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ネット坐禅会・31・・・修証義の内容・総序

冒頭の「生死」について述べている個所

生を明らめ死を明きらむるは 仏家一大事の因縁なり、❷生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、但(ただ)生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし、是(この)時初めて生死を離るる分(ぶん)あり、❸唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。

➊生死の道理をしっかりと理解することは、お釈迦様の教えを受ける私たち最大の良縁です。この生死による戸惑いの中に仏という悟りの境地が存在すればあれば迷いは無く、ただ、迷いと悟りは表裏一体と考えて、戸惑いがあるからといって落胆することなく、悟りを追い願うこと必要も無い。このように考える時、初めて生死の戸惑いを離れることができます。➌それこそ、有難い教えに出会ったと痛感してください。

『修証義』の第1節ですが、道元禅師の書の出典個所は、➊~➌の三つです。の『正法眼蔵』「生死」の巻からの引用が多く、内容もここに述べられている「生死即涅槃」「煩悩即菩提」、迷いの中に悟りありという趣旨の内容と受け捉えがちです。冒頭の「明らめる」を、明らかにする、生きること死ぬこととは何かをつかみなさいと、哲学者みたいなことを要求する訳文が多く、戸惑いながら訳している学者さん方、文化人の方も多いのではないでしょうか。この➊の引用個所は、「諸悪莫作」の巻で、生まれ死にゆく思いのままにならない人生の中で、大切なことをつかむことは、仏の教えを受ける最大の出会いだとして、その生き方は悪いことをしないというよりは、悪いことが出来ないだという趣旨です。この道元禅師の意図を汲めば、生と死は、生老病死という思い通りにならない現実と捉え、明らめるは、お釈迦様の教えに学ぶ実践力を示すように解釈すべきと考えます。「諸悪莫作」では、仏教の教えは知っていても実行していない80歳の老人に対し、正しく行動におこせる3歳の童子とを対比した事例に続いて記された言葉が、「生を明らめ死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり」なのです。

『修証義』は、すべて道元禅師の発した文言から出来ています(接続詞などは加筆あり)が、その文言は、内容を伴うものと、趣旨は変わっても、言い回しを借用しているものとがあります。この第1節では、は前者(「生死巻」から引用)、は後者(「法華転法華巻」から引用)。は(「諸悪莫作巻」から引用)どちらにも解釈できる部分だと思います。

さらに、私の解釈の理由を上げれば、次の第2節で、どのように生死を明らかにしたらよいかの答えとして、「出家功徳巻」からの引用文を上げ、「最勝の善身を徒(いたづら)にして露命を無常の風に任(まか)すること勿(なか)れ」(奇跡的な生を受け、しかも仏法に出会えたこの上ない貴重な身を、無駄にどんどん過行く時間に埋もれさせていってはいけない)という言葉とが合致するのです。

 

 

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