陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その99・片口型ぐい呑み

2010-04-02 09:37:04 | 日記
 ケズリを終えると、さらにくちばしの付け方も伝授される。この器は「片口」となるのだ。
「子供のおチンチンのようにつけるのじゃ」
「は、はい!」
「手数をかけるでない。作意を見せてはならん」
 そうは言われても、ピンポン球ほどの器にコンタクトレンズのような粘土片をはりつけるという繊細極まる作業だ。どうしてもさわりすぎてしまう。そしてさわればさわるほどヘンになる。センセーのお手本を真似たつもりでも、似ても似つかない。長板には、コテコテに手跡のついた妙ちくりんな片口型ぐい呑みが並んでいく。何個つくっても、まるで子供の工作だ。
 センセーはそれを見て、ただ愉快そうにからからと笑うだけだった。その笑顔にすくわれる。竹林が発散する冴え冴えと新しい空気。その葉のすき間からこぼれる朝の光は、醜悪な作品を少しばかり輝かせてみせてくれる。オレは、この形を生涯挽きつづけよう、と思った。
 図14・※当夜のぶさいくぐい呑み
 その日から、挽きまくった。ボロアパートでろっくんとすごす深夜、徹底的にその片口型ぐい呑みを挽いた。センセーの教えを指先にしみこませようと、必死だった。初心を忘れそうになったら左回転にスイッチしてこれを挽くのだ、と心に刻みつつ、ひたすら長板に不細工ぐい呑みを並べた。
 あの夜のぐい呑みが本当に注文品だったのか、それとも愚かな学生のためにわざわざ挽いてくださっていたのか、センセーの意図は今となってはわからない。だけどこのぐい呑みをつくるとき、いつも必ず思い出すものがある。それはセンセーのワザではなく、コトバでもなく、「姿勢」だ。裸電球の下、汗のにじんだ綿シャツ一枚で、禿頭の先に蚊柱を立てながら、一心に土に向かうあの姿だ。ぐい呑みのころんとした形は、いつもその丸い背中と重なった。それはユーモラスだが、固く締まっているのだ。
 太陽センセーにろくろを教わったのは、これを含めて二度きりだった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園