MARINA - Venus Fly Trap (Official Music Video)
レベッカ - WEARHAM BOAT CLUB ギター、杉咲花のお父ちゃんの若い頃。←シツコイ?( *´艸`)
それはスポットライトではない (Live) CHAR · CARMEN MAKI
Carly Simon - In My Room
(ちんちくりんNo,28)
幼い頃、僕は病弱だった。何度肺を壊したかしれない。そのせいで、幼稚園へは殆ど通えなかったし、そのまま小学校へ上がったはいいが、他の子に比べて入学前の基礎が足らない僕は、半年もすると授業にはまったくついていけなくなった。クラスの担任は言ったものだ。「お宅の息子さんはどうも知恵遅れのようです。特別学級に移りますか」―その昔同じ教育者だった母は怒り、その怒りはその後の僕への「教育」へと向かった。学校の宿題とは別にその日の予習・復習、市販の国語・算数・社会のドリルを使っての学習、漢字の書き取りをノート5ページ分、九九の反復等々例え何があろうとも毎日させられた。僕は何故こんなに毎日勉強しなくてはならないのか、嫌で堪らなかったのだが、母にしてみたらあの僕に対しての担任の評価は、元教育者のプライドをズタズタにするものであったし、見返したい気持ちでいっぱいだったのに違いない。一方、そういう毎日の中で僕は学校の集団生活に馴染めず、僕に対する同級生からの虐めが頻繁に行われるようになっていった。夕方、僕が数人に囲まれ殴られて帰ってくると、悔しいと泣きじゃくる僕に、母は決まって「悔しいなら勉強で勝ちなさい。勉強頑張って先生にでもなって偉くなりゃいいんだ」という言葉を乱暴に投げつけた。
そのような努力の中で成績が上がればいいのだが、通信簿の評価は「1」や「2」が空しく並ぶばかりで次第に母は意気消沈し、諦めに近い溜息をつくばかりになった。
それが、いっぺんに変わることになるのだが、それは小学校三年生になって担任が代わったことによる。
ある日、算数の授業だったか、黒板に書かれた問題の解答者として手を挙げたのは僕ひとりだった。僕は不思議だった。僕程度でも手を挙げられる問題だと思ったし、なのに誰も手を挙げない。いつも積極的な連中も沈黙していた。その中で担任の先生に指名され、席を立ち黒板の前に来た僕は、正解と思われる答えをチョークで出来るだけゆっくりと丁寧に書き終え、また自分の席に戻った。「正解です、うーん、良く出来ましたね」先生がそういつもより大袈裟に褒めてくれたとたんに信じられないことが起こった。クラスの皆の視線が一斉に僕の方に向けられ、しかも「ウォー」という感嘆の声まであがった。「海人って頭良かったんだな」そんな声まで聞こえた。
その日を境に僕は変わった。授業中積極的に手を挙げるようになったし、勉強する意欲も湧いた。クラスの班長に指名されるようになった。夏休みの読書感想文で賞も獲得した。そして―、一・二年生の時には「1」と「2」しか並んでいなかった通信簿も三年生の終わりには下が「3」で上が最高評価の「5」までいくつか並ぶようになったのだった。家庭訪問の時、母は一、二年生の時の担任に言われたことを事細かに三年生の担任教諭に話し、「そんな事はありません。ちょっとした切っ掛けがあれば、出来る子だったのですよ」と同世代の彼女に優しく言葉をかけられ、微かに涙ぐみながら「あんたには学校の先生になって欲しいな、こういう先生に」と隣に座っている僕の目を柔らかく見つめたのだった。
レベッカ - WEARHAM BOAT CLUB ギター、杉咲花のお父ちゃんの若い頃。←シツコイ?( *´艸`)
それはスポットライトではない (Live) CHAR · CARMEN MAKI
Carly Simon - In My Room
(ちんちくりんNo,28)
いつかの昔話
幼い頃、僕は病弱だった。何度肺を壊したかしれない。そのせいで、幼稚園へは殆ど通えなかったし、そのまま小学校へ上がったはいいが、他の子に比べて入学前の基礎が足らない僕は、半年もすると授業にはまったくついていけなくなった。クラスの担任は言ったものだ。「お宅の息子さんはどうも知恵遅れのようです。特別学級に移りますか」―その昔同じ教育者だった母は怒り、その怒りはその後の僕への「教育」へと向かった。学校の宿題とは別にその日の予習・復習、市販の国語・算数・社会のドリルを使っての学習、漢字の書き取りをノート5ページ分、九九の反復等々例え何があろうとも毎日させられた。僕は何故こんなに毎日勉強しなくてはならないのか、嫌で堪らなかったのだが、母にしてみたらあの僕に対しての担任の評価は、元教育者のプライドをズタズタにするものであったし、見返したい気持ちでいっぱいだったのに違いない。一方、そういう毎日の中で僕は学校の集団生活に馴染めず、僕に対する同級生からの虐めが頻繁に行われるようになっていった。夕方、僕が数人に囲まれ殴られて帰ってくると、悔しいと泣きじゃくる僕に、母は決まって「悔しいなら勉強で勝ちなさい。勉強頑張って先生にでもなって偉くなりゃいいんだ」という言葉を乱暴に投げつけた。
そのような努力の中で成績が上がればいいのだが、通信簿の評価は「1」や「2」が空しく並ぶばかりで次第に母は意気消沈し、諦めに近い溜息をつくばかりになった。
それが、いっぺんに変わることになるのだが、それは小学校三年生になって担任が代わったことによる。
ある日、算数の授業だったか、黒板に書かれた問題の解答者として手を挙げたのは僕ひとりだった。僕は不思議だった。僕程度でも手を挙げられる問題だと思ったし、なのに誰も手を挙げない。いつも積極的な連中も沈黙していた。その中で担任の先生に指名され、席を立ち黒板の前に来た僕は、正解と思われる答えをチョークで出来るだけゆっくりと丁寧に書き終え、また自分の席に戻った。「正解です、うーん、良く出来ましたね」先生がそういつもより大袈裟に褒めてくれたとたんに信じられないことが起こった。クラスの皆の視線が一斉に僕の方に向けられ、しかも「ウォー」という感嘆の声まであがった。「海人って頭良かったんだな」そんな声まで聞こえた。
その日を境に僕は変わった。授業中積極的に手を挙げるようになったし、勉強する意欲も湧いた。クラスの班長に指名されるようになった。夏休みの読書感想文で賞も獲得した。そして―、一・二年生の時には「1」と「2」しか並んでいなかった通信簿も三年生の終わりには下が「3」で上が最高評価の「5」までいくつか並ぶようになったのだった。家庭訪問の時、母は一、二年生の時の担任に言われたことを事細かに三年生の担任教諭に話し、「そんな事はありません。ちょっとした切っ掛けがあれば、出来る子だったのですよ」と同世代の彼女に優しく言葉をかけられ、微かに涙ぐみながら「あんたには学校の先生になって欲しいな、こういう先生に」と隣に座っている僕の目を柔らかく見つめたのだった。