本村道祖神、背後の道が「山道」
才光寺道祖神
生坂村会をさらに旧八坂村方面に向かうと、宇留賀本村に至る。旧八坂村を経て大町市に向かうこの県道沿いに集落は展開していて、奥まったところまで家々が点在するということはない。本村から旧八坂村境の才光寺までは川沿いの県道のほかに、「山道」と言われる道と、「上山道」という道が川に平行にあるようだが、部分的に車が通れるところはあるが、川沿いを通して車が通れる道は県道のみ。それだけ集落が厚く展開していないということだ。「山道」は旧道と言われているようだから、現在の県道に変わるかつては主な道だったのだろう。
本村の道祖神はこの「山道」沿いに建つと平成11年に発行された『生坂村誌』文化財編にある位置図に示されていた。集落上部から西側の寺沢という集落へ寄った、集落境のようなところにそれは記されていた。もちろん図に示されたあたりにあるのだろうと、車を停めてこの「山道」を西に歩いて行ったのだが、なかなかその姿が見えない。一段高いところにある家まで達し、それが寺沢集落の家だとわかると、来すぎたことを悟り再び来た道を戻った。「山道」より2メートル以上高い山肌には馬頭観音らしき石仏が点在していて、道祖神かと期待をもたせる。なぜ道沿いにではなく、高い山肌に祀られているのか、不思議に思いながら道を戻る。結局図に示された場所にはなさそうだと悟り、諦めて車に戻ると、車を停めたすぐ脇にある小さな祠のひとつに目指していた道祖神が祀られていた。このあたりの道祖神らしく、覆屋が施されているが、傾きかけている。『生坂村誌』が発行されたのは今から17年も前のことだから、その後ここに移転されたのだろう。そもそも人も通らなくなった山の中に道祖神を祀っても詣るのも容易ではない。身近な存在であるが故に、集落に近いところに移転されたのだろう。向かって左側面に「文化七年六月吉日」(1810年)と記されている。文化7年はそう古い時代ではないものの、すでに200年を経過している。小ぶりで素朴な面持ちの道祖神は、簡素で浅い彫りではあるものの、その年月を思わせないほど風化は少ない。
車は通ることはできないが、この「山道」を寺沢まで歩くと、その先は寺沢集落へ通じるための車道が開けていてその車道を西へ進むと才光寺の集落へ至り県道に通じる。県道に降りる手前に神明諏訪社があり、参道入口にやはり覆屋に納められた道祖神が建つ。暖簾風に注連飾りが掛けられていて、両脇にはヤスがいくつも束ねられている。ここでは酒樽風には作られていない。円形に加工された石は、石臼のようにも見える。ちょうど双体像がなければ、まさに石臼だ。ようは臼の中に浮き彫りされたのが双体像なのである。向かって右の男神は女神の手を自らの方に引き寄せ女神の右肩に手を掛けて抱き寄せる。女神も男神の左肩に手を掛けて仲睦まじい。石臼風の円光の淵に「安政六未年 正月建之 才光寺中」と刻まれている。背面に「帯代金七両也」と刻まれている。「下生坂竹の本の道祖神」で紹介した竹の本のものにも帯代が刻まれていたように、生坂村の道祖神にも帯代の刻まれたものは多い。前掲の『生坂村誌』によれば村内に16基あるという。「この地に道祖神盗みの風習が強くあったとは思われないし。盗み(嫁入り)の証拠に、一体の石に二つの村落名が刻まれているものもない」と同書にはある。ようは実際に道祖神盗みが行われたという痕跡は、生坂村にはないと捉えられるが、帯代の記された一覧の欄外に、「「大蔵村 帯代金拾五両 船戸 棚平中 安政三年」銘の双体像が、白日から隣村の小泉(明科町)の和泉神社参道へ移っている」とあるから、まったくなかったとも言えない。
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