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詩と物語を紡ぎます

NHK今朝のニュース

2020-03-04 07:00:00 | tale
 みにゃさん、おはようございまーす。

 猫の森:爽やかにお目覚めでしょうか?、ごろごろ。三月四日水曜日、朝七時のNHK今朝の『にゃー……(しっぽ、ぱたぱた)、失礼いたしました『ニュース』、アニャウンサー、猫の森丸大《ねこのもりまるだい》です。


 猫新:おはようございます。キャスターの、まみちゃんこと、(しっぽ、ふりふり)猫新《ねこにい》まみれです。


 猫新:あなたの召使いは大丈夫ですか? ヒト世界を混乱させている、(しっぽ、ピーン!)新型コロナウイルス。今朝の最新情報からスタート、です。

 猫の森:新型コロナウイルスへの感染拡大が止まらない召使い――すなわちヒトの世界では、ニャンと懲りもせず、昨日も、

 咳をしているのにマスクをしていないじゃないこのブス、
 何よしたくたってどこにも売ってないじゃないのさチリメンババア、

 などと、自分を棚に上げて相手の痛い部分をなじる、ヒト特有の痛ましい事件が後を絶ちませんでした。

(睨み合う老婆ふたりの周りで駆け回り、足元にじゃれ付いては、ちんちん、を繰り返す、豆柴犬数匹の映像)

 おかげでイヌのお巡りさんも大忙し、間に入り愛嬌を振りまいてなだめること、懸命です。

(茶トラと牛柄、欠伸の応酬。適当な間隔をとり、日溜まりで丸くなっている三毛、数匹、の映像)

 猫新:一方、ネコにとっては絶好の昼寝日和となり、あちらでは欠伸の連鎖、そちらではてんで勝手に丸くなり、もふもふと昼寝、と春爛漫の季節を思わせる猫的平和な一日となりました。

 猫の森:そんな中、江戸のハズレにあります下町地域では、少子高齢化による深刻な召使い不足が続いていますが、その状況に歯止めをかけようというある取り組みが一歩進み、話題になっています。

(ヨネザアド大陸を海から臨む雄大な景色。ヨネザアド科学アカデミーの建物を下から上へとナメていく映像)

 猫新:ヨネザアド科学アカデミー、によりますと、ネコ族の召使いに最も適しているとされるニッポン・ヒトの出産率を遺伝子組み換えで上げ、現在のヒト数の凡そ二倍に増やそうという、いわゆる『ニッポン・ヒト倍増計画』にアカデミーが参入、本格的に計画に着手することを発表しました。

(アタゴオルの商店街。魚屋の店先に並ぶ、銀マグロの刺し身。惣菜屋、山盛りのセミ唐揚げ、セミフライ。定食屋のテーブルに次々と運ばれていく、セミ天ぷら定食、の映像

 猫の森:それにはアタゴオルのセミ養殖技術が欠かせないということで、『ヒト倍増計画』のチームリーダー・ポッチョン・チャバチャ教授は、今夕にもアタゴオルセミ養殖共同組合のつくだ煮丸組合長及び産業技術総合研究所セミ養殖統括部のミリバール部長と会談する方向で、調整を進めています。

 猫の森:このままでは絶滅も危惧されるニッポン・ヒト。
 猫新:何とか持ち直して欲しいものですね。

 猫の森&猫新:それでは今朝も、にゃー!

(猫新まみれ、満面の笑みでアップ)

 猫新:まみちゃんスマイル♡

   N……ネコはみな
   H……平和に仲良く
   K……喰う寝るア・ソ・ブ♡

(満面の笑みでウインク、投げキッスをする猫新まみれ)

 猫の森:NHK今朝のにゃー……、(しっぽ、ぱたぱた)、ニュース。アニャウンサーの猫の森丸大と、

 猫新:キャスターの、まみちゃん、こと猫新まみれ、でした。


written
2020/03/04
improved
2020/03/06


にゃりんピック

2020-02-22 14:00:00 | tale
 人間(めしつかい)どものオリンピック何するものぞ。『猫による猫のための猫の祭典』。猫の日記念にゃりんピック第一回東京大会。『あなた何さま、お猫さま』のキャッチフレーズのもと、ここ下町路地裏スタジアムから生放送でお送りしております、にゃあにゃあ。
 残すは最終競技、大人気の『一軒家登り降り競争』決勝は稀に見る大熱戦、ごろごろ、現在予選第三位【マヌルネコ】のマヌールヤマダ(モンゴル)と、同じく第二位【スコティッシュフォールド】のまる(スコットランド)が、199点で並んでおります。最後の選手、予選第一位【茶トラ】のプランチャ(日本)、マタタビメダルを獲得するには満点を出すしかありません。

 さあ、フィニッシュに向かって歩を進めるプランチャ。自信に溢れた足取り。
 玄関の庇から門の位置を確かめるプランチャ。飛べるか、マタタビメダルは目の前だ。

 飛んだ! 着地は……乱れたか?


 いや、こらえた、プランチャ、こらえた! こらえてフィニッシュ! 
 採点は、……にゃっほう! 満点! 満点です! やったぞプランチャ! 200点満点で、マタタビメダルを獲得です。
 以上、実況はアニャウンサーの猫の森、でした。さようニャら。


野の小バラ

2017-07-13 18:10:00 | tale
       野の小バラ



 この夏、僕は個人的にも社会的にも、――つまり人生上において、極めて特異で感慨深い体験をした。

 これから記す文章は、その事象・経緯・顛末を、僕の個人的記録として残すものである。だから、一般に向けて発表する予定も意志もない。だが、万一のことを考慮し、地域名、施設名、個人名は伏せた形を採ることとした。また、一部事象において不適切な表現が紡がれることになると思われるが、それは単に筆者、即ち僕の文章力の不足に由ることを明記しておく。

 二〇一六年八月某日
 筆者記す


********************


 ……わたしは、卑劣な人間、なの、です……。

と、病み老いたその人は、苦し気な呼吸の下、突然僕に語り始めた。
 彼は末期癌患者であり、幾つかの臓器に転移もみられ、余命幾許もないと目されていた。事務方に由ると血縁者とは全て死別しており、見舞いに訪れる友人等もいない。そのせいもあるのか、彼はひどく無口で、病棟のスタッフの誰とも親しく語ろうとしなかった。ペインコントロールを受けてはいるものの、苦痛を訴えることさえ拒んでいる節があり、目の離せない患者だった。
 ……この人は、何か苦行でも自らに課しているのではないか、と、僕は彼に感じていた。そんな人が、突然自らの意思で語りはじめたのだ。

 ……私は、欺瞞に、……満ちた、……卑怯、極まり……ない、……人間……、なの、です……。

 窓の外には、入道雲を湛えた青い夏空が広がっていた。それには目を向けず、彼は枕元に置かれた、数少ない持ち物である、古びた文庫本とノートを見つめていた。僕は、彼とコミュニケーションを試みられる、稀な機会かと思い、思いきって彼の名前を呼んでみた。

 ――さん?

 ……私は、あなたに、告げなければ、ならない……。時刻は、来たのです……。


 しかし彼は、僕の呼び掛けなど聞こえていないかのように、目も顔も僕に向けず、……独り言でも呟くように、低く掠れた声で、語り始めた。


 ……六〇年以上、昔の、ことです。
 ……私は、恋を、しました。


********************


 当時、私は文科の大学生で、目当ての相手は、学校のほど近くにあった大衆食堂で働く娘、でした。彼女は、よく客商売が務まるなと思われるほど、愛想はありませんでしたが、痩せた体躯をよく動かして、生真面目に働く、……そう、野に咲く花のような、素朴で清楚な美しさを湛えた娘、でした。私は彼女目当てに、大して旨い訳でもないその店に、毎日のように、飯を喰いに行ったものです……。


 ある日の遅い午後、でした。店の脇の路地で、本を読んでいる彼女を見かけました。休憩時間だったのでしょう。
 私には、千載一遇の機会だと思われました。思いきって、声をかけたのです。彼女は、自分がひどく場違いな場所にいるかのような、狼狽した表情で私を見上げ、汚れたエプロンを叩きながら立ち上がり、おどおどと俯きました。手にした本を見ると、文庫のゲーテ詩集でした。ゲーテが好きなの?と尋ねると、俯いたまま頷きます。ゲーテなら私も読み込んでいましたから、私は、ここぞとばかり、あの有名な詩句を諳じていました。

 わらべは見つけた、小バラの咲くを、
 野に咲く小バラ。

 彼女は、珍しいものを見るかのように、私を見つめていました。しばらくの沈黙の後、彼女の口からか細い声が漏れました。

 若く目ざめる美しさ、
 近く見ようとかけよって、
 心うれしくながめたり。

 そこからは、私も声を合わせました。

 小バラよ、小バラよ、あかい小バラよ、
 野に咲く小バラ。

 ……少しの間、見つめ合いました。彼女の顔はみるみる上気し、熱を帯びていきました。彼女は、慌てふためいたようにお辞儀をして、店の中に駆け込んだのでした。

 これがきっかけで、程なく私は彼女と打ち解け、青い交際をするようになったのです……。


 それから、半年ほど過ぎた夏でした。
 私たちは、映画を見たり、喫茶店で語り合ったり、場末の酒場で呑んだり、といった交際を続けていました。
 彼女は、私のことを知りたがる反面、自分のことは殆ど語りませんでした。戦争孤児で、私より二歳年上、なことの他は、何も知らなかったのです。戦争の爪痕は薄らぎはじめていたとは言え、それでもなお、人々の胸に傷が深く刻まれていた時代です。思い出したくないこと、語りたくないことが、彼女にもあるのだ、と私は察していました。

 私は彼女を愛していました。彼女が欲しいと熱望していました。彼女との生活を夢見ていました。

 しかしそれらは、……手前味噌な、自己欺瞞に過ぎなかった! と言うべきでしょう……。
 その夜、私は初めて自分の下宿に彼女を招きました。酒が入っていたことが、私を大胆にさせていました。彼女は、こちらが拍子抜けするほどあっさりと、誘いを受け入れ付いてきました。汚なく散らかった、男独り住まいの部屋を見ても、あらあらまあ、と笑ったに過ぎませんでした。
 安酒場での話の続きはすぐに尽き、沈黙が続き、私たちはもじもじし続けていました。逡巡を重ね、私は意を決しました。彼女ににじり寄り、抱きすくめたのです。彼女は、何の抵抗もなくすぐに私に身を任せてきました。

 愛してる……!

 私は囁いて、無器用に唇を重ねました。……初めての口付けでした。ぎこちなく唇を啄んでいると、彼女は意外にも馴れた素振りで吸い返し、舌を絡めてきたのです。きつくしがみついてくる彼女の、女性ならではの柔らかな感触に、私はどっと熱いものが全身を巡っていくのを感じていました。

 どちらからともなく、私と彼女は抱き合ったままに畳に横たわりました。吸い付き合う唇が、息継ぎするように離れる瞬間……彼女は譫言のように囁いていました。

 ……電灯を、消して、……消して。

 彼女は懇願していました。しかし、その願いを聴くには、私はあまりにもうぶで、あまりにも興奮しきっていました。 生まれて初めて接する、愛しい彼女の、産まれたままの姿をこの眼に焼き付けたくてたまらなかったのです。
 私は電灯を消すことなく、彼女の身体からワンピースを剥ぎ取り、上半身から下着を引き剥がしかけていました。

 不意に異質で、歪な手触りが掌に走り、私を戸惑わせました。滑らかな感覚の想像に反し、肩から背中へと続く、凹凸の起伏生々しい感触が、抱き締めた掌一杯に広がって消えようとしません。半裸の彼女は、興奮に上気した表情で、何か開き直ったように、私を大胆に見上げていました。抱き留めてはいるけれども、それ以上何も出来ない私は言葉もなく、彼女の上で四肢をジタバタさせていたのです。……うぶなのは、私だけ、でした。

 ……電灯……、消して……って、……言った、のに。

 彼女は身を起こすと、肌に半ば絡み付いていた下着を、痩せた身体をくねらせ脱ぎ捨てました。細身には似合わない丸い乳房がたわわに揺れ、豊かに張った下腹部には繁みが盛り上がり、腿の隙間から神秘的な部分が妖しく見え隠れする、眩しい肢体が迫ってきました。素朴でも清楚でもない、婀娜な女体がそこにありました。
 そして彼女は私の衣服を荒々しく脱がせ、肌を合わせてきたのです。身体の隅々までくすぐられ、撫でられ、啄まれ、舐められる。甘美な感触に圧倒されて、私は彼女に導かれ通し、でした。

 彼女は情熱的に喘ぎながら、私に跨がり受け入れ、激しく悶えながら、私に背中を撫でるようにせがみました。

 愛して!……もっと、もっと、……!

 背中一面の異形な手触りと、脳髄を破壊するような悦楽が、同居して私を混乱させ追い込んでいきました。つがった部分が狂暴な熱を帯びて、膨らみ喰らい付き合って、蕩けていきます。
 唇を塞がれ、私と彼女の唾液が混じり合いながら喉の奥へと滴り落ち続けるのを感じながら、私は彼女と、汗ばみ、唸り善がり、爆発的に絶頂り詰めたのです。

 汗水漬の身体を絡めて甘えてくる彼女を抱き留め、私は気怠く惚けきっていました。男と女の秘め事の、何と深淵で神秘的なことか、神々しく甘露なことか……!
 いつまでも、どこまでも、溺れて、いたい……。

 その一方で、妙に醒めた意識が、彼女の背中の傷痕に触れることを拒んでいました。そのごつごつした感触は、何かこの世のものではない不気味さを孕んでいるように思われてならなかったのです。
 私は、それとなく両手を、彼女の背中から遠ざけていました。

 ……驚いた、よね?

 不意に、彼女が尋ねてきました。すぐに背中のことを言っているのだとわかりました。揺れる瞳が私の眼を覗き込んでいます。見つめ返すのが辛いくらい、清みきった色でした。どう誤魔化そうにも見逃さない聡さが充ちていました。彼女の肌と汗の甘ったるい匂いが濃厚に漂って、覆い被さってきます。深い口付けが、蠢く指先が、甘く激しく、私を煽ります。

 ……火傷、したの、よ……。

 掌に、異様な感覚がすぐに戻りました。不吉な予感が黒く込み上げ、謂うべき言葉を、私は探しだせずにいました。
 無言の私に、彼女は口付けながら、私自身を掌で弄んできます。たちまち私は、激しく兆しました。痛いほど身体が疼き、つい先程の鮮烈な愉悦の味わいが甦ります。
 彼女は緩やかに態勢を変え、下腹部に顔を埋めると、私自身を丁寧に含み、丹念に、舌をそよがせ、吸い、甘噛みして、私を焚き付けました。あああっ、と間の抜けた声が漏れてしまいます。

 蕩けさす行為の、その向こう側に、爛れた景色が拡がっていました。不規則な凹凸に覆われた、濃い色をした、痛々しく不毛な皮膚の、荒涼とした乾いた風景が、彼女の体躯の動きに併せて、捻れ捩れ、引きつった表情を、醜く畝らせていました。あまりの沈痛さに萎みそうになる情欲を、彼女の圧倒的な刺激がふいごのように掻き立てます。相反する感情と感覚がせめぎあい、私を矛盾の坩堝に押しやろうとしていました。

 私は、混乱し、狼狽し、すっかり腰が退けていました。頭の中で蜂が多量に飛ぶ音が反響し、意識が濁っていきました。

 ――――――で!
 ――――――よ!

 何と言ったのか分からない、彼女の声が嫌に遠く離れて、揺らいでいました。
 彼女は再び肌を重ねてきました。顔は笑っていましたが、眼だけが異様に冷えて感情が消えています。私を見下ろし、激しい息遣いで喘ぎながら、躍るように肌を擦り付け、彼女は揺れ続けました。否応なしに極みへと押し上げられかけた時、

 ……どうして、訊かないの?

 と彼女は言いました。彼女の膣内で揉まれ絡みつかれる悦びに翻弄され、私は息を弾ませたまま、答えられずにいました。

 気にならない? 背中のこと。どうして、こんな、火傷、した、のか……。……どうして、訊かないの?

 棒読みするような声で、彼女は私を追い込みます。私の顔に顔を擦り寄せて、何度も何度も繰り返し、口付けて、肌をまさぐり、私自身を弾ける寸前で焦らし続け、同じ言葉を投げつけます。快楽と拷問が同居して、同時に私を責め苛んでいました。私はどうにかしてくれ、と祈りに似た心持ちにすがろうとしていました。

 ……どうして……、

 追い込まれ、掠れて上擦った声で、そう尋ねかけた時、私は放り出されていました。不意に彼女が結合を解いたのです。行き場のない欲情が充満し、停滞して、身を捩るばかりの私に、彼女は感情の欠片もない声で、無表情に言いました。


 ……ピカドン、じゃ。


 ……時刻が、静止りました……。


 ……ピカドンに、焼かれた、んじゃ……!


 二度目の言葉を聞いた次の瞬間、私は、激しく嘔吐しました。急激に胃のなかのものが逆流し、口から吹き上げ、顔を汚し、畳に零れていきました。酸っぱい臭いが鼻の穴にこびりつき、嘔吐き続けました。底冷えするような視線が、降り注いでいました。

 涙で霞んだ眼に、素裸で立ち尽くす彼女の後ろ姿が歪んで映りました。爛れた背中が、私を見下し、蔑んでいました。


 嘘つきおって! 愛してる、じゃと? ……あんたも、同じじゃ。皆と、同じじゃ。そんな、汚ないか。吐くほど、汚ないか! ピカのおなごは……そんなに穢いのか!


 剃刀のような言葉が、私の精神を切り刻み続けました。げえぇっ、と嫌な音を響かせ、私は身悶えし、転げ回って嘔吐し続けました。苦悶している私の顔を、軟らかい裸足が、踏みつけ、蹴りあげました。……何度も、何度も。

 ……嘔吐がようやく収まった頃、夜は白みはじめていました。彼女が何時立ち去ったのかもわかりません。吐瀉物にまみれた裸身のまま、私は顔中を腫らしてぐったり倒れ込んでいました。


 ある情景が朧気に浮かび、次第に鮮明な映像を結んでいきました。それは、ふた月ほど前、安酒場で彼女と逢瀬していた時の記憶でした。
 戦時下の生活を思えば、今は何と幸せか、そんな話を一頻りした後、広島の平和記念像が間もなく完成するらしい、と話し合ったのを機に、広島と長崎、そして原爆の話題に移ったのです。その中で、

 原爆被害者に近寄ると、放射能が感染るっていうよね?

 と不安そうな面持ちで彼女が言いました。

 ……福島の原発事故の後、根も葉もない偏見と中傷に晒された方々がいたことは、記憶に新しいですが、当時もまたそんな偏見を持った人々が、少なからずいたのです。

 私は一笑に付しました。

 馬鹿馬鹿しい。非科学的だし、謂れのない偏見だ。それが本当なら、日本中、放射能まみれだよ。

 その時、酔って気が大きくなっていた私は、確かこう続けたのです。

 人間、人格だよ。傷痕なんて問題じゃない。……僕が嫁を貰うなら、原爆被害者を第一に挙げるね。

 ……と。その時、彼女は笑いながら頭の横に人差し指を立ててみせ、言いました。

 ひどーい。じゃあ、あたしは?

 失敬、失敬。勿論、第一候補は君だ。

 これは失言だった、とヒヤリとしていた私に、彼女は幸せそうな笑みを返してよこしたのでした。


 あの頃の私は、口先ばかり達者なだけの、ひ弱な、……卑怯卑劣な、青二才だったのです。事実、ピカドンという言葉を聞いた途端、真っ先に頭に浮かんだのは、彼女と口付けて唾液を飲み、性交わったことで、放射能が感染る、ことの恐怖心、だったのですから。

 ……今にして思えば、あの時彼女は、幸せなどで笑ったのではなく、私の本心を見抜いていて、嘲笑していたのかもしれません。

 ――目を、反らさないで!
 ――そのままのあたしを、見てよ!

 聞こえなかったのではなく、聞くまいとしていた声が、鮮烈に蘇り、失なったものの大きさに震え、私は哭きました。

 それからしばらく、私は病み付き、入院しました。食事も水も喉を通らず、汚物にまみれて倒れたままの私を、下宿の大家が見つけてくれたのです。何とか回復したのは秋を迎えた頃でした。

 彼女の行方は、わかりませんでした。

 急に来なくなったんだよ。病気でもしたかと、下宿を訪ねてみたら、荷物は殆ど残したまま、本人だけがドロン、だとさ。真面目な娘だったのにさ。いったい、何が合ったんだか。……男に騙されでもしてなきゃいいんだがね。

 食堂の大将は、台詞とは裏腹に、後釜に雇った愛嬌のある娘の尻を、目で追いかけていました。


 ……そして、六〇年以上、経ってしまいました。


 ここまで語って、彼は激しく咳き込んだ。喉に絡んだ痰を吸引する。呼吸が浅く弱く早くなっていた。……これ以上、話させるのは、危険かもしれない。僕は彼の話を打ち切らせようとした。

 ……お疲れでしょう、もう、休まれた方が……

 しかし彼は、僕を震える手で制し、告白を続けた。

 それが何と……、ひょっこり、……逢いに、きたの、です。……昨日か、一昨日か。いや、今朝だったかもしれない。

 あの頃と、何も変わっていませんでした、……ここに、

 と彼は、文庫本とノートが置かれた辺りを示した。

 ……座って、ノートを読んでいました。但し、私には、一瞥だにくれずに……。そして、ゲーテの詩を諳じました、……あの細い声で。

 けれども手折った手荒いわらべ、
 野に咲く小バラ。
 小バラは防ぎ刺したれど、
 泣き声、ため息、かいもなく、
 折られてしまった、是非もなく。
 小バラよ、小バラよ、あかい小バラよ、
 野に咲く小バラ。

 ……一頻り諳じて、ひっそり帰っていきました。……お分かりでしょう? 「手荒いわらべ」、が誰を指すのか、を。


 それにしても、私は、罪深いことをしてしまった、ものです。悔やんで悔やんで、なお、悔やみきれない。

 ……私の、……


 不意に話は途切れ、彼は意識を失っていた。彼の耳元で繰り返し名前を呼んだが、反応はなかった。僕はナースコールを押した。


 翌朝。
 二〇一六年八月六日、午前八時一五分。彼は永眠した。享年八三歳、だった。

 彼が何故、人生最期の時を前に、恐らく誰にも話したくないし話せない、極めて繊細で極めて重い告白を、僕に、――急な担当替えで半年しか付き合い(と呼べるかどうかさえ頼りないのだが)のなかった、この僕に託したのか、最早知る術はない。そして、最後の「……私の、……」の後に続くはずだった言葉も。

 看護師長が、「遠からず自分が身罷ったら、遺品――古びた文庫本とノート――を僕に渡してほしい」、との、彼の簡単な遺言書を見付けた、と伝えてきた時も、僕は首を捻るばかりだった。告白と遺品を託すにあたり、彼の主観的及び客観的基準に偶々僕という人間が適合したのだろう、としか言いようがない。彼が僕に告白したことで、少しでも軽やかに旅立てたのなら、それに勝る喜びはない。

 人間関係の織り成す綾が、六〇年以上もの彼の人生を、とてつもなく重く暗く悲しく辛く縛ってしまった。それがどんなものだったのか、僕には想像を絶するし、況してや彼の人生を総括する権利も術も、僕は持たない。ただ、何故か選ばれ告白を聞いた者として、また遺品をも託された者として、一つ彼に伝えたい想いがある。

 それは、彼の幻想(?)に現れた、彼女が諳じた詩の一節、「手荒いわらべ」の意味するところについてである。彼は、彼女が彼を謗って「手荒いわらべ」に例えた、と解していたと思われる。が、彼女もまた彼にとって「手荒いわらべ」的存在ではなかったか。そして、彼も彼女も等しく、精神的には、「手折られた小バラ」的存在ではなかったか、ということである。僕は、文学的見解には壊滅的に疎いが、そんな見方もあり得るのではないか、あっていいのではないか、と思ってやまない。そんな視点を、彼と彼女への、僕なりの『祈り』として捧げたい。

 遺品として託された、文庫本は新潮文庫の「ゲーテ詩集」初版、ノートは彼女に対する彼の悔恨の情を詩句・断章――凡庸ではあるが、心情の籠った――として綴ったものであった。彼の生きた証として末永く保管したいと思う。

 尚、彼のノートの最後には、明らかに彼のものとは違う筆跡で、絶筆の短歌が記されていた。記した人物は不明である。

 僕はオカルトやスピリチュアルなものの見方、考え方には極めて懐疑的な人間なのだが、絶筆の短歌を読んだ時、彼女が「ひょっこり、……逢いに、きた」という彼の証言が意味するところは、象徴的意味合いや幻想や思い違いとは本質的に違う、『彼の真実であった』、という結論を持たずにはいられなかった。

 その短歌の紹介をもって、この文章を締めくくりたい。



 吾が怨み怒り悲しみ忘れまじ
 一九四五ヒロシマの夏



(了)



【文中、ゲーテの詩「野の小バラ」は、『ゲーテ詩集』高橋健二・訳(新潮文庫)より引用した。】




written:2016.08.05.〜08.
rewritten:2017.07.13.

**

天使の羽根

2017-07-13 18:05:00 | tale
       天使の羽根


 分娩台の上で妻が苦しげに喘いでいた。その手をしっかりと握り、頑張れ、と励ます。いきんで、もう頭が見えてますよ、と女医が声を弾ませる。涙をこぼし、激しく首を振りながら、妻が低く唸った。
 妻の手を握り直した時、背中の方から、羽ばたきの音が聞こえた気がした。同時に、微かなあどけない声も。
(……、……………)
 その瞬間、高らかな産声が分娩室に響いた。
 おめでとう、元気な女の子ですよ。おめでとうございます。高潮した声音で、女医と看護師たちが祝福の言葉を述べる。妻の胸元に産声を上げている赤ちゃんが乗せられた時、視界の端を、何かがかすめた。ゆっくりと揺れながら落下し、妻と握りあった手の上に、ふわりっと落ちる。

 それは、真っ白な羽根、だった。


***********************


 ぱぱ、これなあに?
 地面に落ちている透けた褐色の何かを指で突付きながら、優菜《ゆうな》は鳴海孝輔《なるみこうすけ》を見上げた。
 蝉の抜け殻、だな。
 孝輔は、優菜の隣りにしゃがんで、それを摘み上げた。
 せみの、ぬけがら?
 そう、蝉は何年も土の中で暮らして、幼虫から成虫になる時に脱皮するのさ。
 優菜は抜け殻を見つめたまま、首を傾げている。
 よーちゅー? せーちゅー? だっぴ? わかんない。
 さて、どう説明すれば、わかる? いきなり三歳児の『パパ』になって間もない孝輔は、苦笑いを浮かべた。
 土の中にいた時の体から抜け出して、蝉になるんだな。
 ふ~ん、と優菜は首を傾げたままだ。
 ゆうなも、せみさん、みたいかな?、まえの、からだから、するって、ぬけたよ。
 苦笑しながら、孝輔は抜け殻を優菜の掌にのせる。
 ぱぱも、せみさんみたいだよ、びょういんにあるの、ぬけがらでしょ?
 つんつんっ、と抜け殻を突付いた後、優菜はちょっと頬を膨らませた。
 いいな、ぱぱは、ぬけがらがあって。ゆうなには、もう、ぬけがら、ないよ。
 優菜、俺たちは、蝉とは違うよ。
 傍らの木で、蝉が鳴き始めた。
 このぬけがら、あの、せみさんのかな?
 優菜ははしゃいで、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。さあ、どうかな、と孝輔は立ち上がり、頭上を見上げる。
(蝉は生きてるし。でも、俺たちは、……俺は)
 樹上を、その先の空を、孝輔は見つめた。



 死を指し示す、という水先案内人を名乗る老人の仕掛けた、思いもよらぬ出来事に巻き込まれ――向こうの言い分では『勝手に飛び込んできて』――、鳴海孝輔が、彷徨える魂、そして、同じく彷徨える三歳児魂の『パパ』、そんな境遇となってから、もうじき三か月になろうとしている。
 その事実を、孝輔はなかなか受け入れられなかった。優菜にせがまれるまま、街や公園を彷徨い歩き回りながら、ただ落胆し、虚ろな日々を送っていた。そうしていて、孝輔は、自分たちのような魂が存外多く、この世界に存在していることを知った。彼等は、当てもなく彷徨ったり、あるいは一定の場所に留まり、悲しんだり後悔したり、果ては怒りや恨みを誰彼かまわずぶつけていた。おかしなものだ、と孝輔は思った。
『人生、生きているうちが花なのよ、死んでしまえば、はい、それまでよ』
 昔、そんな文句が流行ったと聞いた事がある。だが、人生を失ってなお、その続きがある。人生を失くした事を懊悩する魂が、そこここにいるという事実。それはほんの少しだけ、孝輔の心を軽くした。
 そして、優菜の、存在。あの事件に巻き込まれた時は、ひんやりとした得体の知れない存在だったのに、今では、ぱぱ、ぱぱ、とまとわりついてくるのが、愛らしく、時にいじらしくも思われる。本当の親子ではないが、本当みたいなくすぐったさ。
(悪くないかも……)
 そう思いはじめた矢先だった。


 あの日。
 とある病院の前を通りかかった時、ふいに優菜が歓声を上げた。

 うわあ、てんしさんが、いるよ。
 天使、さん?
 ほらあ、そこにも、あそこにも。

 優菜の小さな指先が指し示したところに、幾つもの白く輝く物体が浮かんでいる。優菜よりもっと幼い、白い羽根を背中に生やした子供たちだ。
 これは、すごいな、と孝輔は目を見張った。
 あかちゃんが、うまれるんだよ、きっと、と優菜が弾んだ声で言う。赤ちゃんが生まれる時、天使はその肉体に宿り、人間という生命となるらしい。優菜が天使に手を振ると、天使たちは無邪気な笑みをこぼして手を振り返した。
 その時一人の女性が、病院の入り口に向かって歩いているのが孝輔の目にとまった。後姿、一本の線の上を渡るような歩き方に、見覚えがあった。
(京《みやこ》……?)
 優菜を抱きかかえ、孝輔は後を追った。入り口の硝子に映った顔は少しくやつれていたが、間違いなく孝輔の妻、京だった。

 孝輔は、魂の身になってから、一度も京に近づいたことはなかった。泣き叫んでいた姿、声が離れず、つらかったせいもある。それ以上に、触れることも語り合うこともできないのが、悲し過ぎた。だから、避けていたのだ。
 だが、いざ京の姿を見た時、孝輔の中に、共に過ごした十一年の想い出が迸った。恋しさが、愛しさが、溢れた。そして、疑念に囚われた
(何故、病院に? ……もしかして、俺のせいで、病気に?)
 ぱぱ? と優菜が訝しがる。
 優菜、ちょっと寄り道だ、と告げ、孝輔は京の後を追った。

 京が向かった先は、外科病棟の一室だった。おそるおそる覗くと、孝輔は息を飲んだ。
 ……ベッドに自分の『肉体』が横たわっていたのだ。それは、事故当時の状況からは想像も出来ない奇跡であった。
 あー、ぱぱの、からだ、と優菜は目を丸くした。
 いいなあ、まだのこってて、ゆうなのは、すぐ、もやされたよぉ。
 優菜、ちょっとだけ、向こうで遊んでおいで、でも遠くに行っちゃいけないよ、すぐ、戻るから。
 孝輔は、はあい、と愛らしく返事をした優菜を廊下に出した。
 振り返り、部屋の中を見渡す。カーテンの引かれた、薄暗い室内。――規則正しい呼吸を繰り返し、心電図の波形に全く乱れのない、ただ横たわっているだけの、『肉体』。孝輔は、『肉体』に歩み寄った。触れようと試みる。しかし、手は『肉体』もベッドもすり抜けてしまう。
 京は丸椅子に腰掛け、しばらく『肉体』を見つめた後、朝食や夕食を摂っている時に、柔らかな口調で語りかけてきた声、そのままに静かに語りだした。
「孝輔さん、具合はどう? 昨日より顔色がいいみたいよ。きょうは蒸し暑くて、夕立があるかもしれないって。雷が鳴らないといいのだけど、雷は怖くって。そうそう、半夏生の花が咲き始めたのよ、ほら見て」
と京はスマートフォンの画面をかざした。半夏生は京が今頃の季節、とりわけ好む花だ。京。み・や・こ。孝輔は胸を掻き毟られる想いで、京の声を聞いた。
 夜、どんなに遅くなっても、少しでいいからお話ししたい、と寝ないで待っていた京。
(お帰りなさい、孝輔さん。お疲れ様でした)
(今日ね、半夏生が咲いたわ)
(夕焼けがとても綺麗だったの、一緒に、見たかったな)
 口調に似合う絹のような声とほっこりとした笑顔で迎えられて、孝輔はそれだけで長い一日の疲労が癒される思いがしたものだ。
 そして、夫婦の営み。新婚初夜、破瓜の痛みに苦悶した処女の京は、覚えていく悦びに恥じらいながらも熱心に孝輔の好むままを受け入れ熟れていった。
 孝輔の腕の中で、いつも新鮮に純情に燃えた京の滑らかな肌と汗の匂い。華奢な風貌に似合わぬ躍動で、孝輔にしがみつき包み込んでは、夢幻の歓喜に孝輔を導き、自らも同じ喜びの極みに溺れるように繰り返し乱れた、柔らかくしなやかな肉体の感触と熱い体温。京に重ねてきた営みの充実した悦びの記憶が、ありありと孝輔の全身に蘇った。
( いやあっ、はなれちゃいやっ、もっと、いっぱいだいてっ、こうすけっ!)
(みやこ、こうすけ、の、おんな、こうすけ、だけの、おんな、だからっ!)
(もっとっもっとっ、すき、すきっ、みやこ、あいしてるっ、こうすけ、こうすけっ!)
 京が孝輔を呼び捨てにするのは、行為に感極まった忘我の時だけだった。事故の数日前の丹念な行為の、蠢いては痙攣を繰り返した京の肉体と、陶酔しきった京の睦言が、孝輔の中で今体験しているかのように木霊していた。
 京。
 孝輔は、京のすぐ後ろに立って、肩に手を伸ばした。……しかし、触れることはできない。俺は。ここにいるのに。君のすぐ傍に。今すぐ抱き締められる距離に!
 みやこ……!
 不意に、『肉体』の呼吸がわずかながら、乱れた。心電図の波形と信号音も、上昇する。
「……孝輔さん?」
 京は、握っていた手を揺らし、身を乗り出した。その腕を掻き抱き、京が掌に頬ずりすると、さらに『肉体』は『顕著な反応』を見せた。それに気付くと京は躊躇うことなく、それを含み啜った。孝輔はかつて繰り返し味わった悦びが、体の中心から溢れるのを自覚した。呼吸も機器類の信号音も、さらに乱れる。『顕著な反応』は呆気なく弾け、京は全てを受け止め喉を鳴らした。同時に孝輔は『絶頂』した。さらに京が丁寧に吸い続けると、また『肉体』は『反応』し、孝輔は『同期』し『極まった』。
「感じた? 感じたのね? 孝輔さん!」
 京は、ナースコールを鳴らし、叫んだ。
「孝輔さん、目を覚まして! 帰ってきて!」
 慌しく訪れた医師と看護師が、入り乱れて『肉体』に群がる。孝輔も、『肉体』に身を乗り出した。しかし、『肉体』に戻れそうな気配はなかった。そもそも、どんなふうに抜け出したのかすら、わからない。優菜は、するっと抜けた、などと言っていたが。
 やがて呼吸と心拍数はリズムを取り戻して、『肉体』は目覚めることはなかった。
 医師たちとともに、孝輔は病室を出ようとした。出がけに振り返ると、京は肩を落として『肉体』の手を握り、その胸元に顔を埋めて微塵も動かなかった。

 あ、ぱぱ。
 優菜が手を振りながら、廊下を駆けてくる。孝輔は、飛びついてきた優菜を抱き上げた。
 おりこうにして、待っていたかな。
 うん! ……おじいちゃんも遊んでくれたし。
 おじいちゃん?
 優菜が指差した先に、水先案内人がいた。孝輔は、ゆっくりと歩み寄った。
 なんで、あんたがここに居るんだ?
 こいつはご挨拶だな、と案内人は口の端を曲げ、笑った。あちらの世界へ向かう連中が一番多いのは、病院だぜ。
 ……なるほど、手を貸す、ってわけか。
 ふん、しばらく見ねえうちに随分と皮肉が上手くなったわな、魂《それ》らしくなってきたじゃねえか、と案内人はにやりと笑った後、踵を返した。
 おじいちゃん、またねぇ、と優菜が手を振る。
 案内人は、背中を向けたまま、ひらひらと手を振り返し、すうっと姿を消した。
 その先にもう一人、手を振っている老人がいた。見覚えのある、剥げ頭の、老人。
(……死神?)
 が、孝輔が目を凝らすとその老人も、霞のように消えていく。同時に、優菜が降り続けていた手を下ろした。……優菜は、どっちに手を振っていたんだ? まさか……? 疑惑が色濃くもたげる。
 優菜、おじいちゃんって……。
 おじいちゃんは、おじいちゃんだよ。
 どちらの、と言いかけて、孝輔はやめた。案内人も食えないヤツだが、死神はもっと狡猾だ。何かたくらんで、ずっと手を振って見せていたのかもしれない。
 何をして遊んでもらったんだ?
 ……な・い・しょ。
 優菜はそう言って、くつくつと笑った。


 あー、せみさん、いっちゃったぁ。
 優菜が寂しそうに、空へ向けて手をかざしている。
 でも、ほら、と孝輔は両手で優菜を抱きかかえた。悲鳴を上げたその先に、二匹のアゲハが飛んでいる。
 ちょうちょうさんたち、なかよし?
 そうだね、いっしょに、遊んでいるのかな。
 小さな手が、ひらひらと、アゲハが飛んでいる先を追いかける。


 俺は。死んでしまったのでは、ないのか。『肉体』を見た時、脳死状態だと自分でも思った。死んだも同然の躯。誰もが、回復することはないと思っているに違いない。京以外は。だが、孝輔の感情が激しく乱れた時、『肉体』は反応した。孝輔の思いに、呼応するように『反応しあった』。驚きだった。他人はおろか、自分の『肉体』さえ、触れられなかったのだ。なのに、どこかで、俺と『肉体』は、繋がっている。しかし、戻る術が、わからない。

(俺は、死んだのか? まだ、生きているのか?)


 ぱぱ、むぎゅって、して。
 優菜が甘ったれた声を上げた。孝輔は、優菜を抱え直して、頬擦りしながら、小さな躯をしっかり抱いた。ころころと笑い、優菜は首に腕を巻きつけてしがみついてくる。
 可愛い、と思う。
(俺が生き返るということは)
(……この子を、置いていく、ということだ)
 胸が、苦しくなる。
(俺は。いったい。何を、望んでいるんだ?)
 あれから一週間、……病院には行っていない。肩を落とした、京のやつれた背中。知れぬ、『肉体』に戻る術。
 いつの間にか、腕の中の優菜は眠っている。

 あの日から、優菜は、ぱぱ、どこにもいかないよね? と、何度か聞いた。行くって、どこへ? と尋ねると、ううん、なんでも、ない、としがみつく。迷いが、優菜には見えているのだろう、と孝輔は思った。
 優菜、俺は、どこにも……。
 行かないよ、と言おうとしても、唇が強張ってしまう。半分に引き裂かそうな痛みが疼く。孝輔は、うっすらと笑みを浮かべた優菜の寝顔に頬擦りした。

 ふいに、視界が白く弾けた。濃い霧の中を、飛んでいるような感覚の末、セピア色の風景が広がる。
 旧いマンションの、一室だ。

 
「お前、何でこんなに、愚図なんだ? 片付けろって言ってるだろ!」
 まだ二十歳そこそこの女が、険しい顔で見下ろしている。手にした玩具をひったくられ、頭を何度も叩かれる。
「まま、ごめんなさい、ごめんなさい」
「マジうざいんだよ、お前はっ!」
「いたい、ごめんなさい、まま、ままっ、ごめんなさい」
 頬をぐいぐい抓られ、髪をつかまれ引き摺られる。


 まま、いじめないで。
 ゆうな、いいこに、するから。
 ままは、ゆうなが、きらいなの?

 ゆうなは、ままが、すき。
 あたらしい、ぱぱも、すき。


 刺青の背中。首に絡み付いている、白い腕。広い肩の向こう側に、媚びた笑みの女の顔。その顔が、きつく歪んで、睨みつける。
「……お前、また寝しょんべんしやがったのかよっ」
 いきなり顔を叩かれ、床に転がる。
「まま、ごめんなさい。ぱぱ、ごめんなさい」
「まだ小さいんだ、そんな、叩くなよ」
「だって、三日連続なんだよ、毎晩邪魔しやがって、この馬鹿っ」


 まま、どうして、ゆうなを、いじめるの?
 ままは、ゆうなが、きらいなの?

 ゆうなは、ままが、すきなのに。
 でも、いじめる、ままは、きらい。

 もう、いじめないで、まま。
 ゆうなは、ままが、すき。


 泥酔している女が、引っ叩く。繰り返し引っ叩かれて、繰り返し倒れる身体。新しい男が何日か帰って来ないのだ。いつもそうだ。そして捨てられる。その理由を女は自分のだらしなさではなく、幼い娘に責任転嫁していた。
「お前のせいで、いっつも貧乏くじ引かされてるだからな。ふざけんじゃ、ねえぞ」
「いたい、いたいよ、まま、いたい!」
「お前みたいなのは、もう、うんざりなんだよ。いらねえんだよ、お前なんか」
「ごめんなさい、いたい、いや、いやっ、ごめんなさい、ままっ」

 窓が開け放たれ、ベランダに引きずり出される。髪と腕を、乱暴に掴まれる。
「どっか、行っちまえっ!」
 ベランダの手すりを乗り越えて、宙を飛ぶ。手すりが、遠ざかっていく。
「ままっ、ままぁっ!」
 ゆっくりと、女の顔が、遠くなる。
「ままぁ、ままぁ……!」


 駐車場の隅から、窓を見上げている。

 ゆうな、ひとりぼっち、さびしいよお。まま、だいすきだったのに。あたらしい、ぱぱ、だいすき、だったのに。
 さびしいよお。ひとりぼっち、きらい。いじめる、まま、きらい。


 花束を持った、手。しゃがみこんだ若い男が、花束を目の前に置く。

 きれいな、おはな。

 顔の前で、手を合わせて、泣いている。

 どうして、ないているの? さびしいの?
 ゆうなも、ひとりぼっち。さびしいよお。

 ねえ、ゆうなの、ぱぱになってくれない?


 眠っている優菜を抱えたまま、孝輔はうずくまっていた。泣いていた。……今のは、夢? いや……。花束を置いて手を合わせていたのは、まだ若い孝輔、だった。覚えがある。
父が命を落としたあの場所で、俺は冥福を祈った。父と、幼い女の子の、冥福を。
(……今のは、優菜の記憶なのか?)
 誰かが見つめている気配を感じた。見渡すと、禿げ頭の老人がじっと孝輔たちを見つめている。
(死神……!)
 老人は視線を外すと、ゆっくりと歩き出す。何歩か歩くと立ち止まり、孝輔を振り返った。
(ついて来い、と言っているのか?)
 見つめ返すと、老人はふわりっと笑った。その顔は、何事かをたくらんでいるようでもあり、もっと別の意味を含んでいるようでもある。
(……どうする?)
 逡巡した挙句、孝輔が一歩前に踏み出すと、老人もまた歩みはじめた。十メートルほど遅れ、孝輔は老人の背中だけを見て歩いた。街の景色が消え、孝輔はいつの間にか『肉体』が眠っている病室へと続く廊下に立っていた。
(いつの間に……)
 老人の姿は、どこにも見当たらない。

 病室の前に、義父と京の姿が見える。京は両手で顔を覆い、俯いていた。何を話しているのか。孝輔は、二人の傍に歩み寄った。

「……今後、孝輔くんは回復する見込みはないんだ、それなら……」
「いいえ、孝輔さんは生きています、私の声に、……私に、反応したんです!」
「京、わかってくれ、もう決まったことなのだよ」
「どうしても、孝輔さんを殺すんですか?」
「違う、孝輔くんに命を繋いでもらうのだ」
「いいえ、お父さんは間違っている」
と京は泣きはらした目で義父を睨みつけた。
「孝輔くんの、意思でもあるんだ」

 俺を、殺す? 俺の、意思? 話の内容が理解できない。

 そんなに、手前の体が懐かしいかい? それとも、カミさんの方かな? 背中から、皮肉な声が聞こえ、はっと孝輔は振り返った。水先案内人。
 ……余計なお世話だ、来たくて来たわけじゃない。
 ほう、と案内人は、例の険を含んだ笑みで、唇を曲げた。
 じゃあ、何でここへ来た?
 あのじいさんの、……死神の後を追いかけたら、いつの間にかここへ来ていた。
 案内人は、声を上げて笑った。
 何が、おかしい……!、と孝輔は声を荒げた。
 いやはや、彼奴《しにがみ》は、よっぽどあんたが気に入っているらしい、と案内人は孝輔の肩に手をかけた。孝輔は静かに、だが力強く案内人の手を振りほどいた。
 ――まあ、そうカリカリしなさんなよ。義理の親父とカミさんが、何を話していたか、教えてやるから。
 孝輔は黙ったまま、二人を振り返った。京は手で顔を覆ったまま、力なくうずくまっていた。義父は、静かに首を振った後、ゆっくりと病室に入っていく。
 お前さんの体の息の根を止めて、臓器移植に使うんだとさ。
 ……臓器、移植。
 孝輔は、案内人のにやけた顔に視線を戻した。
 人間どもは、なにやら理屈をつけたがるが、と案内人は言う。
 あそこにあるのは、機械を繋げて無理やり生きているように見せかけてるが、要するに単なる抜け殻でしかねえ。性質が悪いよな。蝉や蛇みてえにはいかねえって。
 案内人は、孝輔の耳元に口を寄せて、声を潜めてゆっくりと言った。
 お前さん、何だか夢見ていたみたいだが、すっかり抜け出てしまってるんだ、今更戻れねえよ。
 孝輔は、がっくりと膝をついた。戻れない、のか。もう、戻れないのか。
 それを見せつけて、お前さんを摂りたいだろうよ、死神の野郎は。
 案内人は、小さな息をついた。
 彼奴は、魂を喰らうために、こそこそと小細工しやがる、あの時だってそうさ。
 孝輔の脳裏に、自分が命を落とした時の光景が鮮やかに蘇った。そうだ、あの時、俺は死んだんだ。
 彼奴に喰われようが、俺の知ったことじゃねえが、お前さんにその気があるなら、俺があの世への道筋、つけてやってもいい、と案内人は、孝輔の隣りにしゃがんで、そっと肩を抱いてくる。孝輔は、決断した。
 わかった、……俺だけじゃなく、この子も……、と言いかけた時、抱きかかえていたはずの優菜の姿が消えている事に、孝輔は気付いた。
 ……優菜? 優菜は、どこだ?
 あわてて、辺りを見渡すと、孝輔は思いがけない光景を見た。廊下の隅にうずくまっている京の背中に、優菜がしがみついている。優菜……? 何をしている? 優菜は、京の耳元に唇を寄せて、しきりと何かを囁いていた。
 優菜……!
 孝輔が叫ぶと、優菜は弾かれたように京の背中から飛び降り、怯えたように孝輔を見上げた。
 どうした優菜、何していたんだ?
 なんでも、ない。
 孝輔は、優菜の許に歩み寄り、しゃがんで目線を合わせて、肩に手を置いた。優菜は孝輔の視線を避けるようにうつむいて、足をもじもじ動かしている。
 優菜?
 なんでもない、なんにも、してない。
 京が、ゆっくりと立ち上がった。その表情には、生気が、ない。化粧気もない顔が青白く、無気力な無表情で京は呪文のような言葉を呟くように唱えている。
「じゅ むれ あん でぃまんしゅ う じょれとろ すふぇーる、あろーる ちゅ るゔぃやんどら め じゅ すれ ぱるてぃ、で すぃえるじゅ ぶりゅるろん こむ あんなるだんてすぽわーる、え ぷーる とわ さん ぜふぉる め ずゅすろん とぅづぇると、ね ぱ ぷーる もなむーる すぃる ぬぷゔ とぅゔぉわーる、いる とぅ でぃろん く じゅ てめ ぷりゅ くま ゔ、そんぶる でぃまんしゅ」
 京はよろめきながら、一歩ずつ、ゆっくりと、歩き出す。
「そうだわ、孝輔さんだけを死なせたりしない。あなたひとりを、死なせはしない」
と京は唄うように呟いた。
「私も、逝くわ、孝輔さん」
 京? 何を言っているんだ? おい、京。

 ふいに、孝輔の手を跳ね除けて、優菜は案内人へと駆け寄った。案内人の陰に隠れるように、上目遣いで孝輔を睨んでいる。
 優菜。
 だって、ぱぱが、わるいんだもん、と優菜が叫んだ。
 ぱぱが、ぬけがらに、もどって、ゆうなを、また、ひとりぼっちに、するって。
 優菜、それは違う、俺は。
 ちがわないもん、もどりたいんでしょ。
 孝輔は呆然と、優菜を見つめた。……確かに、戻れるものなら戻りたいと思った。しかし。
 優菜、……おまえを、置いていけないよ。
 うそ!
 嘘じゃ、ない!
 ぱぱの、うそつき! ぬけがらに、もどるために、ここに、また、くる、って。おじいちゃんが、ゆったもん、と優菜は、ぼろぼろと涙をこぼして叫んだ。
 だから、ゆうな、……だから……。
 優菜、違う、ここにきたのは、死神の後を追って……、と言いかけて、孝輔は気付いた。死神、じゃない。案内人が、死神のふりをして、俺たちをここへ……。
 水先案内人が、ちっ、と舌打ちをした。
 ぱぱが、もどりたがるのは、おばちゃんの、せいだから、て。おばちゃんが、ゆうなの、ところに、くれば、ぱぱは、どこにも、いかないって。
 優菜は、声を上げて激しく泣いた。
 ……やれやれ、茶番がばれちまったわな、と案内人は呟いた。
 貴様、優菜に、何をさせた……!
 孝輔は、唇を噛んで、案内人を睨んだ。
 手前がこの世にしがみついてるのは、カミさんが恋しいからだろう? ……だから、カミさんを呼んでやっただけよ、と案内人は、悪びれもせず、にやにや笑った。カミさんと優菜の波長を合わせてやって、こっちに来るように、てさ。
 ――なんて、ことを。
 孝輔は、歯噛みした。
 優菜に、俺の娘に、そんな汚いことをさせるなんて、……貴様っ!
 京は、ゆっくりと孝輔に近づいてくる。だが、孝輔を見とめて近づいているのではなかった。京に、孝輔の姿が見えるはずはないのだ。京が目指しているのは、水先案内人、否、案内人が指し示す方向――死、だ。
 ……京! 止めろ、駄目だ、京!
 しかし、どんなに叫んでも届かない。孝輔には、京を留める術がない。頼む、止めてくれ! 京には手を出さないでくれ! と孝輔は懇願した。
 ふんっ、嫌なこった。
 何故だ? ……どうして、こんな……?
 気にくわねえんだよ、おめえらがっ! 案内人の顔に、凶悪な笑みがあふれた。おめえの親父も、おめえも、カミさんも、優菜もっ!
 案内人の怒声に優菜は泣き止み、……おじいちゃん? と後ずさる。
 どんなに汚したって、真ん中がぴんぴかで綺麗な魂は、反吐が出るんだっ。
 案内人の周囲に、どす黒い気が渦巻き始めた。
 わっ、うわっ……!
 優菜は怯えて固まってしまい、見開いたままの目から、涙をこぼしている。
 優菜っ、こっちに来い、パパの方へ来い、早くっ。
 孝輔は、優菜めがけて駆け寄り、手を伸ばす。
 ぱぱっ! と優菜も手を伸ばし、駆け寄ろうとしたが。
 激しい火花が散って、孝輔は跳ね飛ばされた。

 小柄な老人のなりをした案内人の体が、見る見る歪んで、倍以上に膨れ上がった。目は赤黒く光り、口は耳まで裂けて、生臭い息を吐いている。背中に黒い翼がのぞき、胸元には漆黒の穴が開いている。

 優菜っ! 孝輔は再び、優菜へと手を伸ばした。電撃の火花に打たれながらも、かろうじて踏みとどまり、小さな手を握ろうとした。
 ぱぱっ! 指先同士が、微かに触れ合ったかと思われた刹那。何かに押しつぶされたかのように、孝輔はくず折れた。その前を、京がゆっくりと、通り過ぎようとしていた。
 駄目だ、京っ、行くな。
 ぱぱぁっ!、と優菜の悲鳴が響く。邪悪な黒い化物と化した、案内人のごつごつした手に、優菜が捕らえられていた。
 いやあっ、ぱぱっ、たすけてっ!
 華奢な抵抗を試みる小さな体を、黒い手は、己が胸元――漆黒の穴へと近づける。
 まず、こいつから、喰らってやる。
 ぱぱぁっ、優菜が身を捩りながら必死で手を伸ばす。這いつくばって、孝輔が優菜へと手を伸ばした時、背後から、光の洪水が怒涛の如く押し寄せた。黒い化物が、唸りを上げて、怯む。振り返ると、光の中に、化物がかつて死神と呼んでいた老人の姿が見えた。老人は手にした杖を、床に突き立てる。その音が、タンッ、と辺りに響き渡った。
 京の歩みが、止まった。いきなり夢から冷めたかのように立ち尽くしたまま、呆然としている。同時に、孝輔の『肉体』が横たわる病室が、俄かに騒がしくなった。京は、はっと病室を振り返った。
「孝輔さん……」
 京は、目を赤くして病室へと駆け込んだ。……『肉体』が、完全に死んだのに違いない、と孝輔は思った。これで、いいんだ。孝輔は、胸の中がむしろさばさばと、軽くなっていくのを感じた。光の洪水は、衰えない。孝輔は、光の眩しさ、清清しさに、優菜を握ったまま、たじろいでいる化物の手元に必死に喰らいついた。
 ぱぱっ! 黒い手の中から優菜を引きずり出し、抱きしめる。優菜……! もたもたしている暇はない。孝輔は、優菜を抱え、化物の手元から逃れようとした。
 が、化物は咆哮を上げ、孝輔をその手に捕らえた。もがいたが、孝輔は優菜を抱いたまま、黒い手にきっちりと握られていた。そのまま、漆黒の穴へと、誘われる。
 わわわっ! と優菜が、絶望的な悲鳴を発した。孝輔の下肢が、穴へと引きずり込まれる。体が千切れそうな吸引力に、孝輔は思わず、苦悶の声を上げた。
 闇の中で、我が糧となれ!
 孝輔は、しがみついていた優菜を、手に抱え、放り投げようと試みる。が、優菜は孝輔の手にかじりついて、離れようとしない。
 優菜、逃げろ! パパから、離れるんだ!
 いやあ、いやだあ、ぱぱっ!
 孝輔のあがきも空しく、優菜はぐいぐいと孝輔の胸にしがみついてしまう。優菜ともども、ずるっ、と、さらに穴の中に引きずり込まれた。
 あああああっ。優菜が、苦痛に叫ぶ。
 光に包まれた老人が、杖を揮って、化物を打ちつけた。
 馬鹿めが! 貴様に何が出来る? 俺は、無敵だ。
 化物が、太い腕を振り回した。老人は、かろうじて掻い潜って、後退する。
 こいつらは、もらった。
 黒い手が、孝輔を完全に穴の中へ押し込もうとしていた。孝輔は、しがみつく優菜の体を引き離して、穴の外へ押し出そうとしたが無駄だった。胸元まで飲み込まれ、貧血でも起こしたように、体からも緩慢に力が抜けていった。気力も、萎えていく。
 黒い手の指先が、孝輔の手に触れた。……ぱぱっ、と優菜が苦しげな声をあげる。
 優菜、パパが必ず助ける、だから、離れるな。
 うああっ。孝輔は叫びながら、指先を渾身の力を込め、両腕に抱えた。
 馬鹿っ、手を離せ、離せっ。にわかに、化物が慌てだす。孝輔は、力を緩めることなく、化け物の指を抱え続けた。両腕が、ぶるぶると震えてくる。力が抜けそうになり、孝輔は指に噛み付きさえした。
 一気に穴の中に飲み込まれた。穴の中は、ひどく息苦しく、押しつぶされるような圧迫感が激しかった。しかし、孝輔は指を離さなかった。昏い、黒い空間の奥へと、吸い込まれ、落ちていく。体中からどんどん力が抜けていく。
 優菜がぐったりとして、孝輔の胸から剥がれ落ちそうになった。何とか抱きとめたが、その拍子に、孝輔は化物の指を離してしまった。

 ……おしまいだ。

 そう思いながら見上げると、奇妙な物体が孝輔の視界に映った。ねじれた、得体の知れない、何か。……腕、頭、……足、……胴体? 歪んだボールのように、一塊になったものが、唸りを上げて落ちてくる。
 あの、化物、だ。一瞬、追いかけてきたのか、と思った。だが、違った。化物は、裏っかえしになって、ねじれ、すえた肉の塊みたいになっている。指だ、と孝輔は思った。
 化物の指を、孝輔が穴の中へ引きずり込んだので、化物自身が己が漆黒の穴の中に吸い込まれたに違いなかった。

 をををををっ……!

 恐ろしい断末魔の声を発して、化物は孝輔たちの傍らを急速に通過し、穴の奥で圧縮されていった。豆粒ほどの大きさになったそれは、さらに圧縮され、ふっと消滅した。

 次は、俺たちの番か……?

 全身に、猛烈な圧力を感じていた。もしかしたら、これが、地獄の責め苦、なのかもしれない、と孝輔はぼんやり思った。優菜だけでも、なんとか助けたい。……が、孝輔は、無力だった。

 せめて、最期まで、いっしょに。

 無理やり丸められて、握られているような、こらえようのない苦痛。もう、声も、出ない。ほとんど力の入らない腕で、優菜を抱えた。
 その瞬間突如、闇が弾けた。猛烈な勢いで、光が噴出し、上昇し、拡散して渦を巻く。孝輔は、渦に巻かれながら、暗黒の世界から押し上げられた。


 視界も、意識も、朦朧としている。
 ぼんやりと、天井が見えた。

 病院の廊下に、孝輔はぐったりと横たわっていた。胸の上では、優菜が同じくぐったりと目を閉じている。なんとか、戻ってこられたらしい。しかし、体に力が入らなかった。あの黒い闇の中で、エネルギーをほとんど吸い取られてしまったのか。妙に、眠い。
 光に包まれた老人が、優しげな眼差しで孝輔を見つめていた。あなたは、誰ですか? と尋ねようとしたが、声が出ない。しかし、老人には、伝わったようだった。

 わたしは、水先案内人。

 そうか、と孝輔は思った。この人が、本当の水先案内人で、あの化物こそが死神だったのだ。

 あれも、哀れな魂なのだ、真の水先案内人は告げた。
 それ故か、恨みや憎しみの念が取り付いて、悪しき者と変わり果てた。人間が、悪魔とか悪霊とか、死神と呼ぶ、邪悪な存在へと成り下がってしまった。我らはどうしても、あれをあるべき道筋へと導くことが、できなかった。あれは、昏い魂を喜び、綺麗な魂を憎む、と水先案内人は優菜の髪を撫でた。
 かつて、この娘の母親をそそのかし、昏い魂に変じしめ、この子の生を奪った。あろうことか、あなたの父君の生までも、奪った。二人ともども、綺麗な魂であった故に、理不尽に憎まれた。わたしは、あなたの父君を魂の道へと導いたものの、昏い染みのできたこの子を連れて行くことができなかった。
 そして、あなただ、と水先案内人は、瞑目した。

 あの時、守りきれなかった。
 いいのです、もう。
 しかし、悪しき者は、虚空に戻った、鳴海孝輔、あなたのおかげだ。

 孝輔は、微笑んだ。
 俺は、何もしていません、ただ妻とこの子を、守りたかった。
 父君ゆずりの、魂だ、あなたは。

 孝輔は、そっと優菜の髪と背中を撫でた。心なしか、その姿が、透き通っているように思われる。そして、自分の体も。

 優菜は、これからどうなるのですか?
 まもなく、虚空に還る、と水先案内人は答えた。
 ……消えてなくなるのですか?
 水先案内人は、答えずにふと天を仰いだ。

 孝輔は、意識が次第に希薄になっていくのを感じていた。
 俺も、消えるのですね、完全に死ぬんだ。

 わたしは、生を指し示すもの。死は生のほんの一部にしか過ぎない。虚空は、万物の源、生まれ出ずるところにして、還り眠るところ。

 水先案内人の声が、途切れた。

 朦朧と、途轍もなく、眠かった。もうまもなく、俺は消えてしまうに違いない。俺はそれで、かまわない。……でも。

 孝輔は、祈った。

 お願いがあります。

 どうか、妻が、――京がこの先俺がいなくても、幸福でいられるように、見守ってください。
 どうか、優菜に、……この子に、今、新しい生を与えてあげてください、両親に愛され、周囲の人々に愛される、幸福な生を。
 そして、優菜の頬に触れる。

 ごめん、優菜。俺は、本当にお前のパパになりたかった。ずっと、ずっと、いっしょにいたかった。

 そして、京の笑顔を思い出す。
 ごめん、京。俺の分も、きっと、幸せになって。

 その時、水先案内人が厳かに告げた。
 鳴海孝輔、あなたの願いはひとつだけ、叶えられる。

 鳥が羽ばたくような音がした。優菜の背中に、翼が生えたのだ。優菜は、天使になって、やがて新しい生を生きる。

 ああ、神様。孝輔は、呟くように言って、目を閉じる。父と母の姿が浮かんだ。父さん、母さん、俺ももうすぐ。

 あとひとつの願いの答えは、鳴海孝輔、すでにあなた自身の手の中にある。
 清く気高く勇気ある魂、鳴海孝輔よ、未だ『見ず未来《さき》』を導き申し奉る。

 水先――『見ず未来』案内人の声が、広大な時空に響いた。

 あなたの母君は病み《闇》と闘い抜くことで、清み浄められ、天上界にあらせられる。
 あなたの父君は幽鬼に勇気で立ち向かわれて、清み浄められ、天上界にあらせられる。

 あなたは、絆を編み愛深く生きるもの。妻・京もまた、同じい目標《さだめ》をともに来てともに行く双生の魂。これほどふさわしい者はない。

 父と母が、『見ず未来』案内人の両隣に立ち、優しく微笑む。

 鳴海孝輔よ。

 杖が地を突く、ターンッ、という音が、響き渡る。



        生きろ。



********************



 娘が、おにぎりを頬張っている姿を見つめていた。公園の噴水で、さんざんはしゃいで水遊びをしたせいか、よく食べる。
「おいしいか?」
「うん、おいしい! ままのうめぼし、さいこー!」
 子供なら、鮭とか海老マヨとかたらことかが具のおにぎりを好みそうな(俺はそうだった)ものなのに、娘は、妻手作りの梅干のおにぎりが大好物なのだ。酸っぱそうに顔をしかめるくせに、わしわしと頬張るのが面白く、見ていて飽きない。
 と目の前に、タコさんウインナーを二つ串刺しにしたフォークが出現する。
「ねえ、みょーがのぬかづけと、こうかん」
「ええッ、さっき換えたばかりじゃん?」
 娘は漬物も大好きだ。俺の好物茗荷の糠漬けを理不尽に食らうので、取り替えっこを教えたのだが。
「ああ、だめだよ、きゅうり食べな」
「やーん、みょーが、みょーが」
と結局、あるだけ取られた。
「まま、むぎちゃ、ちゅうだい」
「はいはい、むせないように、ゆっくり飲むのよ」
 しかし娘は、妻が水筒からコップに注いだのを渡すと、ごくごく喉を鳴らして飲んだ。そしてレジャーシートの上に、とん、とコップを置き、唇を手の甲で拭い、くしゃっと笑いながら言った。
「……あーっ、うまいっ」
「まあ、パパ、そっくり!」
と妻も笑う。俺がビールを飲んだ時の口癖を、そのまま真似ているらしい。そんなに似ているか? 二本目の缶ビールを開けて、喉に流し込んだ。とん、と缶を置き、唇を手の甲で拭って、思わず笑みが湧き上がるのを感じながら、
「……あーっ、旨いっ」
「……あーっ、うまいっ」
娘の声が俺の声に見事に重なって、妻が手を叩いた。三人で、笑い転げた。



 こうして、妻と娘と笑い合えることが、かけがえのない幸せだと思う。

 娘が生まれる前、俺は交通事故に巻き込まれて、瀕死の重傷を負った。事故にあった日は、結婚記念日で、外で妻と食事をする約束をしていた。その待ち合わせ場所、妻の目の前で起こった事故だった。
 事故のことはおろか、その日一日何があったのかすら記憶にない。頭の怪我が著しく、手の施しようがない、と言われたらしい。妻が医者に訴えて、かろうじて命は取り留めたが、脳死状態と診断されたそうだ。
 が、三ヵ月後、意識を取り戻した。折りしも、俺が定期入れに忍ばせていた臓器提供意思カードに則って、俺の意思を生かそうと義父――妻の父が手配を仕切っていたところで、翌日には肝臓と心臓の摘出が行われる予定を前に、奇跡的な覚醒だった。

 妻のお腹の中には、何と赤ちゃんが宿っていた。俺は結婚十年目にして、ようやく父親になるのだと知り、一日も早く元気になろうと心に誓った。


 娘が産まれた日は、不思議なことがあった。
 今まさに産まれようとした時、俺はあどけないお礼の声を聞いた。
(ぱぱ、ありがとう)

 妻も、声を聞いたという。
(まま、はじめまして)

 そして、妻と握り合った手の上に、白い羽根が舞い降りた。

 この子は、天使が連れてきてくれたのかもしれない、と語り合った。その羽根は、娘の成長アルバムの一番最初のページに、貼り付けてある。

 真新しい産着に包まれた、小さな体を抱いた時、娘は微笑んだ。生まれてすぐには、赤ちゃんは笑わない、というが、微笑んでいたと思う。

 娘に、『優菜』と、名づけた。



「ぱぱ、あれ、なあに?」
 優菜が、木の幹を指差した。
「お、蝉の抜け殻だ、久しぶりにみるなあ」
「あら、ホント、よく見つけたわね」
と京が優菜の肩を抱いた。孝輔は、優菜の指差した抜け殻を丁寧に摘み取った。そして優菜の掌に、そっとのせる。
「せみさんの、ぬけがら?」
と優菜は首を傾げる。
「蝉さんが大人になる時、今まで着ていた殻から、えいって抜け出すのさ」
「えい、えい、て、でてくるの?」
と優菜は目を丸くした。
「せみさん、えらいね、えい、えい、て」
 ふいに、ふわぁ、とあくびをして、優菜が、ぱぱぁ、と甘ったれた声を出す。
「眠くなっちゃったかな?」と京が言うと、うん、と怠そうに頷いた。
「抱っことおんぶ、どっち?」
と孝輔は訊いた。
「おんぶ」
 しゃがんだ孝輔の背中にしがみつくなり、優菜はもう寝息を立てていた。
「赤ちゃんの頃と同じ顔して寝てるわ」
と京が笑った。
「写真撮って」
と孝輔も笑った。
 じゃあ、と京は孝輔の背中の優菜に頬を寄せた。カメラを高く掲げて、シャッターを押す。笑う孝輔と京の間でうっすら笑んで眠っている優菜。一発で、見事に3ショット、成功だった。
「これプリントして、アルバムに入れましょうね」
「スマホの壁紙にしようかな」
「それいい、わたしもそうしよう」
と京は目を輝かせた。


 生まれたばかりの頃は、あんなに軽かった体が、こんなに重くなって。優菜。俺たちのところへ、来てくれて、ありがとう。
 今度は君も一緒に迎えるんだ。京の――ママのお腹に居る赤ちゃんを。楽しみだね。優菜がお姉ちゃんになる日。


 そんな心の声を聞いていた、やんちゃそうな天使は、ほんのりと笑って、孝輔と京、優菜一家の後をまとわり付くように飛んでいた。



(『天使の羽根』了)



written
:2010.7.26.ー7.29.

rewritten
:2017.3.26.ー4.21./07.13.〜20.


**

記念日

2017-07-13 18:00:00 | tale
        記念日


 遠くで、サイレンが鳴っている。救急車のサイレンだ。鳴海孝輔《なるみこうすけ》はふと足を止め、眉をひそめた。救急車のサイレンは、嫌いだ。得体の知れない何者かに、大切なものを奪われる気がしてしまう。
 母親も父親も、あのサイレンの音を聞いた後、孝輔の前から姿を消した。母は急病、父は不慮の事故、だった。母を失くしたのは、六歳の頃か。父が亡くなった時は、孝輔の大学卒業の前日だった。
(不吉な……)
 孝輔は、額の汗を手で拭い、うつむいて顔を振った。……縁起でもない。何を考えているんだ、俺は。あれから、何度サイレンの音を聞いた? そして、何か不幸なことがあったのか? ――何もなかったではないか! 孝輔は大きな溜め息をつき、ゆっくり歩きはじめた。


 その日は、孝輔にとって一〇回目の結婚記念日だった。たまには外で食事をしよう、と告げた時の、妻の嬉しそうな表情。妻・京《みやこ》の笑顔は、孝輔の心をほこほこと温める。
 彼女との出逢いは、見合いだった。取引先の常務が、孝輔には食事会だと偽って、末娘の京と引き合わせたのだ。その時は見合いだと、孝輔は気付かなかった。常務とは、一、二度しか顔を合わせた事がない。しかも初対面の京は、どこで見初めたのか、すでに孝輔へ好意を寄せているらしかった。
 当の孝輔は、三流大学出身。就職もなかなか決まらず、やっと入社した零細電子機器メーカーで一番年下の、冴えない営業マンだった。

 何故?、と思っていた。思っているうちに、話だけがどんどん先に進んでいった。見合いからひと月後に、孝輔は常務の会社に引き抜かれた。週に一、二度、会社帰りに京と待ち合わせ、デートも重ねた。そして半年後には、京との婚約が整い、さらに半年後に結婚した。

 仕事は苦しかった。
 義父となった常務に容赦なく叩かれ、生え抜きの同僚たちにはやっかまれた。救いは、妻となった京の存在、だけだった。
 結婚するまで、好きか嫌いかすら、わからなかった。新婚家庭は孝輔にとって、疲れきって寝に帰るだけの場所でしかなかった。京は、そんな孝輔に献身的に尽くす、慎ましい新妻だった。それに気付いた時から、孝輔の中に愛が芽生えた、と言っていい。
 京に支えられて、孝輔は仕事でも頭角を現し一気にその実力を開花させた。
 今や、三〇代の若さで部長職に上りつめた孝輔は、多忙を極めている。去年も一昨年も、仕事のため、まともに結婚記念日を祝うことが出来なかった。なのに、京は愚痴一つもこぼすことはない。むしろ、気遣われる。
「孝輔さん、無理しなくてもいいのよ」
 今朝も今朝とて、孝輔は、京から心配顔で言われた。三ヶ月前から、今夜のためにスケジュールを遣り繰りしたのだ。今日は遅れることなく、京を喜ばせてやれる。
「大丈夫だよ、今年は節目なんだから」
 そう答えると、京は出会った頃そのままの初々しさで頬を染め、笑みを深くする。それが可愛過ぎ、 行ってきますのキスが熱を帯びた。
「……孝輔さん、てば」
 呼吸弾ませてキスを繰り返した身体を離すと、京はあのほっこりした満面の笑みで、
「行ってらっしゃいませ、何卒お気をつけて」
 といつものように三指をついて深々と一礼した。


 救急車のサイレンが、次第に近づいてくる。音階が、孝輔の神経を逆撫でした。

 シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。
 死相、死相、死相……。

 まさか、京に、何かあったら。冗談じゃない、そんなことがあったら、俺は世界中を呪ってやる。

 シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。
 死相、死相、死相……。

 若いカップルとすれ違った。一八〇センチ以上はありそうな逞しい男と、小柄で細い黒ずくめの女だ。
「ふふふっ、それって嫌ですよね、マジで嫌だ」
 媚を含んだ、幼さの抜けない声で、男を見上げた女が笑っている。
 当たり前だ、嫌に決まっているだろう、京に何かあるなんて。
(……いや、俺はさっきから何を考えているんだ?)
 孝輔は、歩きながらネクタイを緩めた。首筋に浮いた汗を、ハンカチで拭う。いったいどうしたんだ? 俺は、何をそんなに神経質になっている?
 昼食時の些細な――そして不可解な出来事が脳裏をよぎった。

 午前中、取引先へ商談に出向いた帰り、孝輔は早めに昼食を済ませようと思った。贔屓にしている定食屋を覗いた。混んでいるらしく、店の前に行列が出来ている。最近行きつけになった蕎麦屋も同じだった。

 結婚以来、通うこともなくなった、牛丼のチェーン店が空いていた。孝輔は何気なくその店に入った。牛丼・サラダセットを頼むと、一分と経たずに運ばれてきた。
 生野菜サラダを口に運んだ時、カウンターの向かい側にいる老人と眼が合った。取り立てて特徴のある風貌ではない。一見、品のよさそうな小作りな老人である。孝輔を見つめたまま、ゆっくりとした動作で、もそもそと牛丼を食べている。孝輔は、目を逸らして牛丼を頬張った。続けて、味噌汁を啜る。
 顔を上げると、老人はまだ孝輔を見つめていた。にやにやと笑っている。その笑い方が意味ありげに険を含んでいて、孝輔の癇に障った。
 老人の隣りには、孫なのか、三、四歳くらいの幼女が座っている。前に置かれた、小皿に取り分けた牛丼は、老人が与えたものか。
 が、彼女は食べてはおらず、ただ老人の隣りにつくねんと座っていた。無表情で、孝輔を見つめている。

 嫌な感じがした。
 丼をカウンターにおいて、孝輔は老人たちを見つめ返した。老人も幼女も、孝輔の視線を受け流すように目を逸らした。老人は黙々と牛丼を口に運び、幼女は水を飲んでいる。その後彼らは、孝輔を一瞥だにしなかった。
(気のせいか)
 そう思いながら孝輔も、黙々と食事を再開し、食べ終えた。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
 カウンターから出口に向かう時、孝輔は老人と幼女を一瞥した。彼らは、孝輔に何の注意も払っていなかった。つい先刻、見つめていたこと自体がなかったかのように。
(やっぱり、気のせいか)
 自動ドアが開いた時、ふいに幼い声が聞こえた。

 …………れる?

 何と言ったのかは、はっきりとはわからない。ただ、反射的に孝輔は振り返った。幼女と眼が合う。
 ぞっとするような無表情が、すうっと笑顔に変わる。無邪気な笑顔だった。
 それが、ひどく恐ろしかった。背筋に冷たい汗が流れ、鳥肌立つ思いがしながら、孝輔は店を出た。

 あれは、何だったのだろう。
 あの老人は。
 幼い女の子は。

 彼女は、何を言ったのか。

 何も、わからない。


 サイレンの音は止まない。

 シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。
 死相。

 勘弁してくれよ、と孝輔は思った。ドレミで聞くから、不吉な連想をするのだ。ドイツ語読みにしたら、どうだ? シはH(ハー)、ソはG(ゲー)。

 H、G、H、G、H、G……
 ハー、ゲー、ハー、ゲー、ハー、ゲー……。

(禿げ、か)
 これはこれで、不吉か。生え際の後退を実感しつつある孝輔は、苦笑した。が、この連想で、思考の連鎖が止み、孝輔の神経は弛緩した。
 大通りに出て、右に曲がり、交差点に向かう。京との待ち合わせ場所は、喫茶店「パヴァーヌ」。そこは、京とのデートの待ち合わせ場所だった。京は、いつも店の前で孝輔を待っていた。
「店に入って待っていればいいのに」
 そう言うと、京はこう答えた。
「だって、孝輔さんに悪いもの」
 ……その時は、ちょっと面倒くさい女なのかな、と思った。今は、彼女のそんな気遣いが、身にしみるほどありがたい。きっと、今日も店の前に立って待っているに違いない。孝輔の歩調は、弾んで早まった。

 救急車のサイレン。
 H、G、H、G、H、G……。

 交差点の手前で、突然、目の前に禿げ頭が出現した。孝輔は慌てて立ち止まった。足元が頼りなさそうな、痩せた老人だった。あと少し孝輔が気付くのが遅かったら、まともに衝突して老人に怪我を負わせたかもしれない。
 安堵しながらも、否、安堵したからこそ、少し腹が立った。
 が、禿げ頭の老人は、孝輔に何ら斟酌することなく、通りの向こう側を見つめて何事か呟いている。

 どうして、店の中で待っていないんだ?

 はっとして、孝輔は交差点の向こう側に眼を凝らした。パヴァーヌの前に、薄桃色のワンピース姿の、京の姿が見えた。
 同時に、そのすぐ後ろにいる、品のよさそうな老人と、幼女の姿も。
(京……!)
 不吉な思いが、孝輔の中で急速に膨らみ、弾けた。孝輔は、走った。京! と叫んでいた。
 信号の青色が、点滅している。かまわず、孝輔は交差点に向かった。京は笑顔を浮かべ、小さく手を振る。救急車のサイレンが、すぐ近くに迫っていた。

 H、G、H、G、H、G……。
 シ、ソ、シ、ソ、シ、ソ……。

 救急車、直進します、救急車、直進します。アナウンスが、響く。
 孝輔の視線の先にある、京の笑顔がふいに激しく歪んだ。老人と幼女が、険のある笑顔を浮かべている。
「京、逃げろ!」
 孝輔は叫んで、横断歩道へと走り出た。サイレンの音と、急ブレーキの音が交差して、交差点の喧騒をかき消した。


 横断歩道を渡りきった先で、孝輔は立ちすくんでいた。悲鳴とざわめきが、うねっている。
 目の前で、大型トレーラーが横転していた。その先で、形の歪んだ救急車が煙を上げている。……赤信号を直進してきた救急車に、大型トレーラーがまともに突っ込んだのだ。残骸と化している二つの車体は、パヴァーヌのわずか手前で止まっていた。
(京、は?)
 孝輔は、ふらついた足取りで前に進んだ。女子高校生がふたり、両手を口に当てて泣き叫んでいる。
「嫌ぁ、嫌だぁー、何でよぉ、こんなの、嫌だぁー!」
「ぐちゃっ、て、いった、ぐちゃっ、て、音がしたよぉ!」
 若いサラリーマンが数人、ふたりの前に立ちはだかって、惨状を見せまいとしていた。

 まさか。
 まさか、京が。

「あー、マジ、ぐっちゃぐちゃ、じゃん」
「すげえ、すげえよ、まじヤバい、っしょ」
 鼻ピアスをした茶髪の痩せた男と、でっぷり太った黒ぶちの眼鏡の脂ぎった男が、携帯で写真を取り続けていた。ふたりとも、どす黒い笑顔で興奮しきっている。
「超スクープ、売れるかもよ!」
「俺、即ブログにアゲる!」
 馬鹿野郎、何を考えているんだ。どっと怒りが込み上げた。
(京……?)
 回りこんで、孝輔はパヴァーヌの前へと出る。座り込んだ放心状態の京の姿がそこにあった。
(京……!)
 孝輔が歩み寄ろうとした瞬間、京は悲鳴を上げた。

 嫌あああっ、孝輔さん!

 京、俺はここだ!
 孝輔は叫んだが。

 京は這い蹲るように、二つの車体が接した部分へと身を動かした。孝輔は、再び立ちすくんだ。二つの車体の間に挟まれて、ぐったりとしている男の姿。ねっとりとした血にまみれた頭が歪んでいる。

 孝輔さん、孝輔さん、嫌、孝輔さん、返事してぇ、嫌、嫌だあ!

 京はワンピースを血に染めて、男の割れた頭を押さえて半狂乱となっていた。

 助けて、誰か、助けてえ、……救急車、呼んで、早く、早くっ!

 叫びながら京が、ワンピースの裾を引き千切り、包帯代わりに巻いている。

 孝輔さんが死んじゃう、嫌、嫌、嫌あああああっ、孝輔さん、孝輔さんが死んじゃうよおおおっ!

 孝輔は戸惑いながら、泣き叫んでいる京を抱きすくめようとした。……出来なかった。何故? 再度、京を抱こうとしたが、腕が京の体をすり抜けてしまう。
 何故? 男の姿に、眼が止まる。
 男の着ているスーツは、孝輔のお気に入りのものだった。転がっているビジネスバッグも、孝輔愛用のものだ。血まみれの顔が、鏡で見る自分の顔によく似ている気がした。

 嘘だろう、そんなはずはない。
 俺はここにいるじゃないか。

 じゃあ、これは誰なんだ?
 これは、俺なのか?

 俺は、……俺は、死んだのか?
 死んで、しまったのか?


 血は争えないねぇ。

 しわがれた声が、耳元に吐きかけられる。はっと振り返ると、牛丼屋で見かけた、あの老人だった。傍らには嬉しそうな笑顔の幼女が立っている。

 君たちは、誰だ?

 老人は、その問いには答えずに、例の意味ありげな笑みを浮かべた。

 あんたは、関係なかったのに、さ。

 意味がわからない。

 ぱぱ。

 幼女が跳ねるように飛びついてくる。

 パパだって? 俺には、こんな子供は、いない。

 でも、まあ、あんたが選んじまったんだからな。

 老人は、にやにやと嗤いながら、事故の現場を振り返った。選んじまった? 意味が、わからない。

 あんたの親父さん、事故で死んだだろ。あん時と、おんなじだ。

 老人は、目を細めて遠くを見つめた。

 父の死と、同じ?

 そう、あんたの家の近くにあった、マンションの前だった。

 そうだった、自宅近くのマンションの前で、父は事故に遭った。マンションの一〇階から、女の子が転落してきて、運悪く、下を通りかかった父を直撃したのだ。父だけでなく、転落した女の子も助からなかった、と後で聞いた。

 運悪く、直撃したんじゃない。受け止めようとしたのさ、あんたの親父さんは。

 老人は、ため息をついた。

 どっちにしろ、その娘っ子は寿命だった。可愛そうに、母親にさんざん苛められていてさ。あの日、窓から投げ落とされた。そういう生まれつきだから、しょうがないんだがね。だが、あんたの親父さんは、寿命が尽きるにはまだまだ、だった。しかし、落ちてくる娘っ子を受け止めることを、選んじまったのさ。受け止めて助けられるはずはない、とわかっていたはずなんだがね。

 目眩がした。
 ふと、幼女に目が止まる。

 もしかして、転落―いや、投げ落とされた女の子とは……。

 まま、きらい。

 幼女が笑顔を消して、救急車を振り返った。
 彼女の体が、ふうっと揺らいで歪んだ。
 手足が不自然な方向に曲がり、目を見開いたまま、舗道に叩きつけられた姿。

 だから、ままも、ゆうなみたいに、なればいい。

 優菜というのさ、生きていた頃の名前はね。今じゃ、戒名もない、迷える魂だ。

 老人はまた、目を細めた。

 母親は、ひどい女だったね。なのに、寿命はしこたま永いときている。だから、手を貸してやる気になった。

 手を貸してやるって……?

 孝輔は、唾を飲み込んで、恐る恐る老人に尋ねた。

 その救急車には、母親が乗っていた。なに、ちょっとした病気だ、たいしたことはない。だが、つけこむには絶好の機会だった。

 目も前の事故現場には、パトカーや新たな救急車、レスキュー隊が到着していた。

 ちょっと、待て。母親を事故で殺すために、こんな大きな事故が起きる様に細工したのか? 大勢の人が巻き込まれるような。

 巻き込んじゃ、いない。勝手に飛び込んだあんた以外は。

 老人は、例の険のある笑みを片頬に浮かべた。

 よく見てみなよ。

 老人に言われて、孝輔ははじめて気付いた。トレーラーの運転手らしき男。救急隊員たち。誰もが、わずかな傷は負っているものの、自力で立って歩いていた。

 が、ひしゃげた救急車の中から最後に運び出された女性は……。
 ぐにゃりとしていて、すでに息が絶えているのは明らかだった。

 そして、京。
 トレーラーと救急車の間から引き出された孝輔にすがって、泣き続けている。

 あんたのカミさんは、最初っから巻き込まれることはなかったのに。だが、あんたが自分から勝手に突っ込んできて。
 結果、あんたが死んで、巻き込んだ形になっちまった。

 そんな……、俺は、ただ京を守りたくて。

 カミさんが危ないなんて勝手に思い込んだのは、あんただ。

 老人は、事も無げに言った。

 しかも、死神にのせられやがって、さ。

 死に、神……?

 ほれ、あんたの前に飛び出しただろう、禿げ頭のじじいが。

 孝輔の脳裏に、あの足元のおぼつかない老人の声が蘇った。
 どうして、店の中で待っていないんだ?

 孝輔は、咆哮した。

 嘘だ! そんなの、嘘だ! お前たち、みんなグルだろう?

 孝輔はがっくりと膝を追って、うずくまった。

 ぱぱ、泣かないで。ゆうなが、いっしょにいるよ。

 幼女がしゃがんで、孝輔の頭を撫でた。

 パパって……、どういうことだ。

 あんたが、選んだんだろう。自分から絡んできて、この子に約束したじゃないか。

 老人も幼女の隣りにしゃがんで、孝輔を見つめた。

 あんたも、親父さん同様、この子と波長が合っているんだろうな。
 ついでに、オレさまとも。

 老人は、鼻で笑った。

 牛丼屋で、絡んできたじゃないか。帰り際に約束したのを、忘れたのかい?

 約束?

 孝輔は、帰り際の幼女の声を、思い出した。
 …………れる?
 しかし、それは殆ど聞き取れなかった。ただ声が聞こえたから、つい振り返っただけで。

 ゆうなの、ぱぱに、なってくれる?ってゆったよ。

 幼女は、あどけなく答えた。

 そして、あんたはこの子に頷いた。

 老人が、止めを刺すように言った。
 孝輔は絶句した。

 こいつらは、この世の住人では、ない。何を言っても、通じない……!

 涙が、こぼれた。

 どうして? どうして、俺はこんな目に合うんだ? 大切な、結婚記念日なのに、何でこんなことに。

 ゆうなも、きょうは、きねんび、だよ。ままに、しかえしした、きねんび。

 幼女は、嬉しそうに笑った。
 その顔を、孝輔は呆然と見つめていた。

 ……孝輔さん、孝輔さん、……いやあああっ! 京の泣き叫ぶ声が、遠くで聞こえた。ああ。京。みやこ……!

 だいじょぶ、あのひと、じゅみょう、ながいし。

 幼女は、ぴょんと立ち上がって投げ捨てるように言った。

 さて、と。オレの役目も、ここまでだ。

 老人もむっくりと立ち上がる。

 待て。待ってくれ、俺は、まだ死にたくない。

 孝輔は、身を起こすと老人にすがった。

 あんた、この子に手を貸したって言っていただろう。俺にも手を貸してくれ。まだ、俺は死にたくない。

 あんた、何か勘違いしているね。

 老人は唇を曲げて、言い捨てた。

 オレは、ただの水先案内人だ。死を指し示すことは出来ても、生を指し示すことなんてできねえ。

 おい、そんな勝手なことを言わないでくれ。

 なおもすがる孝輔を、老人は意外にも力強く突き放した。

 勝手なことを言っているのは、あんただ。あんたにできることは、もうたったひとつだけだ。いい加減、覚悟しなよ。

 老人の姿が緩やかに透き通っていく。
 そして、光の粒と化し、天に昇っていった。

 孝輔は、幼女と取り残された。幼女の小さな手が、孝輔の手を取る。

 きねんび、ふえた。

 幼い声が弾んでいる。

 記念日?

 そう、ぱぱが、できたきねんび。……ゆうなが、ずっといっしょに、いてあげるから。

 孝輔は呆然とした思いのまま、事故現場を振り返った。もう、京の姿はなかった。

 じゃあ、いこう、ぱぱっ。

 孝輔は無気力に、幼女に尋ね返した。

 行くって……、どこへ?

 おじいちゃんが、ゆってたの。あかるい、ほうこうに、いけばいいって。

 そう言って、幼女は指差した方向は。かすかに光ってはいるものの。なにやら揺らめいていて、少しも明るい方向には、みえない。

 もどれるところは、どこにも、ないよ。

 幼女は、あどけなく笑って、言った。

 さあ、ぱぱ、いっしょにいこう。

 孝輔は、幼女――いや、今や養女となった優菜と手を繋いだまま、呆然と空を仰いだ。



written
:2010.07.??.〜25.

rewritten
:2017.03.20.〜24./07.10.〜07.19.


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