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豊洲市場の盛土取り止めは工期短縮が目的

2016年09月25日 | その他

 <開通直前の東名東京バリア付近盛土 土質は関東ローム>

東京都が豊洲新市場の盛土問題で大揺れである
都は専門家会議が提言した盛土方式を無視し 勝手にコンクリートボックス構造に変えた
そしていまになつてその理由(根拠)が分からないとすつたもんだである
土木屋からみればその理由は単純である 所要工期がコンクリートと土では全き違うのである
コンクリート構造物であれば 基礎グイを含めてもせいぜい2~3年で完成するが
盛土工事なら数年下手をすれば10年はかかる
コンクリート構造物は施工管理(品質管理)も確立されており確実
施工し易く簡単に言えば既製品を並べるような作業である

豊洲は元海 そこを何年かで埋立て構築している 埋立材は瓦礫 生活ごみそのほかで
何が入つているか知れたものではない 良質材を使はないのが通念である
数メートルの汚染土を良質材で置換えても下は不良材で 締め固め転圧もおそらくいい加減であろう

仮にいま10万平方メートルを深さ5メートルで置換えるとすると
50万立方メートルの良質土が必要となる
同時に60(土は掘削すると1.2倍くらいに膨らむ)万立方メートルの汚染土の土捨場も必要となる
最適な施工(品質)管理の盛土は 最大でも厚さ30センチ毎に撒き出し 敷き均し
締め固め 転圧しなければならず 一気に何メートルもできるものではない
また ここは元海で軟弱地盤と考えられ 盛土の上にさらに何メートルか載荷盛土し
数年かけてその挙動(圧縮、圧密沈下等)を管理しなければならず
そうなれば土量も増え期間はさらに延び 工事費も増大し完成まで10年以上が現実となる
これだけ大規模で しかも最適な品質管理を求められる盛土工を実経験した人は
いま何人もいないのではないか
「盛土」とはどう云うものか 自然が相手であり動くのである
施工実態(現場)を無視しての議論は不毛であらう

 <開通直前の東名港北パーキング付近盛土 土質は関東ローム 左側に藁葺き屋根の家が見える> 

凍土壁工法は仮設工事

2016年09月05日 | その他
福島第一原発の止水のための凍土壁工事で漏水が止まらないとのこと
そもそも凍土壁は工事目的物(永久構造物)ではなく仮設工法(工事目的物を
完成させるための補助工事)で一定期間持てばよいもの
故にその耐用期間年数は短期(せいぜい2~3年)で工事目的(構造物)が
出来あがるまで効果が発揮できればよいもの
それを目的(完成構造物)とするのは本末転倒
完全な止水は無理であり工事費も維持費用も際限が無くなる

凍結工法はトンネル切羽(鏡)の止水や崩壊防止対策として開発され用いられてきた

  <九州道 加久藤トンネル北の切羽 中央の小さい穴は既設の避難坑>

その施工範囲(面積 奥行き 延長)は狭小で拘束された区域(100平方メートル程度)に限られていた
大構造物や広範なものには実績もほとんどなく効果も不明
仮設構造物としての止水工は杭工法や矢板工法など在来工法が
実績も信頼性も効果もありまた安価である
あえてこれら在来工法を採用せず何倍も高価な発展途上の凍土壁工法を用いるのは
何か別の意図が隠されているではないかと疑わざるを得ない

  <九州道 加久藤トンネル南の切羽>


 <山陽道 霜降山トンネルの切羽 岩質は風化花崗岩>

東名高速道路 あの時

2015年06月25日 | その他

  <外環JCT五千分の一計画平面図 左方向多摩川 右方向環八 世田谷区砧 昭和40年(1965)>



  <外環橋バットレス橋台工事中 昭和41年(1966) 向こうが多摩川橋と川崎向ケ丘>



  <外環橋工事中 昭和41年(1966) 同上>



  <野川 昭和41年(1966) この上を外環橋が跨ぐ 手前が二子玉川方向  世田谷区砧>


  <砧ゴルフ場内の小川 陳清波プロが活躍中の頃 昭和40年(1965)>



  <砧ゴルフ場内盛土工事中 昭和40年(1965) 周囲は林と麦畑 手前が環八インター >

環八~川崎インターチェンジ

2014年12月23日 | その他

<東京川崎工事事務所 1964-1968> 世田谷区喜多見町2593-4
環八インターチェンジ  環状八号 瀬田町
環八高架橋       砧ゴルフ場 砧公園
砧高架橋        仙川 東宝撮影所 砧オープンセット
外環インターチェンジ  東京外郭環状線
外環橋         野川
東京高架橋       宇奈根町
多摩川橋        多摩川 トヨタ自動車教習所 県境(東京都/神奈川県川崎市) 
川崎高架橋       多摩川なし果樹園
長尾高架橋       瀬川
東京トールバリア    関東ローム川崎試験盛土 麦畑
向ケ丘バスストップ
土橋高架橋       麦畑 わら屋根民家
川崎インターチェンジ  市道尻手黒川線
都市計画街路橋

<外環橋~東京高架橋~多摩川橋>

飯塚オートは廃止を

2014年08月26日 | その他
飯塚市は飯塚オートの民間委託を検討するという
この際であるから廃止を検討することを提案したい

売り上げは昨年度ピーク時の75パーセント減で 累積赤字は14億円になるという
経費節減で民間委託するというが 委託するのは窓口や清掃警備など
末端の補助業務だけで 本体の開催日程 払戻金・賞金額の決定等運営権は
委託しないという これで民間がほんとうに受託するだろうか
窓口や清掃 警備業務は90パーセントが直接人件費であり それをさらに
切り詰めるということは 賃金の引き下げ 過酷労働を強制するという
ことで世に逆行する施策である

近年公営レースの売り上げが伸びないのは レース自体に魅力や
楽しみががないこと それを文化やスポーツとして育てて来なかつたこと
が根本原因であり ただテラ銭獲得を目的のみに運営してきたツケであつて
枝葉の経費節減でどうにかなる事態ではもうない

いま競馬 競輪 ボート オートなどレース自体に微かに魅力や楽しみが
残つているのは中央競馬だけであり その他は見る影もなく無残である
再建は不可能といえる 一刻も早く廃止し 別の施策を模索することが
市にとつて最善の道ではないか

『自動車航送船時代』

2013年02月22日 | その他
小学校三年時の遠足は小倉到津遊園で 六年時の修学旅行は別府一泊旅行だつた
早朝 近くの駅前に集合 くたびれた貸切りバスで西細江の岸壁まで行き
そのまま自動車航送船(そのころ単に「こうそうせん」といつた)に乗り込んだ
船腹の両側に大きな水車がついていて ぐるつぐるつと回つて黒い煙を吐きながら進んで往く

海峡を渡る風が冷たい
先生は「甲板に出てはいけんぞ」と何度か声をあげていたが
その声が聞こえるか聞かずか男生徒たちは
バスや背丈よりはるかに大きい水車の周りを駆け回つていた
大きな弧を描いてゆつたりと回る水車のしぶきが 朝日にキラキラと輝いてゐ
生徒たちはあきずに眺めていた 小森江の岸壁が目に迫つた ――

あのころ 本州の片田舎の小学生にとつて九州への渡航は 異国への旅立ちであつた

吉方(恵方)

2013年02月03日 | その他
吉方(恵方)はその年の十干によって毎年変わるが 今年は南南東の方位となる
以前は正月にその方向の神社仏閣に御参りし一年の吉福を祈った
今年はそれ(旧正月)が2月10日にあたる

しかし国民挙ってと云うものではなくそれを知るものあるいは商売関係者など
縁起を担ぐ者の行事に過ぎなかった
もちろん特定の食べ物や節分との因果はまったくない

いま国民行事の如く騒ぎまくっているのはデパートや食品業界コンビニ
あるいはテレビマスコミなどが正月とバレンタインデーの空白期間を埋めるため
商売気と騒ぎのネタ作りからこじつけたものと推察される

スバル360

2012年03月01日 | その他
  
        スバル360                            トヨペットコロナ
<第13回東京モーターショー 昭和41年10月 東京晴海にて>

2月29日 富士重工が〝軽自動車の生産を終了〟とニュース記事があつた
初めてのマイカーが買えたのは昭和45年の歳の瀬
国道沿いのまだ数少なかつた中古車店で 車種はスズキフロンテ(軽)
本給4万円時代で19万円した もちろん月賦(まだクレジットとは言わなかつた)

当時若者が持てるマイカーではスバル360とホンダN360が人気を二分していた
N360は水冷フロントエンジンだつたがスバル360やフロンテは空冷リアエンジンで
トランクは無いに等しく加速するとパタパタと独特の音を発して走つた
いま若者は車不要世代と言われる 夢も希望もないから仕方ないか
隔世である

ロータリーエンジン車消える

2011年10月18日 | その他

  <マツダ・コスモスポーツ>
<第13回東京モーターショー 昭和41年10月26日~11月8日 東京晴海国際見本市会場にて>
パネルに
『 コスモスポーツ ロータリーエンジン搭載 ローター数2
  単室容積 491cc 2人乗り 最高速度 185km/h 』
とある

10月14日「マツダはスポーツ車RX-8の生産を来年6月で終了する」と新聞記事あり
これでロータリーエンジン搭載の市販車が消えることとなり45年の歴史を閉じる

発表時のコスモスポーツは斬新なデザインでスマートでかつこよく
いま見ても新鮮で飽きない
手はとどかなかつたがこれからはロータリーエンジン車の時代だと
胸をときめかしたものだつた
しかし燃費その他の問題でいま全盛のハイブリッド車のやうには発展せず
尻すぼみに終わつてしまつたのは惜しまれる
  

 <いすゞ・117クーペ 同会場にて>

昨日のつづき

2011年08月25日 | その他

<東京~厚木間 開通前日の東名東京料金所 昭和43年4月24日>

前後するが 8月6日「前田武彦さん死去」と新聞記事があつた
昭和38年から44年まで東名建設事業で環八から大井松田まで
246号や市街山野を三菱ジープ(J37型)で駆け回つていたいたが
まだ出始めの押しボタンチューニング式のカーラジオでいつも聞き
流していたのはラジオ関東放送だつた

たしか周波数帯は1600khz台だつた?やうに記憶している
他の放送局より電波がよくとどき同じ音量で設定していても大きく聞こえ
『 昨日のつづき 』も楽しみによく聞いた
巨泉との掛け合いトーク番組であつたが あの巨泉が言い負かされることもあり
前田武彦とはすごい奴だなと感心した

番組と番組の合間にいつも流れていた“ラ ジ オ カ ン ト ウ”のフレーズを
想い出しいまも口ずさむことがある
合掌

ミッチ・ミラー

2010年08月05日 | その他
<MITCH MILLER SHOW PROGRAM 部分 昭和40年>


8月4日 新聞片すみに「7月31日ミッチ・ミラーさん死亡」とあつた 99歳とのこと
この歳まで存命であつたと知らなかつたのは ミッチファンだつた者としては迂闊

昭和40年初来日 東京公演(MITCH MILLER SHOW)を観た
(新宿厚生年金会館だつたか?定かでない)
「The Great Escape March」のオープニングから日本の歌「Ue O Muite」
「Kojo No Tsuki」まで全32曲 たつぷり2時間

あわせて買つた<ミッチ・ミラー合唱曲集(全音楽譜出版社 1965)>
「ミッチ・ミラーの横顔」から――
「『ダンディー少佐マーチ』『大脱走マーチ』をはじめ数々のヒット・レコードを放つかたわら
NHK-TV『みんなで歌おう』のミュージカル・ヴァラエティ・ショウ
そして今度の来日等によつて ミッチ・ミラー・ファンは日毎にその数を増しています
今やミッチは『ゼニのとれる』アーチストであり 同時に最高の芸術家として
高く評価されている天才ミュージシャンです」

さらに――
「この人気を与えている秘密をミッチ自身の口から聞いてみましよう」
『 歌を歌うとき 聴衆をひきつけようとはしない 聴衆に歌つてきかせるのではなく
彼らを音で抱きしめるのだ 』

メンバー中人気ヴォーカルだつた Bob McGrath Phil Olson はいま?
(Bobは若くして亡くなつたやうな記憶もありしが・・・)
いまも口ずさむ
「Let me hear a mel-o-dy ―― I start to Sing A-long Loud and Strong ・・・」

合掌
<ミッチ・ミラー合唱曲集(全音楽譜出版社 1965)より>

小旅行 Vol.2

2010年07月20日 | その他
<南阿蘇~雲仙ルート> google mapより

 行程 約 110km 4時間(フェリー含む)

7/18 宿の予約が完了 10/18 南阿蘇 4室12名
                10/19 雲仙   同上
    人数 W5 (KN ME NY MN NM ー)
         M6 (NM MI KM SM NS UH)

<雲仙~長崎ルート>google mapより  行程 約 60km 100分




秋の小旅行 Vol.1

2010年07月03日 | その他

<菊川~阿蘇ルート google mapより>
秋の小旅行 ≪阿蘇雲仙長崎行≫

○想定参加人数  12名(6名+6名)
○日程  平成22年10月18日(月)~20日(水) 2泊3日
○行程  1日目 菊川~熊本IC~大津~ミルクロード~大観峰~草千里~
         阿蘇山上~南阿蘇(泊り)
     2日目 南阿蘇~熊本新港----熊本フェリー----島原外港~雲仙(泊り)
     3日目 雲仙~長崎市内~長崎多良見IC~大宰府IC~下関IC
 全行程走行距離 大よそ700~800km
○宿   1日目 休暇村南阿蘇  2日目 休暇村雲仙  部屋数 4室×3名

○概算費用  宿泊代  10,000円(1泊2食)×12名×2泊  =240,000円
       高速料金 小月~熊本 4,750円×3台     = 14,250円
            長崎多良見~下関 5,100円×3台  = 15,300円
       フェリー 車 3,530円(運転手1名含む)×3台= 10,590円
            旅客 800円×9名         = 7,200円
       燃料代  800km÷10×140円/㍑×3台     = 33,600円
 合計 320,940円  1人当り 約 27,000円
○含まれていない費用  会食時の飲み物代 昼食代 観光施設入場料

<長崎~下関ルート google mapより>

國母マナー騒動を嗤う

2010年02月20日 | その他
國母マナー騒動が終わつた
彼がメダルでも獲つていればまだまだ騒がしかつたろうが
8位ということでさすがの新聞テレビも静かになつた
こんな騒動で彼はよくやつたと思う また橋本聖子団長の判断もよかつた

それにしても品格だのマナーが悪いだの過剰ではないか
そもそもストリートスポーツと言われるスノボーやスケボーにそんなことを求めるのは場違いだろう
有り体に言えば大道芸でありショーの類いのもので
それがオリンピック正式競技に採用されたということは それ自体も承知のうえのことであろう

あの姿は彼らにしすれば当たり前自然のスタイルである
街中でも(眉をひそめはするが)今や普通に見かける姿である
競技スタイル自体ダブダブウェアに腰トレパンでヘソも背中も覗かせている
金メダルのショーン・ホワイトにしてからそうである
これがマナーだの品格だのと言うくらいなら女子プロゴルフはどうなるのか
ヘソも腰も背中もスノボー以上に丸出しだが――
紳士淑女のスポーツではなかつたか

「国家」だ「日の丸」のためとかそんなことを思つて参加している選手は今やほとんどいない
それが証拠にみんな「楽しんでやります」と言つている
開会式だから国の代表だからスーツだからというなら そんな競技に参加しなければよい
ただ個人としてはあの風体は好きではない

カメラのさくらや閉店

2010年02月01日 | その他

<昭和43年5月 開通直前の真つさらな東名高速現場>
 川崎向ケ丘OVから多摩川橋 外環橋 世田谷方向を望む ―

2月 カメラのさくらやが閉店だそうで いまセール中のようだ
昭和38年 新宿東口「二幸」の斜向いにこじんまりとオープンした
明るい照明と店舗前に各社フィルムを山積みし値札をあちこちぶら下げていたのが懐かしい
文字どおり「カメラ」専門の安売り店で 今どき言う「家電量販店」ではなかつた
この数年後西口に「ヨドバシカメラ」も誕生したが こちらも同様である
価格交渉もでき いままでなかつた形態の店で新鮮さもあつて小田急百合ケ丘から「さくらや」には
よく通つた

一眼レフが全盛を迎える前だつたが 東名の現場写真を撮る必要もあつてPETRI一眼レフと
大判ブローニー(9×6)レンズカメラのMAMIYAプレスを買つた
現場事務所の一室に暗室を設けモノクロームの現像焼付けを自前でやつていた
この現像液定着液印画紙をはじめ関係部品パーツの購入に重宝した

上の写真はそのマミヤプレスで撮つた内の一枚で Web制限上これ以上大きくできないのが残念だが
その解像度画質は今のデジカメ一眼と比べても遜色なく劣化もほとんどない
会社や店も上り坂が10年 上りつめて10年 くだり坂が10年 しめて30年と考えれば
オープン以来47年の寿命なら よくやつたといえる
感謝したい