高館の場所は柳之御所、無量光院跡から少し北にあります。
言わずと知れた義経終焉の地です。
昔はありませんでしたが、駐車場があります。
とりあえず、ここに停めます。
たしか周辺は狭い道路のみですぐ近くにクルマを停める場所はなかったような記憶があります。
少しだけ歩きます。
慰霊碑です。
おそらく高館の合戦のこと。
もう少しです。
石碑群もありますね。
あまりに古すぎて碑面が読み取れません。
よもや、義経一行のものではありますまいが…。
入口が見えてきました。
義経堂の方に行くにはあそこから拝観料が必要になります。
入口の前には石碑が。
石碑横から登ってくることもできます。
入口の近くにある説明版です。
義経北行伝説が紹介されています。
この高館から逃れて、沿岸を進み、八戸を経て北海道から大陸に渡ったという…。
ロマンのある話です。
さて、高館の歴史的な説明です。
こちらは史実に基づいています。
芭蕉も「奥の細道」で立ち寄った地です。
さて、行ってみましょうか。「高館」へ。
性格に言えば、この辺の丘一帯が「高館」なのでしょうけど。
この階段を登ると、丘の上はほぼ一本道の稜線になっています。
右へ行けば芭蕉の句碑、左が義経堂です。
北上川が見えます。
「北上川、南部を流れる大河なり」と『奥の細道』にある通りです。
句碑と差し向いに石碑があり、
名高い芭蕉の句碑があります。
拡大するとこんな感じ。
授業で一回は見たことあるはずです。
古今の名文と言えましょう。
そして、義経堂の方へ行きます。
途中に石碑があります。
幕末の志士、頼三樹三郎のもののようです。
盛岡に来ていたんですね。
この説明はありがたい。
芭蕉が見た景色の想像ができるというものです。
向こうが衣川の方面。
そして東側に束稲山。
資料館があります。
無料なので入ってみましょう。
中には仁王像と義経関連の展示資料が。
仁王像は高館の門前にあったもののようです。
展示も読めば勉強になります。
この付近の歴史が細かく説明されています。
肝心の義経堂はさらにもう一段上がったところです。
たどり着きました。
正面のお堂には木造があります。
左には絵馬。
スポーツの勝利を願ったものが多く、義経公にあやかったものです。
風でカタカタと鳴っていました。
右手に供養塔があります。
ここからも、北上川が見えます。
これが、義経公末期の眺めだったのかもしれません。
【付記】
さて、この「高館」という場所ですが、多分ここは「城」のようなものだったと思われます。
奥州藤原氏の都である「柳之御所」の北口を守る「山城」(または「砦」)のような役割をしていたのでしょう。
義経一行が最後にここにこもって戦ったのも、そういうわけでしょう。
「山城」であれば、建物を築く平らな場所、「廓」(くるわ)もありそうなものです。
山頂の「義経堂」はあまりに規模が小さいし、尾根道しか取れませんので、もう少し下の方に
「廓」跡があるはずです。
で、ここがそうだと思われます。
「高館」入り口から左に入ったかつての「駐車場」跡です。
(いまは使われていません。ここに続く道が車一台分しかないので危ないからでしょう。)
おそらく、今の「義経堂」のあたりはかつての「持仏堂」とか「神社」があったはずです。
中世の山城もそういった造りになっているので、義経はそこを終焉の地に選んだのでしょう。
【撮影日:2022/03/30】
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