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ネット坐禅会・その22・・・曹洞宗の坐禅・無量功徳

坐禅については、いくつかの誤解があります。一つは無心になって考えてはいけないということ。もう一つは、無功徳、いいことなんか何にも無い、という誤解です。

その誤解というのは、思い量るということを強く禁止する方便のために生じているものです。その原則を守れば、良いことだらけ、無量の功徳があると祖録でも伝えています。

わずかに一人一時の坐禅なりといへども諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆえに、無尽法界のなかに、古来現に、常恒の仏化道事をなすなり。彼々ともに一等の同修なり、同証なり。ただ坐上の修のみにあらず。 (弁道話) この坐禅は、ただ一人で一時の時間を坐ったとしても、周りの環境すべてと一体になり、すべての事とそのままに繋がっているために、際限の無い世界の中に、過去現在未来にわたり、つねに永遠の教化化道をしていることになるのです。坐禅をしている自分自身も、また、坐禅をしていないすべての人々にとっても、一体の等しい、仏の営みであり、仏の証なのであります。ですから、坐っているだけのその場だけの営みではないのです。  

  
いわゆる一坐のとき、三千界みな坐断せらるる。このとき、かくのごとくなりといえども、自他の測量にあらず仏法の功徳なり。 (正法眼蔵洗面) たった一時の坐禅と言えども、すべての世界が、坐禅によって(迷いが)断ぜられます。この時、このような功徳は、自分や、他の人々の画策の結果では無く、仏のみ教えの功徳なのです。  

これらの記述によれば、坐禅は、単なる自分だけの独りよがりの趣味や健康のためといったものではなく、迷いの元が断ち切れ、それによる計り知れない功徳が備わるので、それは自分の手柄でも何でもなく、「みほとけ」のおぼしめし、授かりものと考えられるという趣旨です。特に「洗面の巻」にある記述は、顔を洗うという行為は、汚れているから洗うのではなく、生きることと共についてくる迷い、煩悩を洗う意味があることを述べ、坐禅も同様に迷いを洗い流す意味があり、この功徳は、みほとけの教え(仏法)の功徳であるとしています。


仏祖の坐禅とは、初発心より一切の諸仏の法を集めんことを願うがゆえに、坐禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず。 (宝慶記)  お釈迦様から伝わる坐禅とは、初めて志した時から、すべての仏様の教えの集大成という思いで行うものであるから、坐禅において、苦悩に悩む人々を忘れず、見放さない思いを持つべきなのであります。


常に大慈大悲に住して坐禅無量の功徳、一切衆生に回向せよ。(坐禅用心記) いつも思いやりの心を持って、坐禅によって得られる計り知れない力を、すべての人々に還元しましょう。

『宝慶記』で、道元禅師が伝えている「坐禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず」という記述は、かなり重要な坐戦の意義が示されています。この精神を受け、瑩山禅師は「坐禅無量の功徳、一切衆生に回向せよ」と、慈悲の精神の利他行としての坐禅の意味を説いています。

ここに紹介した『弁道話』・『正法眼蔵洗面』は、道元禅師の著作、『宝慶記』も道元禅師によって記された如浄禅師の教え、『坐禅用心記』は瑩山禅師の著述です。曹洞宗に伝わる只管打坐には、計り知れない功徳効用があり、それは、決して一人で坐っていて自分だけのものではなくて、周囲とつながっているために、それだけで大きな徳を積んでいることにもなるし、このことをよく理解して、自分が得た安らぎの境地を、どうか多くの人々に還元してほしいという願いが込められているのです。   

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