土の上にも三年

農への道

凄惨かもしれないけど知りおきたい事実(人肉食の考察)

2013-08-09 01:00:09 | どうでも日記(雑記系)
ひかりごけ事件 - Wikipedia

ひかりごけ事件


この内容を知ったのは何年前だろう。衝撃的だった。同時期に最近テレビで報道されたワンダーフォーゲル部のヒグマ事件も、および関連する北海道開拓時代のヒグマ事件も詳細に調べた。ついでカニバリズムを知り、佐川一政 - Wikipediaを知った。

大昔、シマリスを飼ったことがある。つい給餌を怠った。飼われているペットにとって給餌が疎かになることは死活問題だろう。飼っていたシマリスは2頭。平時において優劣が決まっている2頭で、ケンカは一方的だった。

ある時、1頭の姿を見失った。小屋を掃除すると、頭部と内蔵が損壊された亡骸があった。自然の脅威を感じたのは小学生時代。


大人になった今、職業柄鼠族の生態に詳しい。やはり共食いは存在する。ネズミは、その環境において生息密度の調整を行う。時に、増えすぎた個体の調整を自らの意思で行う。つまり共食いだ。何度も目にした共食いの現場と、逆に共食いどころかお互いを思いやっているかのような慈愛の精神性も見てきた。

またいわゆる昆虫の親殺し子殺しや、共食いに関する考察にも触れてきた。全体を存続させることが自然の命題であろう。その命題を前に、共食いは小さな問題なのかもしれない。人間の倫理観は、自然から離れることによって得られた賜物だ。俺は人間の倫理観を否定しない。

しかし、自然から離れたことによるヒューマニズムやエゴが、もはや看過できない状況になってきたと感じることもある。その大きな現象が人口爆発だろう。


これまた大昔、高校生時代に読んだ漫画がある。寄生獣 - Wikipediaだ。命題は、人類の犯した罪は、人類の倫理観では修正出来ないレベルに到達した、ということ。いや、俺はそう受け取った、ってだけだな(苦笑)


倫理とは何だろうか。前記事のコメントで書いたように、もしかしたら自らを守るためのシステムかもしれない。お互いがお互いを守るために倫理が生まれた。しかし倫理を覆さなければ成立しない世界が目前に迫っているように思える。

その世界に対して、ヒューマニズムを貫くのか、パラダイムの転換が起きるのかは分からない。俺の見解に従えば、多様性というものが重要なキーワードになる。多様性の本質を理解することが、いかに人間にとって困難であるかは示唆した。逆に言えば多様性の本質は倫理と別の場所にあるのだ。

人間の、人間らしさがヒューマニズムだとすると、滅び行く世界に座して待つのもヒューマニズム。禁忌を犯してまで生き長らえることに、どれだけの意味があるのか。否、禁忌を犯しても生き延びるのが人間だろう。

人間の本質は、自然と対峙することにあるのかもしれない。対峙とは対立であろう。対立構造を目するならば、対立構造を意識することがどれほど楽であろうか。対立構造を意識しない世界が滅びの世界であり、滅びの世界を拒否するのが人間であり、こう解釈していくと、楽をしたいのが人間である。

人間の本質は楽をしたいということ。ところが楽をしちゃいけないという俺みたいな人間の感覚は、逆説的に人類を滅亡へと導く。社会正義は人類を滅ぼすのだ。


もっと小さな世界、俺なりに解釈すると、自分のためが他人のためである、とても小さな自己満足の世界に没頭してこそ、人類は生きながらえる。どこかで書いたけど、ソマリアという、国家が破綻してしまった世界は、今後の人類にとっては大きなテーマなのだ。

他人のためと思って生きてはいけない。全て自分のために生が存在する。その前提をクリアしてから、余裕のある部分において他人のためというエゴが生まれる。人類は、現人類は、今回のステージにおいてついに余裕を得た。余裕が逆に狭い世界を作る。余裕の無い世界こそが、多様性を表現している。他人のことなぞ考えるな。自分のことを、本質的に捉えよ。自分が生きていくために他人が必要であることが解ってくるだろう。

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