ブンチのシゲチャの家にて(令和2年2月26日)
撮影 令和2年4月9日
亡くなった母は、よく「ブンチのシゲチャ」と呼んでいた。母からは「ジケチャ」のことを語るとき以外で「ブンチ」という単語を聞いたことはなかったので、正確にその意味を問いただすこともなかった。おそらく「分地」のことをそう呼んだのだろう。ふつうならこのあたりでは「ベッケ」と呼ぶのだろうが、なぜか母は、「シゲチャ」に限って「ブンチ」を使った。
2月の末と、時を置いて今日、その「ブンチのシゲチャ」の家のあたりを仕事で歩いた。かつて二十世紀梨が植わっていたところをすべて伐ってしまって、桜の苗を植えたのはもう20年くらい前のことになるのだろうか。もちろん「ブンチのシゲチャ」も母もまだまだ元気なころのこと。どちらも今はもうあの世に行ってしまっている。「ブンチのシゲチャ」に会ったことは、母の実家で数えるほどのこと。母方の祖父母の亡くなった際に、葬儀で見たのが最後だろうか。もう40年くらい前のこと、近くで見たことがあるのは。その後わが社が全社員を対照にした研修会に、講演会の講師として来たことがあったが(それも、もう20年ほど前のこと)、もちろん遠目で見ていただけで、近くで話す機会もなかった。
「ブンチのシゲチャ」は、その名を「大沢茂男」という。母のいとこに当たる。ヒマラヤの世界最高度の湖で元旦に氷を割って泳いだのは、30回を数えただろうか。ギネス記録保持者にもなった。家のある場所は知っていたが、訪ねたことはない。はっきりした記憶にはないが、亡くなったのは平成25年ころのことと思う。自由な人生を送られただけに、周囲では変人扱いされていたことは、母からなんとなく聞いていた。
その「ブンチのシゲチャ」の家の周囲に足を運んで気がついたのは、家の前にたくさんの石碑が立っていることだった。入り口には「珠峯公園」と刻まれた碑が目立つ。台石も含めると、2メートル以上もある碑である。ところがその後に建てられた碑も、どれもこれも大きい。邪魔なくらいに石碑が庭を占領している。「なるほど」と思ったわけだが、今は誰もここには住んでいない。そして、周囲にはたくさんの桜が植えられていて、もう10年もすると、どれもこれも見事な桜になるのだろう。もちろん今も十分桜の園になっている。それは、JR飯田線に沿っているから、電車からもよく見える。かつてヒマラヤに行くためにトレーニングしていたプールは無残な姿を見せているが、往時の「ブンチのシゲチャ」が思い浮かぶ。時を置いて訪れたら、ちょうど桜が咲き始めていた。まだ満開とまではいかないが、「ブンチのシゲチャ」の家からは、桜の向こうに南アルプスの山並みが望めた。
参照検索 https://karaage.exblog.jp/20175902/
http://syntaxsystem.blogspot.com/2014/11/2014-11-05.html
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