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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅲ165] 我がメメントモリ(32) / うんこ・おしっこ・お化粧   

2022-08-04 20:41:50 | 生涯教育

   

毎日三度の食事もトイレでの排泄も、健康な人間にとっては当たり前の事柄である。しかし一旦病気になると、何気なく行っていたこれらの所作が、とてつもない“大仕事”となる。

若菜の場合もそうだった。彼女にとっての“食”は格別の意味をもっていたし、排泄も同様だった。病気の侵襲が激しくなるに従って、消化管は閉塞し始め便も出にくくなった。それでも当初は歩いてトイレに行くことができたが、衰弱も次第に激しくなってくると、嫌がりながらもベッド上での排泄を受け入れるようになって行った。

ベッド上でのトイレッティングについては、彼女はずいぶんと看護師と押し問答を繰り返していた。ボクも転倒のことが気になっていたし、その点では看護師と同意見だったが、彼女が看護師とやり取りするのを聞いていて、ボクの本心は彼女の拒否する姿勢を応援していた。看護師のサイドでは看護診断のアセスメントと看護計画マニュアルが出来ていたのだろうが、彼女のなかにはそんなものは存在していなかった。それは彼女自身が作ればいいとボクも考えていた。結局彼女の“抵抗”も空しく現実を受け入れることになったのだが、何よりも自分でトイレに歩いていくという意志を固く持ち続けることが彼女の命綱にもなっていたことは確かなことだ。

個室に入ってからは、トイレが部屋の中にあったことも幸いして、ベッド上でのトイレッティングを止め、再び自分から歩いてトイレに行ける日々が続いたのは幸いなことだった。身体も辛かったのだろうが、自分でトイレにいくのだ‥という意志と態度は人間にとって大切なものだ。

ところで病院では患者が化粧することをどのように考えているのだろうか。化粧品の匂いや顔の白粉は病状判定の妨げにはなることもあるだろう。しかし、である。患者にとっての化粧は、病状判定以上の意味をもつこともある。そのことを医療者は知るべきだろう。壁塗り様の厚化粧は論外として、特に難病の患者の場合などは配慮が欠かせないと思う。 

若菜はいくども鏡で自分の顔をのぞき込んだことだろう。顔色も悪く頬の骨が浮き出した自分の顔を、どんな思いで見たことだろう。こんなときに化粧をしたいとする彼女の心根は、全く健全なものだったと思う。化粧も自らタブーにするほど病に犯されてはならないのだ。彼女はだからよく化粧をした。ボクも勧めたし幾度も彼女の口紅を唇に塗ってあげた。彼女にとって化粧は大切な生の部分だったのである。

「ものを食う」「うんこ・おしっこ・化粧」それぞれの所作は、元気で生活している健常者には窺い知れない深い意味と価値があることを、彼女の闘病の日々で知った。彼女の身体は絶望的に病んでいた。しかし彼女の精神は勢いを落とすことなく、山を駆け上っていたのだった。ボクらが気づかない何気ない所作を彼女は生の“仕事”とすることで「生の自由」を表現していたのだった。


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