管理職も行政も教えてくれない 学校の「今のあたりまえ」 若い教師に伝えたいこと

今当たり前と思っていることも、よくよく考えてみれば、問題だらけ。若い人には、ぜひ読んで、考えてもらいたいものばかり。

かえって毒となる道徳の授業 序章

2020-04-17 23:01:25 | 勉強、授業
「身の程に振る舞う」若者を再生産させる道徳授業
 0 長い「はじめに」
 「特別」の教科となって、初めて道徳の授業を見た。教科化されるとの情報を知らされ、世間でも、また職場でも批判の大きかったこの変化の後、さて授業そのものはどのように変わったのだろうか、また授業者はどのような苦労をしているのかと思い巡らせ、興味深く会場校へと向かった。
 研究授業は、小学校5年。「きまりの意味――規則の尊重」がテーマとされている。担任は20代後半の男性教員。教員となって5,6年といったところか。ようやく学校の勤務や児童・保護者との関わりなどで、自分なりの位置がはっきりとしてくるころである。
 この地区では、教科書に、光村図書「きみがいちばんひかるとき」が採択され使用されている。その5年生版の中の、「お客様」が今回の教材だ。

 心おどる音楽が流れ、わたしたちの家族は、ショーが始まるときを待っている。
 わたしは、両親にたのみこんでやっとの思いでこの遊園地へ連れてきてもらった。わたしが大好きなキャラクターが出演するショーがもうすぐ始まる。わたしは夢中で両親にキャラクターの話をし、ビデオカメラを用意して待った。
 しばらくすると、ステージの前は混み始めた。どんどん人がやってきて、人と人の頭の間からのぞきこむか、背伸のびをするかでないとステージを見ることができなくなってきた。わたしたちの後ろにも、たくさんの人たちがショーの始まりを待っている。花壇のフェンスや木に登って待つ人も出てきた。係の人がやってきて、
 「危ないですから、花壇のフェンスや木に登らないでください。」
と、注意している。それから、
 「ショーの間は、お子さんを肩車したり、ビデオやカメラを頭より上に持ち上げたりしないようにしてください。」
と何回も大きな声で呼びかけている。
 周りの人たちは、
 「そんなこと言ったって、これじゃあ、よく見えないし、写真もとれないぞ。」
と、不満げだ。
 わたしも注意ばかりする係の人をこころよく思っていなかった。
 いよいよ、ショーの始まりだ。ところが、しばらくするとわたしたちの前に立っていた男の人が子どもを肩車し始めた。その子どものお母かあさんらしき人が、
 「やめなさいよ。さっき、注意があったでしょう。」
と、ばつが悪そうに言った。おかげでわたしはショーがまったく見えなくなってしまった。そこに、係の人がかけよってきた。
「お客様、肩車はおやめください。」
そのお父とうさんらしき男の人は、「えっ、でも……、うちの子がよく見えないんですよ。」
と、答えた。
 「危ないですし、後ろのお客様のご迷惑にもなりますので……。」
そう言われても、男の人は肩車から子どもを降ろそうとする気配はなかった。さらに、注意が続く。
 「お客様。肩車はご遠慮いただいております。すぐに降ろしてください。」
係の人の言葉で、ようやく肩車から子どもを降ろした。
しかし、男の人はむっとした顔で係の人に言った。
 「納得できないものを、勝手にいろいろおしつけるのはおかしいんじゃないですか。わたしたちはお金をはらって入場しているんです。お客様なんですよ。」
わたしが、その人の顔をびっくりして見たとき、
 「そうだ、そうだ。」
と、男の人に同調する声が出始めた。ショーは楽しい音楽に合わせて続いている。それなのに、わたしたちの周りは、いやな空気がただよっている。係の人は、少し赤い顔になって、
 「申しわけございません。ご協力ありがとうございました。」
と頭を下げた。
 (何か、変だ。)
と、わたしが思ったときだった。注意を聞かずに、こっそりステージの反対側にある木に登ってショーを見ていた人が、木から落ちたらしい。木の下には人だかりができて、さわぎになっていた。係の人は、急いでその木の方に走っていった。
 そのさわぎがおさまったころに、ショーも終わった。多くの人は「楽しかったね。」と笑顔で帰りじたくをしている。でもわたしは気持ちが晴れないまま、その会場を後にした。
 わたしはショーが始まる前の係の人の注意や、自分たちの周りで起こったことをもう一度考えていた。


この文章は、文科省で作成した「小学校道徳 読み物資料集」からの引用である。光村の方は、母親がたしなめる場面や、木に登っている客が落下するといった場面は、削除されているが、本筋は基本的に同じである。
 光村図書のホームページによると、この教材のねらいは「遊園地でショーを見るとき,きまりを守らず自分の都合を優先し,係の人に文句を言っている人を見たことで,気持ちが晴れない「わたし」の姿を通して,きまりは何のためにあるのか考えさせ,みんなで互いの権利を尊重し合い,必要なきまりを進んで守ろうとする実践意欲と態度を育てる。」とされる。

1.授業の概略
 授業の展開をすべて網羅することが本筋ではないので、特徴的なものだけを列挙する。
 ①「きまりと聞いて、どんなものを思い出しますか。」の発問から授業が始まる。それに対して「廊下を走らない。」「お年寄りに席をゆずる。」「盗撮しない。」などの意見が出される。
 ②係の人と、子どもを肩車した客とでは、どちらの意見に近いですか。」として、自分の名前の書かれたマグネットプレートを、黒板に書かれた数直線の下に貼らせる。(線分の右端には<係の人>、左端には<お客>と書かれている。)その結果は、左に誰も貼るものはなく、真ん中が数人、圧倒的に右に貼られていた。
 ③真ん中に貼った子に理由を聞く。「お客さんが見えなくなって、肩車をするのは分からないでもないから。」「ちょっとかわいそう。」という意見が出された。一方、右に貼った子の理由としては、「きまりを守れないのだから、注意して当然。」「お客は自分勝手だと思う。」「きまりがあるのを知っているのに、それを破るのは間違っている。」「肩車は、みんなのめいわくになるのだから。」と、活発に意見が出される。
 ④指導案には、「きまりは、理由があったら守らなくていいか」という補助発問をする予定が書かれていたかが、これは使われることはなかった。(指導案の「指導上の留意点」には、「きまりは、どんな理由があっても、守らなければいけないことを気づかせるだけでなく、きまりを守ることで、安全だけでなく、家族の団欒、一人一人の幸せを守るなどのあたたかな側面があることにも気づかせるようにする。」とある。)すでに「きまりを守ることは当然のこと」という授業の方向性が確実になってしまっていたためだろう。
 ⑤真ん中に貼った子の意見を、再び採り上げることはなく、したがって、何も「論争」が起きることもなく、授業は終了する。子どもたちの書いた「ふりかえりノート」の感想も、そのほとんどが「きまりは大切」「守れないのは自分のことだけを考えているから」「しっかりきまりを守れる人になりたい。」と、ステレオタイプのものばかりになっていた。
 ⑥最後の担任の「説話」は、家族の危篤の知らせを聞いて、スピードを出して車を運転し、人を轢き殺してしまった事件について話し、さらに「どんなときでもきまりを守らないといけない」ことを補強した。
 ⑦授業後の協議会では、導入の仕方の是非、マグネットによる個々の意見の視覚化についての是非、板書の是非など、「技術的な面」のみの話し合いとなり、教材そのものの分析については皆無であった。
 ⑧講師として出席された大学教授も、教材の検討については特に言及することはなく、「ねらいとする道徳的価値について、学習指導要領に基づき、明確な考えをもつことが大切」と、ノウハウ的な側面での講評しか述べることはなかった。教材についての授業者の立場の不公平性について述べたのは私だけであったが、「予想では、もっと子どもの意見がばらつくと思っていたのですが」と、結果的には、子どもたちのほとんどが「係の人」に寄ったことに満足しているかのような発言をした。
 以上が、この研究授業のあらましである。以下、私の考えを述べる。

2.授業者の授業は、「きまり絶対」の立場から始まっている
 授業者には「きまりは、みんなの安全や幸福を守るためにあり、絶対守るべきものである」という、堅い信念があるようだ。いや、授業者は、あれこれと「お客様」の指導案を集めて見ているうちに、そのほとんどが「きまり絶対」の内容であることを知り、その時点で思考停止に陥ったと思える。(後述するが、この教材文を普通に読んでも、あきらかにおかしな点が多々あるからして、気づかないはずはないと思えるからである)
 私も、インターネットで「お客様」の指導案を検索して閲覧してみた。すると、やはり意図的な「ねらい達成」のための伏線や発問ばかり目立つものばかりであった。
 例えば、こんな具合である。

 ※野球場で通路に座って観戦している人の写真、きちんと座って見ている写真を提示し、前者には、「きまりがあるのに、どうして守れないのかしら」との質問に、イラストの子どもたちが、口々に「○自分のことしか考えていないから。 ○欲だけで行動しているから。」と答えているものまで提示する計画がされている。(www.ypec.ed.jp/syoukai/doutoku/rei/s5/s5-2.pdf)
 ※気づかせることについて、「男の人が係の人に客としての権利を主張した場面で,男の人の言動を変だと思った「わたし」が実は男の人と同じ自分中心の考えをしていたことに気付かせる。」とている。(www.kumagera.ne.jp/center/plan/plan.../s.../dotoku_1.pdf)
 ※「私は、何が変だとおもったのでしょうか」では、予想される(「期待される」というべきか)意見として、「・係の人が正しいことを言っているのに、悪い方向・間違った方向に進んでいること。 ・係の人は何も悪くないのに、頭を下げて謝ったこと。 ・注意を無視して周りの人に迷惑をかけているのに、「お客様なんですよ。」と言っていること。」が挙げられていて、すでにお客は「自分勝手の悪い者」といった扱いである。
 (www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/zelprinc/.../h26/h26doutoku.pdf)

 「道徳的価値について教える立場の教師であるからには、当たり前の事ではないか。」と思われる方もいるにちがいないと思うので、私のこだわる理由を述べる。
 まず、第一に、この教材文について「教材としての価値を疑う」からである。授業を見る前に渡された指導案の最後のページに載っていた「お客様」の文章を一読して、すぐに「なんと誘導的で、品のない作品なのだ。」と思った。会場の「きまり」に抗議している客の描き方が、すでに「悪者」として扱われている。(教材文の下線の部分は、客=悪者の印象を強める効果が明白な表現である。)この文章を読んだ子どもたちが、「いや、客のほうが正しい」と言えるのか。「お金をはらって入場している」と客に言わせることによって、「金さえ払えば何を言っても、何をしてもいいと思い込む、薄汚い輩」という印象を与えさせるように、読んだ子どもを意図的に、ある方向の考え、思いに誘導する品性の欠いた教材だ。

 第二に、ここで出されている「きまり」について、誤った扱いをしているからである。
ここで出されている「きまり」とは、主催者側による一方的な「お願い」ではないのか。
きまりがきまりとして誰もが納得して機能するためには、その意図することが現実と合致していると、構成される人たちに認証されていることが必要条件である。
 では、この教材の描く「世界」ではどうか。「ステージの前は混み始めた。どんどん人がやってきて、人と人の頭の間からのぞきこむか、背伸のびをするかでないとステージを見ることができなくなってきた。わたしたちの後ろにも、たくさんの人たちがショーの始まりを待っている。花壇のフェンスや木に登って待つ人も出てきた。」という状況なのである。
つまり、この「花壇のフェンスや木に登らない」「ショーの間は、お子さんを肩車したり、ビデオやカメラを頭より上に持ち上げたりしない」というきまりは、会場の設営の段階の時点で、すでに破綻している(どだい無理な)ものなのである。
 代金をみな平等に払っているからこそ、できるだけ同じような「快適さ」で鑑賞させるのは、主催者の義務ではないのか。それを見通すことができなかった主催者に主たる責任があるのではないのか。
 現実に合わない「きまり」を杓子定規に「守らせる」ことの欺瞞性こそ、この教材文の根本的な問題なのではないのか。
 きまりを守らなければ、「みんなの迷惑となる」とあるが、客はその「みんな」に入らないのか。きまりを守ろうと、我が子を林立する人の間に座らせ、見えないショーの音だけを聞かせることは、美徳なのか。
 このような考えは、授業のはじめから、授業後の「大人の話し合い」まで、話し合われることはなかった。

 (註)同じ根を持つ「私たちの道徳」の「やくそくやきまりをまもって」に対する批判は、そのままこの教材にも当てはまるだろう。
「第1の問題は、それが絶対的で疑問をはさむ余地のないものと考えられていることです。人間が共同体を営むとき、何らかのきまりを決め、成員がそれを守らなければならないのは当然のことです。しかし「きまり」は相対的なもので、おかしな「きまり」は変えていかねばならないはずですが、「私たちの道徳」にはそうした観点がありません。
 第2の問題は、子どもたち(国民)が「きまり」を与えられ、それを守るだけの存在としていることです。国民が主権者として「きまり」を作り、国に守らせる存在であることが説明されていません。主権在民を定めた日本国憲法に違反しているといわざるをえません。」(「こんな道徳教育では国際社会から孤立するだけ」半沢英一著 合同出版)

3.学習指導要領に戻って
 学習指導要領の道徳編では、きまりについて次のように記されている。

「(10)約束やきまりを守り,みんなが使う物を大切にすること。」(1,2年)
「(11) 約束や社会のきまりの意義を理解し,それらを守ること。」(3,4年)
「(12) 法やきまりの意義を理解した上で進んでそれらを守り,自他の権利を大切にし,義務を果たすこと。」(5,6年)
「(10) 法やきまりの意義を理解し,それらを進んで守るとともに,そのよりよい在り方について考え,自他の権利を大切にし,義務を果たして,規律ある安定した社会の実現に努めること。」(中学)

 これらの表現からも分かるように、「きまり」は、すでに絶対的なものとして存在し、それを遵守することこそ望ましいと考えられていることは明白である。
 このような発想では、「きまり」がどんな理不尽なものであろうと、また現実に合わないものであろうと、それを破る者は「自分勝手」「権利ばかり主張する者」として批判されることは目に見えている。
 今回の授業も、まさにこうした「きまり=絶対」の発想からのものであり、それを変えていくという発想は生まれることはない。そして、この発想こそ、今、子どもたちの身につけさせたい「主権者教育」「シチズンシップ」に他ならないだろう。
 このような「受け身」の授業を受け続けていくと、どんな大人になっていくのであろうか。これからの日本の国を「よりよく」作りかえていけるのだろうかと、憂鬱になってくる。

 

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