山本たかしの連絡帳をご覧の皆さま、いつもありがとうございます。
冒頭ですが、このgoo blogは2025年11月18日(火曜日)をもって、サービスを終了することになりました。
goo blogから引っ越しの手続き案内がありましたので、引っ越しが終了次第、皆さまへご案内致します。
引っ越し後もご愛読いただけますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。
7月18日(金曜日)平群人権生活学校の県外研修会に参加しました。
平群人権生活学校は、生徒の教養を高め、互いの親睦を図ることを目的に運営されていて
委員長含む13名の生徒で構成されています。
毎月第3火曜日に生徒の皆さんが集合して、ペーパークラフトかご作りや、民謡鑑賞、仏法よもやま話
防災講習や、奈良県議会議員をお招きしての県政報告会など、多岐にわたる勉強が出来ます。
私も生徒として参加して、他の生徒さんに負けないように切磋琢磨しています。
今日の研修会は、京都府宇治市のウトロ平和祈念館と、同市内の平等院へ行きました。

ウトロ地区のことを皆さんはご存じでしょうか?
私は以前から大変興味を持っていた場所で、研修で行くことになった時から心待ちにしていました。

ウトロ地区の経緯について、少し説明いたします。
第2次世界大戦時中の1940年に京都飛行場の建設が始まり、その建設に従事するため、多くの人が
朝鮮半島から日本へと渡ってきました。
当時の朝鮮半島は日本の統治下でしたので、その方たちは強制連行ではなく、仕事に就くため自ら渡航された人や
中には徴用から逃れる目的の方もいたそうです。
1943年頃、当時のウトロ地区に朝鮮人飯場が設置されたのですが、1945年に終戦して飛行場の建設は中断されました。
移設された飯場です。

多くの方々は、いずれは帰国したいが、帰国しても生活基盤がないことや、持って帰れる財産にも限りがあり
ウトロ地区に残って生きていくことを選んだ人たちがいました。
その後、京都飛行場用地は陸上自衛隊大久保駐屯部隊の設置や、民間企業への払い下げが行われましたが
朝鮮人飯場に残った人々への対応はなされず、ウトロ地区は在日朝鮮人の「スラム」になってしまいます。
上下水道のインフラ整備も進まず、大雨が降ると水害が発生したり、生活用水も地下水からくみ上げる
劣悪な衛生環境で、日本社会から置き去りにされたまちとなりました。

ウトロ地区を含む民間企業に払い下げられた土地については、1987年にふたたび売却されて
1989年に地権者から立ち退きを求める訴訟がなされ、2000年に最高裁で住民の敗訴が確定しました。
この問題を見ていた日本人支援者は支援活動を継続し、ウトロ住民(約70世帯、230人)を強制立ち退きから
救済するよう、日本政府に勧告しました。
このような運動の中、2005年に韓国でウトロ支援募金運動が開始され、2007年に韓国国会でウトロ支援金が
決定されるなど、土地の購入にかかる費用が集まりました。

祈念館内の写真撮影は禁止されていますので、文字が多くなりスミマセン。
ここに展示される予定だった、当時の人権主張をする看板などは、心無い人に放火されて失いました。
館内の資料を見ましたが、広島の原爆資料館とは違うものを感じました。
核兵器は生物にとって恐怖ですが、人権侵害は精神を破壊させる卑劣な行為です。
誰もが相手を敬い、助け合いが出来る環境を整えるために、これからも人権生活学校で学びます。

皆さまも機会がありまあしたら、是非ともウトロ平和祈念館へ足を運んでください。
「ウトロで出会う」大切さが伝わると思います。
見学記念にハルモニ「韓国語でおばあさん」の手作りたわしを購入しました。
このたわしには、汗と涙と幸せが一緒に編み込まれていると肌で感じました。

その後、「JA京都やましろ」の八幡屋さんで、京野菜を中心としたバイキング方式の昼食をいただきました。
もちろん自費です。写真は撮り忘れました。
真夏日の中、自身初の平等院へ到着しました。町バスを使用しての研修ですが、とにかく暑いです。
平等院鳳凰堂については私が説明するまでもなく、皆さんご存じの10円玉です。

平等院は永承7年(1052年)、関白藤原頼道によって父道長の別荘を寺院に改め創建されました。
その翌年の天喜元年(1053年)に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、その建物が現在の鳳凰堂と
呼ばれている、経典に描かれる浄土の宮殿をイメージした優美で軽快な建物です。(パンフ引用)
鳳翔館と呼ばれる資料館内も写真撮影が禁止でしたので、皆さんにお見せ出来なくて残念です。
私が特に凝視したのは、雲中供養菩薩像26躯という国宝でした。
1躯1躯はそんなに大きくないのですが、雲に乗った菩薩さまが壁一面に飾られていました。
夢に出てくると亡くなるという噂を聞きましたが、同時に天国に行けるそうです。
世の中そんなに甘いとは思いませんが、元気なうちに得を積んでおこうと何故か思いました。

本日は大変有意義な一日を過ごすことが出来ました。
ウトロ地区については、数年前に動画やニュースで見たのをきっかけに私なりに歴史を調べていました。
知らなかったことも祈念館で沢山知りました。
写真にはありませんが、ウトロ人権問題や祈念館構想で先頭に立って活躍されている金(キム)副館長と挨拶できた
ことも、とても嬉しかったです。
私が「こんにちは」と挨拶したら金副館長も「こんにちは」と返して下さいました。
たったこれだけですが、私の「ウトロで出会う」は叶いました。
人権問題は時代と共に変化をしていて、SNSを使用した悪質ないじめなど、表面に見えなくなっていると思います。
それに気付くには難しいですが、被害者のサインを見落とさないことが大切だと思います。
まずは、人と接することを大切にしていきます。
本日は有難うございました。
冒頭ですが、このgoo blogは2025年11月18日(火曜日)をもって、サービスを終了することになりました。
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引っ越し後もご愛読いただけますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。
7月18日(金曜日)平群人権生活学校の県外研修会に参加しました。
平群人権生活学校は、生徒の教養を高め、互いの親睦を図ることを目的に運営されていて
委員長含む13名の生徒で構成されています。
毎月第3火曜日に生徒の皆さんが集合して、ペーパークラフトかご作りや、民謡鑑賞、仏法よもやま話
防災講習や、奈良県議会議員をお招きしての県政報告会など、多岐にわたる勉強が出来ます。
私も生徒として参加して、他の生徒さんに負けないように切磋琢磨しています。
今日の研修会は、京都府宇治市のウトロ平和祈念館と、同市内の平等院へ行きました。

ウトロ地区のことを皆さんはご存じでしょうか?
私は以前から大変興味を持っていた場所で、研修で行くことになった時から心待ちにしていました。

ウトロ地区の経緯について、少し説明いたします。
第2次世界大戦時中の1940年に京都飛行場の建設が始まり、その建設に従事するため、多くの人が
朝鮮半島から日本へと渡ってきました。
当時の朝鮮半島は日本の統治下でしたので、その方たちは強制連行ではなく、仕事に就くため自ら渡航された人や
中には徴用から逃れる目的の方もいたそうです。
1943年頃、当時のウトロ地区に朝鮮人飯場が設置されたのですが、1945年に終戦して飛行場の建設は中断されました。
移設された飯場です。

多くの方々は、いずれは帰国したいが、帰国しても生活基盤がないことや、持って帰れる財産にも限りがあり
ウトロ地区に残って生きていくことを選んだ人たちがいました。
その後、京都飛行場用地は陸上自衛隊大久保駐屯部隊の設置や、民間企業への払い下げが行われましたが
朝鮮人飯場に残った人々への対応はなされず、ウトロ地区は在日朝鮮人の「スラム」になってしまいます。
上下水道のインフラ整備も進まず、大雨が降ると水害が発生したり、生活用水も地下水からくみ上げる
劣悪な衛生環境で、日本社会から置き去りにされたまちとなりました。

ウトロ地区を含む民間企業に払い下げられた土地については、1987年にふたたび売却されて
1989年に地権者から立ち退きを求める訴訟がなされ、2000年に最高裁で住民の敗訴が確定しました。
この問題を見ていた日本人支援者は支援活動を継続し、ウトロ住民(約70世帯、230人)を強制立ち退きから
救済するよう、日本政府に勧告しました。
このような運動の中、2005年に韓国でウトロ支援募金運動が開始され、2007年に韓国国会でウトロ支援金が
決定されるなど、土地の購入にかかる費用が集まりました。

祈念館内の写真撮影は禁止されていますので、文字が多くなりスミマセン。
ここに展示される予定だった、当時の人権主張をする看板などは、心無い人に放火されて失いました。
館内の資料を見ましたが、広島の原爆資料館とは違うものを感じました。
核兵器は生物にとって恐怖ですが、人権侵害は精神を破壊させる卑劣な行為です。
誰もが相手を敬い、助け合いが出来る環境を整えるために、これからも人権生活学校で学びます。

皆さまも機会がありまあしたら、是非ともウトロ平和祈念館へ足を運んでください。
「ウトロで出会う」大切さが伝わると思います。
見学記念にハルモニ「韓国語でおばあさん」の手作りたわしを購入しました。
このたわしには、汗と涙と幸せが一緒に編み込まれていると肌で感じました。

その後、「JA京都やましろ」の八幡屋さんで、京野菜を中心としたバイキング方式の昼食をいただきました。
もちろん自費です。写真は撮り忘れました。
真夏日の中、自身初の平等院へ到着しました。町バスを使用しての研修ですが、とにかく暑いです。
平等院鳳凰堂については私が説明するまでもなく、皆さんご存じの10円玉です。

平等院は永承7年(1052年)、関白藤原頼道によって父道長の別荘を寺院に改め創建されました。
その翌年の天喜元年(1053年)に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、その建物が現在の鳳凰堂と
呼ばれている、経典に描かれる浄土の宮殿をイメージした優美で軽快な建物です。(パンフ引用)
鳳翔館と呼ばれる資料館内も写真撮影が禁止でしたので、皆さんにお見せ出来なくて残念です。
私が特に凝視したのは、雲中供養菩薩像26躯という国宝でした。
1躯1躯はそんなに大きくないのですが、雲に乗った菩薩さまが壁一面に飾られていました。
夢に出てくると亡くなるという噂を聞きましたが、同時に天国に行けるそうです。
世の中そんなに甘いとは思いませんが、元気なうちに得を積んでおこうと何故か思いました。

本日は大変有意義な一日を過ごすことが出来ました。
ウトロ地区については、数年前に動画やニュースで見たのをきっかけに私なりに歴史を調べていました。
知らなかったことも祈念館で沢山知りました。
写真にはありませんが、ウトロ人権問題や祈念館構想で先頭に立って活躍されている金(キム)副館長と挨拶できた
ことも、とても嬉しかったです。
私が「こんにちは」と挨拶したら金副館長も「こんにちは」と返して下さいました。
たったこれだけですが、私の「ウトロで出会う」は叶いました。
人権問題は時代と共に変化をしていて、SNSを使用した悪質ないじめなど、表面に見えなくなっていると思います。
それに気付くには難しいですが、被害者のサインを見落とさないことが大切だと思います。
まずは、人と接することを大切にしていきます。
本日は有難うございました。