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ネット坐禅会・25・・・曹洞宗の教義・両祖と両大本山

両祖と両大本山

二人の子がまだ小さかった頃、よく周りの大人たちが意地悪な質問をする。「お母さんとお父さん、どっちが好き?」と。上の正直者のお兄ちゃんは「ママ」と小さな声で答える。下のしっかりものの妹は「うん、両方」と優等生発言をする。どちらも自慢の我が子の話です(笑)。

永平寺と總持寺、道元禅師と瑩山禅師、どらも比べようのない尊い存在です。両大本山と両祖様、曹洞宗の特色そのものです。昨日、その違いについて簡単にふれましたが、少し詳しく紹介します。

昨日の記事で、永平寺は、頑なに古来の伝統を守り、その精神を伝える「威儀即仏法」(姿形に日常底を現わすことを重視する)に厳しく、總持寺は、現代の苦悩に寄り添い、時代に即した祈りを捧げるところに特色があることを伝えました。そんな特性を表す事例を記します。

永平寺 二祖国師の点検

永平寺では、夜9時に消灯、遅くなったとしても10時半までには就寝し、夏場は3時半に起床します。
その間、二度に渡って、火災とか不審な動きを監視する「点検」が、この夜間、役付きの僧侶によって行わます。
この点検には、道元禅師の霊廟の承陽殿付近には、決して出歩いてはいけない時間帯が存在します。それが、子の刻、午前0時です。

その理由は、道元禅師の一番弟子の孤雲懐奘禅師が、道元禅師が無事に就寝されているかを見守られ、亡くなられた後も在世のころと同じように道元禅師の供養を続けられた事に由来します。懐奘禅師は毎晩、子の刻になると道元禅師が眠る霊廟である承陽殿(じょうようでん)に赴き、点検・見回りをされたといいます。

この点検は懐奘禅師の大切な務めであり、子の刻に永平寺を見回ると懐奘禅師の点検とはち合わせてしまうことから、今でもこの時間の点検が禁じられているのです。

また、道元禅師の霊廟である承陽殿の入口は、夜でも必ず少しだけ開けておくという仕事(公務)が、現在なお受け継がれています。理由はもちろん、子の刻に点検にやってくる懐奘禅師が承陽殿の中に入ることができるようにするためです。この話は「二祖国師の点検」とよばれています。

 

總持寺 鉄道事故供養

能登にあった、總持寺は明治31年に火災に遭い、明治44年に現在の横浜市鶴見区に移転されました。總持寺では、修行僧たちに受け継がれ、現在も毎日行われていることがあります。

 一つは、「百間廊下の水供養」。中央に横に連なる百間廊下(長廊下)の毎朝の雑巾がけの際に、当役の修行僧がジョウロを両手に持って長廊下脇のタタキ部分を一気に走りながら2本の真っ直ぐの水の筋をつけていきます。そして廊下のゴール地点でジョウロをくねらせ水の筋を曲げます。これは、昭和38年11月9日に鶴見駅そばで起きた鉄道脱線事故の犠牲者161名(事故直後、この廊下に御遺体が並べられ安置されていた)への慰霊と、「みたま」が安らかなることを祈る水の筋です。水の筋は長い線香とそこの先から出る煙を表しています。

 もう一つは、「桜木観音慰霊法要」。總持寺の大梵鐘は、毎日午前11時から撞きますが、当番配役は大梵鐘を撞き終えると、三宝荒神殿の「桜木観音」前で線香を立てて法要を行います。これは、昭和26年4月24日に起きた横浜の桜木町駅の鉄道火災事故の犠牲者106名への慰霊法要です。

この二つは、一般的には世間にあまり知られていないことですが、桜木町事故・鶴見事故以降、大本山總持寺で毎日営まれている鉄道事故被災者慰霊供養です。

 

両大本山の性格を表している行持と言えます。

 

 

 

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