠之堂」、大正5年(1916)に渋澤栄一の喜寿を記念して、栄一が初代頭取を務めた第一銀行行員たちの出資で世田谷区瀬田にあった第一銀行の保養施設Fukaya_seishido_106「清和園」に建てられた。その後清和園の敷地の過半は聖マリア学園に売却され、誠之堂は外国人教師の住居に、清風堂は集会所として使われていた。平成9年学園の拡充計画でこの2つの建物が取り壊しされることになり、このような文化財を渋沢栄一のゆかりの地である深谷市が移築保存の検討を始めた。そして平成11年に大寄公民館敷地に2つの建物の位置関係も含めて移築再現された。

建物の概要は煉瓦造平屋建、建築面積112㎡、設計者は当時清水組(現清水建設)の技師Fukaya_seishido_109長だった大正モダン建築を代表する田辺淳吉である。彼は多くの作品を残したが現存する代表的なもので現存するのは、辰野金吾が監修、田辺淳吉がFukaya_seishido_108設計した富山銀行本店(旧高岡共立銀行・写真左)がある。誠之堂については発注者から、西洋風の田舎屋で建坪は30坪など出されたが、田辺はこの条件を守りながら独特の発想を生かしてこの建物を設計した。外壁の煉瓦はあえて色ムラがあるものを用いて独特の変化を持たFukaya_seishido_110せている。北側側面には朝鮮風の装飾積みで「喜寿」の文字を表している。これらの煉瓦は渋沢栄一らによって設立された日本煉瓦製造株式会社(深谷市上敷免)で焼かれたものだ。大広間の窓に目を引くスFukaya_seishido_105テンドグラスがある。田辺淳吉の部下であった家具デザイナーとして著名な森谷延雄がデザインしたもので、漢代の貴人と従者、それを饗応する歌舞奏者らを表現しているが、栄一の喜寿の祝う形を表現している。製作は宇野澤組ステンドグラス製作所だと言われている。写真のステンドグラスの図案は、貴人とその臣下を描いてあり、右側は貴人が榻(しじ)という台座に座り左右に臣下を従え、左側は3人の列席する臣下を表している。その他には楽器演奏、雑技、料理の風景などの表現するステンドグラスがある。

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誠之堂を水彩スケッチをした。特徴ある煉瓦の表現がうまくできなかった。(アンクルサム)

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      誠之堂 表玄関側 F8号                誠之堂 庭側 F6号

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清風亭 埼玉県指定有形文化財

清風亭は誠之堂と同じような歴史を持つ。大正15年当時第一銀行頭取だった佐々木勇之助の古希を記念して、すべて第一銀行の行員たちの出資で、誠之堂と並んで建てられた。佐々木は第一銀行設立と同時に入行、渋澤栄一に認められて若干28歳で本店支配人に就任、誠之堂が建てられた大正5年に渋澤栄一のあとを継いで第2代頭Fukaya_seifudo_102取に就任した。勤勉品行方正な人で、終始栄一を補佐した。清風亭は当初佐々木の雅号を取って「茗香記念館」と名付けられたが、のちに「清風亭」と称されるようになった。建築面積は50坪と誠之堂の一回り大きく、RC構造平屋建、外壁は人造石掻落し仕上げの白壁、屋根にはスパニッシュ瓦、出窓の円柱装飾などスペイン風の造りである。設計は銀行建築の第一人者の一人である「西村好時」。大正12年の関東大震災以降、煉瓦造から鉄筋コンクリート(RC)構造が主流になったが、その初期の建築物として貴重なものである。

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旧渋沢邸「中の家」 渋沢栄一記念館

誠之堂から北に5分ほど走り、下手計交差点を左折すると渋沢栄一記念館(写真右)に着く。Fukaya_nakanchi_102_2記念館から西へ3分ほどのところに旧渋沢邸・中の家(なかんち・写真左)がある。渋沢栄一は1840年この地・現深谷市血洗島の裕福な養蚕農家の長男として生まれた。25歳のときに徳川慶喜に仕官、主君の慶喜が将軍となったため幕臣となり、慶喜の弟・徳川昭武の随員としてパリ万国博覧会を視察、欧州各国訪問して、進んだ産業・文化・軍備を見て回った。これが栄一が資本主義の父と言われるきっかけであった。明治新政府では大蔵省に務め、退官後設立を指導していた第一国立銀行の頭取となった。ここから実業家・渋澤栄一の道が始まるが、岩崎弥太郎や安田善次郎ら明治の財閥創始者と大きく異なるのは、「渋沢財閥」を作らなかった。私欲に走らず社会に尽くすという精神を生涯貫いた。通常財閥の当主は男爵どまりだったが、渋沢栄一は子爵を授かった。これは公共への奉仕が評価されていたからである。多忙な栄一は年に数度この家に帰郷した。

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日本煉瓦資料館 日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設

今回の深谷散歩でお勧めは誠之堂とこの日本煉瓦資料館だと感じた。残念ながらこの施設Fukaya_rengasiryokan_101は金曜日(10時~15時)しか開放していない。ボランティアの方がいて丁寧な説明を受けることが出来る。まずこの建物(旧事務所)だが工場の建設と煉瓦製造指導のため来日したドイツ人煉瓦技師・ナスチェテス・チーゼ(明治20年(1887)来日・2年後帰国)の事務所兼居宅として明治21年に建てられました。木造平屋建・寄棟造瓦葺で間口27m、建築面積は432㎡、内Fukaya_rengasiryokan_102部の天井と壁は白漆喰塗、床は板張。チーゼの帰国後は会社の事務所として長年使用された。明治中期の貴重な木造建築として国指定重要文化財に指定されている。展示室には日本煉瓦製造株式会社の歴史、当時の煉瓦製造工程などが紹介されている。日本煉瓦製造は明治20年10月に渋沢栄一(当時48歳)らによって設立、工場は榛沢郡上敷免村(現深谷市上敷免)に造られた。東京駅の煉瓦など長く120年煉瓦製造に活躍したが、平成18年6月株主総会にて自主廃業することが決まり操業を停止。この事務所のほかにホフマン輪窯6号窯(常には公開されていない)、旧変電室が重要文化財にしてされている。

      旧変電室             6号窯             ホフマン輪窯6号窯

 

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  原土採掘場(明治30年)  れんが素地成形機(明治30年) コール式乾燥機(明治22年)

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  畑地を掘って良田とした    蒸気で駆動・日本最初      ホフマン窯上で素地を乾燥

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     煉瓦窯詰め作業      ホフマン窯上石炭投入作業    コール式乾燥室

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     (昭和32年)       窯の上から投入(昭和32年)   窯上で乾燥(明治22年) 

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  4号、6号窯と事務所     専用鉄道と蒸気機関車      れんが回漕船 

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     昭和32年         民間では最初(明治28年)        潮止工場

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