高知城 (高知県高知市)

2010年12月19日 | お城めぐり

1

高知城 (高知県高知市)

土佐・高知はここ数年観光ブームにある。2006年大河ドラマ「功名が辻」、2008年「花・人・土佐であい博」、2010年大河ドラマ「龍馬伝」、「土佐・龍馬であい博」など毎年のように賑やかである。高知城には過去数度訪ねているが、今年も5月に大学のクラブOB会で出かけた。同窓会やグループ旅行で高知が多く選ばれたのは大河ドラマや博覧会のお蔭だろう。高知城にもいくつかの撮影ポイントがあって、ガイドさんたちの一押しは、追手筋から追手門に入ったところ、トップの写真のように追手門の後ろに天守閣を入れて撮影できる。もちろんOB会の記念撮影もここで撮った。全国で12ある現存天守閣の一つである高知城には、天守閣含め15棟の昭和25年国指定の重要文化財があるが、この追手門もその一つである。

山内一豊が土佐に入国し、浦戸城を居城したのは慶長6年(1601)、高知城の築城にかかり22年後に完成して高知城に入った。享保12年(1727)に城下の大火で追手門を残し、天守閣はじめほとんどの建物を焼失した。深尾帯刀を普請奉行に任命し再建に着手、寛延2年(1749)に天守が完成、現在の天守閣はこの時のものである。天守は三層六階(重要文化財指定では四重五3階・・・なぜ違うのだろう)、18.5mの高さで前述の再建当時の構造様式を保っている。天守の撮影ポイントはいくつかあるが、左の写真のように、天守を北側から見たものが全貌が望める。三の丸から二の丸に登る石段あたりか、二の丸東南角でこの角度の天守閣を見ることができる。この天守は望5楼型の代表例みたいな存在、外観は4重、内部は3層6階建、2重の入母屋造りの屋根の上に2重櫓の望楼を載せている。最上階には廻り縁高欄が付けられているが、山内一豊の前の居城であった掛川城に模して造られたのであろう。右の写真は本丸で見た天守閣と本丸御殿(懐徳館)である。これは西側から見た天守で、天守台がなく本丸御殿6に入口がある天守。この位置からだと美しい唐破風も見ることができる。懐徳館(本丸御殿)は天守閣と同様に現存していることも重要なポイントだ。左は正殿上段の間、左奥の小襖は武者隠しの納戸に通じる。右は「波の透彫欄間」、土佐の黒潮の波をかたどった欄間、「打ち分けの波の欄間」といわれ、土佐の左甚五郎といわれた名工・武市高朋(通称甚七)の作と伝えられている。簡素な感じだが、近代的なデザインセンスで、高知の菓子の老舗「浜幸」のマークにもなっている。

4御殿を通り抜けて天守閣に登る。現存天守閣の階段はやはり急な構造になっている。左は天守閣最上階の東側方向を撮影したものである。BS朝日の坂東三津五郎が旅案内人になっている「日本の4_2城・ミステリー紀行」で、「城は戦いの砦でありながら なぜ、美しいのか」という冒頭のセリフを思い出す。城主は城攻めにあったとき、ここでさい配し、またろう城の場となり、最悪のときはここで自決の場となる「最上階」に立つと城の重みを感じる。右は回7廊に出て西側、本丸を望む方向を撮影したもの。真下に本丸御殿の屋根、右下に鯱(しゃちほこ)、右には廊下門、正面に西多聞、左には黒鉄門(写真左下)、いずれも重要文化財だ。遠くには高知市内西部、そしてその先の山々を望むことができる。本丸御殿・天守閣・東多聞・廊下門など見学したあ9と、御殿玄関から本丸に出て目の前の黒金門から外に出てみる。ここでは黒金門東南矢挟間塀が写真のように間近に見ることが出来る。高知城にはこれ以外に黒金門西北と天守の西北と東南の4つの重要文化財に指定されている矢挟間塀がある。右は城の城壁にいくつかある石樋(い9_2しどい)、高知県は多雨地帯であるため、この城の排水に注意が払われた。石樋は排水が直接石垣に当たらないように、石垣上部から突き出した構造で造られている。その下には水受けの敷石をして地面を保護している。左は詰門(重文)、このように高知城には15棟の重要文化財を含め見どころがいっぱいあり、全体の敷地はさほど広くないので2時間ほどでゆっくり見物できる。