ベッドの絶叫夜のブランコに乗る
林ふじをの代表作の一つである。
林 ふじを(本名 林和子)
大正15年(昭和元年1926年)東京生れ。結婚後小田原で暮らす。一女をもうけたが、夫が戦死。病弱であったためか、娘を育てることが困難で義弟夫婦に養女に出す。昭和28年(1953年)妻子ある川柳作家との縁で川柳を始める。川柳の手ほどきをした男性が藤の花が好きだったことからふじをと号した。番傘投句から始めて後に「川柳研究社」の句会に出席、川上三太郎に師事。三太郎から「女性であるから何よりもまず女性の手になった句を書く」ようにと指導される。昭和34年(1959年)2月19日病死享年34歳。
簡単に経歴を書いたが、川柳の創作期間はわずか6年ほどである。死因は胃潰瘍と何かの本で読んだ記憶があるが、どの本だったかは失念した。セックスを本格的に詠んだはじめての女性川柳人と言われ、セックスを赤裸々に詠んだ句が多い。
掲出の句だが、ふじを没後55年にあたり出版された林ふじを「川柳みだれ髪」によると昭和34年の作品である。同年2月19日に死亡しているので絶筆に近い句と言ってもよいのではなかろうか。何年も前にこの句を読んだ時、強烈な描写に驚いた。字面だけ読むと官能句である。しかし、この句死ぬ一、二か月前に詠まれたとはとても思えないようになった。ここで書かれているベッドは異性と愛し合うベッドではなく、病室のベッドではなかろうか。絶叫は、快楽の叫び声ではなく、病による激痛に耐えられなくなっての絶叫ではなかろうか。「夜のブランコ」という暗喩は「闇にいて抗えない力によって揺れているブランコ。すなわち自分の運命」ではなかろうか。そう考えるとこの句は官能句ではなく「死の恐怖、生きることへの執着」を書きたかったのではないかと思えるのである。川柳みだれ髪 Ⅵ絶叫より13句を記しておく。いずれも昭和34年の作品である。
ベッドの絶叫夜のブランコに乗る
何かしゃべれば幸せが逃げさうな
師と歩む師を超えようとするあがき
金に換算あと幾月のいのちとも
傷ついてむさぼりあってまた別れ
顔洗っても還って来ぬ素顔
ママ死なないで神サマといふ子を信じ
生命線プツリとやせたてのひらよ
負担などない愛人の見舞状
力なき手に愛情をまさぐるよ
こんなにも愛されて病むじれったし
バースデイひととき君の掌(て)と遊ぶ
イエスではない眼あたしにだけわかる
師川上三太郎の追悼吟を書いてこの稿をおわる。
ちりいそぐあはれうすむらさきのはな