獅子頭、祠の中の「永代太々神楽」は「ご神体」と言われている
神事が始まり保存会の皆さんも拝殿前に勢ぞろい
舞い手もお祓いを受ける
肇国(ちょうこく)の舞
剣の舞
豊穣の舞
悪魔祓い
保存会長より挨拶があり祭りは終わる
ずいぶん昔に「思い込んで山登り」を記した。当時の記述からすると、蟻塚城址には木がずいぶん生えていたと思われる。したがって山上がわからず、どんどん登って行ったというわけだ。ここに掲載した御射山社の背景からもわかるように、今は神社背後は明るい。鬱蒼としていた神社林の中に社がたたずんでいたという印象はない。
「思い込んで山登り」にも触れた伊那市美篶笠原御射山社の獅子舞を、38年ぶりに訪れた。現在も4月29日が祭日である。当時の写真に鉢巻をした女の子が写っているように、当時は祭礼に子ども神輿があった。そして御射山社の獅子舞と言えば、神社で獅子舞が奉納された後、里へ下りて祝い事のあった家や、所望された家へ舞って歩いた。これを「里舞い」と言っていたが、現在は「里舞いは行いません」と広報されていて、「里舞い」は行われていない。聞くところによると、10年ほど前から里舞いは行わなくなったという。御射山社の獅子舞については、井上井月顕彰会・ヴィジュアルフォークロアが製作した映像が配信されていて、全容が解る。2011年4月29日に撮影されたもので、14年前の映像である。この映像が撮られて数年のうちには、里舞いが行われなくなり、さらに祭りの雰囲気もずいぶん変わっている。
午前10時からと聞いていたが、関係者が全員揃うと、祭りは始まった。神事が始まり、その神事の中に獅子舞の奉納が仕組まれている。宮司による祝詞があり、神事に列席していた獅子舞保存会の方が拝殿から下りてくると獅子舞が始まる。最初に肇国の舞があり、次いで剣を腰に差し、その剣を鞘から抜いて「剣の舞」となる。
身は三尺の剣を抜いて
悪魔を祓えとエー
この口上を周囲で述べると、抜いた剣を前面で立てて構える、そのまま前進し、拝殿に上ると神殿まで前進し、神殿の前で刀を左右に振って悪魔を祓うような所作をし、刀を鞘に納めて(社殿内の行動は外から確認できないが、前述の映像から記した)拝殿前まで戻り「剣の舞」は終わる。刀を御幣と鈴に持ち替えると「豊穣の舞」の始まりである。最初は御幣と鈴を右手に持って始まり、その後左に御幣、右手に鈴を持って舞う。
どっこい
これはいなー
五葉はめでーたの
若松様だとエー
弁当箱ふ憎いな
中の身は可愛いいとエー
どっこい
どっこい
これはいなー
今度見てきた
名古屋の城だとエー
まいらする
やれ神をいさめられたる人は
踊りかなエー
家内繁昌と
上げ奉るとエー
以上で「豊穣の舞」は終わり、御幣と鈴を返す。最後の舞は「悪魔祓い」である。後ろの幌持ちは、ここまで幌を絞って肩に掛けていたが、悪魔祓いでは幌を高く持ち上げて大きく見せる。
なんとじゃなー
しんじんけんぐりにょくりとしょ
ようこそなー
これで獅子舞奉納は終わる。獅子舞が終わると拝殿内で玉串奉奠が行われ神事一切は終わる。
2011年の映像では、境内にある茅葺の舞台で直会が行われるが、里舞いを行わなくなってからは直会も行われなくなったようだ。もともと年輩の方たちからの指導もあって続けられてきたが、うるさく言われなくなるとしだいに省略されるようになったようで、とくに里舞いが行われなくなったことで、神事が終わると祭り一切は終了となってしまう。かつては「若連」と言われる人たちによって行われた獅子舞は、「太々神楽保存会」に委ねられるようになり、今では若い人が保存会に入ってくることもなくなったよう。子ども神輿もなくなり、関係者以外の人たちが祭りに足を向けることがなくなったようで、今日も周囲に観客はほとんどいなかった。かつては祭日前の4月に入れば何日も練習をしたというが、今は2日のみだという。経験者ばかりだから何日も練習する必要もなくなり、またかつては練習をすると毎日のように飲んだというが、そういうこともなくなった。1年を通せば練習と祭りの日の奉納のみ。夏場に虫干しをする際に唯一飲む機会があるだけだという。祭日に建てていた幟が笠原内の三つの集落でそれぞれ祭りであることを知らせていた。しかしその幟も建てなくなって、神事だけが短時間で行われ、祭りは終わる。10時前に始まった神事は、獅子舞の奉納を含めても1時間に満たないものだった。里舞いがなくなったことで、ムラうちにおける祭事感はすっかり薄らいだといえる。
さて、ここの獅子舞についてはずいぶん古い伝承が残る。『みすゞ』(美篶村誌編纂委員会 1972年)の御射山社縁起および口碑伝説の項には、「文永永仁のころには(中略)、村の若者等各自一刀を帯して、ひとり先に獅子面をかぶり、抜刀を神前に供えると、若者一同逃げるように退散する。世が下って文亀永正のころから、横笛と太鼓で俗歌を合せ獅子舞を舞うに至り、更に現存の神楽となった」とある。文永とは1264年から1275年、永仁とは1293年から1299年、獅子舞に触れた文亀永正は1501年から1521年であり、中世にまで遡る。もし当時から行われているとすればとんでもなく古い獅子舞ということになるが、果たして現在のものが当時のものとは考えにくい。いずれにしてもこの地域では古い獅子舞であることは確かなのかもしれない。獅子舞そのものはゆったりしたもので、激しい舞はなく、所作もそれほど複雑ではない。獅子頭など道具を格納するための長持ちがあり、その長持ちの上に社を組んでいる。松本あたりから長野にかけての大神楽の獅子舞には、神楽と言われる同様の祠が付属する。ただ伊那近辺でこのような祠をしつらえる獅子舞を見たことがなかった。もちろん伊那周辺の獅子舞をすべて確認していないので確実なことは言えないが、県内の北部に見られる獅子舞の姿を少し垣間見た思いである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます