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チャンピオンベルト事始め Part 3 - 4 - II - 綺羅星のごときチャンピオンたち - 4 - II -

2020年08月07日 | Box-History

■綺羅星のごときチャンピオンたち - 4 - II

◎ヘビー級
※写真左:ジョージ・フォアマン(第1期:1973年1月~74年10月/V2/2003年殿堂入り)
 写真右:ラリー・ホームズ(1978年6月~83年12月/WBC単独認定V17/2008年殿堂入り)


■2度の挑戦失敗と奇跡の復活

史上最強と称される84年ロス五輪の代表チームに加わり、L・ヘビー級で銅メダルを獲得したホリフィールドは、その年の11月に175ポンド上限のL・ヘビー級でプロ・デビュー。

すぐにクルーザー級に階級を上げて、12戦目でドワイト・ムハマド・カウィを2-1の15回判定に下し、WBA王座を獲得。落ち着く間もなく、15戦目でIBF、18戦目でWBCを吸収して190ポンド(当時のクルーザー級リミット/現在の上限は200ポンド)を統一した。

クルーザーで遣り残したことはないと、3つのベルトを返上(第4の団体WBOは発足していない)。88年7月にヘビー級転向第1戦をやり、王座獲得前のタイソンに大善戦したジェームズ・"クィック"・ティリスに5回TKO勝ち。

専門のフィジカル・トレーナーの指導を受けながら、計画的な増量に取り組んだ。


※写真左:1984年ロス五輪当時のホリフィールド(L・ヘビー級銅メダル)
 写真右:ヘビー級王座獲得当時のホリフィールド


統一ヘビー級王座(新興のWBOを除く3団体)の初防衛戦で、42歳のフォアマンを迎えたホリフィールドは28歳。花の盛りである。戦績は25戦全勝(21KO)の無敗を維持しており、「Battle of Ages(世代間闘争)」と名付けられた興行は大いに盛り上がる。


会場として用意されたトランプ・プラザ(アトランティックシティ)のコンヴェンション・センターは、17,000席をセールスしてほぼ満員の盛況(あと2,000席の余裕があったらしい)。

ライヴゲートは800万ドルと公表され、600万ドルを売り上げたクローズドサーキットに、海外への放映権料として200万ドル、HBOのPPVには140万件超の申し込みがあり、売上げは5,500万ドルに達した。
※HBOは1週間後の再放送の為に、400万ドルを追加で拠出


※現地での会見より
 左から:フォアマン,ドナルド・トランプ,ホリフィールド


そして王者のホリフィールドに2千万ドル、タイトルマッチの舞台に帰ってきたフォアマンには、1,250万ドルが約束される。カムバックの動機となったユースセンターの維持費を補ってなお、十二分に余りある巨額のギャランティ。フォアマンとシャイプスの目的は、この一戦で達成されたと言っていい。

タイソン戦でキャリアハイの130万ドルを手にしたダグラスは、ホリフィールドとの指名(V1)戦で、史上最高額(当時)となる2,400万ドル(!)を得ると、「これでもう、キツい仕事とはオサラバだ。」と語り引退を表明(6年後にカムバック)したが、フォアマンとシャイプスにも同じ事が言える。

まだまだ元気だったモハメッド・アリがスペシャル・ゲストとして駆けつけ、ヘビー級タイトルマッチに相応しい華を添える。豪華絢爛な演出も、っ無事に整った。


※特別ゲストとして招かれたアリとトランプ


257ポンドで計量したビッグ・ジョージに対して、ホリィは208ポンドの軽量。後にステロイドの常用を疑われる隆々とした筋肉を付け始めた頃で、肥満体型のフォアマンとは見事なまでの好対照を描く。

そしてフォアマンのコーナーには、なんとあのアンジェロ・ダンディがいた。アシスタントに降格はしたが、シャイプスも一緒にサポートに当る。

ホリフィールドとサポートするのは、ルー・デュバ(メインイベンツを立ち上げた名トレーナー/パーネル・ウィテカー,ザブ・ジュダーもデュバと仕事をした)とジョージ・ベントン。


※写真左:アンジェロ・ダンディとフォアマン
 写真右:ルー・デュバとホリフィールド


ベントンは50~70年代にかけて活躍した中量級の名選手で、ショルダーロール(いわゆるL字ガード)の名手として鳴らし、ミドル級で勇名を馳せた後、エディ・ファッチの下で丁稚奉公をしながら指導者となった。

"スリラ・イン・マニラ(アリ VS フレイジャー第3戦)"では、ファッチ直々にアシスタントを任され、スモーキン・ジョーのコーナーに参加している。


※現役時代のベントン(60年代半ば頃)


※初期のチーム・リアルディール
 左から:デュバ,ホリフィールド,ベントン

デュバ&ベントンとダンディのトレーナー対決も、マニアの食指を動かさずにはおかない。


直前の賭け率は3-1と接近していたが、専門記者と年季の入ったファンの予想は、圧倒的な差でホリィ。かつて「象をも倒す」と言われた破壊力は侮れず、1発の怖さまでは否定できないが、"まさかの一撃"を許すほどリアル・ディール(The Real Deal/ホリフィールドのニックネーム)は甘くない。

記者とファンの予想など意に介さず、じわりじわりと圧をかけて迫るフォアマンに、前後左右に動きながら下から鋭い強打を突き刺すホリィ。クロスアームによるブロック&カバーをすり抜け、正確にヒットする。

アリ戦とライル戦、そして一度目のラストファイトとなったジミー・ヤング戦でも、ここまでは打たれなかっただろう。中盤を過ぎて後半に入る頃には、フォアマンの顔は見るも無残に腫れ上がっていた。

しかし、フォアマンも前進を止めない。良く伸びるジャブ、ボディへのストレートがホリィを捉え、時折りアッパーとフックもホリィのガードを打ち破る。ただ、どうしようもなく数が少ない。ホリィの頭からくっつくクリンチに阻まれ、あと1歩,いや半歩が届かない。


フォアマンは第3,第9ラウンドの2回大きなピンチを迎えたが、グラつきながらも何とか持ち応えて、重く鈍くなった足を必死に前に運び、手数を振るってホリィを押し返す。

どんなに打たれても音を上げず、黙々とセットアップし直し向かって行くそのひたむきな姿に、1万7千の観客が心を突き動かされる。凄まじい歓声が巻き起こり、疲労困憊のフォアマンの背中を押した。


※激しい攻防を繰り広げる両雄


最終ラウンド、もはや満足に手も出せないほど疲れたフォアマンだが、最後まで立ち続けて試合終了のゴングが鳴る。

判定は3-0(117-110,116-111,115-112)でホリィを支持し、フォアマンも記者も観客もすべてが素直に敗北を受け入れたが、世界中から寄せられる巨大な賞賛とファンの謝意が、ビッグ・ジョージの傷心を優しく包む。

「人は皆老いて行く。でもそれは、けっして恥ずべきことじゃない。」

人間が持つ可能性と意思の力を、これでもかと見せつけたフォアマンの言葉に、世界中が感動と興奮のるつぼと化す。


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■最高齢王者の誕生

1,250万ドルを手にしたフォアマンは、引退への雰囲気を微塵も感じさずに、それからも戦い続ける。客を呼びたいプロモーターの勝手な都合などではなく、ワールドクラスに留まる実力をフォアマン自身が己の拳で証明し、ファンの需要も確実に存在した。

トミー・モリソンとのWBO王座決定戦(1993年6月7日/トーマス&マックセンター,ラスベガス)は0-3の12回判定で落としたが、1994年11月5日、ホリフィールドから統一王座(WBA・IBF2団体)を奪取したマイケル・モーラーに挑戦。

エマニュエル・スチュワート(とトニー・アヤラ)の下で、WBOのL・ヘビー級を9回防衛した後、モーラーは一気にヘビー級へと進出。短期間だがデュバ&ベントンと組み、バート・クーパーを5回TKOに下して、レイ・マーサーが放棄したWBOのベルトを巻く。

しかし創設間もないWBOは、世界王座としての権威と認知を得るには至っておらず、「マイナー団体のベルトに用は無い」と言わんばかりに、ホリフィールドへのアタックを目指して即座に返上。

"小兵の重量級"を仕込む手腕に長け、フロイド・パターソン,ホセ・トーレス,タイソンの3王者を育てたカス・ダマト直系の数少ない生き残りで、アマチュア時代のタイソンを付きっ切りで世話したテディ・アトラスをチーフに招き、リアルなヘビー級王座獲得へと動き出す。


※モーラーとテディ・アトラス


レイプ事件によるタイソンの逮捕収監で、メガマネー・ファイトが消えたホリフィールドは、リディック・ボウ(88年ソウル五輪銀メダリスト/名匠エディ・ファッチが最後に手掛けたヘビー級王者)との抗争に乗り出す。

初戦で統一王座を奪われるも、再戦で奪還に成功。一回り以上大きなボウに臆せず、果敢に打ち合いを挑むホリィにファンの支持が集中。ボクシング・ファンの間で、「ディタミネーション(揺るぎない決意・決断)」が流行語になった。

◎ホリフィールド VS ボウ
<1>第1戦:92年11月13日/トーマス&マックセンター,ラスベガス/12回0-3判定でボウ
<2>第2戦:93年11月6日/シーザース・パレス,ラスベガス/12回2-0判定でホリィ(スコアの妥当性を巡り紛糾)
※ボウは3団体の統一王座を獲得したが、レノックス・ルイス(ソウル五輪の決勝で敗れた因縁の相手)との指名戦を通告したWBC王座のみ返上。緑のベルトをゴミ箱に投げ捨てるパフォーマンスが波紋を呼んだ。
<3>第3戦:95年11月4日/シーザース・パレス,ラスベガス/8回TKOでボウ


賭け率では2-1と優位に立ったホリフィールド。モーラーは第2ラウンドに左フックで先制のダウンを奪れたが、スピードとアジリティを活かしたコンパクトなボクシングで反撃。

第5ラウンドに左を浴びせると、これが効いて王者の動きが鈍る。さらに左眼をカットしてしまい、ホリフィールドが中盤以降目にみえて失速。

互いにクリンチ&ホールドで相手の攻勢を分断しつつ、疲労が顕著なホリィも懸命に手数を返し、口から出血したモーラーも応戦。

スタミナが苦しくなって行く中、モーラーは積極的に揉み合いを仕掛け、ジャブをダブルで放ち、細かくポジションを変えながら、引っ掛け気味の右フックをアウトサイドの死角から狙う。


※モーラーの攻勢を耐えるホリフィールド


最終12ラウンドもモーラーが攻勢を取り、速いワンツーからのボディでホリィの動きを止める。大きなボウと戦う為に、筋肉量を増したホリィに押し負けず、モーラーは接近戦でも優勢を示して試合は終了。

採点は非常に競ったが、114-114,115-114,116-112の0-2でモーラー。ヘビー級のタイトルを獲ったサウスポー第1号となる。

上述した通り、92年5月にモーラーはWBO王座を獲得済みだが、88年発足のWBOは世界タイトルとしての権威を認められたとは言い難く、ホリフィールド戦をレフディチャンプ誕生の瞬間とする声が多い


試合後に公開されたスコアカードで、115-114を付けたジャッジのジェリー・ロスが、ダウンのあった第2ラウンドを10-10のイーブンとしていた為、ホリフィールドのマネージャー,シェリー・フィンケルが正式に文書で抗議したが、一早く不問に処したネバダ州(いつもの事)に、WBAとIBFも足並みを揃えてオフィシャルの判断を是とした。

中盤で息切れしたホリィには心臓疾患が判明し、一時は引退説も流布されたが、レノックス・ルイスやタイソンとの2試合(耳噛み事件でタイソンのキャリアは事実上終焉)を経て、2011年まで延々現役を継続。50歳を目前にして、ようやくリングに別れを告げている。


45歳を過ぎたフォアマンと、ホリフィールドを攻略した26歳のモーラー。1発のパワーはともかく、スピードとスタミナは圧倒的にモーラーが優るという訳で、直前のオッズは3-1で若いチャンピオン。

まさしくラスト・チャンスに懸けるフォアマンの横には、アンジェロ・ダンディが変わらず付き添う。ダマトの下で腕を磨き、タイソンを指導したアトラスと、アリ,レナードのレジェンド2人を支え続けたダンディの激突は、好事家の的となった。

使い慣れたクロスアームの構えを捨てて、正攻法のガードを保持してパリーを操るフォアマンだが、小柄なサウスポーの動きと速さに戸惑い、目と感覚を慣らすのに2~3ラウンズを要する。

用意した左対策は、右回りとリード代わりに打つ右ショートストレートの2本立て。古典的過ぎる基本中の基本だが、フォアマンは忠実に履行する。


対するモーラーもアトラスの指示を受け、フォアマンの懐に素早く潜り込み、右ストレートの射程を上手く外しては、同時に左右のショートでコツコツ上下を叩く。得意のアッパーも封じられて、フォアマンには打つ手がない。


※モーラーのスピード&精度に苦しむフォアマン


中盤以降大きな挑戦者が目に見えて消耗。小さな王者が下から突き上げるジャブ、左ストレート,左右のフックとアッパーに反応し切れなくなり、被弾が増して行く。

顎を引いて懸命にプレスをかけ直すフォアマンだが、スピードの差は如何ともし難く、判定攻勢の糸口を見出すのは困難。

完全に自信を持ったモーラーは、フォアマンに正対してジャブと左ストレートを飛ばす。フォアマンも右のショートと軽いジャブを合わせて、モーラーの顔面に届きはするが、当てる為にパワーセーブを余儀なくされ、いかにも効果は薄い。

このまま判定でモーラーの防衛。後は、フォアマンのギブアップが有るか無いか・・・そんな空気が充満する第10ラウンド、異変が起きる。


正面に止まってジャブ,ワンツーを突くモーラーに、フォアマンが左ジャブと右ショートのパワーを一段引き上げた。するとモーラーが、これをまともに貰う。

モーラーはなおもその場に踏み止まり、強めのワンツーを返して行くが、その打ち終わりを待つフォアマンが、左の引き手に合わせてまた右ショートを痛打。

外からビュンと振る左フックも、単発ではあるが、ボディとテンプルに危ないタイミングで着弾。思わぬ攻勢に、MGMグランド・アリーナが一気に沸き立つ。

HBOの実況も、「フォアマンのベストラウンドだ!」と興奮気味にまくし立て、コーナー下に陣取るテディ・アトラスを波乱の予感が襲う。そのアトラスが、たまりかねて大声を上げた。

「正面に立つな!」



※渾身の指示を叫ぶアトラス/モーラーには届かなかった

しかしその直後、フォアマンの右ショートが火を噴き、顎を撃ち抜かれたモーラーが腰から崩れ落ちて行く。声を失い、リング上を見つめ続けるアトラス。


※狙い続けた右ショートがついに炸裂


※写真上:腰から仰向けに倒れ大の字になるモーラー
 写真下:主審コルテズのカウントに気付き起き上がろうとするモーラー


大歓声が場内に響き渡り、凄まじい興奮状態の中、ゆっくりフォアマンをニュートラルコーナーに下がらせ、タイムキーパーからカウント(5)を引き継いだジョー・コルテズ(東海岸とネバダで活躍した名物レフェリーの1人)が、残りの5秒を数え終える。

モーラーはようやく身体を反転させて起き上がろうとしたが、時既に遅し。カウントアウトを確認したフォアマンは一瞬天上を見つめると、待機していたニュートラルコーナーに膝まづき、神に長い祈りを捧げる。


キンシャサでアリのロープ・ア・ドープに敗れ去ってから、およそ20年。失ったベルトと栄光を取り戻したフォアマンは、20年前の自分と同じ立場となったモーラーを気遣いながら言った。

「人はいくつになっても、夢を見続けていいんだ。星に願いをかけようじゃないか・・・」


45歳と10ヶ月の新チャンピオンは、顔の腫れが引いてからたくさんのインタビューをこなしたが、どの時だったか、とても印象的なコメントを述べている。

「アリに直接勝った訳じゃないが、今は本当に晴れやかな気分だ。長い間背負い続けた重い荷物を、ようやく降ろすことができた。そんな気がする・・・」


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■Last Days

アリ以上の奇跡と表してもいい復活を遂げたフォアマンだが、王者としての最後の日々は、ファンにとっていささか残念な展開となった。

専門記者とファンの大多数は、レイプ事件で有罪判決を受け、仮釈放を待つタイソンとの対戦に関心を向ける。「彼が出獄して条件さえ整えば・・・」と、フォアマンも可能性を否定はしなかったが、その間ずっと王者でいられる保障はなく、実現は極めて困難と思われた。

王座を承認する2団体のうち、WBAは30代半ばを過ぎたトニー・タッカー(87年にタイソンに敗れた元IBF王者)に指名挑戦権を認め、フォアマンに対戦を迫る。

陣営が初防衛戦の相手としてピックアップしたのは、アクセル・シュルツというドイツ人で、国内王者になった後、ヘンリー・アキンワンデ(後のWBO王者)と欧州王座を懸けて2度対戦(1分け1敗)した以外に目ぼしい実績は無く、WBAとIBFのランキングにも入っていない。

IBFはシュルツを9位にランクインさせ、防衛戦にGOサインを出したが、WBAはあくまでタッカーとの指名戦を主張して譲らず、フォアマンの王座をはく奪(95年3月)。

1位タッカーと2位ブルース・セルドンによる決定戦を指示し、7回TKOでタッカーを破ったセルドンが新チャンピオンとなる(95年4月)。


1995年4月22日、IBF単独の王者となったフォアマンは、MGMグランドでシュルツの挑戦を受け、僅差の2-0判定で防衛に成功したが、スコア(114-114,115-113×2)を巡って異論が噴出。

111-117の6ポイント差でシュルツの勝ちとしたHBOの名物アンオフィシャルジャッジ,ハロルド・レダーマンを筆頭に、「フォアマンの敗北」を支持する声が上がった。


※シュルツのパンチを浴びるフォアマン

リマッチは不可避とのムードが醸成され、再戦指示へと傾くBFに対して、フォアマンが拒否。はく奪処分を決めたIBFは、1位フランソワ・ボタとシュルツの決定戦を認め、ボタが12回判定勝ちで王座を獲得(95年12月)。

そして95年3月に仮釈放されたタイソンが、ネバダ州のライセンスを再取得。マサチューセッツのローカル・ファイター,ピーター・マクニーリー(実父のトムもフロイド・パターソンに挑戦した元ヘビー級コンテンダー)との再起戦が、8月19日ラスベガス開催で無事にまとまり、90秒足らずで2度倒し、4年2ヶ月ぶりとなるリング復帰を果たす。

さらに95年12月、バスター・マシス・Jr.を3回で粉砕したタイソンは、翌96年3月、フランク・ブルーノとの7年ぶりの再戦で3回TKO勝ち。WBCのベルトを取り戻すと、9月にはブルース・セルドンを2分足らずで瞬殺。WBAのベルトも吸収する。
※スロー再生で「フィニッシュブローが当っていない」ことが話題となった。


タイソンの復活によってにわかに活気づくボクシング界を尻目に、フォアマンは96年11月、23年ぶりに日本の土を踏む。JECインターナショナルという、主に音楽関係の呼び屋が主催する興行で、新日本木村ジムが名義貸しするとの噂も流れたが、結局JBC非公認の興行として東京ベイNKホールで強行。

AIDSのキャリアが発覚し、米本土でのライセンス認可が難しくなったトミー・モリソン、オーランド・カニザレス、アレックス・スチュワート(84年ロス五輪ジャマイカ代表)、女子の世界S・ウェルター級王者(WIBF)メアリー・アン・アルマジャーらが脇を固める布陣。

メインのフォアマンはクロフォード・グリムスリーというキックから転向した選手を相手に、マイナー団体(IBAとWBU)の王座を懸けて対戦した。

JBCの公認を得られず、プロモーションとパブリシティが不充分だったこともあり、23年ぶりに実現したフォアマンの再来日は一部ボクシングマニアの関心を惹くに止まる。

チケットも売れず(主催者発表:3千人)、アントニオ猪木をゲスト解説にしてTBSが中継を行ったが、ほとんど注目されずに終わっている。


猪木はこの前(95)年、北朝鮮でプロレスの興行を打っているが、その際フォアマンに対戦を打診していたらしい。間を取り持ったのは、WWEからWCWに乗り換えたエリック・ビショフで、フォアマンは即決で断ったという。

この時も実際にフォアマン一行が来日するまで、「本当にやるのか?」と懐疑的に見るボクシング・ファンは多く、アリ VS 猪木戦の時と同じく、JBCとの軋轢を心配する声も聞かれたが、WBAとIBFのベルトを失い、セミリタイアに近い状態だったことに加えて、日本国内の反応も冷ややかだったことが幸いした。

チケットを買ったボクシング・マニアのお目当ては、フォアマンやモリソンではなく、バンタム級で一家を成したカニザレスだったかもしれない。

ピークを過ぎて久しく、フェザー級に上げて最盛期の力は無くなっていたが、バンタム級の最後の防衛戦で苦闘を強いられたセルジオ・レイジェス(92年バルセロナ五輪代表からプロ入り)との再戦を10回TKOで切り抜け、名王者としての貫禄を示した。


フォアマンも大差の3-0判定勝ちを収めたが、モーラー戦やホリフィールド戦の緊張感を求めるのは酷で、コンディション自体は悪くないと見えたものの、モチベーションはほとんど感じられず、残念な印象だけを残して帰国。

翌97年4月26日、アトランティックシティでルー・サバリース(2000年にタイソンと戦ってKO負けする)を小差の2-1判定に退け、WBU王座の初防衛に成功すると、11月22日にアトランティックシティを再訪問。後にWBO王者となるシャノン・ブリッグスに、0-2の判定負けを喫する。

シュルツ戦はもとより、東京でのグリムスリー戦とは気合の入り方がまるで違っていて、鋭いジャブと右ストレートでブリッグスにプレッシャーをかけ続け、終盤息切れして被弾が増えたが、フォアマンの勝利に疑いを挟む余地は無かった。


※ブリッグスにシャープで重いショートを打ち込むフォアマン


不可解極まるスコアでブリッグスに敗れたフォアマンは、意外にも2度目の引退を決める。48歳の年齢を考えれば当然の判断ではあったが、著しく妥当性を欠いた判定を最後にグローブを脱ぐことに納得できず、再戦を強く求めるファンも多かった。

こうしたファンの反応に、機を見るに敏なプロモーター(アラムやキング)たちが、WBC王座に復帰したレノックス・ルイスへの挑戦を模索する動きもあったが、これはフォアマン自身が断ったとされる。

大半のファンが引退を確実視する状況となったが、98年には同世代のオールドタイマー,ラリー・ホームズとの対戦に合意。

1999年1月23日、ヒューストンのアストロ・ドーム(フォアマンのホーム)での開催が決まり、7月15日にはニューヨークのパレス・ホテルで発表会見が行われた。


※写真左:スーツ姿でグローブを着け撮影に応じるホームズとフォアマン(N.Y.での発表会見)
 写真右:試合のポスター


試合当日には50歳を過ぎているフォアマンと、同じ49年の遅生まれで49歳のホームズによる100歳対決は、「スポーツとは呼べない茶番」との批判も受けつつ、巨額のギャランティ(フォアマン:1,000万ドル/ホームズ:400万ドル)も相まってファンの高い関心を呼ぶ。

フォアマンの誕生日(1月10日)に引っ掛けて、"Birthday Bash(誕生日のド突き合い)"と名付けられた興行は、賛否が渦巻きながらも大いに盛り上がったが、本番まであと数日という段階で頓挫する。

ロジャー・レヴィットというプロモーターが、約束した900万ドルを期日までに用意できず、フォアマンが出場を拒否すると言い出した。

レヴィットは「大丈夫だ。問題はない。」と強弁を続けたが、フォアマンの態度が変わることはなく、あえなく試合は中止。400万ドルを稼ぎ損ねたホームズは未練たらたらの体だったが、主導権を握るフォアマンが出ないと言っている以上、どうすることもできない。


この後フォアマンはボブ・アラムに接近し、タイソン戦への可能性をほのめかしたが、これもまた立ち消えとなり、1994年に販売を始めたダイエット効果のある電気グリル鍋がヒットしたおかげで(?)、ビッグ・ジョージがリングに戻ることはなかった。

スモーキン・ジョーが67歳の若さで逝き(2011年11月7日)、ケニー・ノートンは丁度70歳(2013年9月18日)、アリも74歳で身罷り(2016年6月3日)、残っているのは無事に古希を迎えたフォアマンとホームズの2人だけである。

ホリフィールド,モリソン,モーラーとの3試合で、残っていた情熱の炎を燃やし尽くしてしまったのかもしれないが、そうであるなら潔く2団体の王座を返上し、自らの声ではっきり引退を表明するべきではなかったか。

現役を続けるのであれば、レノックス・ルイス,ホリフィールド,タイソンのいずれかと拳を交え、正しく敗北してリングを去るのが、チャンピオンたる者の義務ではないのかと、青臭い繰言がついつい口を突いて出てしまう。

54歳で復帰を決めたタイソン(ロイ・ジョーンズとの8ラウンズのエキジビション)を、どんな思いで見つめているのだろう。


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以下の記事へ続く
チャンピオンベルト事始め Part 3 - 4 - III - 綺羅星のごときチャンピオンたち - 4 -III

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