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詩と物語を紡ぎます

天使の羽根

2017-07-13 18:05:00 | tale
       天使の羽根


 分娩台の上で妻が苦しげに喘いでいた。その手をしっかりと握り、頑張れ、と励ます。いきんで、もう頭が見えてますよ、と女医が声を弾ませる。涙をこぼし、激しく首を振りながら、妻が低く唸った。
 妻の手を握り直した時、背中の方から、羽ばたきの音が聞こえた気がした。同時に、微かなあどけない声も。
(……、……………)
 その瞬間、高らかな産声が分娩室に響いた。
 おめでとう、元気な女の子ですよ。おめでとうございます。高潮した声音で、女医と看護師たちが祝福の言葉を述べる。妻の胸元に産声を上げている赤ちゃんが乗せられた時、視界の端を、何かがかすめた。ゆっくりと揺れながら落下し、妻と握りあった手の上に、ふわりっと落ちる。

 それは、真っ白な羽根、だった。


***********************


 ぱぱ、これなあに?
 地面に落ちている透けた褐色の何かを指で突付きながら、優菜《ゆうな》は鳴海孝輔《なるみこうすけ》を見上げた。
 蝉の抜け殻、だな。
 孝輔は、優菜の隣りにしゃがんで、それを摘み上げた。
 せみの、ぬけがら?
 そう、蝉は何年も土の中で暮らして、幼虫から成虫になる時に脱皮するのさ。
 優菜は抜け殻を見つめたまま、首を傾げている。
 よーちゅー? せーちゅー? だっぴ? わかんない。
 さて、どう説明すれば、わかる? いきなり三歳児の『パパ』になって間もない孝輔は、苦笑いを浮かべた。
 土の中にいた時の体から抜け出して、蝉になるんだな。
 ふ~ん、と優菜は首を傾げたままだ。
 ゆうなも、せみさん、みたいかな?、まえの、からだから、するって、ぬけたよ。
 苦笑しながら、孝輔は抜け殻を優菜の掌にのせる。
 ぱぱも、せみさんみたいだよ、びょういんにあるの、ぬけがらでしょ?
 つんつんっ、と抜け殻を突付いた後、優菜はちょっと頬を膨らませた。
 いいな、ぱぱは、ぬけがらがあって。ゆうなには、もう、ぬけがら、ないよ。
 優菜、俺たちは、蝉とは違うよ。
 傍らの木で、蝉が鳴き始めた。
 このぬけがら、あの、せみさんのかな?
 優菜ははしゃいで、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。さあ、どうかな、と孝輔は立ち上がり、頭上を見上げる。
(蝉は生きてるし。でも、俺たちは、……俺は)
 樹上を、その先の空を、孝輔は見つめた。



 死を指し示す、という水先案内人を名乗る老人の仕掛けた、思いもよらぬ出来事に巻き込まれ――向こうの言い分では『勝手に飛び込んできて』――、鳴海孝輔が、彷徨える魂、そして、同じく彷徨える三歳児魂の『パパ』、そんな境遇となってから、もうじき三か月になろうとしている。
 その事実を、孝輔はなかなか受け入れられなかった。優菜にせがまれるまま、街や公園を彷徨い歩き回りながら、ただ落胆し、虚ろな日々を送っていた。そうしていて、孝輔は、自分たちのような魂が存外多く、この世界に存在していることを知った。彼等は、当てもなく彷徨ったり、あるいは一定の場所に留まり、悲しんだり後悔したり、果ては怒りや恨みを誰彼かまわずぶつけていた。おかしなものだ、と孝輔は思った。
『人生、生きているうちが花なのよ、死んでしまえば、はい、それまでよ』
 昔、そんな文句が流行ったと聞いた事がある。だが、人生を失ってなお、その続きがある。人生を失くした事を懊悩する魂が、そこここにいるという事実。それはほんの少しだけ、孝輔の心を軽くした。
 そして、優菜の、存在。あの事件に巻き込まれた時は、ひんやりとした得体の知れない存在だったのに、今では、ぱぱ、ぱぱ、とまとわりついてくるのが、愛らしく、時にいじらしくも思われる。本当の親子ではないが、本当みたいなくすぐったさ。
(悪くないかも……)
 そう思いはじめた矢先だった。


 あの日。
 とある病院の前を通りかかった時、ふいに優菜が歓声を上げた。

 うわあ、てんしさんが、いるよ。
 天使、さん?
 ほらあ、そこにも、あそこにも。

 優菜の小さな指先が指し示したところに、幾つもの白く輝く物体が浮かんでいる。優菜よりもっと幼い、白い羽根を背中に生やした子供たちだ。
 これは、すごいな、と孝輔は目を見張った。
 あかちゃんが、うまれるんだよ、きっと、と優菜が弾んだ声で言う。赤ちゃんが生まれる時、天使はその肉体に宿り、人間という生命となるらしい。優菜が天使に手を振ると、天使たちは無邪気な笑みをこぼして手を振り返した。
 その時一人の女性が、病院の入り口に向かって歩いているのが孝輔の目にとまった。後姿、一本の線の上を渡るような歩き方に、見覚えがあった。
(京《みやこ》……?)
 優菜を抱きかかえ、孝輔は後を追った。入り口の硝子に映った顔は少しくやつれていたが、間違いなく孝輔の妻、京だった。

 孝輔は、魂の身になってから、一度も京に近づいたことはなかった。泣き叫んでいた姿、声が離れず、つらかったせいもある。それ以上に、触れることも語り合うこともできないのが、悲し過ぎた。だから、避けていたのだ。
 だが、いざ京の姿を見た時、孝輔の中に、共に過ごした十一年の想い出が迸った。恋しさが、愛しさが、溢れた。そして、疑念に囚われた
(何故、病院に? ……もしかして、俺のせいで、病気に?)
 ぱぱ? と優菜が訝しがる。
 優菜、ちょっと寄り道だ、と告げ、孝輔は京の後を追った。

 京が向かった先は、外科病棟の一室だった。おそるおそる覗くと、孝輔は息を飲んだ。
 ……ベッドに自分の『肉体』が横たわっていたのだ。それは、事故当時の状況からは想像も出来ない奇跡であった。
 あー、ぱぱの、からだ、と優菜は目を丸くした。
 いいなあ、まだのこってて、ゆうなのは、すぐ、もやされたよぉ。
 優菜、ちょっとだけ、向こうで遊んでおいで、でも遠くに行っちゃいけないよ、すぐ、戻るから。
 孝輔は、はあい、と愛らしく返事をした優菜を廊下に出した。
 振り返り、部屋の中を見渡す。カーテンの引かれた、薄暗い室内。――規則正しい呼吸を繰り返し、心電図の波形に全く乱れのない、ただ横たわっているだけの、『肉体』。孝輔は、『肉体』に歩み寄った。触れようと試みる。しかし、手は『肉体』もベッドもすり抜けてしまう。
 京は丸椅子に腰掛け、しばらく『肉体』を見つめた後、朝食や夕食を摂っている時に、柔らかな口調で語りかけてきた声、そのままに静かに語りだした。
「孝輔さん、具合はどう? 昨日より顔色がいいみたいよ。きょうは蒸し暑くて、夕立があるかもしれないって。雷が鳴らないといいのだけど、雷は怖くって。そうそう、半夏生の花が咲き始めたのよ、ほら見て」
と京はスマートフォンの画面をかざした。半夏生は京が今頃の季節、とりわけ好む花だ。京。み・や・こ。孝輔は胸を掻き毟られる想いで、京の声を聞いた。
 夜、どんなに遅くなっても、少しでいいからお話ししたい、と寝ないで待っていた京。
(お帰りなさい、孝輔さん。お疲れ様でした)
(今日ね、半夏生が咲いたわ)
(夕焼けがとても綺麗だったの、一緒に、見たかったな)
 口調に似合う絹のような声とほっこりとした笑顔で迎えられて、孝輔はそれだけで長い一日の疲労が癒される思いがしたものだ。
 そして、夫婦の営み。新婚初夜、破瓜の痛みに苦悶した処女の京は、覚えていく悦びに恥じらいながらも熱心に孝輔の好むままを受け入れ熟れていった。
 孝輔の腕の中で、いつも新鮮に純情に燃えた京の滑らかな肌と汗の匂い。華奢な風貌に似合わぬ躍動で、孝輔にしがみつき包み込んでは、夢幻の歓喜に孝輔を導き、自らも同じ喜びの極みに溺れるように繰り返し乱れた、柔らかくしなやかな肉体の感触と熱い体温。京に重ねてきた営みの充実した悦びの記憶が、ありありと孝輔の全身に蘇った。
( いやあっ、はなれちゃいやっ、もっと、いっぱいだいてっ、こうすけっ!)
(みやこ、こうすけ、の、おんな、こうすけ、だけの、おんな、だからっ!)
(もっとっもっとっ、すき、すきっ、みやこ、あいしてるっ、こうすけ、こうすけっ!)
 京が孝輔を呼び捨てにするのは、行為に感極まった忘我の時だけだった。事故の数日前の丹念な行為の、蠢いては痙攣を繰り返した京の肉体と、陶酔しきった京の睦言が、孝輔の中で今体験しているかのように木霊していた。
 京。
 孝輔は、京のすぐ後ろに立って、肩に手を伸ばした。……しかし、触れることはできない。俺は。ここにいるのに。君のすぐ傍に。今すぐ抱き締められる距離に!
 みやこ……!
 不意に、『肉体』の呼吸がわずかながら、乱れた。心電図の波形と信号音も、上昇する。
「……孝輔さん?」
 京は、握っていた手を揺らし、身を乗り出した。その腕を掻き抱き、京が掌に頬ずりすると、さらに『肉体』は『顕著な反応』を見せた。それに気付くと京は躊躇うことなく、それを含み啜った。孝輔はかつて繰り返し味わった悦びが、体の中心から溢れるのを自覚した。呼吸も機器類の信号音も、さらに乱れる。『顕著な反応』は呆気なく弾け、京は全てを受け止め喉を鳴らした。同時に孝輔は『絶頂』した。さらに京が丁寧に吸い続けると、また『肉体』は『反応』し、孝輔は『同期』し『極まった』。
「感じた? 感じたのね? 孝輔さん!」
 京は、ナースコールを鳴らし、叫んだ。
「孝輔さん、目を覚まして! 帰ってきて!」
 慌しく訪れた医師と看護師が、入り乱れて『肉体』に群がる。孝輔も、『肉体』に身を乗り出した。しかし、『肉体』に戻れそうな気配はなかった。そもそも、どんなふうに抜け出したのかすら、わからない。優菜は、するっと抜けた、などと言っていたが。
 やがて呼吸と心拍数はリズムを取り戻して、『肉体』は目覚めることはなかった。
 医師たちとともに、孝輔は病室を出ようとした。出がけに振り返ると、京は肩を落として『肉体』の手を握り、その胸元に顔を埋めて微塵も動かなかった。

 あ、ぱぱ。
 優菜が手を振りながら、廊下を駆けてくる。孝輔は、飛びついてきた優菜を抱き上げた。
 おりこうにして、待っていたかな。
 うん! ……おじいちゃんも遊んでくれたし。
 おじいちゃん?
 優菜が指差した先に、水先案内人がいた。孝輔は、ゆっくりと歩み寄った。
 なんで、あんたがここに居るんだ?
 こいつはご挨拶だな、と案内人は口の端を曲げ、笑った。あちらの世界へ向かう連中が一番多いのは、病院だぜ。
 ……なるほど、手を貸す、ってわけか。
 ふん、しばらく見ねえうちに随分と皮肉が上手くなったわな、魂《それ》らしくなってきたじゃねえか、と案内人はにやりと笑った後、踵を返した。
 おじいちゃん、またねぇ、と優菜が手を振る。
 案内人は、背中を向けたまま、ひらひらと手を振り返し、すうっと姿を消した。
 その先にもう一人、手を振っている老人がいた。見覚えのある、剥げ頭の、老人。
(……死神?)
 が、孝輔が目を凝らすとその老人も、霞のように消えていく。同時に、優菜が降り続けていた手を下ろした。……優菜は、どっちに手を振っていたんだ? まさか……? 疑惑が色濃くもたげる。
 優菜、おじいちゃんって……。
 おじいちゃんは、おじいちゃんだよ。
 どちらの、と言いかけて、孝輔はやめた。案内人も食えないヤツだが、死神はもっと狡猾だ。何かたくらんで、ずっと手を振って見せていたのかもしれない。
 何をして遊んでもらったんだ?
 ……な・い・しょ。
 優菜はそう言って、くつくつと笑った。


 あー、せみさん、いっちゃったぁ。
 優菜が寂しそうに、空へ向けて手をかざしている。
 でも、ほら、と孝輔は両手で優菜を抱きかかえた。悲鳴を上げたその先に、二匹のアゲハが飛んでいる。
 ちょうちょうさんたち、なかよし?
 そうだね、いっしょに、遊んでいるのかな。
 小さな手が、ひらひらと、アゲハが飛んでいる先を追いかける。


 俺は。死んでしまったのでは、ないのか。『肉体』を見た時、脳死状態だと自分でも思った。死んだも同然の躯。誰もが、回復することはないと思っているに違いない。京以外は。だが、孝輔の感情が激しく乱れた時、『肉体』は反応した。孝輔の思いに、呼応するように『反応しあった』。驚きだった。他人はおろか、自分の『肉体』さえ、触れられなかったのだ。なのに、どこかで、俺と『肉体』は、繋がっている。しかし、戻る術が、わからない。

(俺は、死んだのか? まだ、生きているのか?)


 ぱぱ、むぎゅって、して。
 優菜が甘ったれた声を上げた。孝輔は、優菜を抱え直して、頬擦りしながら、小さな躯をしっかり抱いた。ころころと笑い、優菜は首に腕を巻きつけてしがみついてくる。
 可愛い、と思う。
(俺が生き返るということは)
(……この子を、置いていく、ということだ)
 胸が、苦しくなる。
(俺は。いったい。何を、望んでいるんだ?)
 あれから一週間、……病院には行っていない。肩を落とした、京のやつれた背中。知れぬ、『肉体』に戻る術。
 いつの間にか、腕の中の優菜は眠っている。

 あの日から、優菜は、ぱぱ、どこにもいかないよね? と、何度か聞いた。行くって、どこへ? と尋ねると、ううん、なんでも、ない、としがみつく。迷いが、優菜には見えているのだろう、と孝輔は思った。
 優菜、俺は、どこにも……。
 行かないよ、と言おうとしても、唇が強張ってしまう。半分に引き裂かそうな痛みが疼く。孝輔は、うっすらと笑みを浮かべた優菜の寝顔に頬擦りした。

 ふいに、視界が白く弾けた。濃い霧の中を、飛んでいるような感覚の末、セピア色の風景が広がる。
 旧いマンションの、一室だ。

 
「お前、何でこんなに、愚図なんだ? 片付けろって言ってるだろ!」
 まだ二十歳そこそこの女が、険しい顔で見下ろしている。手にした玩具をひったくられ、頭を何度も叩かれる。
「まま、ごめんなさい、ごめんなさい」
「マジうざいんだよ、お前はっ!」
「いたい、ごめんなさい、まま、ままっ、ごめんなさい」
 頬をぐいぐい抓られ、髪をつかまれ引き摺られる。


 まま、いじめないで。
 ゆうな、いいこに、するから。
 ままは、ゆうなが、きらいなの?

 ゆうなは、ままが、すき。
 あたらしい、ぱぱも、すき。


 刺青の背中。首に絡み付いている、白い腕。広い肩の向こう側に、媚びた笑みの女の顔。その顔が、きつく歪んで、睨みつける。
「……お前、また寝しょんべんしやがったのかよっ」
 いきなり顔を叩かれ、床に転がる。
「まま、ごめんなさい。ぱぱ、ごめんなさい」
「まだ小さいんだ、そんな、叩くなよ」
「だって、三日連続なんだよ、毎晩邪魔しやがって、この馬鹿っ」


 まま、どうして、ゆうなを、いじめるの?
 ままは、ゆうなが、きらいなの?

 ゆうなは、ままが、すきなのに。
 でも、いじめる、ままは、きらい。

 もう、いじめないで、まま。
 ゆうなは、ままが、すき。


 泥酔している女が、引っ叩く。繰り返し引っ叩かれて、繰り返し倒れる身体。新しい男が何日か帰って来ないのだ。いつもそうだ。そして捨てられる。その理由を女は自分のだらしなさではなく、幼い娘に責任転嫁していた。
「お前のせいで、いっつも貧乏くじ引かされてるだからな。ふざけんじゃ、ねえぞ」
「いたい、いたいよ、まま、いたい!」
「お前みたいなのは、もう、うんざりなんだよ。いらねえんだよ、お前なんか」
「ごめんなさい、いたい、いや、いやっ、ごめんなさい、ままっ」

 窓が開け放たれ、ベランダに引きずり出される。髪と腕を、乱暴に掴まれる。
「どっか、行っちまえっ!」
 ベランダの手すりを乗り越えて、宙を飛ぶ。手すりが、遠ざかっていく。
「ままっ、ままぁっ!」
 ゆっくりと、女の顔が、遠くなる。
「ままぁ、ままぁ……!」


 駐車場の隅から、窓を見上げている。

 ゆうな、ひとりぼっち、さびしいよお。まま、だいすきだったのに。あたらしい、ぱぱ、だいすき、だったのに。
 さびしいよお。ひとりぼっち、きらい。いじめる、まま、きらい。


 花束を持った、手。しゃがみこんだ若い男が、花束を目の前に置く。

 きれいな、おはな。

 顔の前で、手を合わせて、泣いている。

 どうして、ないているの? さびしいの?
 ゆうなも、ひとりぼっち。さびしいよお。

 ねえ、ゆうなの、ぱぱになってくれない?


 眠っている優菜を抱えたまま、孝輔はうずくまっていた。泣いていた。……今のは、夢? いや……。花束を置いて手を合わせていたのは、まだ若い孝輔、だった。覚えがある。
父が命を落としたあの場所で、俺は冥福を祈った。父と、幼い女の子の、冥福を。
(……今のは、優菜の記憶なのか?)
 誰かが見つめている気配を感じた。見渡すと、禿げ頭の老人がじっと孝輔たちを見つめている。
(死神……!)
 老人は視線を外すと、ゆっくりと歩き出す。何歩か歩くと立ち止まり、孝輔を振り返った。
(ついて来い、と言っているのか?)
 見つめ返すと、老人はふわりっと笑った。その顔は、何事かをたくらんでいるようでもあり、もっと別の意味を含んでいるようでもある。
(……どうする?)
 逡巡した挙句、孝輔が一歩前に踏み出すと、老人もまた歩みはじめた。十メートルほど遅れ、孝輔は老人の背中だけを見て歩いた。街の景色が消え、孝輔はいつの間にか『肉体』が眠っている病室へと続く廊下に立っていた。
(いつの間に……)
 老人の姿は、どこにも見当たらない。

 病室の前に、義父と京の姿が見える。京は両手で顔を覆い、俯いていた。何を話しているのか。孝輔は、二人の傍に歩み寄った。

「……今後、孝輔くんは回復する見込みはないんだ、それなら……」
「いいえ、孝輔さんは生きています、私の声に、……私に、反応したんです!」
「京、わかってくれ、もう決まったことなのだよ」
「どうしても、孝輔さんを殺すんですか?」
「違う、孝輔くんに命を繋いでもらうのだ」
「いいえ、お父さんは間違っている」
と京は泣きはらした目で義父を睨みつけた。
「孝輔くんの、意思でもあるんだ」

 俺を、殺す? 俺の、意思? 話の内容が理解できない。

 そんなに、手前の体が懐かしいかい? それとも、カミさんの方かな? 背中から、皮肉な声が聞こえ、はっと孝輔は振り返った。水先案内人。
 ……余計なお世話だ、来たくて来たわけじゃない。
 ほう、と案内人は、例の険を含んだ笑みで、唇を曲げた。
 じゃあ、何でここへ来た?
 あのじいさんの、……死神の後を追いかけたら、いつの間にかここへ来ていた。
 案内人は、声を上げて笑った。
 何が、おかしい……!、と孝輔は声を荒げた。
 いやはや、彼奴《しにがみ》は、よっぽどあんたが気に入っているらしい、と案内人は孝輔の肩に手をかけた。孝輔は静かに、だが力強く案内人の手を振りほどいた。
 ――まあ、そうカリカリしなさんなよ。義理の親父とカミさんが、何を話していたか、教えてやるから。
 孝輔は黙ったまま、二人を振り返った。京は手で顔を覆ったまま、力なくうずくまっていた。義父は、静かに首を振った後、ゆっくりと病室に入っていく。
 お前さんの体の息の根を止めて、臓器移植に使うんだとさ。
 ……臓器、移植。
 孝輔は、案内人のにやけた顔に視線を戻した。
 人間どもは、なにやら理屈をつけたがるが、と案内人は言う。
 あそこにあるのは、機械を繋げて無理やり生きているように見せかけてるが、要するに単なる抜け殻でしかねえ。性質が悪いよな。蝉や蛇みてえにはいかねえって。
 案内人は、孝輔の耳元に口を寄せて、声を潜めてゆっくりと言った。
 お前さん、何だか夢見ていたみたいだが、すっかり抜け出てしまってるんだ、今更戻れねえよ。
 孝輔は、がっくりと膝をついた。戻れない、のか。もう、戻れないのか。
 それを見せつけて、お前さんを摂りたいだろうよ、死神の野郎は。
 案内人は、小さな息をついた。
 彼奴は、魂を喰らうために、こそこそと小細工しやがる、あの時だってそうさ。
 孝輔の脳裏に、自分が命を落とした時の光景が鮮やかに蘇った。そうだ、あの時、俺は死んだんだ。
 彼奴に喰われようが、俺の知ったことじゃねえが、お前さんにその気があるなら、俺があの世への道筋、つけてやってもいい、と案内人は、孝輔の隣りにしゃがんで、そっと肩を抱いてくる。孝輔は、決断した。
 わかった、……俺だけじゃなく、この子も……、と言いかけた時、抱きかかえていたはずの優菜の姿が消えている事に、孝輔は気付いた。
 ……優菜? 優菜は、どこだ?
 あわてて、辺りを見渡すと、孝輔は思いがけない光景を見た。廊下の隅にうずくまっている京の背中に、優菜がしがみついている。優菜……? 何をしている? 優菜は、京の耳元に唇を寄せて、しきりと何かを囁いていた。
 優菜……!
 孝輔が叫ぶと、優菜は弾かれたように京の背中から飛び降り、怯えたように孝輔を見上げた。
 どうした優菜、何していたんだ?
 なんでも、ない。
 孝輔は、優菜の許に歩み寄り、しゃがんで目線を合わせて、肩に手を置いた。優菜は孝輔の視線を避けるようにうつむいて、足をもじもじ動かしている。
 優菜?
 なんでもない、なんにも、してない。
 京が、ゆっくりと立ち上がった。その表情には、生気が、ない。化粧気もない顔が青白く、無気力な無表情で京は呪文のような言葉を呟くように唱えている。
「じゅ むれ あん でぃまんしゅ う じょれとろ すふぇーる、あろーる ちゅ るゔぃやんどら め じゅ すれ ぱるてぃ、で すぃえるじゅ ぶりゅるろん こむ あんなるだんてすぽわーる、え ぷーる とわ さん ぜふぉる め ずゅすろん とぅづぇると、ね ぱ ぷーる もなむーる すぃる ぬぷゔ とぅゔぉわーる、いる とぅ でぃろん く じゅ てめ ぷりゅ くま ゔ、そんぶる でぃまんしゅ」
 京はよろめきながら、一歩ずつ、ゆっくりと、歩き出す。
「そうだわ、孝輔さんだけを死なせたりしない。あなたひとりを、死なせはしない」
と京は唄うように呟いた。
「私も、逝くわ、孝輔さん」
 京? 何を言っているんだ? おい、京。

 ふいに、孝輔の手を跳ね除けて、優菜は案内人へと駆け寄った。案内人の陰に隠れるように、上目遣いで孝輔を睨んでいる。
 優菜。
 だって、ぱぱが、わるいんだもん、と優菜が叫んだ。
 ぱぱが、ぬけがらに、もどって、ゆうなを、また、ひとりぼっちに、するって。
 優菜、それは違う、俺は。
 ちがわないもん、もどりたいんでしょ。
 孝輔は呆然と、優菜を見つめた。……確かに、戻れるものなら戻りたいと思った。しかし。
 優菜、……おまえを、置いていけないよ。
 うそ!
 嘘じゃ、ない!
 ぱぱの、うそつき! ぬけがらに、もどるために、ここに、また、くる、って。おじいちゃんが、ゆったもん、と優菜は、ぼろぼろと涙をこぼして叫んだ。
 だから、ゆうな、……だから……。
 優菜、違う、ここにきたのは、死神の後を追って……、と言いかけて、孝輔は気付いた。死神、じゃない。案内人が、死神のふりをして、俺たちをここへ……。
 水先案内人が、ちっ、と舌打ちをした。
 ぱぱが、もどりたがるのは、おばちゃんの、せいだから、て。おばちゃんが、ゆうなの、ところに、くれば、ぱぱは、どこにも、いかないって。
 優菜は、声を上げて激しく泣いた。
 ……やれやれ、茶番がばれちまったわな、と案内人は呟いた。
 貴様、優菜に、何をさせた……!
 孝輔は、唇を噛んで、案内人を睨んだ。
 手前がこの世にしがみついてるのは、カミさんが恋しいからだろう? ……だから、カミさんを呼んでやっただけよ、と案内人は、悪びれもせず、にやにや笑った。カミさんと優菜の波長を合わせてやって、こっちに来るように、てさ。
 ――なんて、ことを。
 孝輔は、歯噛みした。
 優菜に、俺の娘に、そんな汚いことをさせるなんて、……貴様っ!
 京は、ゆっくりと孝輔に近づいてくる。だが、孝輔を見とめて近づいているのではなかった。京に、孝輔の姿が見えるはずはないのだ。京が目指しているのは、水先案内人、否、案内人が指し示す方向――死、だ。
 ……京! 止めろ、駄目だ、京!
 しかし、どんなに叫んでも届かない。孝輔には、京を留める術がない。頼む、止めてくれ! 京には手を出さないでくれ! と孝輔は懇願した。
 ふんっ、嫌なこった。
 何故だ? ……どうして、こんな……?
 気にくわねえんだよ、おめえらがっ! 案内人の顔に、凶悪な笑みがあふれた。おめえの親父も、おめえも、カミさんも、優菜もっ!
 案内人の怒声に優菜は泣き止み、……おじいちゃん? と後ずさる。
 どんなに汚したって、真ん中がぴんぴかで綺麗な魂は、反吐が出るんだっ。
 案内人の周囲に、どす黒い気が渦巻き始めた。
 わっ、うわっ……!
 優菜は怯えて固まってしまい、見開いたままの目から、涙をこぼしている。
 優菜っ、こっちに来い、パパの方へ来い、早くっ。
 孝輔は、優菜めがけて駆け寄り、手を伸ばす。
 ぱぱっ! と優菜も手を伸ばし、駆け寄ろうとしたが。
 激しい火花が散って、孝輔は跳ね飛ばされた。

 小柄な老人のなりをした案内人の体が、見る見る歪んで、倍以上に膨れ上がった。目は赤黒く光り、口は耳まで裂けて、生臭い息を吐いている。背中に黒い翼がのぞき、胸元には漆黒の穴が開いている。

 優菜っ! 孝輔は再び、優菜へと手を伸ばした。電撃の火花に打たれながらも、かろうじて踏みとどまり、小さな手を握ろうとした。
 ぱぱっ! 指先同士が、微かに触れ合ったかと思われた刹那。何かに押しつぶされたかのように、孝輔はくず折れた。その前を、京がゆっくりと、通り過ぎようとしていた。
 駄目だ、京っ、行くな。
 ぱぱぁっ!、と優菜の悲鳴が響く。邪悪な黒い化物と化した、案内人のごつごつした手に、優菜が捕らえられていた。
 いやあっ、ぱぱっ、たすけてっ!
 華奢な抵抗を試みる小さな体を、黒い手は、己が胸元――漆黒の穴へと近づける。
 まず、こいつから、喰らってやる。
 ぱぱぁっ、優菜が身を捩りながら必死で手を伸ばす。這いつくばって、孝輔が優菜へと手を伸ばした時、背後から、光の洪水が怒涛の如く押し寄せた。黒い化物が、唸りを上げて、怯む。振り返ると、光の中に、化物がかつて死神と呼んでいた老人の姿が見えた。老人は手にした杖を、床に突き立てる。その音が、タンッ、と辺りに響き渡った。
 京の歩みが、止まった。いきなり夢から冷めたかのように立ち尽くしたまま、呆然としている。同時に、孝輔の『肉体』が横たわる病室が、俄かに騒がしくなった。京は、はっと病室を振り返った。
「孝輔さん……」
 京は、目を赤くして病室へと駆け込んだ。……『肉体』が、完全に死んだのに違いない、と孝輔は思った。これで、いいんだ。孝輔は、胸の中がむしろさばさばと、軽くなっていくのを感じた。光の洪水は、衰えない。孝輔は、光の眩しさ、清清しさに、優菜を握ったまま、たじろいでいる化物の手元に必死に喰らいついた。
 ぱぱっ! 黒い手の中から優菜を引きずり出し、抱きしめる。優菜……! もたもたしている暇はない。孝輔は、優菜を抱え、化物の手元から逃れようとした。
 が、化物は咆哮を上げ、孝輔をその手に捕らえた。もがいたが、孝輔は優菜を抱いたまま、黒い手にきっちりと握られていた。そのまま、漆黒の穴へと、誘われる。
 わわわっ! と優菜が、絶望的な悲鳴を発した。孝輔の下肢が、穴へと引きずり込まれる。体が千切れそうな吸引力に、孝輔は思わず、苦悶の声を上げた。
 闇の中で、我が糧となれ!
 孝輔は、しがみついていた優菜を、手に抱え、放り投げようと試みる。が、優菜は孝輔の手にかじりついて、離れようとしない。
 優菜、逃げろ! パパから、離れるんだ!
 いやあ、いやだあ、ぱぱっ!
 孝輔のあがきも空しく、優菜はぐいぐいと孝輔の胸にしがみついてしまう。優菜ともども、ずるっ、と、さらに穴の中に引きずり込まれた。
 あああああっ。優菜が、苦痛に叫ぶ。
 光に包まれた老人が、杖を揮って、化物を打ちつけた。
 馬鹿めが! 貴様に何が出来る? 俺は、無敵だ。
 化物が、太い腕を振り回した。老人は、かろうじて掻い潜って、後退する。
 こいつらは、もらった。
 黒い手が、孝輔を完全に穴の中へ押し込もうとしていた。孝輔は、しがみつく優菜の体を引き離して、穴の外へ押し出そうとしたが無駄だった。胸元まで飲み込まれ、貧血でも起こしたように、体からも緩慢に力が抜けていった。気力も、萎えていく。
 黒い手の指先が、孝輔の手に触れた。……ぱぱっ、と優菜が苦しげな声をあげる。
 優菜、パパが必ず助ける、だから、離れるな。
 うああっ。孝輔は叫びながら、指先を渾身の力を込め、両腕に抱えた。
 馬鹿っ、手を離せ、離せっ。にわかに、化物が慌てだす。孝輔は、力を緩めることなく、化け物の指を抱え続けた。両腕が、ぶるぶると震えてくる。力が抜けそうになり、孝輔は指に噛み付きさえした。
 一気に穴の中に飲み込まれた。穴の中は、ひどく息苦しく、押しつぶされるような圧迫感が激しかった。しかし、孝輔は指を離さなかった。昏い、黒い空間の奥へと、吸い込まれ、落ちていく。体中からどんどん力が抜けていく。
 優菜がぐったりとして、孝輔の胸から剥がれ落ちそうになった。何とか抱きとめたが、その拍子に、孝輔は化物の指を離してしまった。

 ……おしまいだ。

 そう思いながら見上げると、奇妙な物体が孝輔の視界に映った。ねじれた、得体の知れない、何か。……腕、頭、……足、……胴体? 歪んだボールのように、一塊になったものが、唸りを上げて落ちてくる。
 あの、化物、だ。一瞬、追いかけてきたのか、と思った。だが、違った。化物は、裏っかえしになって、ねじれ、すえた肉の塊みたいになっている。指だ、と孝輔は思った。
 化物の指を、孝輔が穴の中へ引きずり込んだので、化物自身が己が漆黒の穴の中に吸い込まれたに違いなかった。

 をををををっ……!

 恐ろしい断末魔の声を発して、化物は孝輔たちの傍らを急速に通過し、穴の奥で圧縮されていった。豆粒ほどの大きさになったそれは、さらに圧縮され、ふっと消滅した。

 次は、俺たちの番か……?

 全身に、猛烈な圧力を感じていた。もしかしたら、これが、地獄の責め苦、なのかもしれない、と孝輔はぼんやり思った。優菜だけでも、なんとか助けたい。……が、孝輔は、無力だった。

 せめて、最期まで、いっしょに。

 無理やり丸められて、握られているような、こらえようのない苦痛。もう、声も、出ない。ほとんど力の入らない腕で、優菜を抱えた。
 その瞬間突如、闇が弾けた。猛烈な勢いで、光が噴出し、上昇し、拡散して渦を巻く。孝輔は、渦に巻かれながら、暗黒の世界から押し上げられた。


 視界も、意識も、朦朧としている。
 ぼんやりと、天井が見えた。

 病院の廊下に、孝輔はぐったりと横たわっていた。胸の上では、優菜が同じくぐったりと目を閉じている。なんとか、戻ってこられたらしい。しかし、体に力が入らなかった。あの黒い闇の中で、エネルギーをほとんど吸い取られてしまったのか。妙に、眠い。
 光に包まれた老人が、優しげな眼差しで孝輔を見つめていた。あなたは、誰ですか? と尋ねようとしたが、声が出ない。しかし、老人には、伝わったようだった。

 わたしは、水先案内人。

 そうか、と孝輔は思った。この人が、本当の水先案内人で、あの化物こそが死神だったのだ。

 あれも、哀れな魂なのだ、真の水先案内人は告げた。
 それ故か、恨みや憎しみの念が取り付いて、悪しき者と変わり果てた。人間が、悪魔とか悪霊とか、死神と呼ぶ、邪悪な存在へと成り下がってしまった。我らはどうしても、あれをあるべき道筋へと導くことが、できなかった。あれは、昏い魂を喜び、綺麗な魂を憎む、と水先案内人は優菜の髪を撫でた。
 かつて、この娘の母親をそそのかし、昏い魂に変じしめ、この子の生を奪った。あろうことか、あなたの父君の生までも、奪った。二人ともども、綺麗な魂であった故に、理不尽に憎まれた。わたしは、あなたの父君を魂の道へと導いたものの、昏い染みのできたこの子を連れて行くことができなかった。
 そして、あなただ、と水先案内人は、瞑目した。

 あの時、守りきれなかった。
 いいのです、もう。
 しかし、悪しき者は、虚空に戻った、鳴海孝輔、あなたのおかげだ。

 孝輔は、微笑んだ。
 俺は、何もしていません、ただ妻とこの子を、守りたかった。
 父君ゆずりの、魂だ、あなたは。

 孝輔は、そっと優菜の髪と背中を撫でた。心なしか、その姿が、透き通っているように思われる。そして、自分の体も。

 優菜は、これからどうなるのですか?
 まもなく、虚空に還る、と水先案内人は答えた。
 ……消えてなくなるのですか?
 水先案内人は、答えずにふと天を仰いだ。

 孝輔は、意識が次第に希薄になっていくのを感じていた。
 俺も、消えるのですね、完全に死ぬんだ。

 わたしは、生を指し示すもの。死は生のほんの一部にしか過ぎない。虚空は、万物の源、生まれ出ずるところにして、還り眠るところ。

 水先案内人の声が、途切れた。

 朦朧と、途轍もなく、眠かった。もうまもなく、俺は消えてしまうに違いない。俺はそれで、かまわない。……でも。

 孝輔は、祈った。

 お願いがあります。

 どうか、妻が、――京がこの先俺がいなくても、幸福でいられるように、見守ってください。
 どうか、優菜に、……この子に、今、新しい生を与えてあげてください、両親に愛され、周囲の人々に愛される、幸福な生を。
 そして、優菜の頬に触れる。

 ごめん、優菜。俺は、本当にお前のパパになりたかった。ずっと、ずっと、いっしょにいたかった。

 そして、京の笑顔を思い出す。
 ごめん、京。俺の分も、きっと、幸せになって。

 その時、水先案内人が厳かに告げた。
 鳴海孝輔、あなたの願いはひとつだけ、叶えられる。

 鳥が羽ばたくような音がした。優菜の背中に、翼が生えたのだ。優菜は、天使になって、やがて新しい生を生きる。

 ああ、神様。孝輔は、呟くように言って、目を閉じる。父と母の姿が浮かんだ。父さん、母さん、俺ももうすぐ。

 あとひとつの願いの答えは、鳴海孝輔、すでにあなた自身の手の中にある。
 清く気高く勇気ある魂、鳴海孝輔よ、未だ『見ず未来《さき》』を導き申し奉る。

 水先――『見ず未来』案内人の声が、広大な時空に響いた。

 あなたの母君は病み《闇》と闘い抜くことで、清み浄められ、天上界にあらせられる。
 あなたの父君は幽鬼に勇気で立ち向かわれて、清み浄められ、天上界にあらせられる。

 あなたは、絆を編み愛深く生きるもの。妻・京もまた、同じい目標《さだめ》をともに来てともに行く双生の魂。これほどふさわしい者はない。

 父と母が、『見ず未来』案内人の両隣に立ち、優しく微笑む。

 鳴海孝輔よ。

 杖が地を突く、ターンッ、という音が、響き渡る。



        生きろ。



********************



 娘が、おにぎりを頬張っている姿を見つめていた。公園の噴水で、さんざんはしゃいで水遊びをしたせいか、よく食べる。
「おいしいか?」
「うん、おいしい! ままのうめぼし、さいこー!」
 子供なら、鮭とか海老マヨとかたらことかが具のおにぎりを好みそうな(俺はそうだった)ものなのに、娘は、妻手作りの梅干のおにぎりが大好物なのだ。酸っぱそうに顔をしかめるくせに、わしわしと頬張るのが面白く、見ていて飽きない。
 と目の前に、タコさんウインナーを二つ串刺しにしたフォークが出現する。
「ねえ、みょーがのぬかづけと、こうかん」
「ええッ、さっき換えたばかりじゃん?」
 娘は漬物も大好きだ。俺の好物茗荷の糠漬けを理不尽に食らうので、取り替えっこを教えたのだが。
「ああ、だめだよ、きゅうり食べな」
「やーん、みょーが、みょーが」
と結局、あるだけ取られた。
「まま、むぎちゃ、ちゅうだい」
「はいはい、むせないように、ゆっくり飲むのよ」
 しかし娘は、妻が水筒からコップに注いだのを渡すと、ごくごく喉を鳴らして飲んだ。そしてレジャーシートの上に、とん、とコップを置き、唇を手の甲で拭い、くしゃっと笑いながら言った。
「……あーっ、うまいっ」
「まあ、パパ、そっくり!」
と妻も笑う。俺がビールを飲んだ時の口癖を、そのまま真似ているらしい。そんなに似ているか? 二本目の缶ビールを開けて、喉に流し込んだ。とん、と缶を置き、唇を手の甲で拭って、思わず笑みが湧き上がるのを感じながら、
「……あーっ、旨いっ」
「……あーっ、うまいっ」
娘の声が俺の声に見事に重なって、妻が手を叩いた。三人で、笑い転げた。



 こうして、妻と娘と笑い合えることが、かけがえのない幸せだと思う。

 娘が生まれる前、俺は交通事故に巻き込まれて、瀕死の重傷を負った。事故にあった日は、結婚記念日で、外で妻と食事をする約束をしていた。その待ち合わせ場所、妻の目の前で起こった事故だった。
 事故のことはおろか、その日一日何があったのかすら記憶にない。頭の怪我が著しく、手の施しようがない、と言われたらしい。妻が医者に訴えて、かろうじて命は取り留めたが、脳死状態と診断されたそうだ。
 が、三ヵ月後、意識を取り戻した。折りしも、俺が定期入れに忍ばせていた臓器提供意思カードに則って、俺の意思を生かそうと義父――妻の父が手配を仕切っていたところで、翌日には肝臓と心臓の摘出が行われる予定を前に、奇跡的な覚醒だった。

 妻のお腹の中には、何と赤ちゃんが宿っていた。俺は結婚十年目にして、ようやく父親になるのだと知り、一日も早く元気になろうと心に誓った。


 娘が産まれた日は、不思議なことがあった。
 今まさに産まれようとした時、俺はあどけないお礼の声を聞いた。
(ぱぱ、ありがとう)

 妻も、声を聞いたという。
(まま、はじめまして)

 そして、妻と握り合った手の上に、白い羽根が舞い降りた。

 この子は、天使が連れてきてくれたのかもしれない、と語り合った。その羽根は、娘の成長アルバムの一番最初のページに、貼り付けてある。

 真新しい産着に包まれた、小さな体を抱いた時、娘は微笑んだ。生まれてすぐには、赤ちゃんは笑わない、というが、微笑んでいたと思う。

 娘に、『優菜』と、名づけた。



「ぱぱ、あれ、なあに?」
 優菜が、木の幹を指差した。
「お、蝉の抜け殻だ、久しぶりにみるなあ」
「あら、ホント、よく見つけたわね」
と京が優菜の肩を抱いた。孝輔は、優菜の指差した抜け殻を丁寧に摘み取った。そして優菜の掌に、そっとのせる。
「せみさんの、ぬけがら?」
と優菜は首を傾げる。
「蝉さんが大人になる時、今まで着ていた殻から、えいって抜け出すのさ」
「えい、えい、て、でてくるの?」
と優菜は目を丸くした。
「せみさん、えらいね、えい、えい、て」
 ふいに、ふわぁ、とあくびをして、優菜が、ぱぱぁ、と甘ったれた声を出す。
「眠くなっちゃったかな?」と京が言うと、うん、と怠そうに頷いた。
「抱っことおんぶ、どっち?」
と孝輔は訊いた。
「おんぶ」
 しゃがんだ孝輔の背中にしがみつくなり、優菜はもう寝息を立てていた。
「赤ちゃんの頃と同じ顔して寝てるわ」
と京が笑った。
「写真撮って」
と孝輔も笑った。
 じゃあ、と京は孝輔の背中の優菜に頬を寄せた。カメラを高く掲げて、シャッターを押す。笑う孝輔と京の間でうっすら笑んで眠っている優菜。一発で、見事に3ショット、成功だった。
「これプリントして、アルバムに入れましょうね」
「スマホの壁紙にしようかな」
「それいい、わたしもそうしよう」
と京は目を輝かせた。


 生まれたばかりの頃は、あんなに軽かった体が、こんなに重くなって。優菜。俺たちのところへ、来てくれて、ありがとう。
 今度は君も一緒に迎えるんだ。京の――ママのお腹に居る赤ちゃんを。楽しみだね。優菜がお姉ちゃんになる日。


 そんな心の声を聞いていた、やんちゃそうな天使は、ほんのりと笑って、孝輔と京、優菜一家の後をまとわり付くように飛んでいた。



(『天使の羽根』了)



written
:2010.7.26.ー7.29.

rewritten
:2017.3.26.ー4.21./07.13.〜20.


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