土の上にも三年

農への道

いつもの乱文

2011-12-11 02:23:17 | どうでも日記(雑記系)
前のめりにならないようにしたいと思う今日この頃。っていうか正直なところ、会話で持論を展開する際に、それ以上のものを求める・求め合うような場というのは今はもう疲れてしまうのであった。持論の展開っていうのは展開であって、展開以上のものって必要無いんだと思う。

相手が黒だと言ったものは相手にとっては黒であり、俺から見て白であろうと相手が黒だと言うなら相手には黒く見えているのだ。自分から見ての白って本当に白だという保証はあるのか?俺は無いと思ってしまったよ。

99%以上の人が黒だと言っているのに自分には白にしか見えなくて、仮に死ぬまで白は証明されず、死後ようやく黒が覆され白が証明された時に、「あの人は先見の目を持つ人だった」と褒め称えられる。だから何?


その人は正しいのか。いや正しくない。正しいのはその人の死後、白だということを証明した人だけだ。その人は生前、白だということを証明しきれなかった。時代に選ばれなかった。時代に選ばれた者のみが正義だ。俺はそんな正義は不要だど思っているけどそれが正義だ。善も悪も相対的な価値観だと長いこと語ってきた。うざいくらい語ってきたんです。

要するに今という時代に見事マッチした人間が主導権を握ることになる。主導権を握った人が素晴らしいのか偉いのかというと、まったくそんなことはなく、宝くじに当たっておめでとう、という程度のものだろう。周囲の取り巻きはおこぼれに与ろうと持て囃しているだけじゃないのかと。


何も死後じゃなくても、生きているうちに主導権が巡ってくる時はある。時代に選ばれた時、周囲も気付く。いやまぁ時代に選ばれるって表現が何ともアレだね(笑)

例えば事故とかが起きると、事故の原因に対して警告し続けた人というのはいつのどの事故にもいる。ヒヤリハットの法則というものに見られるように、事故というのは統計学的にゼロにはならないことが証明されており、あれ?証明されてたっけ・・・

まぁ証明されてないかもしれないけど、事故がゼロにならないことは体感的に正しいと思える。体感かよ!

とにかくだ、そうした事故が起きたってことは統計学的な確率的事象であり、どんなに小さな確率であっても「必ず起きるよ」と言い続ければ必ず当たるものである。例えば、俺が今日から毎日「東日本大震災級の地震は必ず起きるよ」と言い続ければ、それは必ず当たるのだ。いつ当たるかは知らんけど。

天災と事故はちょっと違うかもしれないけど、起きると言い続けたこと自体は大変根気のいる姿勢であるし尊敬するけれど、それとこれとは別で、こういうのを正しい意味で誤信・誤謬と言うのだ。つまり、あなたが事故を起こしたのでも無ければ天災を起こしたわけでも無く、確率論的に必ずいつか起きる事象を、さも言い当てたかのように言い続けただけの話でしょうに、っていうことだ。

それを「時代に選ばれた」、という表現で個人的には解釈している。

だから時代に選ばれるというと、たいそう素晴らしいことではないかと思う人もいるかも知れないけど全然そんなことはなく、むしろ揶揄する表現に近いものがあるフレーズだ。


しかしこうしたフレーズは大衆受けが良い。大衆は勝ち馬が大好きだ。

おかしな事じゃないと思う。気付いて同調して考えを改めるというのは、人間が成長するための大きな動機になる。それはおかしな事じゃない。でもそれが出来るのに、何故、主導権を持っていない少数の人間に同調する人は少ないのだろう。絶対的明らか、少ないよね?だから少数派っていうんだもんね。

こう考えていると、やっぱりどうしても、おこぼれに与ろうとして持て囃す人間というのは必ずいるのだと思ってしまうのであります。それもかなりの数、いるのだと思う。勝ち馬に乗りたい人というのは多いはずだ。

何て言うか、ブレずに一生同じ視点で生きていく事を求めたりはしないんだけど、何ていうかさ、一切考えてこなかった事に対する問題が外部で吹き出て、同時的に答えも一緒に湧き出して、いきなり答えに飛び付く節操のなさを感じざるをえないんだよね。

もちろんそうした飛び付きも必要だ。俺はなるべくそういうことをやりたく無い、というだけで、入力に対して瞬間的に出力出来る人というのは貴重な存在だ。しかし瞬発力を持つ人が必ずしも節操のある人とは思えない。むしろ天は二物を与えず、瞬発力というのは節操を度外視した、節度とは相反する「パワー」だ。

世の独裁者の多くは「お前らこれが正義だろ?そう思うよな?」という表現を上手く煽って使う。


何度も書くけど正義とは相対的なものだ。つまり独裁者とは相対的な存在だ。相対的な存在だから長続きしない。長続きさせるためには突出してしまってはならない。いや、突出させる部分をまんべんなくさせなければならない。

当然弱含む。真の独裁者とは実は地味なのではないかと思う。


相手が白を黒と言っているのか、俺が黒を白と言っているのか、それは時代が決める。あれ、今度は時代が決める、か(笑)

そして白黒に意味はない。なぜなら起きているか起きていないか確率的に賭ける、というようなそんな程度の問題だからだ。

しかしそんな程度の問題が決定打となって正義さえも決まってしまう。正義が決まるのだから悪も決まる。そうなると得られる利益が全く違う。だから白黒に大きな意味を見出す。くだらない(笑)


くだらないことだけど、利益をどのように使っていくかということさえ独占的・独善的でなければ、くだらないことこそ人生なのかもしれない。俺と相手で白黒決することをしてはならないが、時代が白黒決める。そして白黒決まった時に白であるなら、相手に合わせて灰色を選択することが、利益を捨て、双方が活きていく最良の道ではないだろうかと考える。逆であるなら俺は殺されるだろう。むしろ殺された(笑)

でも仕返ししても意味無いしね。

そうして零れ落ちて行く砂が少しでも少なくなればいいなーって思う。網の目を小さくするには多くの人との協力体制が必要で、コンセンサスを得るための玉虫色であるなら、一部だけが生きて行ける力強い独裁政治よりも魅力的だと感じている。

日本人に必要なことは平和ボケしていることに気付いて尚、平和ボケを維持することではないかな、なんて思う。平和ボケに気付かない平和ボケはダメだけど、気付いて尚選択することは大変有意義な意味を持つのではないかと思うのです。

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