■綺羅星のごときチャンピオンたち - 3 - I
◎ヘビー級
※写真左:モハメッド・アリ(第1期:1964年2月~67年5月/V9/1990年殿堂入り)
写真右:ジョー・フレイジャー(1968年3月~73年1月/V9/1990年殿堂入り)
ボクシングの垣根を遥かに高く飛び越え、サッカーの王様ペレとともに、20世紀を代表するスポーツ・ヒーローとなったアリ。黒人解放運動とベトナム戦争で揺れに揺れた60年代のアメリカを象徴する巨大なアイコンであり、ベトナム反戦運動のシンボルでもあった。
そしてボクサーとしてのアリを語る時、その先頭に位置すべき闘いが、スモーキン・ジョー・フレイジャーとの3試合であることに間違いはなく、異論を述べる人も皆無とは言わないが、極めて少数派になるだろう。
1967年5月、選抜徴兵制委員会によって告発されたアリは、罰金1万ドルと5年の懲役(徴兵拒否に対する最も重い罪)を言い渡され、世界タイトルとボクサーライセンスをはく奪されて、ボクシング界からの強制退去を命じられたのみならず、パスポートまで没収され、海外で活動する道も閉ざされる。
有罪が確定すると、迷うことなく直ちに控訴、5千ドルの保釈金で拘束を解き、9度の防衛で稼ぎ出した全財産を投じて、たった1人で合衆国政府を相手に司法の場で決着を挑む。
この間アリは全米各地の大学を回り、講演活動を行う中で若い学生たちと討論を続け、時々メディアに顔を出しては、「この戦争に正義はない。大きな過ちだ」との主張を繰り返し語り続けた。
そうした活動の中で、泥沼化する一方のベトナム戦争に疑問を呈し、反対の声を上げる知識人や芸術家がその数を増す。多くのミュージシャンも呼応し、全米に蔓延する厭戦ムードがアリの背中を強く押すことになる。
良心的兵役拒否を全否定され、「世界一強く世界一美しいとウソぶく世界一の臆病者」と非難され、非国民として扱われ続けたアリは、一転して反戦運動のヒーローへと変貌を遂げて行く。
アメリカに根深く巣食うレイシズムについて、一方的な弱者としての黒人の立場を代弁し、公民権運動の旗頭となっていたマーティン・ルーサー・キング牧師も、主張の違いを乗り越えてアリを積極的に擁護した。
「モハメッド・アリの信仰と、(人種差別問題に関して)目指すべき解決の手段は、我々とは大きく食い違う。しかし、彼が繰り返し発言してきた諸問題は、我々が訴え続ける問題と完全に一致する。」
「彼の宗教がたとえどのようなものであったとしても、彼の勇気と行動は賞賛されるべきだ。」
※1967年3月30日,アリの故郷ケンタッキー州ルイビルで対面し報道陣の質問に答えるアリ(左)とキング牧師(右)
アリが信奉したブラック・モスレム(ネイション・オブ・イスラム/NOI)は、極端な隔離政策(黒人もネイディブ・アメリカン同様白人と居住区を分ける)を掲げ、目的達成の為なら強引かつ暴力的な手法も厭わない、過激なカルトと見なされていた。
※写真左:ブラックモスレム(NOI)の教祖イライジャ・モハメッド(ムハンマド)
写真中:イライジャ(左)とマルコムX(右)
写真右:アリ(左)とイライジャ(右)
対するキング牧師は、積極的な融和と相互理解を強調し、非暴力と対話を求め続ける穏健派であり、デモ行進の最中に警官隊と衝突を繰り返す中、全米各地で発生する暴動に心を痛め、血気に逸る黒人の若者たちに自制を促す。
キング牧師が最大の目標としていた公民権法(Civil Rights Act of 1964)は、膨大な数の修正案が提出された末、1964年6月に上院で可決。同年7月2日にジョンソン大統領(ケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された)が法案に署名し、難儀はしたが無事成立に漕ぎ着けていた。
アリに強力な理論武装を施し、苛烈かつ有能極まりないアジテーターに仕立て上げたマルコムXは、教祖イライジャ・モハメッドの堕落腐敗した私生活(若い女性信者に性的な暴行を働き妊娠させたことが直接的な動機)に絶望し、1962年~63年にかけて離反の動きを加速させ、1964年3月8日、ブラック・モスレムからの正式な脱退を表明する。
どこへ行くにも一緒で、「実の兄弟ではないか」とまで言われたアリとマルコムXだったが、この一件を機にアリの方から関係を絶つ。
※後にアリは「あれ(マルコムXとの絶縁)は大きな過ちだった。彼には本当に悪いことをしたと思っている」と延べている。
※家族ぐるみで親交の厚かったマルコムX(左)とアリ(右)
ソニー・リストンをメガ・アップセットのTKOに下して世界ヘビー級王者となり、ブラック・モスレムへの入信と改名を明らかにしてから、僅か2週間足らずの出来事だった。
※当初は「カシアスX(Cassius X)」を名乗ったが、すぐに「モハメッド・アリ」のイスラム名を公表。
公民権の審議を見届ける為、同年3月26日に上院の議会(ワシントンD.C.)を訪れたマルコムXは、同じ目的で居合わせたキング牧師と対面(唯一無二の邂逅)。
スンニ派に改宗して、新たに「OAAU(Organization of Afro-American Unity /アフリカ系アメリカ人統一機構)」を立ち上げると、サム・クック(著名なソウル・シンガー/アリとも親しがった)を始めとする複数のブラック・リーダーと会い、キング牧師とアリも含めて、志を共有できる人たちとの連携を模索していたとされる。
※1964年3月26日,上院議会で対面したキング牧師とマルコムX
初めは2人とも堅い表情(写真左)だったが、暫くしたらうちとけ笑顔に変わる(写真右)
そして同年4月、ルーツのアフリカへと旅立ち、念願だったメッカを巡礼。1965年の年明けに帰国すると、OAAUの活動と拡大に力を入れ出す。しかし、マルコムXの行動を裏切りと捉えたブラック・モスレムは、事あるごとに襲撃を企て、実際に車と自宅を爆破するなど、対応はエスカレートする一方だった。
家族を守る為に武装を余儀なくされた(カービン銃を持って窓の外を伺う有名な写真が現存する)が、1965年2月21日、マンハッタンでの演説中に襲われ凶弾に倒れてしまう(享年39歳)。
前年の暮れ(1964年12月11日)には、サム・クックも変死(モーテルで連れ込んだ女性に逃げられ泥酔状態で暴れて管理人に射殺された=謀殺説が絶えない/享年33歳)しており、否応なしにブラック・リーダーの1人に祀り上げられていたアリは、親交浅からぬ2人が相次いで亡くなったことに大きなショックを受けたとされる。
表向きは平静を装い、ショーマンシップとビッグマウスも相変わらずだったが、家族と自らの身辺を気にするようになっていたらしい。
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■難航するアリ VS リストン II
アリのカミングアウトは大きな驚きを持って迎えられ、予定されていたリストンとの再戦に反対の声が上がる。第1戦の契約に再戦条項が含まれていた上、第2戦の興行権も王者側の興行会社(インターコンチネンタル・プロモーションズ/Inter-Continental Promotions)が握っていたことから、リストンの背後関係と相まって、八百長への疑念(アリに勝たせて話題を作り2戦目の興行をより大規模にする)を膨らませる要因となった。
興行権に関する取り決めはいわゆるオプションで、ダイレクトリマッチへの風当たりが強くなり、2連戦,3連戦を組みづらい空気が醸成された為、プロモーターたちが捻り出した(悪?)知恵である。
長い時間とお金をかけてプロモートした傘下の有力選手を、やっとの思いで世界チャンピオンにしても、強い上位ランカーとやってすぐに負けたら商売にならない。前王者陣営の権利として、ダイレクトリマッチは当り前の常識だった。
新しいチャンピオンは、前王者をリマッチでもう一度破り、その上でランク1位のトップ・コンテンダーの挑戦を退けて、初めて真のチャンピオンとして認められる。
それがこの時代のスタンダードであり、同じ選手同士で世界戦を続ける慣行について、認定団体もまずいと承知はしていながら、興行の論理に引きずられて認めざるを得ない。
1962年にNBAがWBAへと改称する際、アメリカ(旧NBA)とそれ以外の国々が対等な関係を築く目的で、1963年に内部(下部)組織としてWBCを発足(先頭に立ったのはメキシコとフィリピン)させたが、同時にダイレクト・リマッチの禁止を明確に規定している。
いよいよリマッチが組めないとなった時、代替手段として前面に出てきたのが、新王者の初防衛戦(もしくは2度目まで)の興行権を前王者陣営が保有する付帯条項で、再戦条項をより強固にする効果と意味も含まれていた。
ボクシングの契約に以前から存在していたもので、特別変わった内容ではなかったのだが、"あの"リストン(マフィアにハンドリングされていた)と、「危険なカルトの広告塔」に堕した(?)アリが当事者だけに、「こんなものを認めていいのか」となってしまう。、
WBA(旧NBA)には、ニューヨーク,カリフォルニア,ネバダの大所を除く全米各州が加盟を済ませていたが、世論と疑惑の逆風を恐れて、どの州も再戦の開催に二の足を踏む。
さらにアリに敗れた翌3月12日、リストンは無免許運転とスピード違反で逮捕され、届出のない拳銃を不法所持していたことも発覚。試合を潰す為(?)、当局の監視と追及は厳しさを増す。
開催地が決まらないのだから、交渉は遅々として進まず難航する。ようやくマサチューセッツ州が名乗りを挙げ、1964年11月16日にボストン・ガーデンでの開催が決定。
※第2戦の決定記者会見より
左から:リストン.エンリコット・ピーボディ(マサチューセッツ州知事),アリ
ところが本番の3日前になって、アリが腹部の変調を訴えた。絞扼性ヘルニアの診断を受けて早速入院。試合はまた延期される。拘留が解けたリストンは、かつてないほどのハードワークに取り組み、絶好調が伝えられていた為、アリの仮病が疑われた。
WBAはマサチューセッツ州ボクシング・コミッションに対して、世界戦の開催を認めないと通告。本来認定団体がコミッションをサスペンドするのは筋違いなのだが、アリとリストンの再戦まかりならずとのムードが、WBA内部でも支配的になって行く。
リマッチの日程は、1965年5月25日(同じボストン・ガーデン開催)と決まったが、リストンの興行会社がマサチューセッツ州のラインセスを取得していなかったことが問題視され、地方検事局のトップが開催にストップをかける。
基本的にどこかの州(上述した大所の3州,とりわけニューヨーク州が最重要)でライセンスの認可を受けていれば、開催地を所管する他の州がそれを拒絶することはまずない。
さらにこの興行会社に対して、組織犯罪(すなわちマフィア)との関係を取り沙汰する記事が出るなど、時間の経過とともに当局の圧力は目に見えて強くなり、ボストンでの挙行を諦めざるを得なくなった。
リストンのプロモーションは速やかに次の候補地選定に入り、メイン州のジョン・リード知事が直々に声明を出して、ルイストンでの開催が正式に決定する。
すると今度は、マルコムXを暗殺されたOAAUが、刺客を雇ってアリとイライジャ・モハメッドへの報復を計画しているとの噂が流れ、FBIがアリの身辺警護に乗り出す事態に発展。
リストン陣営は「本当に脅迫された」と主張したが、真偽のほどはよくわからない。
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■1回目の王座はく奪と統一
ダイレクトリマッチの正式決定を受けて、WBAはアリの王座はく奪に踏み切る。WBAルールに抵触したという建前だが、当局のプレッシャーであることは誰の目にも明白。
WBAの動きはいつも以上に迅速で、1位のアーニー・テレルと3位エディ・メイチェンによる決定戦を指示し、1965年3月5日にシカゴのインターナショナル・アンフィシアターで試合は行われ、15回判定勝ちでテレルが新チャンピオンとなる。
※写真左:WBAの新王者となったアーニー・テレル
写真右:エディ・メイチェン(ヘビー級のトップシーンを賑わせた実力者)
アリは世界タイトルを失い、これで一件落着となる筈だったのだが、何と内部(下部)組織のWBCが叛旗を翻す。「WBAはアメリカ1国の為の組織ではない。あからさまな政治の介入は認められない」とした上で、「WBCはアリの王座を継続承認する」と言い出した。
少し遅れて、前身のNBA時代から一貫して折り合いが悪かったニューヨーク州アスレチック・コミッション(NYSAC)が、反NBAの立場を鮮明にしたWBCに同調。アリの王座承認に相乗りを決める。アリの王座はく奪を巡る対立が、WBCを分派独立へと駆り立てる発端となった。
WBCとNYSACの動きは、当局とWBAにとって想定外であり、新王者テレル誕生から2ヶ月後の5月25日、予定通りメイン州ルイストンでアリとリストンは再び対峙。アリのファントム・パンチが炸裂する。
1967年2月6日にアリとテレルが戦うまで、ヘビー級の王座は2年間分裂状態が続き、会見やインタビューで「カシアス・クレイ」と呼び続けたテレルをなぶり者にしたアリが、圧倒的大差の15回判定勝ちで王座を統一。
テレルに対して怒りも露に、「What's My Name!?(俺の名前を言ってみろ!)」と叫ぶアリの姿が、メディアを通じて全米に流され、テレルの勝利に寄せた当局とWBA(NBA)の大きな期待は、ぺしゃんこに踏みにじられた。
勢いに乗るアリは、翌3月22日に殿堂MSGのリングに上がり、ランク1位のハードパンチャー,ゾラ・フォーリーに鮮やかな右カウンター(ファントム・パンチ)を決め、第7ラウンドでストップ。連続防衛を9に伸ばす。
もはや猶予は許されない。選抜徴兵制委員会が動き、アリの強制退去が執行される。1966年に設立されたアリの興行会社「メインバウト(Main Bout)=トップランク社の設立母体となる」の副社長に就任していたボブ・アラムは、ハーバードのロウ・スクールを卒業後司法省で働いたエリート弁護士で、徴兵されたアリの身分保障について、当局と直接交渉している。
「アリがベトナムに送られないよう言質を取った。基地の中に専用のトレーニング施設を作ることも了承させた。政治的な発言に気を付けさえすれば、ある程度の行動の自由も認められた。」
「交渉の結果をアリに伝えて、長い空白にはならないから今は黙って陸軍へ行くんだ、さもないと大変なことになると説得したが、彼は頑として聞き入れなかった。どんな事態になっても、イスラムの神の法に従うと言ってね・・・」
※トップランク社のオフィスで、若かりし日のアリと自分の写真パネル(60年代後半~70年代前半)を前に、笑顔でポーズを取るボブ・アラム。
今から約7年前の2013年9月、米国家安全保障局(National Security Agency:NSA)が、キング牧師やベトナム戦争に反対の姿勢を示したフランク・チャーチ(民主党の上院議員)らとともに、アリも盗聴の対象にしていたことが明らかとなった。
※Declassified NSA files show agency spied on Muhammad Ali and MLK
2013年9月26日/英ガーディアン
https://www.theguardian.com/world/2013/sep/26/nsa-surveillance-anti-vietnam-muhammad-ali-mlk
アリは当局にとって目障りな存在であり、排除すべき対象として認識されていた。アリ本人も当然気づいてはいたが、一個人が背負うには余りにも大きく重過ぎる歴史的役割から逃げることなく、むしろ進んで引き受ける。
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■2度目のはく奪と強制退去,そして劇的な復活へ
ベルト(2度目のはく奪)とライセンスを失ったアリが事実上の追放処分となり、WBAは8名のヘビー級ランカーによるトーナメントを実施。決勝(1968年4月27日/カリフォルニア州オークランド)でジェリー・クォーリーを15回2-0判定で破ったジミー・エリスを、WBAはアリの後継王者に認定した。
エリスはアリの元スパーリング・パートナーで、アンジェロ・ダンディがマネージャー兼トレーナーとしてサポートに当り、数多出現した"アリ・クローン"の第1号とされる。
※写真左:ジミー・エリス
写真右:ジェリー・クォーリー
ナショナル・チームに補欠として召集され、1964年の東京五輪に帯同したフレイジャーは、練習中に拳(指)を骨折した代表のバスター・マシスに代わって出場し、見事金メダルを射止めてプロ入りしたエリート選手であり、トーナメントの優勝候補と目されていた。
しかし、何かにつけてWBAと反目するNYSACが、トーナメントを辞退したフレイジャーと、エリミネーションのメンバーから外されたマシスによる15回戦(1968年3月4日/N.Y.MSG)を、独自に世界戦として承認すると表明。
オリンピックでの因縁は、興行の目玉に打ってつけであり、WBAがわざわざマシスを除外した理由は判然としないが、11回TKO勝ちを収めたフレイジャーも世界王者を名乗り、ヘビー級のタイトルがまたしても分裂する。
※左から:フレイジャー,エミール・グリフィス(2階級制覇王者/ウェルター級とミドル級),バスター・マシス
■トーナメントの組み合わせと結果
◎準々決勝(ベスト8)
<1>1967年8月5日/アストロドーム,テキサス州ヒューストン
(1)サッド・スペンサー 12回3-0判定 アーニー・テレル
(2)ジミー・エリス 9回TKO レオティス・マーティン
※L・マーティン:参加を辞退したフレイジャーの代役
<2>1967年9月16日/フランクフルト,西ドイツ
オスカー・ボナベナ(亜) 12回3-0判定 カール・ミルデンバーガー(独)
<3>1967年10月28日/オリンピック・オーディトリアム,L.A.
ジェリー・クォーリー 12回2-0判定 フロイド・パターソン
◎準決勝
<1>1967年12月2日/ケンタッキー州ルイビル
ジミー・エリス 12回3-0判定 オスカー・ボナベナ
※エリスはアリと同じルイビルの出身
<2>1968年2月3日/カリフォルニア州オークランド
ジェリー・クォーリー 12回TKO サッド・スペンサー
◎決勝
1968年4月27日/カリフォルニア州オークランド
ジミー・エリス 15回2-0判定 ジェリー・クォーリー
※カリフォルニアはクォーリーのホーム
フレイジャーが不参加となった時点で、WBA(旧NBA組み)は白人の人気選手クォーリーに白羽の矢を立てた格好。
カナダ最強のジョージ・シュバロ,マシス,そしてソニー・リストンが外され、格落ち(失礼)のミルデンバーガーを入れた人選への批判はかなり厳しいものがあり、何よりもフレイジャーが抜けた穴は大きく、エリスにアリの後継王者は荷が重すぎるというのが一般的な評価で、テレルと同じ"偽りの王者"と見なされた。
ニューヨーク州の公認を受けたフレイジャーは、マヌエル・ラモス,オスカー・ボナベナ,クォーリーを含む4度の防衛(3KO/判定まで行ったのは無類のタフネスを誇ったボナベナのみ)に成功。
フロイド・パターソンの挑戦を退けたエリスと、No.1の座を懸けた統一戦(1970年2月16日/N.Y.MSG)を行い、序盤から圧倒して4回終了TKO勝ち。
9ヵ月後の11月18日には、L・ヘビー級に君臨する無敵の王者ボブ・フォスターとの「左フック対決」に臨み、第2ラウンド開始後1分足らずで豪快にノックアウト。スモーキン・ジョーの強さは際立っていたが、「アリを倒さずして真の王者に非ず」との世論は如何ともし難く、フレイジャー本人も甘んじてその評価を受け入れた。
世界チャンピオンの継承について、独自の理論と見解(別記事にて詳述)を有するナット・フライシャーは、この間もずっとアリをリング誌の王者に据え置いている(かなりの批判を受けた)。
リングに上がることを許されず、まとまった収入を得ることができないアリを、フレイジャーが物心両面に渡って支援していたことは、今やファンならずとも良く知る事実だが、アリのライセンスを復活するよう、NYSACに何度もかけあっている。
言うまでもなく、最終的な目標は打倒アリの大願成就だったが、長引くブランクによるアリの錆付きを何よりも危惧していた。アリの復帰が叶い、対戦できる運びになったとしても、まともに戦える状態まで回復する保証はない。
ブランク前の最良・最上は無理にしても、ファンが納得できるコンディションでなければ、どんな勝ち方をしたところで「倒して当たり前」と言われて終わり。望み得る最高の状態に仕上がったアリを叩きのめしてこそ、真のヘビー級王者として認められる。ひたすらアリのカムバックを待つスモーキン・ジョーも、次第に焦りを募らせていた。
しかし、日に日に盛り上がる反戦の機運が追い風となり、徴兵拒否を巡る連邦政府との裁判は決着していなかったが、遂にアリの復帰戦が決まる。
1970年10月26日、ジョージア州アトランタ(黒人差別が根強い南部の要所にしてキング牧師の生まれ故郷)で、WBA3位のジェリー・クォーリー(リング誌ランキングでは1位)とノンタイトルの15回戦を行い、切れ味抜群の左ジャブでクォーリーの瞼を切り裂き、3ラウンド終了後のストップに追い込む。
レイシストのレッテルを貼られていたレスター・マドックス知事を筆頭に、州の上層部を慎重かつ速やかに説得したのは、半世紀ぶりに誕生した2人目の黒人州議会(上院)議員リロイ・ジョンソンである。
※アリ VS クォーリー戦の発表会見より
左から:クォーリー,リロイ・ジョンソン,アリ
16年後にまたアトランタを訪れ、聖火台への点灯という大役を任された上、レストランで受けた差別で頭に血が昇り、川に投げ捨てた(本当は不注意で失くした?)金メダルまで取り戻すことになろうとは、流石のアリにも見通すことはできなかった。
※1996年アトランタオリンピックより
写真左:聖火が灯るトーチを右手で掲げるアリ
写真右:再び授与された金メダルを首から下げて笑みを浮かべるアリ
フレイジャーが心配していたアリのコンディションは、多くの人々にとって望外の良好と映る。さらに12月7日には、殿堂MSGのメイン・アリーナで、WBA1位(リング誌3位)のタフネス超人オスカー・ボナベナと相まみえた。
スモーキン・ジョーに打ち合いを挑み、15ラウンズを耐え抜いたボナベナは流石に手強く、アリも大いに手を焼かされたが、ポイントで優位を保ったまま迎えた最終15ラウンド、タイミングのいい左フックのカウンターでダウンを奪い、さらに2度のダウンを追加してKO勝ち。
3年半ぶりの復帰だというのに、いきなりトップランカーとの15回戦。しかも僅か2ヶ月のスパン・・・今ならあり得ないスケジュールである。
ブランクの間も世界最強を公言し続け、「待ってろよジョー。本物のチャンピオンが誰か、もうすぐわからせてやる」と挑発を止めなかったアリには、フレイジャーへの挑戦資格を早急に証明する必要があった。あったけれども、やはり無茶なマッチメイクだと言わざるを得ない。
全盛のフリオ・セサール・チャベスをも凌駕する鋼鉄の顎を持ち、どんなに打たれても音を上げないアルゼンチンのタフ・ガイも凄いけれど、そのボナベナと激しい攻防を14ラウンズ繰り広げた後で、3分間勝負を避け続けて逃げ切ろうとはせず、類稀な技術とタイミングの妙を披露し、3度倒して試合を決めたアリのタフネス(心身とも)もまた、間違いなくスーパーマン級である。
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以下の記事へ続く
※チャンピオンベルト事始め Part 3 - 3 - II - 綺羅星のごときチャンピオンたち - 3 - II