Trips with my RV.

RVでの小旅行。

『をたないつくると、のの』

2013-04-24 00:23:59 | 独り言


春樹堂でだったか流行娯楽小説作家に憧れると溢していたから、恐らく、彼ならではの分析で解体した娯楽小説の手法で書かれた作品なのだろう。有名娯楽小説家・・・夢枕獏だったか菊地秀行だったかが語っていた事・・・「どんな展開があるのか、どんな人物が出てくるのか、どれほどの長さになるのか、何もわからないまま書き続けると本が出来上がる」と云った事に同じ小説家の癖に驚いていた風に思えた。村上春樹は、文章を書くことはひどく苦痛であると感じながら小説を書いていたのだが、『風の歌を聴け」は『冒頭の文章が書きたかっただけで、あとは展開させただけだったと語っている。この文章は村上自身大変気に入っており、小説を書くことの意味を見失った時この文章を思い出し勇気付けられるのだという』流行娯楽作家が語る様に天から小説が降って来る系の作家であったのだ。

彼が処女作『風の歌を聴け』等の英訳刊行を許していない理由は「自身が未熟な時代の作品」と評価したからだそうだ。本作は・・・その『風の歌を聴け』に呼応させた流行娯楽小説調の習作なのだろう。もし、彼は友人の自死を契機にテーマを見出し純文学作家を志したが、何度か娯楽作家への転進を夢想したと云う。結果的に、彼は彼なりの「売れる純文学」と云う独特の手法を手に入れ、彼は娯楽作家へ転進せずに済んだのだが、もし・・・筆を折らず娯楽作家に転進してもレトリックを磨き続けてこられていたら恐らく彼が書いたであろう作品を、そうではない彼が書いてみた・・・と云う感じだろうか?そして、更に、彼は地下鉄サリン事件を引き起こしたオーム真理教、そして、阪神淡路大震災に大きく影響を受けて、ライフワークだった人の心の深層を訊ねる旅に脚色を加えてしまう様になっていたが、当作は「自身が未熟な時代の作品」であった頃の彼が純文学作家を志した原点に立ち返ったテーマを、彼が獲得した修辞法を駆使して、且つ、ラノベ作家に肖って書いた現代の作品だろう。ラノベの手法を真似しても長年培った「売れる純文学」作家のレトリックは隠そうとしても拭いきれるモノでは無い。彼は情景をオシャレに切り取って文章で表現する事で生き残りをかけ「オシャレ描写で純文学を商業的に成功させた」人類初の作家なのだ・・・と思う。古くはオペラが、今日では映画が総合芸術(各種の芸術の要素が協調・調和した形式で表出される芸術)だと云われる。彼は情景をオシャレに切り取る為にオペラや映画の手法を文学に取り込んだ。つまり、彼は文字だけの文学に総合芸術のエッセンスを持ち込んだのだ。オシャレなクラッシック音楽、オシャレな料理、オシャレな情景描写で話の本筋とは無縁の、映画に於ける背景がオシャレに仕上がっていて、その背景全体がオシャレで「なんとなくクリスタル(笑)」な感じなのだろう。『風の歌を聴け』は「外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作」と酷評され芥川賞受賞には至らなかった。そのスタイルに復古して、その書き方に復古して、純文学の技巧士が娯楽小説に魔法の粉を振り掛け、本来の彼の熱烈な愛好者にも媚びを忘れない・・・商業的成功を強く目論んだ最高の野心作だ。

どんな話かと云えば、高校時代の友人4人から、なんの心当たりもないまま絶好されて、心に傷を負った多崎つくるが、16年の時を経てその傷と向き合って、真相を知るため旅(巡礼)に出る物語である。多崎つくるも「自分を理不尽に害する相手に立ち向かわずただ背を向ける人」として『風の歌を聴け』からの伝統である。今回の登場人物の役回りを、過去の村上春樹作品の登場人物に準えてジャンル分けをすると、村上春樹作品の読み説きは飛躍的に捗ってしまう筈だ。これではネタバレ満載の当ブログのスタイルに反するのでネタバレ満載するツモリだ。なので、この作品を未だ読んでいない方、私のような素人が独り善がりの解釈を読むと苦痛に感じる方は、ここで、この下らないページを閉じてしまう事を強くお薦めする。



































多崎つくるは36歳の私鉄勤務の会社員。旅行会社で働く木元沙羅と交際中だがなかなか関係は進展しない。その原因に、つくるが高校時代の友人から絶交されたことについて、わだかまりがあるのではいかと沙羅は考える。名古屋の高校で赤青白黒の4人の仲間がいたが、彼だけ東京の私学へ進学した。2年の夏休みに帰郷したが4人と連絡が取れなくなった。何らかの誤解で疎外されている事を知る。

死を考える。後輩の灰田と知り合い親しくなる。灰田はリストのピアノ曲「巡礼の年」を持って泊まりに来た。名古屋で白が弾いていた曲だ。ある晩、灰田から灰田の父が体験した不思議な話を聞く。それは死のトークンを受け取った緑川という音楽家との出会いの話しだ。死のトークンを受け取り余命が明らかになると人々の纏うオーラの色が見え平板な世界が立体的な現実的な光景と切り替わると云う荒唐無稽な話だった。その話を聞いた夜に多崎は不思議な体験をする。それは白と交わった夢だ。金縛りのまま黒と白の高校の頃の若さままの2人から金縛り状に身動きが出来ぬまま一方的に愛撫され続け白と交わる。そして、白と交わり・・・射精の寸前に白は灰田と入れ替わり灰田の口唇にに迸りを放出してしまう・・・と云う妙にリアルな夢だった。そして、その大学の後輩、灰田文紹は新学期が始まる前に大学から姿を消してしまう。

沙羅は4人と会ってカタをつけろと彼に言った。そして、赤と青は名古屋に、黒は海外に、白は死んでいる事が分かった。赤と青に会って、追放に至る経緯が分かったがいずれも誤解だった。誤解だったというよりも彼らは、追放される原因をつくるが白に行ったとは信じてはいなかったようだ。そして、最後にヘルシンキにいる黒を訪ねた。夫は陶芸家だった。黒はつくるが好きだったといって抱き合った。誤解から仲間はずれにされた・・・と云うよりも誰も誤解はしていなかったが白の為に仲間はずれにされた事が分かった。わだかまりが消えたわけではないが、もうわだかまりに囚われる事は無いだろう。沙羅には恋人がいるみたいだが、帰国して沙羅に愛を告白したいと真剣に考えていた。



以上が、容赦無くネタバレしても平気な私にしては穏やかなネタバレな粗筋だ。概ね、物語の表面は撫で漏らしては居ない筈だ。これ以降は、もう少し独り善がりのネタバレになるので読まない方が身の為だと思う。









































多崎つくる以外の高校時代の友人4人は共通点を持っている。赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒埜恵里、名前に色が含まれている。赤・青・白・黒だ。何故、この4色かは・・・日本神話と色彩(三浦 佑之 様/立正大教授)に書かれている事を参考にすべきだろうか?それとも、庄司薫へのオマージュとして、都立日比谷高生だった「庄司薫」を主人公にした所謂「庄司薫四部作」である『赤頭巾ちゃん気をつけて』『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら快傑黒頭巾』『ぼくの大好きな青髭』に肖ったと云う意見もある。

そして、黒と白に代わって多崎の精を受けてしまう灰は黒と白を調色した色、灰田の父に不思議な話を聞かせた音楽家緑川は、赤と青と黄色を調色した色なのだろう。だが、古代中国から伝来した思想・・・仏教や道教では赤 ・ 青 ・ 白・ 黒に黄色を加えた5色を基本の色彩としたのだそうだ。だから、色彩を持たない多崎つくるも実は黄と云う色を持っていて・・・と云う解釈をした方も多いようだが、私はそうは思わない。そもそも人が色を持つと云う考え方は物語の中の物語・虚構の中の虚構である。灰田の父が緑川から聞いた話に端を発する。多崎つくる自身は色彩を持たず云うなれば無色透明であったのだと思っている。恐らく、それが千人か二千人に一人と云う少数派の「ある種の色を持った、ある種の光り方をする人間」なのだろうと思う。「死のトークン」を受け入れる事が出来る人間なのだろう。そして、灰田経由で灰田の父の話を聞いた多崎つくるも、例えトークンを引き受けなくても、いずれは死を迎える。どんな死に方をしようとも、この話を思い出し「真の論理」を隅々まで理解する「種子」を蒔かれてのだ。この体験で、多崎つくるは1つの階梯を乗り越えたのだと思う。後輩の灰田の「分身」が多崎つくるに何かを告げようとしているだが、灰田のハイスピードな思考を現実の言葉に置き換える事はできないようだ。そして、ついに灰田の「分身」は多崎つくるに何かを伝える事を諦める。この「分身」も村上春樹作品の常連である。

そして、その後のまどろみの中で、それが起こった。彼の硬く直立した性器は白の手に依って彼女の中に入っていった。驚く程に短時間で果てたつくるは白の中ではなく、何故か灰田が迸りを引き受け綺麗に舐め取られた。そして、その後も猛りは収まらぬままだ。まるで現実の性行為を体験した直後のようだった。夢と想像の境目が、想像とリアリティの境目が見極められぬ処にいたようだ。このテーマは春樹作品には繰り返し登場するテーマである。人の魂の深部・・・自我(エゴ)の深部にはイド(無意識)があり、そのイドを深く下ると集合的無意識に繋がる。集合的無意識は、人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域だとカール・グスタフ・ユングが提唱した概念であり、意味のある偶然の一致(シンクロニシティー)を引き起こす原因だとされている。村上春樹は、彼自身の実体験で友人の自死と偶然「集合的無意識領域」で友人と触れ合う体験を経て、誰彼構わず自由に立ち入る事は適わないが、何かの資格か何かの素養を持つ人か、何かの精神的体験を契機に階梯を登った(か、下ったかは定かではない)魂のみが到達出来る領域である集合的無意識領域では時間や空間を超越して人間同士が交流する事が可能なのカモ知れないと云う彼独自の理論をもっている。(往々にして、彼の小説のネタに使われる事が多いが、彼自身は実体験から信じている様だ。因みに、私自身も実体験から似た体験をした事が在る。だが、現実世界を生きている人、生きていた人と触れ合えられた事を相互に確認出来た経験には至っていないので、単なる夢なのカモ知れない。だが、私自身は、そう云った事も起こるのだと無条件に信じている。私自身が小学校4年の夏休みまでは跳躍者だった事もあるのだし・・・。そう云う能力を持っていると自称していた娘の幼稚園時代の御学友の奥さんと申し合わせて集合的無意識領域で「待ち合わせ」をした事がある。確かに、御学友のお母様はやって来たが、その異形の様に驚いて、私はその方との付き合いを徹底的に避けて疎遠になった)

村上春樹の作品群の他の主人公同様に受身で紳士で上品な男が「記憶は隠せても、歴史は消せない」と恋人にハッパを掛けられ「まるで航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分になった」怯えからの自己救済の為に巡礼の旅に出さされた訳だ。何故なら、恋人はその問題を克服しない限りもう寝てやらないと云うのだ。そして、問題解決の前に甘え掛かってもインポになってしまう。そして、村上春樹の作品群の様に性夢でも主導権は女性で男は受身、

で、ネタバラシ1だが「追放に至る経緯」とは、白が二十歳に上京した際に多崎つくるのマンションで多崎つくるにレイプされたと主張し始めた事だった。その主張は、白が状況を気が滅入る位に詳細にリアルに描写していて、青と赤と黒も「そうでは無いと確信を持ちつつも」信じるしかなかったと云う事だ。では、何故、白は多崎つくるにレイプされたと主張したのだろうか?

男には難問であり、赤も青も答えられない。唯一の女性である黒の口から語られた原因が、この小説の表向きの選択肢なのだろう。その原因は、黒が多崎つくるを好いていた事が同性の白には分かっていたから・・・だ。それとは真逆で、心の回廊の奥底に隠された通路から、本当につくるのマンションで白がレイプされたのカモ知れないと云う選択肢も示されている。尤も、つくる自身には現実に白をレイプしたツモリは毛頭なくお定まりの陰夢として非現実との認識しか無かったのだが、あの陰夢が本当に非現実の事だったとは言い切れないつくるでもあるのだ。「何故、白は多崎つくるにレイプされたと主張したのか?」は男である私には赤や青と同様に難問だ。では、誰が白をレイプしたのかと考えれば、選択肢は・・・「通りすがりの知らない人」荒唐無稽だが「多崎の父」同じく荒唐無稽な「赤松の父」「青海の父」「黒埜の父」そして一応「白根の父」も選択肢には入れておこうか、それと「緑川」「灰田の父」チョット若すぎるが「灰田」そしてダークホースの「多崎つくる」だろう。赤松と青海本人はレイプ犯候補から外しても差し支えないだろう。これ以外に犯人は居ない筈なのが推理小説の常道である筈だ。序での事だから、白殺しの犯人候補は「通りすがりの知らない人」「多崎の父」「赤松の父」「青海の父」「黒埜の父」「白根の父」「緑川」「灰田の父」「灰田」そして「多崎つくる」「赤松」「青海」「黒埜」そして、「白根本人」も入れても良いだろう。勿論、それぞれの母親も犯人候補に入れても不都合は無い。

こうして犯人捜しが愉しめるのは村上春樹作品では希有だ。

レイプ犯も殺人犯も、恐らく別々の「通りすがりの知らない人」だと思うが、それと同時にレイプ犯は「多崎つくる」で殺人犯は跳躍者「灰田文昭」であるのカモ知れない。或いは殺人犯は「赤松」なのカモ?ネタバレ満載を強いて書き始めて既に自分の読み説きに食傷気味となってしまった。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、恐らく他のどの村上春樹作品よりも読みやすい文章・・・題名からしてそうだが、良い翻訳家が翻訳した外国小説の様なオシャレな言葉の使い方をしている本である。何も難しい事を考えなくてもサクサクと3時間弱の時間つぶしが出来てしまうので、こんな下卑たブログを読んで失望せずに是非読破される事をお薦めしたい。良い意味でも悪い意味でも現代のベストセラーなのだから・・・

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