今日は彼岸の中日・春分の日である。 朝には薄雲があって冷えていた。 昼前から晴れて暖かい日になった。 人間は太陽に対して特別の思いかあった。日本人にも原始信仰の一つに太陽信仰があって、日の出を祈る日迎え、落日を拝む日送りの思想・信仰を大切にしてきた。
また、日本の仏教徒の中では阿弥陀仏の浄土に往生しようと信ずる人が多い。比叡山浄土教から念仏で一門を立てた法然の浄土宗、親鸞の真宗、叡山浄土教諸宗を合わせると浄土教信者が仏教徒の半分にあたる。その浄土教で大切にする経典の一つに、あの「光明遍照 十方世界 ・・・」の『観無量寿経』がある。『観無量寿経』は阿弥陀仏ならびにその極楽浄土を心に想い浮かべ、想像することを教える非常に有名なお経で、その経典の中に浄土を想い浮かべる16の仕方・十六観の第一に日没を観想して西方の極楽を想う〔日想観〕がある。 阿弥陀仏を信ずる浄土教では、極楽浄土は西方にあると考えていたから西の方に向かって、太陽の没する姿を観想することは重要な意味をもっていた。
如来・佛はそれぞれの仏国土〔世界・浄土)をもつており、東・西・南・北、その間と上・下の十方にある。極楽に往生するとか、西方浄土というのは阿弥陀仏の極楽浄土であるが、極楽とか浄土という言葉は、今ではもとの意味を持たないで、安楽で心配のない身分や境遇、気持ちのよい温泉、聞いて極楽見て地獄とか、一般的になって違った意味で使われているが。
お経のいう日想観の如来を描くとすれば、インドや中国では大平原に沈む赤い巨大な太陽である。我が国では波間や島影、山に沈む太陽が想像される。それが相まって、四天王寺の西門が極楽の東門にあたるとか、往生要集の選者、源信僧都が描いたとされる「山越えの弥陀」に示されるように日本の文化になってしまっている。
春分の日、今日は太陽が真東からの昇って、真西に沈む特別な日である。日想観を期待していたが、夕方には雲が出て夕日の没する姿は残念ながら見られなかった。
まいる
また、日本の仏教徒の中では阿弥陀仏の浄土に往生しようと信ずる人が多い。比叡山浄土教から念仏で一門を立てた法然の浄土宗、親鸞の真宗、叡山浄土教諸宗を合わせると浄土教信者が仏教徒の半分にあたる。その浄土教で大切にする経典の一つに、あの「光明遍照 十方世界 ・・・」の『観無量寿経』がある。『観無量寿経』は阿弥陀仏ならびにその極楽浄土を心に想い浮かべ、想像することを教える非常に有名なお経で、その経典の中に浄土を想い浮かべる16の仕方・十六観の第一に日没を観想して西方の極楽を想う〔日想観〕がある。 阿弥陀仏を信ずる浄土教では、極楽浄土は西方にあると考えていたから西の方に向かって、太陽の没する姿を観想することは重要な意味をもっていた。
如来・佛はそれぞれの仏国土〔世界・浄土)をもつており、東・西・南・北、その間と上・下の十方にある。極楽に往生するとか、西方浄土というのは阿弥陀仏の極楽浄土であるが、極楽とか浄土という言葉は、今ではもとの意味を持たないで、安楽で心配のない身分や境遇、気持ちのよい温泉、聞いて極楽見て地獄とか、一般的になって違った意味で使われているが。
お経のいう日想観の如来を描くとすれば、インドや中国では大平原に沈む赤い巨大な太陽である。我が国では波間や島影、山に沈む太陽が想像される。それが相まって、四天王寺の西門が極楽の東門にあたるとか、往生要集の選者、源信僧都が描いたとされる「山越えの弥陀」に示されるように日本の文化になってしまっている。
春分の日、今日は太陽が真東からの昇って、真西に沈む特別な日である。日想観を期待していたが、夕方には雲が出て夕日の没する姿は残念ながら見られなかった。
まいる
年賀状着いたってコメント見た?
誕生日に来たよ