やっぱりモダニズムが好き!

1920-1960年代のモダン建築を中心に写真をアップ

増田清と東邦医大

2007-08-18 13:41:44 | 増田清
前回に引き続き増田清の建築を訪ねるシリーズ。今回は大森の東邦大学医学部に行ってきた。増田と同校とのつながりは、創設者である額田豊の病院(麻布の額田病院)を1923年に設計したことに始まる。増田清(建築事務所)の作品リストには帝国女子医学専門学校という学校名しか書かれていないが、戦災により消失した付属病院本館の写真は、まさに増田らしい建築だ。また、現存するスクラッチタイルの医学部本館も増田の建築と見て間違いないだろう。


現在の医学部本館。下の写真と比べると窓の形が少し変わった

1929年竣工。医学部本館

医学部本館全景


建物両翼の窓は、アルミサッシになったものの形状は変わらない


リズミカルな窓の取り方

下の2枚は付属病院本館の写真。1927年に竣工され、まもなく改装(増築)が施されたようだ。

改装前

改装後


<参考文献>
「東邦大学30年史」
日本建築学会計画系論文集「建築家増田清の経歴と広島における建築活動について」


増田清と東京女子医大-2

2007-08-17 12:41:40 | 増田清
増田清は1913(大正2)年に東京帝大を卒業し、1917年からRC造の病院や学校を多数設計した。佐野利器の影響を強く受けた建築家と言われている。増田が東京女子医学専門学校(現東京女子医大)の設計に関わるようになったのは、関東大震災後。1925(大正14)年には、RC造の本格的な寄宿舎を設計し、翌年竣工。その後も、病院一号館、臨床講堂、付属病院二号館と、立て続けに設計している。


1926年竣工。地上4階、地下1階の寄宿舎。女子大の寄宿舎としてはかなり大規模なもの。戦後、通産省に売却され、1982年に取り壊された。一度見てみたかった


1930年竣工。病院一号館。当時アメリカの高層病棟にも見られた十字形プランを採用。付属の二号館を建てる際にも中庭を作るなど、採光を配慮したと思われる


現在の一号館


1934年竣工。臨床講堂。「建築の東京」にもこの写真が掲載されている


現在の臨床講堂。丸窓は角窓に。モダニズム的な見せ場がほとんど覆われてしまった

現存する建物は、病院ではなく事務棟として使われているが、80年近く経った今も現役であるところを見ると、やはり構造的に確かなものだったということだろうか。増田の建築はシンプルで真面目なものが多いが、東京女子医大では限られた敷地という条件が、かえって面白いものを生み出したように感じる。


一号館玄関。独特なテラコッタタイルを使用。丸窓のついた扉がオリジナル


アールデコのデザインは「竣工記念絵葉書」の写真と変わらない

<参考文献>
「東京女子医科大学百年史」「同八十年史」「同今と昔」
日本建築学会計画系論文集「建築家増田清の経歴と広島における建築活動について」
日本建築学会学術講演梗概集「増田清と東京女子医科大学」





増田清と東京女子医大-1

2007-08-16 00:19:23 | 増田清
東京女子医科大学の近代建築といえば、バス通りに面した一号館だけだと思っていた。が、良く見ると、南側にアールのついた建物があり、西側にはギザギザのついた建物がある。狭い敷地に建物がひしめき合って建っていて全容がまったく見えないが、配置図を見て納得した。


スクラッチタイルの本館(現一号館)


1937年当時の配置図。道路側から見ると、こうなる

屋上がモダンな第二病棟(現二号館)
側面が波状にデザインされた臨床講堂


配置図を見ると、一号館の後ろに付属する二号館があり、一号館のすぐ横に臨床講堂がある。さらに、少し離れたところには寄宿舎もあった。これら全ての設計をしたのが、増田建築事務所の増田清だ。増田は広島と大阪を中心に活躍した建築家で、東京ではあまり有名ではない。っていうか、作品の数に反して建築家としての名前が前面に出てこないのだ。現存する中でメジャーなのは大阪の三木楽器だろうか。広島での作品を検索すると、「大正屋呉服店」(下記サイト)のように、とてもモダンでかっこいい建物を設計していた。
http://www3.famille.ne.jp/~kodayo/genbaku/taishoya.htm

しかも、この建物のデザインは二号館とちょっと似ている。いいぞ、増田清。増田の建築に興味が出てきた。