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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

千曲市森の自然石道祖神 前編

2024-10-01 23:43:08 | 民俗学

 これまで東信の自然石道祖神を見てきたが、実は自然石道祖神は北信域にも多い。小布施町の自然石道祖神について先ごろ触れたところだが、長野市には自然石のみを祀って「道祖神」としているところが多い。特徴的ではないかと思われた千曲市森を訪ねてみた。

 

千曲市森石田理髪店西 自然石道祖神(令和6年8月21日撮影)

 

 森はあんずの里として知られているが、集落の真ん中を沢山川が北進して流れている。ようは北が下流で、南が上流となる。したがって集落の入口は北側にあるということになるが、千曲市中心から森に入り、北寄りの住宅密集地内の三叉路に道祖神が祀られている。石田理髪店という店の西側に建物の土台に沿って道端に並べられている。そこそこ大きな石のため、通行に邪魔かもしれないが、この石を道祖神かと聞いても「解らない」と答える人は多い。事実理髪店の方に聞いても不明であった。見ての通り、「二十三夜」2基とともに無銘の石がふたつ並んでいる。この二つが道祖神である。実は東信境から長野市あたりの自然石道祖神は、こんな感じの石碑が多い。これまで扱ってきた自然石道祖神と言うと、ゴツゴツしたいしだったり、溶岩風のものだったり、また伊那市内のもののように緑色の石だったり、特殊な石であることがほとんどだった。ところがここの道祖神を見ると、ほかの石碑と石質も似ていれば、まさに石碑の形をしていて、ただ無銘名だけなのである。風化して文字が消えた?、ともいえるかもしれないが、おそらく彫った形跡はない。裏を返すと、いまから「道祖神」と彫っても彫れないことはないということになる。

 この理髪店の横にある道祖神は、北西の中村池のあたりにあったものが、道路の拡張のためここに移されたのだという。

 

更埴市森岡森集会所前辻 自然石道祖神(令和6年8月21日撮影)

 

 さて、ここから南西400メートルほどのところにやはり大きな池がある。その脇に「岡森集会所」がある。その前に変則な四つ角があるが、集会所側の辻隅にやはり自然石道祖神が立っている。前述のものより小ぶりであるが、「文字が彫ってあるのでは?」と見てみるが、刻銘らしきものはない。前述のものほとせ石碑っぽくはないが、これらも「道祖神」と彫って彫れないことはない。そしてこれらも花崗岩系で、珍しい石ではない。

 このように、このあたりの自然石道祖神は、これまでの傾向とは少し異なる。

続く

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本曽倉 御坂山神社獅子舞 後編

2024-09-30 23:15:44 | 民俗学

本曽倉 御坂山神社獅子舞 前編より

 

下曽倉でのお囃子

 

原いきいき交流センターでの「悪魔っぱらい」

 

原いきいき交流センターでの「オネリ」

 

下曽倉の辻での獅子舞

 

本曽倉改善センター前の「オネリ」

 

御坂山神社前での獅子舞(令和6年9月28日撮影)

 

 御坂山神社の氏子は、およそ120戸という。集落でいえば本曽倉と原の二つの集落が氏子域にあたる。中沢には7つの氏神があって、諏訪神社が多く、前編でも記した通り、御坂山神社も主祭神は諏訪神社である。獅子舞については、永禄5年(1562)に穴山梅雪が駿河に移る際に妻子を預かっていたという北原家に女神楽獅子が、祝いの獅子舞に驚いて孫娘がショック死してしまったという言い伝えがあるという。江戸時代以前から今の形の獅子舞が舞われていたとは考えにくいが、古い時代より伝わっていて、どこから伝わったという言い伝えはないという。

 7か所で舞われる獅子舞は、ほぼ同じことの繰り返しで舞われる。獅子舞の前にお囃子が奏でられるが、ここでは東伊那に多い三味線は加わらない。鼓と締め太鼓、大太鼓に横笛という構成で、次の6曲が囃される。

かぞえ唄
高遠囃子
スッテケ
チャンチャラ
オン琴
追いまわし

 獅子舞は2種類で、最初に悪魔っぱらい。幌の端を絞って両手で持ちくるくると回しながら前進しながら舞は始まる。そして絞っていた幌を拡げて両手で持ちゆったりと右へ左へと舞い、

やれ三尺の御幣を持っては 悪魔を払うと ありゃせー

と言葉が入ると右手に御幣、左手に鈴を手にして右へ左へと舞を繰り返す。その際、後方のヒョットコが扇子で獅子を仰いでいかにも暑さを払うような仕草をしながら、獅子の様子をうかがう。

太平楽よと あらたまると ヤッセ
ことしゃよがよで 穂に穂が咲いたと アリャセ
土手のかわずの 鳴くのもおどりと アリャセ

といった言葉が入り、同じ舞が繰り返され、

これでとめおく お供えの ごはんじょと アリャセ

で幌の中にもう二人加わって幌を大きく広げてよそでいう「蚤取り」のように頭が自分の身体を噛むような所作をし、太鼓が小刻みに叩かれる。

そして

おっと坊さん危ないしょ

と声が掛けられると、大きな動きで右へ左へと舞い始める。

お先はなんと、なかは
あとはおやじの借金払い

といった言葉が掛けられ、獅子は左右に動きなくとどまっている子獅子に近寄ってあやすような所作をする。もちろん子獅子が無かったころは、こうした獅子同士が相対することはなかったのだろうが。

 これで悪魔っぱらいが終わり、オネリとなる。オネリの際は幌の中に3人入り、やはり幌を高く上げて大きく見せながら前進するが、各所で行う際はその場で舞うにとどまる。唯一、本曽倉改善センターの前で舞う際は、オネリが悪魔っぱらいより先に舞われる。それは参道に当るからなのだろう、参道の入口から神社下の入口まで、まさにお練りをして進んでいく。その後改善センターの前で悪魔っぱらいが舞われ、最後の神社での奉納に向かうことになる。この改善センターまでは北原さんが造られたという頭で舞われ、ここで頭を交換し神社に上って行くのである。

 神社では神殿のある段でお囃子と悪魔っぱらい舞わされ、最後は神殿に向かって入り込むような仕草で舞は終わる。この後役員、保存会の皆さん、そして参拝者も含めてお神酒をいただき、宵祭りは終了となる。

 オネリは単調な流れの曲で難しいらしく、この日下曽倉で舞われる際にはお師匠さんが加わった。また、女獅子と言われていて、赤い袴を着ており、やはり刀を持つ舞は伴わない。この日は曇り空の下であったが、天候が良いと、下曽倉の辻からはおそらく木曽駒の山々が望めるし、参道を練る際にも対岸の中沢の集落やその背景の山々が写り込んで農村らしい光景が見られたはず。傾斜地ならではの周辺環境と併せ獅子舞が楽しめるのではないかと思う。

 

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よく分からない習慣

2024-09-29 23:09:59 | つぶやき

 綴じてあるものに限らず、綴じてなくても縦書きのものなら右開き(左から右へ)、横書きなら左開き(右から左へ)が当り前だ。日本はこのあたりも複雑な意識をもたらす。こんなことは当り前なのに、ふだんどのような読み物に接しているかで、当たり前のことがそうではなくなる、ということをいつも自分の中ではうっとおしく思っているのだが、これって味噌汁を右に置くか左におくかにも繋がっている。もちろん当たり前なのは右に置く、ではあるが…。味噌汁については「日本人の多くは右利きなので、持つ回数の多いご飯を左側に、味噌汁を右側の位置に配膳します」なとんていう解説がされている。では、味噌汁の方が持つ回数が多い人は、左置き、ということになるのか、というとそうではない。いわゆるマナーなどという言葉で括られてしまうが、では左利きの人は?となってしまう。

 横書きが一般的になった日本社会では、仕事の上では左開きがごく普通になった。ふだんがそうだから、たとえ縦書きの資料があっても、左開きに開いてしまうことがよくある。もちろん本のようにページ数が多い縦書きのものを連続して読むには右開きに読んでいくが、数枚の物を綴じようとする際に、縦書きと横書きが混在していると悩んだりする。大方のものが横書きであれば、縦書きのものが一部混ざっていても左を綴じる。引用物として資料をまとめようとすると、ちょっと厄介なのものだが、厄介だと思うほどの経験は、めったにない。縦書きのものも日常には溢れているから、右開きすることも当たり前にある。日本の雑誌はほぼ縦書きだから右開きが普通だ。漫画だって縦書きでずっときているから、けしてそれらを左開きすることはない。にもかかわらず、わたしは新聞は右開きする。これがなぜなのかはよくわからない。子どものころ、最初に見るページがテレビ欄だったからかもしれない。新聞は裏から開くもの、という癖がついた。どれほど一面に大きな記事が出ていようと、必ず裏から左開きに見ていく。そもそも新聞は全て読まない、部分的、というのも影響しているかもしれない。テレビ欄の裏には社会面が続く。ふつうの新聞はほぼ構成が同じだから、新聞と言えば左開きが通常だ。おそらく新聞を読まない今の若い世代は、こんな癖はついていないはず。自分でも、なぜ裏から左に開いていくか、本当のところは分からない。子どものころからそうだったから、違和感があっても、この行為はずっと続いている。

 もう一度味噌汁に戻ろう。かつてこの日記に記しているのかもしれないが、味噌汁を右側に於いていて、椀をひっくり返した経験が何度もある。したがってご飯茶碗を持つことが多い通常の食事では、動作の多い側に汁物を配膳するのは危険なのかもしれない。にもかかわらず常に椀を右に置いていてひっくり返した際の記憶が強いから、「なぜ左ではいけないのだろう」などと意識してしまう。ひとが見ておらず、ひとりで食事する際に、わたしは味噌汁を左に置くことがよくある。なぜかといえば、味噌汁は必ず飲みたい性格で、食事では必須のもの。美味しい、不味いはともかくとして、味噌汁を飲む際にちょっとした幸福感を覚えるのは、習慣からくるものだろう。その際手にとりやすい左側にあることによって、わずらわしさが低減されることが、その理由かもしれない。でも、これも新聞を左に開いていくのと似ていて、本当の理由はわからない。

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本曽倉 御坂山神社獅子舞 前編

2024-09-28 23:45:18 | 民俗学

 駒ヶ根市中沢は、天竜川左岸にある山間地域。真ん中を新宮川が流れており、その右岸(北側)は江戸時代は本曽倉(ほんそぐら)村だった。安政5年にその本曽倉村から原村が分かれて二つの村になったが、明治になるとさらに中山村、大曽倉村、中曽倉村、本曽倉村の4村になった。二つに分かれていた本曽倉村と原村はこのとき再び一つの村にまとまっている。現在も自治上は4つの集落が残っているうえに、同じ本曽倉とはいえ、原と本曽倉は独立して自治は行われているようだ。明治の村4つには、それぞれ神社があり、本曽倉には御坂山神社が祀られている。とはいえ、原村が分かれていたこともあり、原村には明治の合祀までは熊野神社が産土様として祀られていたという。また、本曽倉に祀られていた神社は諏訪神社といわれていたようだが、合祀の際に現在の御坂山神社に改称したよう。このとき(明治41年)熊野社と大津渡(おんど)にあった妙見社を合わせて三社が合祀されたという。まだ真新しい現在の社殿は、平成28年に覆殿が新しくされたもので、本殿そのものはかつてのものである。覆殿の中にかつて祀られていた3社が納められたわけで、それまでは茅葺の覆殿が三つ並んでいた。趣のある光景だったようだが、茅葺では維持が大変だということもあって、銅板葺きの覆殿が新築された。

 この御坂山神社の西側は洞になっていて、そこには桃源院という寺がある。しばらく前に最初にこの御坂山神社を訪れた際には、この桃源院側から東の斜面を上って尾根に出て神社があることを知った。実際の参道は南側から上る道があるが、境内までは歩く道で、車では上がれない。おそらく覆殿を新しくする際には参道からではなく、桃源院側から入ったようだ。この神社境内は、その東側にある洞と桃源院のある洞に挟まれた尾根にある。ところが境内はその尾根が窪んでいて、その窪みに神社が建てられている。人為的に掘られた窪みか?、と最初に訪れた際に思ったが、あらためて今回訪ねて、境内の南側にかつては舞台があったと聞き、この境内が舞台に向かって傾斜していること、さらに窪んでいることから舞台に向かって左右が尾根に向かって傾斜していて観覧席のようになっていること、などから人為的にこの空間は造られたのではないか、と想像した。神社背後は尾根の頂になっていて、けしてこれが自然にできない地形ではないだろうが、舞台に対してよく配置された空間は、人為的であると想像させる。

 

御坂山神社獅子舞 オネリ(令和6年9月28日撮影)

 

 さて、御坂山神社では9月の第4日曜日が例祭にあてられている。その宵祭りである前日に、獅子舞が地区内で舞われる。この獅子舞を舞う行程や、獅子舞の構成に感心させられた。昔とそれほど変わっていない、そう関係者は言われるが、実は大きな変化が、現在神社で獅子舞が奉納される際の頭を更新した際にあったよう。今年はおもしろかっぱ館のある天竜川の橋の東側で最初に舞われた。午後1時ころのことと想像する。わたしは次の原地区にある集会施設(原いきいき交流センター)から見させてもらったが、このほか、新宮川沿いの原下段、下曽倉、大津渡の竹村家(菅の台に移築されている重要文化財「竹村家」のあった家)、本曽倉改善センター前、神社と7カ所で獅子舞は舞われる。山間と言うことや神社境内が歩いて上らないと行けない、という環境もあって、地区内に出て舞うことは、自ずと求められる姿。そして地区内で舞う際の頭は神社で舞う際の頭とは異なる。写真にも登場している「子獅子」の頭もその頭と同様に神社で舞う際に使われる頭と同じころに造られたもので、地元の北原さんという方が彫ったものだという。以前飯島町本郷の人形芝居について記したことがあるが、その人形も地元の方が製作されたものがいくつも利用されていた。今でこそ専門家に依頼して頭を用意するのは当り前だが、昔のこうした芸能の発祥時には、「自ら造る」というケースは多かったのではないだろうか。それだけ巧者な方が、地元には誰かしらいたものなのだ。とはいえ本曽倉の頭は素人が造られたとはいえ他の獅子舞の頭とそん色なく、ちゃんと利用されているわけで、この地区の獅子舞を続ける原点になっているようにも見える。そして子獅子を加えたことで、子どもたちが参加しやすい環境が整った。獅子舞のお練りに子獅子が加わり、囃子の太鼓を担う子どももいる。ようは継続していく環境が整っているように見える。神社で奉納される際には役員しかそれを見守っている人はいなかったが、各地区では近くの方が集まり、獅子舞を見守る光景が見られた。さすがに山間地域ということもあって子どもは少なく、子獅子は2頭だったが、北原さんが製作した子獅子は4つあるという。子どもが4人以上いれば4頭舞に加わると言うから、賑やかな獅子舞となるのだろう。

続く

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石造「蚕玉神」

2024-09-27 23:55:32 | 地域から学ぶ

「蚕玉神」辰野町沢底鎮大神社北側(令和6年8月26日撮影)

 

 今年7月、竹淵三郎平作の辰野町上辰野の「霊符尊」という珍しい石造物について触れたが、竹淵三郎平は1845に生まれ、1907年に没している。『伊那路』2021年7月号へ上辰野堀上荒井の道祖神について記事を載せたところ、竹淵三郎平の末裔の方から連絡いただいた。実は本日記でこの道祖神について書いているような気がしたのだが、検索しても登場しない。道祖神では唯一、堀上荒井の近くにある堀上竹原の道祖神について触れているだけだった。8月26日の長野県民俗の会例会後の見学会では、通過地点であったこともあり、堀上荒井の道祖神近くの蚕玉様(前述の霊符尊と同じ所に祀られている者)に立ち寄ったが、竹淵三郎平作の蚕神では代表作である。この蚕玉様もここで触れているかと思ったら、検索上に現れない。ちょっと意外だった。

 さて、竹淵三郎平作の石造物は特徴的だ。碑の上部に道祖神でも蚕神でも日輪と月輪が彫られる。上辰野のものは、女神像を蚕を飼う籠の中に彫りこんでいる。蚕の籠、わたしの生家では「かごろじ」と呼んでいたが、蚕を飼う際には必ず使われたもので、この籠はたくさんあった。養蚕繁盛を願う意図が、この像から強く感じられるわけである。この見学会を終えた後、ちょっとしたトラブルがあって、見学会で午前中訪れた辰野町沢底の鎮大神社を再度午後訪れた。午前中訪れた際には気がつかなかったのだが、鎮大神社のすぐ北隣に、同じ竹淵三郎平作の蚕玉様が祀られていたことに気づいた。そもそも鎮大神社の隣に小さめの石の鳥居がある。ここに「何が祀られているのだろう」と気を留められなかったのは、予定時間を気にしていたせいもある。石の蚕玉様の本尊の手前に、そのために鳥居が設けられているケースは珍しい。おそらく蚕玉様の正面に、蚕玉様へ誘導するように据えられたと思われる。

 ここの蚕玉様は、上辰野の物より一まわり大きい。上部の月輪は正面を向いているが、石の方に合わせて日輪は斜め上を向いて彫られている。上辰野のものと違って女神は桑を左手に持つ。そして右手には繭を持っているようだ。上辰野のものと同じように女神はかごろじの中に掘られていて、その周囲に縁起物がいろいろ彫りこんである。上辰野のものは南向きの日当たりの良い場所に祀られているが、ここのものは、木々に覆われていて、あまりひと目にはつかない(だからこそ午前中気づかなかったわけだが)。なお、背面に「明治十四年 六月吉日」と刻まれている。

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闇の世界へ、サヨウナラ

2024-09-26 23:45:24 | ひとから学ぶ

 今朝、会社へ向かって歩いていると、マチの中で道路上を掃いている人を見かけた。秋だからといって、まだ落葉が盛んな時期ではない。見た感じでは落ち葉を掃いているわけでもなく、「何を掃いているのだろう」と気になったのだが、掃くようなモノは目に入らなかった。既に目的のモノは掃き終わっていて、わたしの目に入らなかっただけかもしれない。ということで箒で掃く最後の段階だったのかもしれないが、そのおじさん、側溝の暗渠に時おりあるグレーチングの中に掃き落としていた。ようは掃除したモノは、側溝内に消えていったというわけだ。どのようなモノだったのか、見当もつかないが、それほど大きなモノではなかっただろう、とは思う。

 玄関先の目障りなものを、目の前から消す。その行き所が側溝(暗渠)となれば、いずれはその闇の中はモノで溢れ、側溝としての機能を失う、かもしれない。もちろんよほどのことがなければだが、いっぽう近年はちょっとした雨で側溝は溢れる。そしてそこに溜まっていたものも流されていくのかもしれない。目障りなものを闇に葬るには、側溝は身近なゴミ捨て場、かもしれない。とりわけ暗渠になっていればなおさらだ。周囲の人も気がつかず、気がついたとしても、それは事故があってからのこと。この闇の世界は「罪深い」。

 「人が見ていなければ」とかつては、いいや今もそうかもしれないが、ゴミは葬られる。それはゴミとして容易に処分可能なら、合法不法は無関係だ。とりわけ人目につかない、そして身近な場所は、うってつけでもある。雪が降って、自家の前は綺麗にするのに、その雪が道に押し出されたりするのは、闇ではないが似たような意識。雪はそのうちに解けて消えてしまうから、暗渠の世界、ようは闇の世界と同じようなもの。おじさんにとって、グレーチングの先の世界など、もはや自分の世界ではないのだ。

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飯山市桑名川名立神社例祭へ⑥

2024-09-25 23:30:35 | 民俗学

飯山市桑名川名立神社例祭へ⑤より

 

桑名川名立神社「サイトロメン」(9月1日午前零時過ぎ~午前零時45分)

 

最後に祭典掛長の挨拶があり、一切終了となる

 

 桑名川の祭りは飯山市指定の無形民俗文化財となっている。概要説明には「伝統芸能として、獅子舞・天狗舞・薙刀舞・みおまい・剣の舞・さいとり舞と数多くの舞いが受け継がれている。特に剣の舞は稀少な舞いとして貴重。「とうろうづれ」はなくなっているが、前日から当日の所作は、古式にのっとり行われている。」(八十二文化財団の「信州の文化財を探す」より)と書かれている。指定された際の主旨かどうかは不明だが、そもそもこういうスタイルで指定されている例は少ない。何を言いたいかというと、民俗芸能として指定されているのだろうが、その種別は何かというと、はっきりしない。全体を指定しているとすれば「風流」なのだろうか。あるいは国の重要無形民俗文化財の「雨宮の御神事の芸能」を例にとれば「その他」なのかもしれない。ようは芸能の種別で区分けできないということになるのだろう。部分部分では区別できるのだろうが、総合的な民俗芸能だからあえて区分けしていないということになる。なるほど「その他」であれば多様なものはすべて括られる。桑名川の祭りは主たる芸能は獅子舞になるのだろうが、そこに加わっている舞を括って指定するとなると多様性がある。したがって「その他」にすれば何でもありというわけである。ただここに記されている説明では「とうろうづれはなくなっている」となっていて、必ずしも正しくない。

 さて、祭りの最後は地元の人たちも「余興」と言う「さいとろめん」である。いわゆるサイトリサシである。サイトリサシについては、今年4月に旧四賀村錦部の殿野入春日神社で行われた例祭の「とりさし」について記している。サイトリサシについては浦山佳恵氏によって全国での実施状況も踏まえて『長野県民俗の会会報』42号において「飯山市西大滝のサイトロメン」と題した報告がされている。全国の事例は16例紹介されており、著名なものは殿野入の記事でも紹介したとおり、鳥取県のものが知られるが、実施例からいくと長野県は全国の中では多く残存している。かつてはどこにでもあった舞なのだろうが、今や貴重なものとなっている。とりわけ飯山下水内地域で8例あげられていて(1例は野澤温泉村だから下高井ではあるが)、集中地域とも言える。その多くは桑名川同様に獅子舞や天狗の舞がセットで行われていて、奥信濃独特な芸能と言える。

 桑名川のサイトロメンは大人の男性によって舞われており、舞いというよりは余興と言うように面白おかしく観衆とやりとりをする「芸」と言った方がよいかもしれない。殿野入のものは舞と言えたかもしれないが、ここのものは舞らしい舞はない。ただ、花笠で鳥を押さえようとして、最後は鳥を逃がしてしまう、というトリサシ舞の共通の流れは押さえていて、まさにサイトリサシであることはうかがえる。桑名川の場合前述したように観衆とのやり取りによって成り立つ。したがって観衆のヤジが入ることで、場が盛り上がるわけでこのキャッチボールがないと独り相撲となってしまう。最初に登場する一人によって進められるが、途中からもう二人登場し、怪しげなしぐさをする。そうこうしているうちに花笠の中に仕留めた鳥を(実際は架空の鳥)逃がしてしまうわけである。

一つひよどり
二つふくろう
三つみみずく
四つよたか
五ついじくない
六つむくどり
七つなぎさぎ
八つ山鳥
九つ小鳥
十が戸隠山へ逃げた鳥

と語って逃がしてしまう。斎藤武雄氏は『奥信濃の祭り考』(昭和57年 信濃毎日新聞社)の中で「正月行事の子どもが行う鳥追いの予祝的な鳥害の防除祈願に対して、秋の収穫に対する直接的な呪術的な要素を盛った内容のものであると見てよい」と述べている。いずれにしても剣の舞も特別であるが、サイトロメンも余興とはいえ今では希少なものとなっており、トータルに見ても奥信濃らしい総合民俗芸能と言えるのだろう。

終わり

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旧三郷村を訪ねて

2024-09-24 23:22:32 | 地域から学ぶ

安曇野市三郷二木地蔵堂横「大乗妙典納経塔」

 

三柱神社、白山社 風神祭

 

安曇野市三郷南小倉「カスミザクラ」

 

安曇野市三郷南小倉(室山西側)

 

 今日、安曇野市の旧三郷村の明盛と小倉を訪ねた。その中でわたし的に印象に強く残ったものを取り上げておく。

 まず二木の地蔵堂の横にあった石碑群のうち、写真の雨よけの屋根をいただいている大乗妙典納経塔である。何に効果があるのかは定かではないが、台となっている竿の上におそらく地蔵尊が安置されているものと思う。そのお顔を拝顔しようと試みたが、不可能だった。よくお地蔵さんに前垂れが掛けられていれば、それを外して撮影することはよくあるのだが、この尊像には前垂れどころか頭から布が被せられていて、全く様子がうかがえない。さらにその布が1枚や2枚ではない。10枚以上かもっとたくさんかもしれないが、尊像を隠すように巻かれている。とてもこれらを1枚ずつ剥がしていくつもりにはなれなかった。ようは元通りに戻せない可能性がある。顔だけ出していればともかく、完全に前進覆われてしまっていて、触るとボコボコのパンパンなのである。なかなかこのような尊像に出会ったことはない。

 次は同じ二木にある三柱神社と北小倉にある白山社の、いずれも風神祭の祈願札である。安曇野市内でこれまで何人かに聞いてきて思ったのは、このあたりではどこの神社でも風神祭(ふうじんさい)を行っている。『三郷村誌』の神社の項の説明では、三柱神社の風神祭は8月29日、白山社の風神祭は8月9日とあるが、おそらく両社とも現在は同じころに実施されていると思われる。宮司印が同じことから、お札を刷ったのは同じ人かもしれない。そして飾り方もほぼ同じである。やはり宮司によるところが大きいという印象だ。

 南小倉のカスミザクラは、花が咲いているわけではないのに、ずいぶん目立つ桜の木である。旧泉光寺の門前のあたりにあったと言われる桜で、目通り2.5メートルの桜の木という。この南小倉の一帯は、室山という独立した山の西側に展開していて、このあたりには珍しく広い水田地帯であった。そもそも三郷の中心である二木や長尾といったエリアには水田が多いが、その上段は江戸時代官林だったため、人々は立ち入れなかった空間だという。その官林が南北にあった、その西の山の麓に小倉の集落がある。官林が開拓されて現在は中信平左岸の水を配して果樹園地帯になっていて、これより上には水田が少ないのだが、室山の西側にはまとまって水田があった。ところが今はこの一帯に稲の姿は全くない。全て転作されていて、水田となっている田んぼが1枚も無いのだ。これほど徹底されて転作されているのは珍しいかもしれない。そもそも集落の周辺に水田がないとなると、このあたりの人たちは米を作っていないということになる。北小倉の集落の北側あたりに水田が少し見えるが、本当に水田が無いエリア。小倉の人々は、もともと水田が少なかったため、堀金のあたりに水田を持っていて、そこまで耕作に行っていたという。もちろん今でもそういう人はいるのかもしれないが、集落周辺に水田が乏しいという姿はここの特徴である。

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第六天

2024-09-23 23:14:40 | 民俗学

箕輪町東箕輪長岡神社境内「第六天」

 

 かつて下諏訪町の第六天について触れた。とりわけその第六天は「大六天」と刻まれていたが、男根の形をした「道祖神」と並んでいた。道祖神の威力を、第六天によってさらにパワーアップしようというようにも見えた。まだこの日記を始めて間もない2006年にも「大六天」と題してここに記している。その際、「あちこちでこうした信仰の対象物をみてきたが、第六天の碑は、ここでしかわたしは見ていない。」と記しているが、あれから20年、第六天の石碑はある程度確認してきた。しかし、それらはほぼ上伊那でしか目にしていない。この辺りに多いということになるのだろう。Wikipediaの「第六天神社」には、全国にある主だった第六天神社が一覧化されている。関東に多いようだが、長野県内の第六天神社は5社あげられているが、諏訪から伊那市あたりの神社である。やはりこのあたりに第六天への信仰が篤いということになるのだろう。

 写真は箕輪町東箕輪の長岡神社に祀られている「第六天」である。彫りの深い見事な「第六天」である。伊那市の「信濃錦」醸造元である宮島酒店で「信濃錦」の純米酒として「第六天」という酒を出している。そのページに、そもそもこの酒を出すきっかけにもなったと思われる伊那市上戸にある第六天神社について説明している。

 仏教では、生死を繰り返して輪廻する世界を三つに分けており、それを三界(欲界・色界・無色界)と呼びます。さらに、欲界は六欲天と呼ばれる6つの天界に分類されます。
 第六天とは、六欲天における最高位の場所であり、そこは魔王または天魔の住処でもあるとされています。
 第六天神社とは、第六天魔王を祀っている神社の総称ではなく、第六天の住まう天神を祀っている神社もあります。地域によっては、水神や竜神などに習合(いくつかの教義が取り合わさること)されて祀られているケースもあります。
 武家社会の間で信仰の対象の一つとして浸透し、現在の関東地方を中心に第六天神社は広がったとされています。
 その後、明治期の神仏分離令により、第六天を祀る神社の多くは祭神を変更しており、現在も第六天を祀る独立神社は全国に36社程度しか残っておらが、そのうち長野県内には5社が残っています。
 伊那市西箕輪にある第六天西山神社は、五穀豊穣と農民の安全を守るため1405年(応永12年)に創建された、現在も第六天を祀る神社です。
 1615年大阪夏の陣に、飯田城主小笠原秀政について従軍した鈴木源三郎が、天守閣の瓦礫の中から持ち帰ったとされる黄金に輝く御幣には柄に「第六天」と書いてあり、その御幣を巫女のお告げに従って丁重に扱うとともに、より高い場所に祀りなおすと、大豊作になったという伝説が残っています。
 また、安政の大干ばつの際に祈願したところ大雨が降ったことなどから、人々の篤い信仰を集めたとされています。

 特別な力をここに求めたわけではなく、ふつうの氏神様として祀られてきたことがわかる。ただ、あえて「第六天」というところを意識すればその力は無限のようにも見える。過去の「大六天」の記事を紐解くと、わたし的にはよく書けていると思うがどうだろう。

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東信の道祖神と五輪塔⑧

2024-09-22 23:02:06 | 民俗学

東信の道祖神と五輪塔⑦より

 

東御市田中常田南交差点南東の道祖神

 

 しなの鉄道田中駅の東、県道81号丸子東部インター線と県道166号東部望月線の交差点は「常田南」という。常田と田中の境あたりになるが、この交差点は旧北国街道がちょうど交差する場所になる。その信号機の南東に旧北国街道から下りてくる取付道路が整備されていて、交差部に余裕の空間ができている。整備する際に道路の取付上できた空間で、ここに石碑が祀られている。立派な舞台は巨石で組まれていて、その上に2基の「道祖神」が祀られている。向かって右側古いもので、この整備に併せて新たに「道祖神」を左側に造立したもののよう。左側の新しい道祖神の背面に、次のように刻まれている。

道路拡張の為この地に移転
神田道祖神の文字損壊の為
平成十五年十二月吉日再建

移転後にさらに文字損壊で再建したのか、同時だったのかは定かではないが、右側の道祖神の文字の上の方が欠けているのがわかる。摩耗したというよりは剥離してしまったという感じだ。

 さて、『東信濃の道祖神』(2023年 岡村知彦)にこの道祖神の写真が掲載されていて、実は両者は背面が一部見えているだけで、後ろにある石棒などを捉えている。したがってその写真だけを見てここを訪れようとすると、印象が全く違う。まさに最初わたしはそう思ったわけで、後ろ側を見て「あーこの写真か」とわかった次第。ようは文字碑ではなくこの背面に置かれている石に注目しているのである、著者は。同書では文字碑2基のほか、道祖神として石棒3基を取り上げている。正面からも見えている二つの文字碑の間に見えているものが石棒とはわかるが、あと二つがどれかははっきりしない。ようはほかにも石がゴロゴロと置かれているからだ。10個以上あるだろうか、間っぽい石が並べられている。そしてそれらの中には五輪塔の頭部と思われるものがいくつも見える。ここでも繰り返すが、どこまでが道祖神なのか、はっきりしない。

続く

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東信の道祖神と五輪塔⑦

2024-09-21 23:31:04 | 民俗学

東信の道祖神と五輪塔⑥より

 

小諸市滋野甲芝生多公民館北側

 

 小諸市西部、国道18号の芝生田信号機の南側に芝生田公民館がある。この脇から多古神社の参道が始まっていて、鳥居が見える。国道18号の上を渡って多古神社への参道は続く。この鳥居の左わきに石がゴロゴロしている。中に双体道祖神や「道祖神」といった碑が見えて、そこが道祖神の祭祀空間であることがすぐにわかる。

 岡村知彦氏の『北佐久石造文化財集成』の小諸市編によると、道祖神としては4基報告されている。文字碑が3基、双体像が1基である。写真の右手2基、左端の1基に「道祖神」が見える。その左端の「道祖神」の右側に双体像がある。ほかの石はどのように報告されているかと言うと、石神として石棒が3基、五輪塔の空風輪の残欠が3個、火輪が2個とされている。中より手前左手の五輪塔らしく見えるものは一つ欠けているだけで五輪塔の完全形に近い。組み合わせ次第では完全形になるのだろうが、そもそも五輪塔としての役目を失っているため、あえて五輪に組み合わせる必要も無いのだろう。石棒3基はその左手にある棒状のもの3つと考えられるが、双体像の前にある火山岩系の黒っぽいものは五輪塔の空風にも近い。ただ、上記以外の石がそこに加わっている。双体像の右手のゴツゴツした石は上に五輪塔残欠が載っているが、自然石道祖神として捉えられそうだ。手前の五輪塔の背面にも写真には写っていないが小さな石があって、棒状と言えるものなのかもしれない。そのほかにも丸っぽい石がいくつか置かれている。

 ちなみに双体像には銘文はないが、右端の「道祖神」には「天保四巳年十一月吉日 願主柳沢角左ェ門 久保寺熊吉」とある。

続く

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東信の道祖神と五輪塔⑥

2024-09-20 23:46:13 | 民俗学

東信の道祖神と五輪塔⑤より

 

 

 小諸市西原は、芝生田の東隣であり、東御市に近い位置にある。近くに小諸インターがあるから、「小諸市菱平後平の道祖神」とは近い位置ということになる。旧北国街道の西原の西はずれから浅間山の方に向かう細い道がある。「大道」とは言うものの、細い道で、最初は場所がイメージできなかった。周囲の人に聞いて、ようやく場所がわかった次第。

 ここの道祖神を訪れたいと思ったのは、やはり岡村知彦氏の『北佐久石造文化財集成』の小諸市編を見てのこと。何より道祖神が5基1か所にあるらしいと一覧から想像できたことと、そのうち4基が単体像だということであった。とはいえ今回は自然石が目的だったので、ふつうならここを訪れようとしなかったが、一覧に並んで「五輪塔」3基と記されていたからだ。備考として「空風輪」とあるから、残欠である。ここを案内してくれた方によれば、子どものころはここへワラ馬をコトヨウカに持ってきたという。しかし、仕事でこの地を離れているうちにそういう行事は廃れて無くなっていたという。

 さて、単体像は長野県内では少ない。時おり見ることはあるが、4基も固まって祀られているケースは珍しい。その上でこれら単体像は伊豆でよく見られる単体道祖神に似ているようにも思う。3基は頭部を欠損して完全形ではないが、いずれも座像で時代は異なるのだろうが、同じイメージで造られている感じだ。そしてその前に五輪塔残欠が一緒に置かれている。3基と前掲書にあるが、わたしには2基と見える。ほかに自然石がゴロゴロしている。五輪塔残欠は、道祖神が祀られている空間にあるから、道祖神とみるがどうだろうか。そして周囲にある石も道祖神祭祀場ということとなると、道祖神に関係してある石と捉えられる。

 この道祖神から少し道を進んだところの岩の上に大日如来が安置されている。安山岩であり、単体の道祖神と石質は似ている。そしてその前にやはり五輪塔残欠が一緒に置かれている。このように道祖神以外のものに付属したように五輪塔残欠が置かれているケースもこの地域では珍しくない。

続く

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豊足穂神社例祭へ 後編

2024-09-19 23:40:13 | 民俗学

豊足穂神社例祭へ 前編より

 

豊足穂神社獅子舞(令和6年9月7日午後8時5分~50分)

 

 この界隈の獅子舞をほかに見ていないのでわからないが、冒頭の写真のように、舞手が頭の横に座った格好で囃子が始まってもしばらく動かない。約5分余にわたってこの状態で待つのである。獅子舞を数多く見てきたが、冒頭がこのように始まる獅子舞は初めて見た。そして、獅子舞そのものも約45分に渡る。この長さも別格ものかもしれない。道中舞のような練りをしながらのものはともかくとして(ずっと舞っているわけではないので)、一通りの舞が45分というものも珍しいのではないだろうか。そして何と言っても、最後の頭を丁寧にたたんだ幌の上に納めるまでの所作である。いかに頭を神聖視しているかを、周りの人に十二分に伝えてくれる。これほど大事に頭を扱う姿も、ほかではあまり見なかったように思う。今でこそ、神社のみの舞になったが(コロナ後にそうなったよう)、以前は獅子宿で一通り獅子舞をしたというから、獅子舞を担う人のエネルギーは並々ならぬもの。したがってもう1時間以上、祭りは長かったとも言える。今回は午後9時ごろが終了だったが、以前は午後11時ころになったという。この獅子舞を見て、この地域の獅子舞に魅かれそうである。

 翌日は朝6時から「朝舞」といって地区内の家々を舞い歩くのだと言う。依頼を受けた家を回るとはいうものの、70戸くらいは回るという。

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小布施町中条神社横の自然石道祖神

2024-09-18 23:19:59 | 民俗学

中条神社東側県道端石碑群全景

 

五輪塔残欠と石祠型庚申、「道祖神」

 

自然石道祖神

 

五輪塔残欠「空」「風」

 

怪しい石

 

 先日「小布施町中子塚庚申さんの祭り」を記した。その際以前にも訪れたことのある中条神社横の石碑群も訪ねた。自然石道祖神に興味のなかったころ訪ねたから、当時は自然石の道祖神など目もくれていなかった。おそらく中条神社にはそれらしいものがあったと思い、あらためて訪ねて見たというわけだ。本日先日の日記にも追記したが、実は『長野県道祖神碑一覧』の元となった『小布施町の石造文化財』(平成元年 小布施町教育委員会)を所持していた。先日記した際にはまったく頭になかった資料。わたしの書斎の書棚は、背面と前面に二重に書物を置いているため、背面にある書物はふだん目に入らない。したがって過去に手に入れていた資料を忘れてしまっていることは多い。無いと思って図書館を訪ねて、あとで「自分で持っていたんだ」と気づくこともたまにある。

 ということで、あらためて前掲書を開いて、中条神社横の石碑群を確認してみる。冒頭の写真がその石碑群で、前掲書を参考に左端から右に順に石碑を見ていくと次のようだ。

①石祠型屋敷神
②墓碑型庚申塔
③石祠
④青面金剛
⑤自然石道祖神
⑥廻国供養塔
⑦石祠型庚申
⑧「道祖神」文字碑

となる。実は石碑群と認識されているものは以上だが、2枚目の写真、左側に少し写っている廻国供養塔の台座の上に丸い石が置かれている。これは五輪塔の残欠である。いわゆる一体化しているが、最近紹介している五輪塔もほとんどそうだが、「空」と「風」の部分に当たる。ようはその下の「火水地」が欠損している。揃えば五輪塔の完全形である。さて、前掲書では「石祠」としている③は、石祠にしてはやはり完全ではない。五輪塔の「火」と「地」の部分にも見える。では⑥の台座の上にある残欠と③を組み合わせれば五輪塔になるではないか、ともいえるが、③の「火」の上に載せても不釣り合いだ。ようは同じものではないと思われる。遠く離れた小布施町でも道祖神の近くに五輪塔残欠が存在していたことに驚く。もちろんここでは道祖神以外のものと同居しているため、必ずしも道祖神とセットとは言い切れないが。

 さて、2016年に「小布施町中条の道祖神」で触れたように、「道祖神」の前に双体の道祖神が置かれている。この道祖神は前掲書には記載されていないもの。見た目は新しいとも言えないが、発行後にここに祀られたものと思われ、よそから運んだのか、新たに彫った物かははっきりしない。そして前回も文字碑の銘文に触れた通り、この文字碑には「再建」という文字が彫られている。以前にあったものが欠損したのか、無くなったのか、あらためて「再建」したと捉えられるが、その意図ははっきりしない。昭和52年再建だから、まだ聞き取ればその事情はわかるかもしれない。わたしとしては、⑤の自然石道祖神の「再建」と思いたくもある。⑤は何の変哲もない石ころである。「石ころ」は失礼かもしれないが、小さいもので、これを道祖神と思う人は少ないだろう。前掲書にはっきり道祖神と記載されているからわかったこと。自然石道祖神は少し変わった石を採用する傾向があるが、どうも北信域の自然石道祖神にはごくふつうの石というものが多いように思う。

 石碑群の周辺にはこれら以外にも石がある。6枚目の写真は「道祖神」のさらに右側の土の上に露出しているもの。最近こうした石にも何らかの意味があるのではないか、と周囲に気を配るようにしている。

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身の丈の「車」

2024-09-17 23:18:53 | つぶやき

 1年以上前のこと、「今どきの軽自動車」を記した。新たに軽自動車を購入したことによる感想を記したもの。軽自動車ではあるものの、今どきの軽自動車は「大きい」。扱いやすさなら昔の軽自動車の方が良かった。しかし、今どきは普通車も大きくなっているし、日本の道路事情が大きく変わったわけでもないのに、車の大型化は、実は厄介なのでは?、と思ったりする。

 近ごろたくさん記している自然石道祖神を巡って、東信を中心に車を走らせているが、もちろん軽自動車で行っている。「よくこんな狭い道を」と思うような道を進んだ先に家々がある所を、あちこちで見てきた。ふだん利用している普通車では、とても入れない。軽自動車を買う前なら当然のこと、普通車で行っていたわけだが、こんな事情を予想して軽自動車を買った。わたしには必須の道具だったとも言える。冒頭でも記したように、昔の軽自動車ならもっと扱いやすかっただろうが、それでも一応「軽」だから、入れないことはない。それでも「ぎりぎり」みたいな道を入ることが度々。わたしは飯島町に生まれ育った。飯島町には密集している集落は少ない。密集していたとしてもこれほど道は狭くない。もともとの集落の発展が違うのだろう。そして生家のあたりは散居だから、隣の家との距離がある。自ずと空間は広く、ほ場整備が全町行われたから、狭い道は限られている。そんな空間で育った者が、最近訪れている集落へ足を踏み入れると、もはや「驚愕」である。絶対普通車は入れない道もあるが、家には普通車が停まっていたりする。どうやって入っているんだ、そう思う。

 近ごろそれほど広くない道で、対向車がど真ん中をやってきて、車を道の左に寄せようとしない、そんな車が多い。そもそも、なぜ身の丈に合った車に乗らないのか、と文句の一つも言いたくなる。狭い世界を知らないのか、それとも広い空間しか乗らないようにしているのか、定かではない。それでも最近足を踏み入れている空間に身を置くと、日本にしかないらしい軽自動車仕様に納得する。先ごろも人を車に乗せる際に、軽自動車、それもツードアは厄介だと思ったが、ほとんど一人で乗っていることが多い事情からすれば、やはり今回の買い物はベストだったと、つくづく思う。もちろん年老いてきた自分の年齢にもびったしだ。

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