人間を掴めば風が手に残り
五呂八の代表句。小樽の住吉神社に句碑が建っている。この句は平易な単語で難解ということではないが、捉え方は人それぞれかも知れない。「人の心情や理念を理解していたつもりでも、手を広げると何もない。風だけが吹いている」というようなことだろうか。この「風」とは何だろうか。私は無常観ではなかろうかと思っている。
死ぬという約束はなく生まれたり
神が書き閉じる最後の一頁
五呂八の死生感であろう。生まれればいつか必ず死ぬ時は来る。もちろん死ぬ時期について、自分自身に分かるわけでもなく、約束事などはない。人間の意志ではどうにもならぬ「死」は神に委ねるしかないと考えたのではなかろうか。「死」への不安や恐怖もあっただろう。だから、どう今を生きるかを考えていたに違いないと思う。五呂八は1937年(昭和12年)四十一歳という若さで逝去。翌1938年(昭和13年)鶴彬が二十九歳で獄中死して「新興川柳」の時代は終わった。しかし、五呂八の川柳は後世の柳人に大きな影響を与えている。
無を包む空の青さに死を溶かし
「無」とは何もないことだから「無」という概念を包むことはできない。ここで言う「無」は「虚無感」ではないかと考える。虚無感とは辞書によると「すべてが空しく感じること、何事にも意味や価値が感じられないような感覚」とある。「虚無感」を包み込む青空がある。この「青空」は五呂八の「日常」なのだろう。その青空に「死」という概念を溶かし込むという句なのだろう。「死」については「人間はいつかは死ぬことを忘れず、今を前向きに生きる」「死を忌避する対象としてではなく、生に活用する対象として捉える」という思いであると考える。
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