昔のことを口にする世代になった。わたしも話者になりつつあるのだろうが、誰も聞いてくれなければそうはならない。したがってここに記すぐらいがわたしの「記憶」が残る場所である。
わたしの学校の同級生と言えば、おおかたが農家の子どもたちだった。それが当り前だと思っていたし、自然なことだった、地方では。そして親と言えば農業をしながら農閑期は働きに出たり、あるいは農閑期でなくともすでに仕事を家以外に持つようになっていた。わたしが生まれたころ大きな災害があったから、その復興のために土建屋が増えた時代。したがって土建業に関わる親が多かったかもしれない。とはいえそれは本業ではなく、副業だとわたしは思い込んでいた。しかし冷静に考えてみると、すでに親世代は生業は農業ではなく、土木作業員が主のサラリーマンだったのかもしれないが、「親の職業」は「農家」と答えた同級生は多かったように思う。ちょうど「農家」から「勤め人」に変わる世代が、わたしの親世代だったのかもしれない。とはいえ、わたしの父は勤め人ではなかった。やはりふだんは農業、傍らで副業をしていたのが父にとっての生業時代と言える。もちろん年老いた後も、農業は続けたが…。
そんな時代のおとなは、野に働いたから、みな真っ黒だった。それも当たり前だと思っていた。父は近くの河原で石割の仕事をしていたから、真夏もランニング1枚で働いていた。昔はそういうおとながたくさんいた。それが当り前だと思ったから、子ども達も同様だったし、わたしが社会人になっても、同様に汗をかいて働くものだと思っていた。父の姉の嫁いだ会社が石材業をしていて、そこで高校時代にアルバイトをしたのは、わたしの生業に対する姿勢の原点にもなった。もちろん炎天下でも帽子も被らず、石材を扱っていた。疲れたのは言うまでもないし、楽な仕事ではなかった。従兄弟(母父の姉の息子さん)から「ここで働ければ、どこでも働ける」と言われたが、それはあくまでも身体を使って働く仕事のことで、頭を使って働く仕事がどこでもできるというわけではなかっただろう、と今は思う。今も働く会社に入ってからも、炎天下でも帽子は被らなかったし、作業着も半そでを好んで利用した。現場には夏でも長袖、という感覚が当り前だったのに、わたしは違った。それは生業である会社の仕事以外でも変わらず、今から10年ほど前まで、当り前に同じ格好で働いた。夏は「真っ黒」が夏のわたしだった。髪の毛が長かった方なので、比較的顔は真っ黒にはならなかったが、半そでが当り前だったわたしは、腕は真っ黒たった。さすがに紫外線が強くなったと感じて、ここ10年ほど前からは半そででも腕を隔すようなアームカバーを利用するようになって、ずいぶん腕の色は昔と変わった。しかし、長年の蓄積だろう、色白とは言えない。
さて、このごろは色白の人が多くなった。そもそも外で働く人が減った。かつてのように地方でも農業をする人は格段に減少した。こんな光景が当り前になる時代が来るとは思っていなかった。気がつけば野で働く人はいない。もちろん夏の暑さのせいもあるが、農家が外に出なくて働くことはできない。ただ農業従事者は減ったから、地方の光景は大きく変わった。そして色白の人が増えた。同世代でも、執務室内でずっと働くことが多かった人たちは、わたしよりは白い。年老いても若く見えのもうなずける。外に出る人たちも、今では肌が見えないくらい隔して働く人は多い。女性はもちろんだが、男性も。いろいろ昔と変わったが、人々の姿が変わったのも事実だ。
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