Trips with my RV.

RVでの小旅行。

時間って何?(その2)

2010-06-30 23:22:35 | 独り言
仏教経典で探せば華厳経 巻三十七 離世間品等に

     十世者、
     過去説過去、過去説未来、過去説現在、
     現在説現在、現在説未来、現在説過去、
     未来説未来、未来説過去、未来説現在。


十世とは、
過去世にも、過去、未来、および現在があり、
現在世にも、現在、未来、過去があり、
未来世にも、未来、過去、現在がある。

     因此十種入劫、則能普入一切諸劫。

この十世が個別性を具えながら、同時に顕現して縁起を成り立たせるから、
即応し入りあうことができる。

     有十種入劫。何等為十。所謂入過去劫、入未来劫、入現在劫。
     過去劫入未来、現在劫入過去、現在劫入過去、未来劫入現在。
     長劫入短劫、短劫入長劫、有劫入無劫、無劫入有劫。
     入可数劫、入不可数劫、入可数不可数劫、入不可数可数劫、
     入一切劫非劫、入非劫一切劫、入一切劫即是一念。

10世とは、何故10に成るのかと云えば、過去・未来・現在それぞれの過去、未来、およ及び現在がある。(だから、9世となる)
過去の劫を未来の劫に入れ、未来の劫を過去の劫に入れ、現在の劫を過去の劫に入れ、未来の劫を現在の劫に入れ、
長い劫を短い劫に入れ、短い劫を長い劫に入れ、巨大な劫を僅かな劫に入れ、僅かな劫を巨大な劫に入れ、
その(9世が)互いに即応し、入りあうから、それ(9世)を1つの総括的表現ができるからだ。(だから、個別の9世と、それを総括する1世で9+1=10世となる)


そして、1つの微塵の中に、遍く三世の一切の仏達の活動を現す・・・その仏による三千世界はたった1つの非常に小さな塵の中に存在する・・・となる。だから、釈迦の説く世界観と同じく、釈迦の説いた時間観には三世の過去・現在・未来と云う9の時世も1つの時間(現在)に集約されるのだ。

釈迦の説く刹那滅論は、現在時制しかなく、人の身で知る過去も現在も未来も、総て現在進行形だとされている。現在進行形だから、人の世で云う因果律で縛られて、過去の因果で現在や未来が存在する予定された(予め決められた)未来観では無いのだ。それどころか、釈迦は、「時間」も「虚=実体の無い」としている。真理の中では「時間」を実在のものと捉えずに、時間とは存在要素(蘊・界・処)の別称に過ぎないともしている。「時間」は「法」の1つではあるが、「時間」は決して実在のものではなく、原因と結果の連続的生起のことを仮に「時間」と呼んでいるだけだ。


ホーキングは無境界仮説の中で、ビックバンの前の宇宙と云う数学的矛盾を計算上無くす為に、量子論の波動方程式を虚数時間を使って計算して矛盾を無くしたが、その後、単なる計算上のトリックとしてでは無く実在するのカモ知れないと云われ始めている。虚数時間・・・及び、虚数時間に支配される虚数空間って、デュラックの海とか云われてSFやオタク系アニメに登場してくる。その実在は・・・恐らく、検証可能な現象から因果律に則って科学していても尻尾を掴む事は容易くないだろう。

そもそも虚数とは、「2乗した値がゼロを超えない実数になる複素数」の事。√-1とは2乗すると-1になる数の事。文系の私は、この虚数の授業では頭を結わえたモノである。代数的には、ナ~ンか判らん数字だと思っておけば良いのだが、数学には幾何と云うジャンルもあり、幾何学的に虚数を表すと一次元の実数の直線に直交する数直線・・・軸(虚軸)上に展開する数として表す事が出来るのだが、この実数の数直線と虚数の数直線で出来上がる二次元空間を虚数空間と呼ぶ事が出来る。


又、19世紀の数学者ハミルトンは、複素数(実数 a, b と虚数単位 i を用いて a + bi の形で表すことのできる数)の2軸で得られる複素平面(2次元)に、虚数軸を追加して3次元化しようと試みた際に、更に虚数軸を付け足して得られる四元数の集合が自然な体系だと発見した。このハミルトン数とも呼ばれる四元数全体の成す集合は、空間の点とその運動をよく反映した数体系として(実三次元の超複素数系を構成しようと試みたがうまくいかず)四元数の体系を発見することによってその目的を果たした。三次元空間内の三次元の物体を想定した時、ある軸に対する回転を一つの四元数によって表すことができ、また複数の回転の複合も四元数の積で計算することができるので便利である。本当に訳の分からない話だが、このハミルトン数のお陰でパソコンでの3次元処理が出来ているのだ。

だから・・・と云ったら強引すぎるカモ知れないが、虚数はimaginary number(想像上の数)では無く我々から見える宇宙を構成する要素ではあるだろう。ホーキングがビックバン以前の時間軸として設定したのだが、まさかビックバンが済んだからって虚数時間が用済みで打ち切りになっている訳では無いだろう。虚数時間に支配される虚数空間は、実数空間の逆の性質を持つため、時間は逆行し、エントロピーも負の性質を持つ筈だ。又、虚数空間が存在している証拠として、空間のゆらぎによって発生する反陽子の存在が挙げられている。

この世を構成するあらゆる物質は・・・存在の確からしさの濃淡で出来ている。その「存在の確からしさの濃淡」とは、エネルギーの揺らぎに他ならない。E=mc² (エネルギー(E) = 質量(m)×光速度(c)の 2乗)宇宙に満ちるエネルギーの揺らぎ・・・大海表面の波間に出来た一瞬の間に消えてしまう泡で、世界は構成されている。その存在の確からしさの濃い部分で、我々の宇宙を構成する物質は実在する様に観測されているが、最新の研究から、量子論宇宙ではエネルギーに依り存在の確からしさの濃淡が生成・消滅という現象を、不確定性原理(△E△t~h/2π)と結びつける事によって、何もない空間にも素粒子やエネルギーが発生している。△tが微少なら△Eの変動で受け止める事が出来・・・観測できない程の非常に短い時間の中では、様々な粒子(電子、陽子や光子など)が無数に空間の中に浮かび上がっては、再び沈んで行くという現象が常に起こっているとされている。それらは、存在の確からしさの濃淡が薄いので、エネルギー保存の法則に抵触しない程の短い時間内に生成されて消えていく。その時間軸の中で因果律と云う人の目で理解される形ではなく、大海表面の波間に出来た一瞬の間に消えてしまう泡が産まれては消えているのだろう。

前記事でKさんから頂いたコメントでは零的確定論を御披露下さったが、零的確定論自体は釈迦の教えに抵触しない・・・と思う。但し、零的確定論を担保する時間平面と呼ばれる『涼宮ハルヒの憤慨』的な発想を素直に肯定する事は出来ない。これも一種の刹那滅論だ。今日的な刹那滅論とは、釈迦入滅後の仏教解釈での(長~い前置きに書いた通り)、釈迦の真意を取り違えて方便として産み出された思想だと思う。釈迦の刹那滅論は、過去も現在も未来も、そして、過去の過去も、過去の現在も、過去の未来も、現在の過去も、現在の現在も、現在の未来も、未来の過去も、未来の現在も、未来の未来も・・・、そして、その9世を総括・集約する1世を含めた10世と云う仏教世界に於ける総ての時制が現在の一瞬にしか存在しないと云う釈迦の説く真理は、理解の範疇を越えている。現世を生きる普通の常識人には、因果律を重んじるカルマ(業)も邪魔をして、時間も「入れ子構造」だと思い至らない可能性がある。何よりも私自身のスタンスは、最新の科学で解明されていない事は総て釈迦の教えで代用する事をモットーにしているので、時間平面と云う仮説だけは頷かない。だが、文才が無いので、上手く表現する事が出来なかった釈迦の説いた時間観のエッセンスを「零的確定論」は端的に纏めているのだと思う。

こんな感じで釈迦の説いた世界観と時間観を文章にしてみた。釈迦が言及した訳では無いが、我々が「時間」として認識している「実数時間」に基づく時空と、「虚数時間」に則った「虚数空間」の、そのどちらかが表で裏と云う訳では無い筈だ。10世のどれが実数時間の実空間で、どれが虚数時間の虚数空間かは判らないが、恐らく、その中のバリエーションなのだろうと思う。この世の総ての事象が「空」であると知る事は可能かも知れないが、その智慧が物理学に於ける時空間の把握とはイコールで結ばれない。だが、我々の認識する時空や事象の成り立ちが例えブラックボックスで在ったとしても、宇宙論・時間論への推定は可能ではないだろうか?

そもそも、時間は過去から現在そして未来へ向かって流れていると誰しもが感じている。だが、もし、時間が未来から過去に向かって流れているのだとしても我々の認識が改まるとも思えない。我々は過去から未来への時間軸に沿って生きる生き物だから・・・である。世界5分前仮説を論理的に否定できないのと同じように、(実際には未来から過去に向かって時間が流れていると仮定しても)過去から未来への時間軸に沿って生きる生き物である我々には、現在より過去の記憶しか無い様に作られているのだとすると、因果律から我々は過去から未来への時間の流れを認識してしまうだろう。

又、誰もが思う素朴な疑問で、四次元連続時空体(四次元多様体)に住まう我々は、上下左右前後の3次元を自由に移動する事が出来ている。チョット前とか、チョット左とか・・・。だが、ちょっとだけ過去や、ちょっとだけ未来に行く事は出来ない。物理学的に時間を考えると、時間は過去方向も未来方向も殆ど変わらない筈なのに・・・。

当初は何が何でも最新の物理学上の成果は釈迦の教えを否定しないとして記事を書き上げようかと決意したが、結構早い時期に私には不可能だと悟った(諦めた)。なので、番外編として、釈迦の説いた仏教の究極奥義を紹介して記事を終えよう(お茶を濁そう)。



般若心経は、西暦2~3世紀にインドの龍樹が著した般若経典の注釈書である百巻にも及ぶ『大智度論』のエッセンスとして、この頃に成立したものと推定する説がある。恐らく仏陀本人の説いた原初仏教のエッセンスも濃く含まれている筈だ。但し、陀羅尼と呼ばれる呪文が含まれている。

     仏説摩訶般若波羅蜜多心経

悟りの境地に到る為の大きく深い智慧の神髄の法

     観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

観自在菩薩(観音さま)が、般若波羅蜜多(この深淵な智慧を得る)を行った際に悟った。則ち、実際に存在すると思える五蘊(体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体)も、幻のように実体が無いのだと。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出す事が出来た。

     舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識亦復如是。

シャーリプトラ(仏陀の十大弟子の1人)よ!物質的現象(=色)に実体が無い(=空)事は矛盾しない、実体が無い(=空)事と物質的現象(=色)は矛盾しない。物質的現象(=色)には実体が無い(= 空)のであり、実体が無いからこそ、物質的現象(=色)で在り得る。」見る、聞く、触る等の感覚、考える思い、能動的な意志の働き、分別や判断や行動も、また同様である。

     舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。
     無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。

シャーリプトラよ!全ての現象は、実体の無い相(すがた)であり、生ずるのでもなく、消滅するのでもない、汚れているのでもなく、清浄でもない、増えるのでもなく、減るのでもない。この故に、万物に実体が無いという見地に立てば、物質的現象(=色)も無く、見る、聞く、触る等の感覚、考える思い、能動的な意志の働き、分別や判断や行動も無い。(万物に実体が無いという見地に立てば)目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や考える意識も無く、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いも無い。限界(眼で見える世界) 意識界(心で想う世界)明(知識)無明(迷い)はなく、老いることも死ぬこともない。


     無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。

苦集滅道(四諦=人生は苦であるという真理や、人間の欲望や収集物・財宝などへの愛着の心にあるという真理や、仏教の目指す理想境は涅槃にあるという真理や、仏教での修行の基本である八正道)も無く、遍智(=万物への知識)も無く、又、(遍智を)得る事も無い。得る事も無いから、悟りを求めて修行する人は般若波羅蜜多(この深淵な智慧を得る行)に依る為に、心に誤った妄想は無い。誤った妄想が無いから、恐れおののかず、一切の顛到(常顛到=無常である自分の命・身体が元気でいられるという錯覚/楽顛到=苦に満ちた世の中で、人生は楽であると見る錯覚/我顛到=無我の身である自分を、我ありと見る錯覚/浄顛到=汚れた身である自分を、清浄なりと見る錯覚等の4つの顛到)を空想する事も無いので、迷いのない境地に到達する。

     三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。

過去・現在・未来の三世を越えて悟りを開いた人々は、この悟りの智慧に依って、この上ない正しい悟りを得た。だから、この般若波羅蜜多(深淵な智慧を得る行)は、偉大にして神聖なる真言であり、最良の真言であり、最上級の真言である。世の事象が正しく認識される様になり、「(身心を悩ます)苦」を除去し、偽りがないので確実に効果が在る。般若波羅蜜多とは解脱(悟り)の境地に至るには欠くことのできない経である。

    即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

さあ、智慧の完成の真言を唱えよ。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァ-ハー
般若心経

真言の部分は漢字の意味は無視して「音」を正確に表現する方が良いらしい(?)ので、サンスクリット語音を採った。因みに、原語での意味は「行け、行け、彼岸へ行け、すべてを超えて彼岸へ行け、(汝に)幸いあれ、スヴァーハー(火の神アグニーに恋死した天女スヴァーハーの名を呼びアグニに呼び掛ける習わし?・・・キリスト教に於けるアーメンの様なモノ?・・・又は、魂の終焉時の火の体験?)」だが、私は、この真言に関しては、意味より音を重視すべきだとは思わない。

般若経典の注釈書である百巻にも及ぶ『大智度論』のエッセンスである般若心経の、最も重要な部分が、この真言に集約している・・・と思う。釈迦の説いた仏教の究極の目的は、この世界(10世に及ぶ総ての「時間」と三界・六道に広がる総ての時空間)からの解脱(輪廻転生の環から脱出し、完全な「空=何もない状態」に戻る事)だ。

仏教は、この現世を上手く生きる為の智慧でも無く、ましてや、解脱に失敗した祖先を供養する為でも無い。全体としての仏を構成している自らの支配下にある魂の中核である「阿頼耶識」を消滅させる事を目的としている。(因みに、眼耳鼻舌身意の六識は、肉体の死と共に消滅する。(諸説在るが)「末那識」は肉体の死後も数日~数十日~比較的長い期間に亘って存在し続けるらしい(?)。だが、「阿頼耶識」は肉体の死後もこの世に留まり続ける・・・と云うか、この因果の及ぶ全時空に存在する総ての知性体の「阿頼耶識」は1つを全員で共用しているのだから、「末那識」が存在し続けている期間中に支配下にある「阿頼耶識」を消滅させる事が適えば、全体としての「仏=全因果を遍く唯一無二の巨大な阿頼耶識」を僅かだけ消滅させる事が出来る(筈)だ。本来の、仏教の存在意義は、解脱する意志を大衆に持たせる為に教化する事・・・だろう。これは人の意志で、全体としての仏を、緩やかな自殺に導く事を意味する。

本来の、この因果世界は、物質も精神も無い虚無の空間だったし、そう在るベキだ(・・・と釈迦は悟った)。この世界の総ての事象と同じく、我々は自分と云う存在を実存する物と信じているが、実は、総ての物理現象や事象と同じく、我々自身も「空」である。今は「空」だとは思えないが、その心も総て「空」から一時的に生まれただけに過ぎない。だから、静かに「空=何もない状態」に戻るべきだ。輪廻転生を繰り返しても決して良い事は無い。それに、死すべく自分を来世で再構築する事は不可能だ。更に、悠久に思える宇宙の時間も見方を変えれば一瞬の出来事に過ぎない。だから、生まれ変わりに未練を持つ必要なんか全くない。だから、再び産まれてくる者が、少しでも減る様に、自らの「阿頼耶識」を消滅させましょう!が、仏教の究極の奥義だ(と、思う)。

その上で、「行け、行け、彼岸へ行け、すべてを超えて彼岸へ行け、(汝に)幸いあれ、スヴァーハー」の意味を考えてみよう。

埋蔵経典である俗称「チベット死者の書」と云うモノがブームになった事がある。この俗称「チベット死者の書」は9世紀に埋蔵されたチベット仏教の経典が14世紀に発見されたのだが、それを米国学者が英訳しオリエンタルな死生観が欧米諸国での流行を経て日本にもブームが到来したのだ。私も発刊当時に買って読んだが、そのエッセンスは、輪廻の誘惑から次に次にと先送りして我慢し続ける事で、地獄や畜生道への転生を避けて、人界への転生、更に上の天上界への転生、そして、最終的な大解脱を、死者に目指させる為の経文と作法が書かれている。釈迦の入滅後(死後)1400年経過した後のチベット仏教(仏教の残骸とチベット固有の伝承思想のミックス)なので、釈迦の教えの神髄は消えかかっているだろうが、究極の目的は、輪廻の環から脱出すると云う解脱である。

問題は、釈迦自身も、後世の仏教家も、解脱を果たしたら、どうなるとは明言していない。(いや、「知る能わず」・・・知っても仕方がないとは云っている)無に帰す・・・訳だから、解脱後は消滅するしか無いだろう。元より、「阿頼耶識」には生前自分が自分であった部分は微塵も存在しないので「阿頼耶識」の消滅や継続は、その解脱を目指す人の属人的な損得は存在しないだろう。死が訪れれば消滅する意志で、「仏」に最後っ屁を喰らわそうって云うムーブメントを起こそうとしたのだろう。

で、その長年に亘って高僧が修行を積んで目指す解脱への道だが、その方法は意外に簡単だ。それが「行け、行け、彼岸へ行け、すべてを超えて彼岸へ行け、(汝に)幸いあれ、スヴァーハー」である。チベット死者の書では、慌てる乞食は貰いが少ない・・・式に誘惑を払い除け続ければ、お得な来世が待っているよと云う勧めだが、つまり、総ての転生の誘惑を排除すれば彼岸(煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸ではなく、向こう岸)に辿り着ける・・・である。その為には、祈りも修行も思索も必要ない。只、「行け!行け!彼岸目掛けて先に行け!すべてを越えて彼岸へ行け!」と我慢し続ける事だ。

さて、釈迦の唱えたムーブメントに乗るか?カルマを持つ悩める生命体を今後も継承し続けていくかは、自由だ~!
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5 コメント

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一応 (ポル7)
2010-07-01 14:15:18
必死に読破したつもりです・・・・・
が、さすがについて行けません_| ̄|○

釈迦、ブッダ、アインシュタイン、ホーキングの間に涼宮ハルヒが出てきたのが印象に残りました

イメージ図もたくさん添付してくれているので助かったのですが、出来れば雑誌ニュートンばりにもっとイメージ図があれば楽しめたかな~(汗)

次回は、初級者向け講座もお願いします(大汗)
返信する
Re: 一応 (軽薄な店主)
2010-07-02 15:50:02
ポル7さん、コメント有り難う御座います。

> 釈迦、ブッダ、アインシュタイン、ホーキングの間に涼宮ハルヒが出てきたのが印象に残りました

ハルヒ・・・、娘が自室の机で勉強するフリをして読んでいました。取り上げて読みました。

う~ん、イメージ図を使っての説明・・・ですか?

私には難しいです。先ず、私はポル7さんと違って文系の人なんです。

それに、2次元の画像で3次元を表現する事が難しい以上に「入れ子構造」を表現するのは困難です。本来なら、数式で表現すべき事だと思います。数学って、恐らく宇宙の共通語に成り得るのでしょうが、私は文系で・・・。

「入れ子構造」を、OFDM(地デジ放送の変調方式)の概念図とマンダラ図と比べて、それこそニュートン式に綺麗な図版で並べれば・・・本当は理解できないケド何となく判ったような気にはなるカモ知れません。

量子論が今日的常識としたトコロで、現在の量子論を正しく理解している人は僅かだと思います。又、少し前の特殊相対性理論でも今日的に正しく理解している人は少ないと思います。量子論が正しく特殊相対性理論が間違っている訳ではありません。

特殊相対性理論は宇宙船での話・・・って一般的に思われていて、地上に於いてはニュートンレベルで十分なのでしょう。ですが、地球上に於いても、「運動する物体は縮む」とか「運動している系の中での時間は遅くなる」とか云う特殊相対性理論は地上でも普通に起きています。

衛星軌道上の時計の時間の遅れは重力が時間の進みに及ぼす影響として、もはや常識化しています。F1のレーシングカーの速度でも「運動する物体は縮む」は起きています。例えば、500系新幹線16両編成が時速300Km/hで走行している時には特殊相対性理論で1億分の1mm程の短縮が起きている筈なのです。

量子的宇宙論のキモ(?)カモ知れない「量子の絡み合い」は、「入れ子構造」だから云えば一言で済みますが、これを証明する事は今日的に不可能です。ヒモ理論・超ヒモ理論だって・・・同じカナ?我々の認識する4次元連続多様体に、他の次元(6次元だか22次元だかの全体)がプランク長程度に折り畳まれていて・・・云々と説明されています。そこに至った理由は、「宇宙の4つの力問題」コメント欄は字数制限が厳しいのでガッツリ割愛しますが、
     
     強い力 > 電磁力 > 弱い力 > 重力     

電磁力を1とすると     
     強い力(1000000) > 電磁力(1) > 弱い力(0.001) > 重力(10^-36)

不公平(?)に不当(?)に重力だけが弱すぎる・・・(?)

但し、重力や電磁力は距離の二乗に反比例するのでオングストロームの世界では「強い力≒核力」に匹敵する力になり辻褄が合うのだけど、何故に辻褄が合うのか・・・って考えた結果、重力を担保するヒッグス粒子(ヒッグス場)が・・・重力を担保する粒子は余剰次元に存在し、その余剰次元での存在の薄さが重力が他の力と比べて弱い(ガッツリ割愛するとオイオイな文章だけど)からと云う展開になり、もしもヒッグス粒子が崩壊を起こすのならLHCで見つかるし、不変≒崩壊しないならLHCは空振りに終わる。

このヒッグス粒子(ヒッグス場)もヒモも仮説上の素粒子なんですけど・・・ね。

因みに、ホーキング博士はヒッグス粒子は見つからない・・・としています。もし、ヒッグス粒子がLHCで見つからないと標準モデルが破綻して、今度はカルッツァ・クライン粒子を探すって事になるのでしょう。

もし、本当に釈迦が宇宙総ての真理を悟ったのだと仮定しても、当時の人達に、こんな事を説明しても・・・絶対に理解されないと思います。
返信する
自己レス (軽薄な店主)
2010-07-02 16:42:29
自己レスです。明らかな間違い(ま、遊びのブログなんで。全部間違いっていえば全部間違いなんですが・・・)、「衛星軌道上の時間の『遅れ』」って書いてしまいましたが、それは軌道の高さの問題で・・・、軍事衛星(地上400Km)やシャトル(地上300Km)なら時間は「遅れ」るけど、GPS衛星(地上20000Km)では「進む」ので・・・。どこかのサイトで、この閾値を計算してあるサイトが在った筈だけど見つけられないので割愛。
返信する
Unknown (それでも)
2010-07-02 17:45:58
宇宙論なんかわかりませんが、人が死ぬとおしまいとは悲しい考え方です。あなたにも痛みを知る日がきます
返信する
お気を悪くされたのなら謝りますが・・・ (軽薄な店主)
2010-07-02 20:40:50
それでもさん、コメント有り難う御座います。

釈迦は、この世には四苦八苦の苦しみがあると云っています。生・老・病・死の4つの苦しみと、愛別離苦(愛する者と別離する苦しみ)と怨憎会苦(怨み憎んでいる者に会う苦しみ)と求不得苦(求める物が得られない苦しみ)と五蘊盛苦(あらゆる・・・ま、五種類・・・色・受・想・行・識の精神的な苦しみ)の4つで、合計8つの苦しみです。

愛別離苦・・・愛する人と別離する苦しみは大きな苦しみです。

> あなたにも痛みを知る日がきます

痛みは知っているツモリです。私は、実父と実子と死別しています。釈迦の教えがどうであろうと、その苦しみは変わりません。ですが、今は、自分の死より、妻の死の方が怖く思えています。自分が世界を去る怖さより、愛する妻を失って過ごす余生の方が怖いと思っています。そう云った意味で、それでもさんの予言は怖いです。

人は必ず死ぬ、だから悲しんでも仕方がない・・・とは納得できません。だから、愛していた人は三千大世界(10億の宇宙?)のどこかに産まれ変わっていると考えれば、少しは慰められるのカモ知れません。それで、それでもさんが慰められるのなら、そうお考えに成られれば宜しいかと思います。

御指摘の通り悲しい考え方で、私自身は、そう思っていませんが、私は真理を知らない只の人ですので、勘違いや間違いだらけです。それに拠り所とする仏典が・・・存命中は釈迦が文書化を許さず、死後相当経ってから「第一結集」と呼ばれる編纂会議で・・・十大弟子らを中心に公開しない前提で聖典を編纂し入滅後200年以上経ってから経典化されたので・・・釈迦本人の書いたモノでは無いので曖昧です。それでも龍樹時点の経典はエッセンスは残っていると思っていますが・・・。

この問題は、(随分先の事に成ろうかと思いますが)何れ本記事の方で、私の独り善がりの考えを書いてみようと思います。

何れにしろ、それでもさんがお気を悪くされたのなら謝っておきます。アドレスをお教え下されば、この件の次回記事公開の際には御連絡を致しますが・・・
返信する

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