私の「認識台湾」

個人的な旅行(写真)の記録を主眼としつつも、実態は単なる「電子落書き帳」・・・・

Editorial: Japan, Ma Ying-jeou and reality

2005年01月10日 | 記事
◆Editorial: Japan, Ma Ying-jeou and reality (Taipei Times)

やはり、中国国民党(KMT)は誤解と捉えている。
より具体的に言えば、日本の政策担当者がKMTとその方針に関する正確な認識を持ち合わせていないが故に、党に対する否定的な見方につながっていると考えているようだ。

日本の国会議員らの馬英九KMT党首に対する否定的な見方は、先週の訪日の際に明白であり、とりわけ(馬氏にとって)居心地の悪いフォーラムが催されている間、党の政策を巡って議員らは馬氏を直火で焼き尽くした。

この体験に大変狼狽した馬氏は、KMTに対日宣伝のタスクフォースをまとめるよう指示した。KMTは党のウェブサイトの日本語版を作成するのみならず、KMT中央党部の職員らが慎重に編集したデイリーニュースの概要で対日攻勢をかけるようである。

流行になぞらえるなら、馬氏の訪日はトムウェイツの『Big in Japan』という曲よろしく「ジュージューという音だったに過ぎず、ステーキそのものではなかった」ということだ。台北市長は、日本嫌いを印象付けるような言動を注意深く避ける一方、日本政府に取り入っているという後ろ指を指されぬよう留意するという狭い範囲から逸脱しないよう最善を尽くしたとは言える。

馬氏の方針--それは地域でもっとも強大な民主主義国家と格別に距離が近いとも、友好的な姿勢にも見えないものだが--がある種の独特な振る舞いに繋がった側面があり、そこで体現したものについては分析するに値しよう。

馬氏の戦略にとって、日本の知識層、台湾の民衆、北京のウォッチャー、ワシントンの知アジア派という四人の観衆に「ふさわしい」メッセージをまとめあげるのはかなり骨の折れる作業であったのは間違いない。

馬氏は例の如く「現状を維持する」ことと「民主化の後の最終的な統一」(責任ある真面目な響きを装ってはいるものの、全く無意味なフレーズである)という陳腐な説明を行った。

それから、馬氏は小泉純一郎首相の靖国神社(マスコミが言う「戦犯」という言葉と密接不可分の関係にある、明治時代に建立された戦没者を祀った神社)参拝を批判した。馬氏が靖国神社を取り上げたのには多くのわけがあったであろう。一つは、近隣諸国の見方に馬氏も同調しているように外国のメディアに映るという効用である。とどのつまり、報道されているとおりであれば、日本人が過ぎし日の残虐行為に対して好意的な見方をしているとは思われないからだ。

小泉首相の靖国神社参拝は日本人の間でもあまり支持を集めているわけではない。馬氏にとって〝右翼サウンド〟を流しながら車で走り回っているごく一部の日本人右翼の怒りを買っても重大な失点とはならない。

それで馬氏はついに「歴史に対するより広い視野」を持つようにと、ホスト国の議員らを何点かやんわりと批判するに至ったのである。

しかしながら、彼なりに妥当かつ責任ある話を終えた後、日本の議員らとKMTの政策について議論している場においても、馬氏は依然として壁に直面したままであった。

それは現実が重力のようなものだったからである。重力を無視するよう望むことは可能であるが、遂には困難で容赦ない現実に直面する羽目に陥るであろう。

自らを偽るのに熱をあげたにも関わらず、馬氏は先週の訪日でこの地域の政治の現実に何ら変化を起こすには至らなかったし、今週日本の国会議員に宛てて丁重に送付されるEメールも同様の結果となるであろう。

日本は、KMTの思惑に懸念を抱くべきである。仮に馬氏が総統に選ばれた場合、どの程度北京の軌道に接近するのかについて懸念を抱くあらゆる権利が日本政府にはある。さらに言えば、そのような形で台湾の人々に助力して欲しい。

前KMT主席の連戰氏の中国巡礼を目の当たりにした者は、何人たりともKMT政権下の台湾の未来に恐れおののく権利がある。

馬氏には日本人、そして自由を重んじる台湾人に、この国の将来が北京の独裁者の気まぐれと結びつくものではないと安心してもらえるような一層の努力が必要であろう。

それはウェブサイトの作成より遙かに骨が折れることであろうが。

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