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川柳茶房 Toujirou

笑いの少ない川柳ですが・・・。

金子三勇士リサイタル

2025-02-10 08:53:10 | 日記

2025年2月2日、今年は節分でる。熊本県立劇場コンサートホールで金子三勇士ピアノリサイタルが開催された。劇場開館から使用されたピアノも40年ほど経過しており、今回新しいピアノを導入することになった。~新しいスタインウェイ625203を迎えて~と銘打ってそのお披露目の公演であった。ピアニスト金子三勇士が3台のスタインウェイD724の中からセレクトしたとのことである。

演奏曲目

ショパン:華麗なる大円舞曲

ショパン:夜想曲9-2、夜想曲37-1

リスト:リゴレット・パラフレーズ

シューマン=リスト:献呈

リスト:ラ・カンパネラ

ベートーヴェン=リスト:交響曲5「運命」ピアノ編~熊本県立劇場オリジナルバージョン~

交響曲はオーケストラが演奏するわけで、ピアノ一台で・・・と思っていたが第一楽章と第4楽章を見事に演奏した。献呈にしても運命にしても何故ハンガリー人のリストがピアノ曲にアレンジ?と思うのだが、当時のハンガリーでオーケストラでの演奏は容易ではなくピアノ曲にアレンジすることで名曲を国内に紹介したとのことである。

金子三勇士、一見してハーフではと思う風貌。父親は日本人、ハンガリー人の母親の間に生まれた。母方の祖父母の家からバルトーク音楽小学校、国立リスト音楽院大学(特別才能育成コース)で学び16歳で全過程取得し帰国とある。リストが多いわけである

 

 


真風の会2月

2024-03-10 14:44:48 | 日記

真風の会2月例会報をいただいた。真風の会は毎月第2木曜日開催である。私は通院日なので事前投句している。2月の課題は「豆腐」であった。

ごめんねが言えず湯豆腐煮崩れる    陶次郎

川柳独特の表現で心象句。「湯豆腐煮崩れる」がなるほどと思わせ素晴らしい。「ごめんねが言えず」に時の経過と会話の意外性を感じる。

毎回代表者のあじさいさんのコメントが付けられている。いつもありがとうございます。


田中五呂八の川柳2

2024-02-18 13:00:18 | 日記

人間を掴めば風が手に残り

 五呂八の代表句。小樽の住吉神社に句碑が建っている。この句は平易な単語で難解ということではないが、捉え方は人それぞれかも知れない。「人の心情や理念を理解していたつもりでも、手を広げると何もない。風だけが吹いている」というようなことだろうか。この「風」とは何だろうか。私は無常観ではなかろうかと思っている。

死ぬという約束はなく生まれたり

神が書き閉じる最後の一頁

 五呂八の死生感であろう。生まれればいつか必ず死ぬ時は来る。もちろん死ぬ時期について、自分自身に分かるわけでもなく、約束事などはない。人間の意志ではどうにもならぬ「死」は神に委ねるしかないと考えたのではなかろうか。「死」への不安や恐怖もあっただろう。だから、どう今を生きるかを考えていたに違いないと思う。五呂八は1937年(昭和12年)四十一歳という若さで逝去。翌1938年(昭和13年)鶴彬が二十九歳で獄中死して「新興川柳」の時代は終わった。しかし、五呂八の川柳は後世の柳人に大きな影響を与えている。

無を包む空の青さに死を溶かし

 「無」とは何もないことだから「無」という概念を包むことはできない。ここで言う「無」は「虚無感」ではないかと考える。虚無感とは辞書によると「すべてが空しく感じること、何事にも意味や価値が感じられないような感覚」とある。「虚無感」を包み込む青空がある。この「青空」は五呂八の「日常」なのだろう。その青空に「死」という概念を溶かし込むという句なのだろう。「死」については「人間はいつかは死ぬことを忘れず、今を前向きに生きる」「死を忌避する対象としてではなく、生に活用する対象として捉える」という思いであると考える。

 


田中五呂八の川柳

2024-01-31 09:41:13 | 日記

田中五呂八(1895~1937)は新興川柳の祖と言われている。小樽から川柳誌「氷原」を創刊した。伝統的川柳を批判し短詩型文芸としての、新しい川柳のあり方を主張し、それを「新興川柳」と名付けた。「新興川柳」という名称は五呂八が名づけたもので、のちの「新興短歌」「新興俳句」の先駆となった。五呂八は、芸術至上主義を貫き、難解な句も多いが、人間の生と死を深く見つめた詩情あふれる句を多く残している。

田中五呂八の『新興川柳論』に次のような一節がある。

「人間が、ただ単に喜怒哀楽のままに動いている間はまだ、自然の配下にある受動的な通俗生活に過ぎないのである。そうした受動的な他律生活から一歩踏み出して、能動的に人生を統一し、自然を理想化するのには、どうしても吾々は、自律的な思想を持たねばならないのである。そこに、思想の深さは自己の深さとなり、思想ににじみ出した感情の深さが詩の深さであり、それがやがて自然の深さであり宇宙の深さでもある。自然も人生も畢竟芸術家にとっては、自己の深さのままに改造し得る相対的な自己創造の対象に過ぎないのである。私達新興川柳家は、この信条の上に個々の思想を深化する事によって、最も近代的な日本の自由短詩を創造しなくてはならない」(「新興川柳への序曲」大正14年4月)

ひっ‐きょう【畢竟/必竟】
【一】[名]仏語。究極、至極、最終などの意。【二】[副]さまざまな経過を経ても最終的な結論としては。つまるところ。結局。(ことばの総泉挙/デジタル大辞泉より)

人の住む窓を出てゆく蝶一つ

この句は、窓から飛んでいく蝶を詠んだ句だが、この蝶とは誰のことだろうか。窓はいつも解放されており、入るのも、出ていくのも蝶の自由である。蝶が五呂八自身であれば。既存の川柳界から新しい川柳、「新興川柳」の世界へと飛び立つ自身決意を詠んだ句ではないかと考えている。もしくは、新興川柳運動を展開したが、後に対立した、鶴彬らのプロレタリア派との決別の句であろうか。

窓の灯にチラリ踊っただけの雪

雪が降り始めた。風にあおられて消えていく雪の情景を詠んだ句だろうか。「新興川柳」を唱えても、すべての柳人がその理論を受け入れてくれた訳ではなかったであろう。挫折感を味わった日の五呂八の心境とチラリ踊って消える雪の情景が重なって見える。

私個人の感想です。ご承知おきください。


葦群68号

2024-01-05 20:25:47 | 日記

令和6年1月1日発行、川柳葦群「近詠 葦の原」掲載句。

花火消え虚しく人に群れている

ひまわりもうつむく長い夏終わる

異常気象為替相場が読みづらい

チャップリンに出くわしそうな街の灯よ

枯れ葉はらはらダム湖の底に子守唄

継ぎはぎの記憶繕う木綿針

遊歩道星のエールを受信せり