



うるちが欲しかったのだけど残念ながら売り切れてた。陸稲(おかぼ)は美味しくないという噂なんだけど、興味があるのでベランダの「試験場」に蒔く。
試験場は何年目だろう?プランターの土は毎年入れ替えなきゃならないって話なんだけど4年は経つ。
小さな循環が可能ならプランターでも土は作られるわけで、実際バケツ堆肥を作る方法もある。
自己流から開始してしまうことが多い俺としては、試験場も自己流。野菜屑を乾燥させて手で細かく砕き混ぜる。たまに米の磨ぎ汁を入れてみたり。
なんとか腐臭のしない状態をキープして、でもハエやら得たいの知れない虫涌いてたり(笑)
いつ蒔いた種だか不明だけど勝手に何か野菜っぽいのが生えてきたり。
美味しさとは何か。永遠のテーマなんだろう。俺に語れる言葉は「自然物」だ。
自然物の定義も境目が難しい。本当の意味での自然物、あらゆる人為を無くした状態では美味しいものなんて限られる。
手を加えることは対価への拘り。人間の生産はすべて対価への拘りが原動力だろう。
その対価が金であるのか自己満足であるのか、言い換えれば相対評価か絶対評価かを選択することが個人個人の個性だ。
美味しさとは個人差のある価値観だが、多数派・主流的美味しさは確かにある。個人が多数意見に価値を見出だすことは全くおかしなことではないが、誰も興味を示さない価値に悦楽を見出だせば、競争相手のいない分野で謳歌も出来よう。
どの道、人間は飯さえ食えれば残りは「満たされる」「満たされない」の二者択一だ。満たされることが、どこを主体として為されるか、だ。満たされないことが何を目的として満たされないかだ。
他と自を完全に別け隔ててしまえば満たされるために他は邪魔者以外の何者でもない。自他が同時に満たされるためには、自分の満たされない部分をどう自分に納得させるかだろう。
他を納得出来ないなら、どう他を納得させるかだ。その過程は大変面倒だ。面倒なのが人間だ。それが人間なら、面倒なのを楽しまないでいることは、人間を楽しまないのと同義ではないか。
知識的な論理とか論理的文章とかは、他者との関わりを簡素化するための手段だと思うんだよね。一般的論理として発する場は、一般的論理の交わる場であるべきで、ネットが「場である」とも「場でない」ともどちらとも言える場であるから、一般的論理と個人的論理がピンぼけしちゃう。
一般的・個人的の区別は、実はむしろ付きにくく、このことを鮮明化した(ピンぼけをますますピンぼけにした)のがネットなのではないかな。
世界がネットで繋がれば、地域的な論理ではなく、論理的な地域が繋がる。家族と論理が繋がらなくてもネットを通じて世界の誰かと価値観を共有出来る時代なのだ。
メリットはでかい。地域に殺されていた少数意見が、地域を超えて多数意見へと育つことが出来るのだ。
このメリットを失ってはならない。しかしだ。このメリットの裏側にあるデメリットも捨て置けない。
去年までの価値観と去年からの価値観の融合を目指すべきだ。少数意見が民主的な手段に則り萎れた社会と、多数意見が少数意見に阻害され停滞してしまう社会との間にある新たな価値観に、自他を超越した自他、矛盾律の手前にある先矛盾が、矛盾であることを自覚した上にさらに成り立つようになる矛盾へと挑戦。
ややこしい(笑)
ま、人間そんなにスマートじゃない、ってことだけは忘れず、ある程度適当さも持とうね、ってこと。
適当さに近付けるために、自分の行動は自分だけの楽しみのためにやっていると自覚する。
たまたまそれが他に貢献するなら、こんなに素晴らしいことはない。
毎日は楽しく、ところが辛い。辛い原因は己にある。己が辛くなくなれば、きっと毎日は楽しくないだろう。自他の完全同一を同一性から成してはならない。
誰もが違うから楽しく、誰もが違うから辛くもある。
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