土の上にも三年

農への道

導き(偶然と必然)

2013-10-02 23:03:25 | どうでも日記(雑記系)
山崎豊子さんが死去した。と書いたものの、実は白い巨塔も沈まぬ太陽も、あらゆる山崎豊子作品を知らない。

昭和の闇への投げ掛け?というような(正確な表現ではない)表現を知ったのは死去してからだ。どういうわけか俺はJAL123便の墜落事故に興味を持ち、いろいろなサイトを読み歩き、そこで山崎豊子という名を知ったわけなのだけど、偶然と言えば偶然にも、まさに様々なサイトを読み歩く中で墜落遺体という本を購入した矢先の訃報だったのだ。

今日、手元に本が届いた。


沈まぬ太陽も機会があれば読もうと思うものの、遺族でもなく(間接的な遺族とも言えるけど)、かといってJALでも政府でもない人が身元確認に携わった体験を語るその本を、まず読みたいと思った。

まだ読んでいない。とはいえ、サイトがあるので、大筋は分かっている。

この事故は、東日本大震災による原発事故にも少なからぬ接点があるように思えて仕方ない。多様な見解を大きく二分する論と、事実とは紙一重の差とも言えなくもない重厚な隔たり。立場によってこうも見解が、いや、事実は作られるのかと思うと、事実という表現さえも口にすることを躊躇う。


なぜか興味を持ち、そこに触れる前に山崎豊子という人物が死去した。

偶然だよね。事実は、偶然。でも何か偶然とは異なるものを予感してしまうから、その予感と別の予感の間に事実が存するようにも感じてしまう。答えは闇、風、そして光の中。無い、というものを拒みたくなる人間の弱さ。

手繰り寄せていくと、人は生きていくために生きている。

そう思えて、思考が停止しそうになるのであった。

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