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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

七夕のころ

2025-07-30 23:28:02 | 地域から学ぶ

願い事の中には「安心して暮らせる日本」がある

 

 昨日、朝日村から権兵衛トンネル越えで帰えろうと、塩尻市宗賀の洗馬を走っていると七夕の飾りが目に入った。最初に目に入ったのは、小学校の入口の門柱に縛り付けてあったものだが、その際はそれほど気にならなかったのだが、さらに集落内を南へ進んでいくと宗賀農林漁業体験実習館の前にも、さらに南へ行った集落外れの神社入り口にも建ててあって、通り過ぎたものの小学校の入口までUターンしたわけだ。ちょうど外におられた方に七夕飾りのことを聞くと、先週末に子ども達が建てたものだという。毎年子どもたちが建てているらしい。今では七夕の飾りも珍しいわけだが、実は安曇ではこの時期、道祖神の端にこうした七夕飾りをするところが多い。これまでにも松本市の梓川梓新屋敷や梓川倭野々宮神社のもの、あるいは中曽根のものなどを日記で触れてきた。いずれも道祖神の祭りにかかわるものだったが、安曇野市豊科の光あたりでも公民館に七夕の飾りを建てている姿が見え、中信地域ではこの季節、道祖神の祭りに限らずあちこちで七夕飾りをするところが見られる。もちろんそのほとんどは子どもたちがかかわっているが、こうした飾りが小学校や保育園などに見られることはあって、路上で見かけることは、伊那谷ではほとんどないこと。

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〝暑い、熱い〟

2025-07-29 23:04:44 | つぶやき

 先週は連休明けから4日間炎天下で働いた。今週も月曜日と火曜日と続き、人には「焼けたね」と言われると気落ちする。現実的にずいぶん黒くなったから当り前ではあるが、ここ1週間ほどで、ずいぶん日に焼けた。帽子もつばの広いものを被っていたし、腕は日焼けしないようにアームカバーもしているのだが、顔が「黒く」なった。まあ、それはともかくとして、さすがに毎日炎天下に居ると、疲れる。このごろは床に入るのも早くしている。というかちゃんと睡眠をとらないと翌日にかかわる。みな執務室内にいるのが「一番」と言うが、わたしは会社にいるのが嫌だから、たとえ炎天下でも外がいい。

 とはいえ、先ごろも外出先から帰ると、会社の執務室がムッとしている。すでに勤務時間を過ぎているからエアコンが停まっている。残業するのならエアコンのない世界で働かなくてはならず、わたしは「こんなところで仕事はしたくない」。とはいえ、どうしても会社で処理しなくてはならないことがあって少し働いているのだが、「暑い」。エアコンが停まってどれほど経過しているかしらないが、風の動きもなくムッとしている。執務室内では上司と幾人かが働いている。エアコンが停まったというのに、窓も開けず、ドアも開けず、もっといえば外の風が最も入ってくる廊下のドアも開けずに、エアコンの残冷気だけを頼っているのだが、もはやそんなものは飛んでいる。窓を開けて風が動くように気を遣えば良いのに、この熱気の中が好きなのかどうかは知らないが、息苦しい中で仕事をしている。

 部屋の中を涼しくする方法は、風が入り込んでくる側に扇風機。入り込んでこない方向に向けて室内の風を送るように扇風機を外に向けて動かすのが一番だ。我が家にはエアコンがないから、家に帰るといつもそうして家の中を涼しくする。まだ扇風機で息苦しくない世界を作り出せる。「エアコン入れる」と毎年妻と会話をするものの、いまだエアコンは設置していない。きっとシロがまだ元気だったら昨年のうちには導入したのだろうが、シロがいなくなって人間様はなんとかなくてもやっていける。だから部屋の中を涼しくする方法は、いろいろ考えている。だから会社でも同様に涼しくなることを考えていたものなのだが、人が変わって、今の上司は窓を開けない。涼しくすることなど何も考えていない。「頭を使え!」と言いたいのだが…。

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恒例行事

2025-07-27 22:25:21 | つぶやき

 

 ため池の草刈をしたが、この草刈のことを最初にここに記したのは「ホタル舞う」だろうか。12年前のことだ。この年はため池の土手の北側の草刈をした。なぜ北側を刈ったかというと、共同作業で草刈りをすると、このため池の下にある我が家の耕作放棄地へ草を寄せる。その我が家の耕作放棄地は、ため池の南側土手の下にある。ようは北側の方がその草寄せをする耕作放棄地より遠いから、共同作業する人たちには負担にならないだろう、と思って北側を刈ったのだ。草刈をした際に、刈った草をすぐに我が家の耕作放棄地へ寄せるため、北側の遠いところの草を刈っておけば、共同作業をする日にはだいぶ草が乾いて軽くなるだろうと考えてのこと。

 毎年この時期にこの日記で記していることだが、このため池草刈にはわたしは参加しない。妻の実家のことだから、実際に住んでいる場所から遠いため、共同作業をする1週間前ほどに事前に我が家の分を刈っておく、というわけだ。当日出られないペナルティではないが、だから余計に刈っておく。12年前の写真を見ても、ため池の土手の3分の1くらいは十分刈っている。共同作業の仲間は7軒だから、7分の1くらいで良いのだが、「文句を言われないように」という思いで余計に刈っている。ところが同年の草刈をした後に、草を刈ったままでは困る、と文句を言われた。我が家は周囲から度々小言を言われる存在で、気を漬かったのにこうだったのだ。

 以来、南側を刈るようにしてさらに草寄せも事前にしておくようになった。草を刈るのはわたしの仕事で、乾いたころ妻が草を寄せる。毎年記していることだから同じころの過去記事には必ずといって良いほど記録されている。近年は我が家の耕作放棄地を1か月ほど前に刈る際に、ため池の太くなりそうな草も刈るようにしている。すると実際に刈る際にだいぶ楽だからだ。以前は手間取った草刈だが、いろいろ考えて草を刈るようになって、この草刈も楽になった。

 ということで下記の写真は本日の成果だ。写真の場所以外にも余水吐周辺の草も刈っておいた。だから共同作業の際にはだいぶ楽なはず。世代が変わって、さすがに最近は小言を言われることはなくなった。

 さて、このため池にはキスゲが咲く。もちろん今までにも触れてきていることだが、今日もなるべくキスゲを残して刈った。そのユウスゲ、陽が沈むと花を咲かせ始める。

 

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中身のあるものにしたい

2025-07-26 23:38:11 | ひとから学ぶ

 ある仕事を手伝う中で、数年前の過去の成果品を参考に現地に入った。ところがあらためて現地を歩き確認すると、間違いはともかくとして認識不足が目立った。経験差や知識差があるから、成果品が異なるのは当然化もしれないが、組織とすれば「誰がやっても同じ成果品」を納められるのが理想だし、そうあるべく策を練るものなのだが、わが社にはそうした余裕がない。ようは同僚がくまなく目を通して成果品をチェックすることはできていない。とくに調査物については歴然と個人差が現れる。調査そのものに同僚が随行して複数の眼で確認することは理想だが、そこに余裕がないし、もし複数の眼で見ていたとしても、担当者がその複数の眼を生かすことができなかったり、あるいは随行した者にそれだけの技量があるとも言えない。ようはそこにかかわる人材差が現れるのは致し方ないのだか、繰り返すがそうならないために上司がいて、相応の視線を向けなくては組織として体を成さないというわけだ。そして問題が発覚するとその原因を究明し、結局組織としての体を成していなかったことを理由に「対策」を図るわけだが、そもそもそのようなことは、わたしは不可能だと思っている。ようは上司の責任は重い、そう思う。

 きっとこうした成果品は「山と」あると思う。もちろんわが社の成果品にだ。しかし、納品先が気がつかないから問題にもならない。おっと、そういうわたしの成果品だって同じかもしれない。だが、業務に対して何がお客さんにとってベストか、ということはいつも考えているし、マニュアルどうりには必ずしも作らない。自分がなっとくできないマニュアルなど、勝手に無視するのは常だ。したがってお客さんが何を求めているかはっきりしていないと、お客さんに対しても無視することはある。嫌われているかもしれないが、「何のためにやっているのか」解るようにお客さんが求められないようなら、わたしはお客さんの言う通りにもしない。もしかしたら間違っていることかもしれないが、わたしの仕事に対する基本的姿勢である。

 実はその仕事、国が整備しろと言ってあちこちの団体がこぞって実施した物件で、いっときに集中した。したがってマニュアルを整備して、言ってみれば誰でも出来るような準備をして実施されたもの。だから上司も「誰でもできる」と仕事を「下」に見ている傾向があったと、こうした成果品を目の前にして知ることができる。国が整備しろと言って整備したものは、お客さんも「形になっていれば良い」程度に捉えている向きもある。お上から指示された仕事には、こうした仕事が多いのも事実。ただ、お金を掛けているのだから、「中身のあるものにしたいよね」。

 今日、長野県民俗の会有志による「倉石忠彦先生追悼の会」が開かれた。先生とかかわりあった先生方が、県外からも参加くださった。生前の先生の話を聞いていて、もちろんわたしが接した先生も含めて、わが社の仕事に対する姿勢とは全く違う、とつくづく思った。

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古見の正徳年間の石造物

2025-07-25 23:45:56 | 地域から学ぶ

古川寺六地蔵

 

 「古川寺の閻魔王と奪衣婆」において正徳年代の石造物について触れ、「朝日村にはこの時代に建てられた石造物がけっこう多い」と文末に記した。正徳年代の石造物は『朝日村石造文化財』(朝日村教育委員会 昭和53年)によると9基あるとされている(172頁「時代別分類表」)。前述の閻魔王と奪衣婆、そして古川寺の如意輪観音に加え、同寺の入口には六面体の六地蔵があり、「正徳五乙未天七月十八日」とある。古川寺にはほかに同じく正徳5年の五輪塔もあり、古川寺だけで5基の正徳年間の石造物が存在する。

 

山形村小坂山口の道祖神

 

 そして実は古見といえば芦ノ久保の道祖神をとりあげないわけにはいかない。この道祖神については「道祖神を盗む①」「道祖神を盗む⑤」で触れた。現在古見芦ノ久保に現存する道祖神は天保14年(1843年)のものだが、その背面には

正徳五乙未年十月卯月建之
寛政七年卯年八月六日夜
小坂村山口御縁想
同歳十一月十三日再建立
天保十三年壬寅年二月七日夜
本洗馬村上村御縁想
天保十四癸卯年四月十五日
古見村蘆野窪講中

とある。ここにも正徳5年(1715年)の銘がある。詳細は「道祖神を盗む①」の通りだが、それ以前にも道祖神があったようだが、正徳5年に双体道祖神を建立した。ところが隣の山形村山口に盗まれ(「御縁想」という)、あらためて建立した道祖神も現在の塩尻市洗馬上町に盗まれたいう。三度建て替えたものが現在のものと言うことで、この正徳5年の銘を刻まれた道祖神がそれぞれの地に残されている。残念ながら山口の道祖神は風化していてそれらしい銘を読み取るのは今となっては難しいが、洗馬上町のものには

古見村芦野久保講中拾四人
道祖神
正徳五乙未十月卯

とあり、現存する芦ノ久保の道祖神の銘文からこの道祖神は寛政7年造立と思われるのだが、その年号はない。ようは山口のものも洗馬上町のものも芦ノ久保にある道祖神の刻銘からその経緯が解るというわけである。

 『山形村文化財調査資料-第2輯-』(山形村教育委員会 昭和47年)には山口の方の言葉が掲載されている。

道祖神は縁結びの神として崇拝していたが、山口には道祖神がなかったので、嘉永年間にどこからか嫁入りさせようと話し合い、現在の朝日村古見より嫁入させることに話がきまり夜、力のある2・3人で背負い乗越(上大池豆沢より古見に通じる峠)を越え、峠の峰には山口中の人の出迎えを受けて嫁入して来た。と祖母から聞かされています

と言うのである。ここでいう「嘉永」は寛政の間違いではないか、というのが同書での説明である。このように古見には正徳年間にまつわる石造物が目立つわけである。

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御馬越の庚申塔

2025-07-24 23:51:01 | 民俗学

朝日村御馬越

 

 1か月ほど前、穂高を訪れた際にその地の仲間から「この辺では庚申塔が複数建っている姿は珍しい」と聞いた。対比としてその際にも「上伊那は異常」とまで言われたわけだが、確かに上伊那では庚申塔が複数建っているのが当り前で、むしろ一つだけ建っている姿は珍しいわけである。安曇や松本では上伊那の庚申塔のような光景は見ないわけだが、とくに上伊那では前の「庚申」年に建てた庚申塔より大きくして建つという話がどこでも聞くことができる。どこでも聞くことができるということは、どこでも複数基建っているからこそのこと。

 さて、今盛んに訪れている朝日村では、昭和55年の庚申年に村内で10基以上の庚申塔が建てられている。ここでも昭和庚申の造塔が集落ごと行われたよう。例えば写真の石碑群は鎖川の上流域にある御馬越(おんまご)に建っているもの。「庚申」が4基と、青面金剛が建っている。最も古いものは青面金剛で「享保廿年卯三月九日」とある。1735年にあたるが、この年は「庚申」年ではない。次のものが「寛政十二庚申天(1800年)」銘のあるもので、写真の向かって右から4基目である。その60年後の「万延元年(1860年) 御馬越村中」の明があるものは、写真左から5枚目の「庚申」である。さらに60年後の大正9年(1920年)のものが左から3基目のもの。そしてその左側に建つのが昭和55年の庚申塔である。ここでも背の高さという観点でいけば、年々高いものを建てていると考えられる。このように朝日村では庚申塔が複数建っている姿をよく見る。上伊那に立地上も近いことが影響しているかどうか。

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右傾化

2025-07-23 23:39:29 | ひとから学ぶ

 「SRI消費者経済総研」というところが今回の参議院選における政党を政策公約から「左」か「右」かを解説している。最終更新日2025年7月19日において示された構図は次のものだった(引用)。保守党が右端で、共産党が左端だというのはほとんどの人は理解しているだろう。参政党の位置も納得だが、「国民民主は自民より右なんだ」と知った。さらに政権与党の公明党がれいわ新選組より左だというのも意外だ。まあ、これは政治に疎いわたしの印象であって、常識なのかもしれない。

 ということで、今回の比例代表における政党別得票数というものを、「SRI消費者経済総研」が示した政党の合計値で割合を出してみた。グラフの元となった数値が下記表のデータである。ちなみに票の割合は、その下の得票数を合計値を分母にして計算したもの。政党別得票数の次欄は、自民党と立憲民主党を境にして左側と右側を合計したもので、さらに次欄は現在の政権与党である公明党を右側に加えて集計したものである。

 

グラフ

 

 

 

 グラフを見ての通り、自民党から右側は今回63パーセントを占めている。いっぽう前回は60パーセントであり、実は自民党より右側の割合の方が高くなっている。ここに公明党を加えると今回は71パーセント、前回は72パーセントとなり、かろうじて自民党より右側が割合を落としたかのように見える。

 ことについて世間は意識しているのかどうかは知らないが、この結果を見る限り、自民党を右として捉えたら、立憲民主党より左側が勝利したとはとても言えないわけだ。だからこそこの後は難しいことになる。野党と与党という単純な構図ではない。野党が一本にまとまらないのは当然のことでありる上に、自民党の立ち位置がずいぶん全体的に見ると変わったように見える。世間ではジェンダー問題が盛んだが、自民党より右側がこんなにいるとしたら、世間の流れを内心「ノー」と思っている人がたくさんいるのではないかと思えてくる。それは報道、とくにテレビが本当のことを言っていない、というところにも繋がっていく。テレビの報道は本当に偏っているのかどうか、日々忙しい人々に真偽を判断することはできるのだろうか。そしてできない人たちが投票して構図が変わってしまったらどうなんだろう、などと思ったりする。繰り返すが、こんなに左側が減少しているとは…。

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箕輪町中曽根無縁墓地の十王

2025-07-22 23:02:19 | 地域から学ぶ

 

 箕輪町中曽根の八幡社の東側に無縁墓地と言われている場所がある。石碑が20体近く、東を向いて並んでいる。無縁墓地と言うから墓石があるかというと、墓石はわずか。この中に十王像が紛れ込んでいる。箕輪町歴史同好会による『箕輪町の石造文化財』(平成15年)によると、町内には十王の遺物が3箇所にある。十の王が勢ぞろいしている例はなく、かろうじて残った数体をもって「十王」としている。

 八幡社東の無縁墓地には前掲書では人頭丈を含めて3体と数えているが、写真を見てわかるように最低4体は十王と見える。もう1体は人頭丈である。2枚目の写真を見てもらうとわかるが、右端の列前から3体目が人頭丈であり、その前2体と右から2列目の前から3体目、そして右から3列目の前から2体目は、明らかに十王の一部の像と考えられる。

 町内にはほかに富田と沢にそれらしい遺物があるが、ここのものが最も残存数が多い。

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思ったこと

2025-07-21 23:14:22 | ひとから学ぶ

 東京都知事選における政治団体「NHKから国民を守る党」のポスター掲示板の乗っ取りのような策は、今参院選前に公職選挙法の改正でポスターに「品位を損なう内容を記載してはならない」とする規定が定められた。ところがそれでも問題が発覚したようで、〝「品位」はどこへ 選挙ポスター問題が再燃 新たな規制も限界〟という記事がネット上に上がった。SNSの利用によって選挙戦は大きく変わった。そもそもポスターが必要なのか、と問いたい。規制に限界があるのなら、ポスターそのものを廃止したらどうか。手間と金がかかっている行為だから、これを改善すれば選挙費用はだいぶ違う。それより公平に政策を告知できるようなほかの方法を考えるべきだろう。

 今回の参院選で比例候補のポスターを、わたしが行動した範囲内では5名ほどしか見なかった。そのうちわたしが支援した候補ともう一人落選した。巷に立てられていたポスターの内訳は、自民党3名、公明党1名、立件民主党1名である。これほどポスターが少ないということは、その効果を見切っているに違いない。裏を返せば見切られている行為を今もって続けている方が愚策というもの。もちろん支援する人々の意識を上げるためには必要な策かもしれないが、ほかに方法はいくらでもあると思う。

 残念ながら旋回並みの得票をしていれば当選圏内に入っていたのに、それができなかった。もちろん今回は前回も立候補していた候補の誰もが得票数を落としている。減少率から見れば検討したとも見られるが、裏を返せば確実に組織票を固めていれば、当選圏内に入ったということ。選挙のプロが付いているはずなのに、「何をしているのか」と素人は思う。

 それにしても極右とも捉えられる発言をしている党が躍進している。評論家は自民党の右側の票が流れたというが、そもそもそれだけ自民党は幅の広い意見を集約していた党なのに、それが消えた。おそらく右傾化した前時代に原点があると思う。そして日本に住まう人々が他人の言葉には耳を傾けなくなった。そのまま政治に現れたのが今参院選だったと思われる。多様性があることは良いことだと思うが、それぞれが好き勝手なことを言っていたら多様性ではない。

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盃状穴を作ってみた

2025-07-20 23:59:11 | 民俗学

 

 道祖神講の際にお世話になった方を久しぶりに訪れた。ここは伊那市美篶芦沢のかつての中心部。大文字(でえもんじ)とも言われる五叉路の辻である。以前にもここで触れた通り、超巨大な昭和55年の「庚申」が建っている。昭和55年から120年前の安政7年銘の「庚申」すら高さは2メートルを越える。大正9年のものはそれより小ぶりであるが、文字は太く深く彫られている。1枚目の写真の左端にあるものが大正9年、右端が昭和55年である。その背後に隠れているのが安政7年のもの。いずれも巨大な石碑が立ち並ぶ、ちょっと威圧感のある空間だが、五叉路空間が広いのでそれほど圧迫感があるわけではない。

 辻から少し上ったところに住まわれている方に聞くと、左端の「庚申」の「申」の書き出しの頂は太く深い。この穴に子どもたちは頭を入れて「入った」あるいは「入らない」といった具合に遊びをしたという。時には頭が抜けなくなって困ったこともあったという。ちょうど子どもから見れば頭の高さで、お辞儀するように頭を入れてみたわけである。彫りの枠よりも中の方が膨らんでいるから何か入れたくなるような穴なのである。「庚」の字の頂も同じくらいの穴が開いているが、こちらは高すぎて子どもたちが頭を入れるというわけにはいかなかっただろう。この大正8年の「庚申」より遥かに大きい昭和55年の「庚申」も字は太く深いが、大正9年のものほどではない。

 さて、「秋葉山常夜塔」と竿に刻まれた石燈籠は嘉永6年造立のものだが、その台石、また隣の六地蔵幢の台石いずれにも盃状穴が複数見られる。とくに六地蔵幢の台石の盃状穴は深い。また背後に並んでいる石仏の中では丸彫りの地蔵尊の写真をここに取りあげたが、全身に盃状穴があるし、顔の鼻のあたりが凹んでいる。典型的な盃状穴の例だが、果たしてここまで窪みをどうやってこしらえたか。背後にある石碑群の中には他のものにも盃状穴が見られる。おおかたは台石のあたりにあるわけだが、地蔵だけは特別である。わたし的にはこう捉えたいわけだが、そもそも盃状穴については何度もここで触れてきた。基本的にはかつて子ども達が遊びで競って窪みを作ったと思うのだが、とりわけお地蔵さんは子どもたちに愛されたからこそ、その思いを全身で受け止めた、と…。

 これら盃状穴についてお世話になった方にお聞きしたが、そもそもこの窪みがあることを知らなかったという。その場で地区内の高齢の方や、知識人の方など数名に電話をして聞いてくださったが、みなそこに窪みがあることを知らなかったよう。今の世代の方々には記憶どころか存在が消滅している痕跡なのである。

 

盃状穴を作ってみた

 

 ということで簡単では無いと言われる盃状穴を自らトライしてみた。場所は中田切川の河原であるが、ここは花崗岩地帯。川原には花崗岩がごろごろしている。それもかなり硬そうなものばかり。写真の濡れている石がそれで窪みを作ろうとしてみた。相手より堅そうな石で叩くこと300回くらいで凹み始め、500回を越えると盃状穴っぽくなってくる。さらに叩いていると写真の通り、水が溜まる程になった。硬そうな石だったので少し手間取ったが、例えば石造物の台石や、石造物本体の雨ざらしの部分は、風化してくるとざらざらしてくる。そこを石で叩けば、河原の新鮮な石より凹みやすいはず。さらによく言われるヨモギの葉っぱをつついたという話。実は水を掛けて叩くと一層早く凹んでいく。周囲に石の粉の混ざったしぶきが飛んで、着ている物に飛び散って厄介だが、子どもたちにとってはそんなことはお構いないだろう。そう考えると青葉を石の上に置いて叩けば水代わりになるし、水と違って飛び散らない。叩く方もいろいろ考えて叩いていたに違いない。

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西洗馬血取場の馬頭観音群

2025-07-19 23:10:40 | 地域から学ぶ

 

 朝日村西洗馬の「愛ビタミンロード」沿いの三叉路に石碑群がある。かつての血取場だからすべて馬頭観音である。数にして40基近く並んでいるが、主尊と思われる「馬頭観世音」文字碑が高さ1メートルを越える石碑だが、あとはみな小さなもの。江戸時代後期の1800年ころからの馬頭観音が並ぶ。特別なものはないが、小ぶりな馬頭を載せた観音像群に目が留まった。

 朝日村にはかつて血取場であったと伝わる場所があちこちにある。もちろんそれと思わせる景色は馬頭観音の石碑ぐらいではあるが…。

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流された馬頭観音

2025-07-18 23:57:43 | 地域から学ぶ

朝日村小野沢血馬様の馬頭観音

 

 朝日村小野沢の諏訪神社背後の段丘上に「血馬様」(ちばさま)と呼ばれている場所がある。馬頭観音の石碑群がある場所でかつて血取場があった場所。馬頭観音の石碑群はほとんど「馬頭観世音」などと文字を彫った物だが、並んでいる石碑の中ほどに1体、像を彫ったものがある。だいぶ摩耗していてはっきりしないが、馬頭観音である。南向きに並んでいる石碑群であるが、南側に木々があって日陰になっていて碑の正面は道に対して背を向けていて、言ってみれば陰に隠れている。背を向けていたから気がついたのは、その背面に文字が刻まれていたこと。

当初橋場ニ建立明治十八年七月大洪水ノ際流失
明治四十五年六月廿三日鎖川瀬中ヨリ発見改メテ
當所ニ再建             村中

とある。明治18年の洪水で流され、27年後に鎖川で発見されたというわけだ。

前面に「文久三亥五月□□」とあるようだが(『朝日村石造文化財』)、「文久三」まではわかるがあとははっきりしない。補助光で陰影をつけてみたら、確かに「文久三亥五月」まではっきりする。逆に「文久」」から少し離れた上部にも文字らしきものが浮かぶがはっきりしない。これらは像向かって右側に彫られているものだが、左側にももしかしたら刻字があったのかもしれないが、摩耗していてわからない。

 さて、近くで働いておられた女性に声をかけたことで、ここが「血馬様」と呼ばれていることを知った。驚いたのは話しているとその女性がかつて民俗の会で活躍されていた先生の家の方だったこと。声を掛けてみて良かった、そう思ったわけである。

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光輪寺薬師堂の大日如来

2025-07-17 23:48:12 | 地域から学ぶ

光輪寺薬師堂

 

薬師堂庭 大日如来

 

 昨日触れた西洗馬にある光輪寺薬師堂は、県宝である。宝暦10年(1760年)に建立と言われる茅葺屋根の建物で、見た目でも痛みが目立つ印象。Wikipediaには「昭和初期までは松本盆地一帯に「西洗馬のおやくし」として知られ、堂前から松本市今井の今井神社まで延びる旧道沿いには、薬師堂への道を示す石標が多数現存する」というからいずれそれら石標も見てみたい。

 薬師堂の庭に一風変わった石仏がある。V字型の台石に載せられた智拳印を結ぶ大日如来である。像そのものは小さな石仏だが、台石が目立つ。その前面には銘文があるが、自ら読み取ることはあきらめ、『朝日村石造文化財』(朝日村教育委員会 昭和53年)から引用させてもらう。

(梵字)アビラウンケン
願主大阿闍利法印深覚
三界万霊 栄賛
有縁無縁 □右エ門
貴賎霊等 権三郎
皆成仏道 半兵衛
     権之助
     九之亟
     お女郎
     兵九郎
     母女
(梵字)キャカラバア
人足八十八人西洗馬村
元禄三年八月廿五日

「アビラウンケン」は胎蔵界大日如来の真言の意を示し、「キャカラバア」は真言密教において森羅万象を構成する要素である地・水・火・風・空を表す。

 薬師堂周辺には多くの石仏があり、石仏については長く意識してきたつもりだったが、光輪寺にこれほどたくさん石仏があることは知らなかった。大日如来の造立年である元禄3年は、1690年にあたり、薬師堂周囲の石仏は同年代の古いものが多い。先日触れた閻魔王も元禄3年であり、8月24日だったからこの大日如来とは1日違いである。朝日村の石造物を見ていると同じようなケースに遭遇し、ちょっと驚いている。

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木曽路を走る

2025-07-16 23:56:10 | 地域から学ぶ

 何度も足を運んでいる朝日村。グーグルマップで検索すると伊那から高速道路経由で50分ほど。条件を高速道路不使用にすると、権兵衛トンネル経由で60分ほどと表示される。高速道利用と距離は同じくらい。ただし、善知鳥峠経由となると、その距離は10キロほど短くなるが、時間的には権兵衛トンネル経由が数分早い。数分レベルだから、距離の短い善知鳥峠越えの方が安上がりかもしれない。ただ信号で止まることが少ない権兵衛トンネル越えは、気分的には良いルートであり、以前から中信地域に行く際にはよく利用していた。したがって朝日村へは権兵衛トンネル経由を繰り返している。

 実は権兵衛トンネルを抜けると、すぐそこを奈良井川が流れている。奈良井川は日本海に流れ下る水が流れている。ようは伊那谷から見れば正反対のエリアである。しかし、トンネルを抜けた地は「木曽」である。ところが平成の合併で塩尻市になってしまったため、しだいに「木曽」という印象は薄らいでいる。とはいうものの、下れば奈良井宿。漆器で知られた地であり、けして「木曽」ではないという人はいない。これが知名度の低い地だったら、また違っただろう。「木曽谷」と「木曽路」があり、Wikipediaでは前者について

木曽谷―木曽川上流の流域を表す名称。長野県木曽郡の全域(上松町・木曽町・南木曽町・王滝村・大桑村・木祖村)および岐阜県中津川市の一部(旧神坂村および旧山口村)に該当する。

とあり、後者については

木曽路―中山道の一部で、「是より南 木曽路」の碑と「是より北 木曽路」の碑の間を指す道の名称と、その周辺の地名。1948年(昭和23年)5月31日までの木曽郡(西筑摩郡)にあたり、現在の長野県松本市の一部(旧奈川村)・塩尻市の一部(旧楢川村)・木曽郡の全域(上松町・木曽町・南木曽町・王滝村・大桑村・木祖村)および岐阜県中津川市の一部(旧神坂村および旧山口村)に該当する。

とある。ようは木曽谷は木曽川流域だが、木曽路は奈良井川流域と奈川流域が加わる。この旧奈川村が「木曽路」というのはあまり認識がなかった。昭和23年まで旧奈川村は西筑摩郡だった。現在この名称の郡域はなく、現在の木曽郡にあたるが、群名が変更されたのは昭和43年とまだ新しいこと。昭和23年に奈川村は南安曇郡へ変更された。したがって南安曇と認識して長いわたしにとっては木曽郡のイメージはない。

 

「是より南木曽路」

 

 さて、1500メートルほどある桜沢トンネルが開通して以来、国道19号を走っていても木曽路に入ったというはっきりした境界を意識することがなくなった。桜沢トンネルの北側で奈良井川を国道19号は渡るわけだが、塩尻から木曽へ向かう際にその橋を渡らずに「桜沢」の信号を左折すると国道19号の旧道に入る。入ってすぐに道の上に「是より南木曽路」の看板がある。かつて国道を走っていた際には「ここから木曽路」とはっきりわかったわけである。この看板の先、道の右手にWikipediaにもある「是より南 木曽路」の碑がある。脇には「縣立長野圖書館長 乙部泉三郎書」とある。背面にも銘文があるのだが、足場が悪く容易には全容を撮れなかったが、「歌ニ繪ニ其ノ名ヲ知ラレタル木曽路ハコノ櫻澤ノ地ヨリ神坂ニ至ル南二十餘里ナリ 紀元(皇紀)二千六百年正月建立」とある。昭和15年に建てられたものである。ここから鳥居トンネル北出口手前まで、権兵衛トンネル越えの道は、木曽路をおよそ12.6キロ、時間にして12分ほど走ることになる。

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光輪寺薬師堂の閻魔王と奪衣婆

2025-07-15 23:14:29 | 地域から学ぶ

閻魔王

 

奪衣婆

 

 古川寺の閻魔王を見ていると、今風の閻魔王と印象がある。十王の一つとして造られる閻魔王は、ふつうはそれとわからないことが多い。もちろん伊那谷の十王を見ていての経験だが。ところがこの閻魔王は、どう見ても閻魔様だ。正徳6年という1716年において、これほど閻魔様っぽい像が造られていたことに意外と思うのだが、実は近在にもっと古い閻魔様がある。旧波田町の上波田にある。もちろんわたしの日記で既に触れていて、2016年6月7日の「上波田へ」がそれである。仁王門の近くにある線彫りの閻魔王は、天正2年銘がある。天正2年といえば1574年で武田信虎が死んだ年だ。

 さて、朝日村にはもう一箇所、閻魔王と奪衣婆が並んで(間に青面金剛を挟んでいるが)安置されている場所がある。西洗馬にある光輪寺で、古川寺と同じ真言宗の寺である。『朝日村石造文化財』(朝日村教育委員会 昭和53年)に掲載されている写真はそれとはっきりわかる写真だが、現在の閻魔王も奪衣婆も一見してすぐにそれとは気づかないほど苔むしている。あまりに陰影がはっきりしないため、少し補助光を利用して撮ったものが写真のものである。閻魔王の向かって左側に銘文が見える。「元禄三年八月廿四日」とあるから1690年である。したがって古川寺のものより30年近く古いものである。前掲書には奪衣婆について銘文の記載がないが、ここにあけだ写真でもわかるように、閻魔王同様に向かって左側に銘文が見える。はっきりしないが、「元禄」の文字が見える。古川寺同様に閻魔王と同じころに造立されたものと思われる。

 実は観音堂の庭にある両者だが、観音堂の脇に小さな堂があり、小窓から覗くと木造十王が安置されている。十王のみ安置されているから表札はないが十王堂ということになるのだろう。堂そのものは割合近年に建てられたもののようだが、小窓から捉えられた十王は下記写真の通り。本当に小さな小窓から覗いたものだから写真写りは悪い。

 

 

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