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詩と物語を紡ぎます

文旦

2017-11-29 21:15:00 | monologue


   文旦

とある路地裏でたわわに実をつけた柑橘の樹と出逢った。暇を見つけて調べると、どうやら文旦というらしい。高知の特産品とか。

デコポンやキンカンは食べたことがあるが、文旦は未知の果実だ。(ふーむ、どんな味わいかな?)となおも調べると意外な事実に行き当たった。



南国特産・ボンタンアメ。大学生の頃ハマっていた飴菓子である。九州・鹿児島では文旦をボンタンと呼ぶそうで、ボンタンアメとは文旦の飴だったのだ。

俄に食感と味が甦る。求肥の弾力満ちた食感と、甘味酸味のバランスも上品な風味。

わたしは文旦の味を知らないながらに知っている、という不思議をも味わう。

当時は駅のキオスク(現在、ニューデイズ)で買えたのだが、今も売っているのかな?


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2017/11/29
22:15 pm
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復活

2017-11-06 17:40:00 | monologue
   復活

昨日、コンビニでレジ待ちしている時、大量にぶら下がっている百円の『老眼鏡』を何気なく眺めていて、不意にひらめいた。

それは、鼻頭に当たる部品が折れて、使い物にならぬまま二年かそこら、放ったらかしにしていたメガネ、のこと。

レンズの度はほとんど外れていないので、何とかならないか、と思っていたのだ。

早速一個買って帰り、レンズを入れ替えてみる。何と、ほぼ誂えたように、レンズはフレームに嵌った。



どうでしょう?

おもちゃのメガネじみてはいるのだけれど、かけ心地も見た目もそう悪くはない。何より99.9%プラスチック製で、金属かぶれの心配もいらない。

百円でメガネが復活し、ほくほくと小踊りした、つかささんなのであった。


2017/11/06
17:30 pm
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2017-10-10 21:00:00 | monologue


酔、の中に居る。三回忌、厳かに伯父を偲んだ後の、宴の席だ。老住職と真向かいの上座に、わたしはほろ酔うて居る。

住職に日本酒を酌む。日本酒を飲んでいるのは住職だけ、一人では淋しいというので返杯に預かる。住職は、伯父の二歳下、父の一歳上、の幼馴染で、祖母に地域の信仰の風習を学んだ、我が一族とは縁の深いお方だ。祖母については、未だに『XXさま』と呼んで敬慕の念を隠さない。

幾つかの、伯父や父の知らぬ思い出を聞いた。記憶に焼き付ける。何れたれかに伝えるために。

見渡せば、たれも彼も、話に興じはしゃいで居る。一年ぶりの笑顔は、眩しい。血を想う、縁を想う、今を想う。ここに集うたれかひとりでも欠けたら、今はない、のだ。

お開きの時、住職は「ご馳走になりました」と伯父の遺影に合掌したあと、「でもまだそっちには行かないよ」と、悪戯っ子の表情で言った。どっと皆が笑った。わたしは泣きそうになり、住職に合掌した。

本家でさらに二次会と飲んだ。本家の従兄弟は三兄弟、我らは二兄弟。酒を酌み交わせば、五人、兄弟となる。

八年前に母が逝き、四年前に父が逝き、都度本家には世話になった。父の三回忌の後、僅か二年で、伯父が、

本家のお父さん

が逝くとは、夢にも思わなかった。思えば、もうひとりの『お父さん』だった伯父。照れてしまい、面と向かって『本家のお父さん』と呼べなかったことが、今の心残りだ。

ほろ酔うて居る。
酔は冷めない。

熱いままだ。

その熱を我が身に灯して、私と弟は帰京の途につく。叔父と父と生まれ育ち、最期を迎えた『故郷』は、我ら兄弟を故郷として、向かい入れ送り出す。

背中に、父の伯父の祖母の祖父の、先祖の熱を感じて目眩が揺らめいて、振り返ると、一瞬皆々が一斉に笑って手を振った、幻を観た。


written
  2017/10/08〜10

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シャボン玉を飛ばすひと

2017-09-02 22:30:00 | monologue


『オリンピックがやってきた 1964年北国の家族の物語』
堀川アサコ 著
角川書店
 

最近『昭和』を懐かしむ企画は多い。

その九十九パーセントは、『徒ら』だ。

それは、昭和の本質を無視した、『手前勝手』な懐古趣味の手慰み、に思われてならない。

二十年の悪夢、と、二十年の奇跡、と、二十年の迷路。そして、新たな悪夢の始まり。それが、わたしが親世代から受け取った昭和のイメージだった。

堀川アサコさんは、この物語で二十年の奇跡の頂点、東京オリンピック、というクライマックスを背景に、東京から遠く離れた、青森のある町、の家族の群像を描いている。

その町の原型は、わたしが幼少期に暮らした町だ。

悪夢から覚め、誰もが必死に生きて、やがてそれはひとつの奇跡を産んだ、時代。だが、決して『浮足立たない』歩みの中にあった、庶民の、生きた証。

人間は悪いこともすれば、良いこともする。人間は短所があり、長所がある。人間は冷たく、でも温かい。

だから、人間は愛おしき存在なのだよ、と語りかけてくる、堀川さんの声が聞こえてくるような、読後感を得た。

『毎日は、シャボン玉みたいに、あぶくみたいなことが起こっては消えてゆく。
オリンピックの開会式でさえ、そんな感じだった。
そしてずっとずっと先には、リラも民子も居なくなるころには、この懐かしい町も、すっかり変わってしまうのだろう。』

そう、すっかり変わってしまった、『壊滅的』に。

けれど、わたしは諦めてはいない。
夢はシャボン玉のように儚い。けれどわたしは、子どもたちとシャボン玉を飛ばすひとで、ありたい、のだ。


2017/09/02
23:30 pm

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母逝きて

2017-07-15 23:30:00 | monologue



 今朝の明け方の空。空の淡い青も、雲の白も、清らに透けていました。


 お母さん、こったに透けだ空さ返ったのがい?


 母が逝って八年経ちました。私は八年年齢を重ねましたが、母はもう年を取りません。


 「お母さん、お母さんさ逢いたい人が来てけだよ」
 父の言葉に瞼を開けた母の瞳が揺れました。
 「わがるかい?」
 数秒の間の後、柔らかい眼差しで私をみつめた母は、
 「お兄ちゃん? どうしてだの? 心配してたんだよ」
 「……お、かあさん」
 「母さん、すっかり、お婆ちゃんになってまったべさ」
 「……おかあ、さん」
 「痩せだんでねえの? ちゃんとご飯食べでるの?」
 数年振りに逢った母から語りかけられ、私は何をどう話していいのか解らず、絶句するばかりでした。
 不治の病を宣告された母は、不孝な私に優しかった。そして、病んでなお、綺麗、でした。


 それから母は四年生きて、八年前の今日の早朝、息を引き取りました。享年七十歳(満六十九歳)。私は死に目に会えませんでしたが、弟が間に合ってくれました。


 快晴、朝から三十度超えの東京から帰った私を、故郷は肌寒い霧雨で迎えました。対面した母は、――最後の最後まで闘い抜いた母は、苦しげではなく、安らぎに透けていました。

 その後も母は、火葬の直前まで時々刻々と神々しくなっていき、私らを驚かせました。火葬場での最後のお別れの時、弟と繰り返し、母の額や頬に触れました。

 冷えた母は、熱い骨となり、白木の箱に収まって、火葬場からお寺まで箱を抱えていた私は、母の最後の熱を、――母の体温を感じました。

 お通夜は涙雨、翌本葬は快晴、でした。母らしく。私たちは最後まで泣き乱すことなく、母を送りました。

 その反動か、毎年命日には――それだけでなく思い出に耽った時も――恋しくて泣いています。

 笑われて本望。「産んでくれてありがとう、お母さん」。
 小さい頃は「ママ!」と呼んでいました。「産んでくれてありがとう、ママ」。

 ありがとう、有り難う。
 有り難し、居て欲しい時、親は無し。


 空に、母を観た、瞬間。
 視界が歪んで、揺れました。



 透けた青清らな白に重ね居り
   あなたの在らん浄土の空を

                 典



written:2017.07.15.


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