俳句まがいの川柳とは
「まがいの川柳」という言葉が気になったので、復本一郎著「俳句と川柳」を読んでみた。
正岡子規の「俳諧大要」からの引用
俳句にして川柳に近きは、俳句の拙なる者。若し之を川柳とし見れば、更に拙なり。
川柳にして俳句に近きは、川柳の拙なる者。若し之を俳句とし見れば、更に拙なり。
また、筆者は口語訳している。
俳句作品で、川柳に近いものはダメだ。それなら、川柳として見たらどうかというと、もっとダメだ。
川柳作品で、俳句に近いものはダメだ。それなら、俳句として見たらどうかというと、もっとダメだ。
要するに、中途半端な句は「俳句まがいの川柳」であり、ダメだと言っている。「拙なる者」を「ダメだ」口語訳するのには疑問が残るが、子規の説をもって、俳句に近い川柳は「まがいの川柳」と断じている。そして著者は次のように述べている。
「川柳作者は川柳作者としての矜持を持って、川柳とは何かを問い掛けつつ作品を作ってもらいたいのである。最近、俳句だか川柳だかわけのわからない作品が横行している(特に川柳作家に、その傾向が強いように思われる)俳句界や川柳界にもボーダーレス時代がやって来たような観を呈している」
俳句と川柳の相違について
ここでも子規の「滑稽」を引いて、俳句と川柳の相違点を述べている。
「俳句の滑稽」には雅味、品格、趣味(趣き)が必要。
「川柳の滑稽」は抱腹絶倒、噴飯せしめたるとするところの「笑い」としている。
川柳を実作する者からすると、承服しかねるが、子規が理解していた川柳は、この一文が発表されたのは、阪井久良岐の「五月鯉」創刊より前であり、当時の「狂句」と比較したものではないかと思われる。もし、子規が阪井久良岐、井上剣花坊の川柳を理解していたならこのような論を述べるとは思えない。
そして、俳句と川柳の相違点について、木村半文銭、近江砂人、麻生路郎の川柳論を紹介しながらも相違点は「切れ」一点だと述べている。
俳句と川柳の相違点については、現在でも多くの人が論じているが、こんなに単純なものではないと思う。この点については、俳人、川柳家の意見をもっと聞くべきではなかろうか。
まがいの川柳とは
「まがいの川柳」とは、何をもって「まがいの川柳」と言うのだろうか。辞書を引くと「まがいもの」とは、「見分けのつかないほどよく似せて作ってある物。偽物。模造品、イミテーション」とある。すなわち「俳句まがいの川柳」とは「俳句の偽物である」と言うことになる。
私も、無意識にも、意識的にも季語を使用し、「切れ」を入れ、取り合わせの川柳を作ることがある。これらの句を「俳句まがいの川柳」「俳句の偽物」と評価されるのは大変に残念である。
「まがいの川柳」の例示はしないまま、一方的に論じられると川柳界、川柳実作者の取り組み姿勢をミスリードしているのではないかと思ってしまう。
子を産まぬ約束で逢う雪しきり 森中惠美子
森中惠美子さんの代表句の一つである。この句はもちろん川柳で発表されてはいるが、「季語」、「切れ」があるので、俳句としても評価される句であろう。俳句と川柳の相違を「切れ」の一点で区別するのであれば、この句は「俳句まがいの川柳」になる。「まがい」でなければこの句は「俳句」そのものであろう。そうであれば、川柳界にはどんな句が残るだろうか。
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