昨年10月に東日本大震災の実情を報告させて頂いたとき、県内のある団体の年間誌に載せていただけるというお話を頂きました。光栄に思います。
以下、内容です。
東日本大震災の復旧・復興に向けての被災地実情報告
高野光二郎
(まえおき)
私が、県議会議員在職中の平成17年に高知県が次の南海地震が発生した際の津波浸水予測を発表されました。しかしながら当時は、市民、県民の皆さんには十分に説明・浸透がされていない状況でありました。そこで、まずは「地震と津波」についてしっかりと理解をして頂く事が大事だと危機感を持ち、浸水予測図を持参し高知市内沿岸部の地元である長浜・浦戸地区へ行きました。
予測図は、津波が発生した場合「自分の住んでいる地域には何分で津波が来るのか?」「襲ってくる津波の高さは何㍍なのか?」など一目瞭然に分かりやすく記載されている内容でした。予測図をもとに地元の皆さんに説明をすると「まぁいつ来るか分からん、来たらきたでしょうがない」「実際は此処まで来やせんろう」との返事が大半で、非常に残念な思いをした事を覚えています。
しかし、3月11日の東日本大震災発生以後、確実に県民の皆さんの「地震と津波」に対する認識と意識は変わりました。
(被災地へ)
今回、震災発生から2週間後の3月25から28日までの間に、被害の実態調査を
中心に宮城県入りを致しました。宮城県に決めた理由は、個人的な人脈があったのと、全国各都道府県間で災害が発生した際に応援・支援をするための相互協定が結ばれており、高知県の担当は宮城県となっていたからです。
視察先は、宮城県内中央沿岸部に位置する仙台市近郊の多賀城市・塩竈市・七ヶ浜町。日中の気温はマイナス1℃で雪も降る寒さのなか、電気・ガス・水道等のライフラインは殆ど復旧しておらず本当に厳しい環境でした。
ガソリンや灯油は不足をしており、街の至るガソリンスタンドには車と人との長蛇の列が発生し、皆給油待ちをしている光景ばかりでした。当時、燃料不足の影響から暖を取りたい為に他人の家に侵入して灯油や石油ストーブ、バーベキューセットなどを盗む泥棒が横行していたそうです。杜の都仙台市の繁華街ですら飲食店を中心に通常営業しているお店は少なかったです。営業停止をしているコンビニ等のストアに至っては、外部から中を覗けぬよう新聞紙をガラス窓に貼り、侵入できないように入口に施錠を掛けている店舗も多数ありました。
七ヶ浜町では、全倒壊した住宅地エリアに海か川かと疑うほどの大きな湖が出来ていました。現場近くに接近して分かった事ですが、これは液状化によって地盤沈下した部分に、流れ込んだ津波(海水)が引かずに溜まっている状態でした。数台の重機の音が鳴り響き、自衛隊が行方不明者の捜索や遺体の回収の真っ只中でした。
多賀城市の避難所体育館には約3,000名の方が避難されておりました。丁度、避難所では市の職員さんが地元住民の方を対象にある説明会を行っていました。
説明の内容は、倒壊(全倒壊・半倒壊)した家屋への応急手当として、一世帯52万円を補助するといったものでしたが、説明を受けた住民の方々の中には「自分達を何と思っているのか?」「市は何を考えているのか?」等と怒鳴り声をあげて怒りだす方が多数おり、それを見て泣き出す子供を外へと連れ出す大人・・・
日を重ねる事に明日への不安は募り、心身のストレスは溜まり、衛生状態も決して満足な状態とは言えず、非常に険悪な雰囲気に包まれている印象を受けました。
支援物資(食料・水・衣類・その他)についてお話をすれば、震災直後、全国各地から沢山被災地に送られているのに、全く行き届いていない場面も見られました。滞在中に訪れた県庁や県議会棟のロビーには支援物資の段ボールが山積みにされていました。 新聞紙上では、物資を輸送する車のガソリンが確保できない等の理由で記事が掲載されておりましたが、実際には、各市町村間での情報連絡不足が原因だと感じました。まさに、未曾有の震災が引き起こした自治体の機能不全とも言えます。
一例として、宮城県の知人のもとに石川県から畳1,000枚が送られてくる一報が入りました。当時、避難場所の中でも床にブルーシートを敷いただけの場所もあり、床に畳を敷き少しでも寒さと硬さを和らげるよう使って頂く為です。そこで、知人が住む松島町に隣接する多賀城市に畳の受取をお願したところなんと断られました。 多賀城市だけでも避難所は当初16ヶ所あったにも関わらず「置く場所がない」「管理する場所もない」「運ぶ手段もない」のが理由です。
自分たちの所で使用できなくとも、近郊の市町村で不足しているところを自治体同士の連携がとれ把握出来ていれば、このような状況は起きなかったでしょう。しかし、現場の職員さんは24時間体制フル稼働で働いており、とてもそんな余裕はなかったと思います。官・民どちらに携わる方もとにかく生きる事に必死でした。
失った命も沢山ありますが、助かった命も沢山あります。宮城県は県内自主防災組織率(震災発生前)が85%で全国12位、地震保険加入率は全国トップクラスです。一方、高知県は50%しかなく、宮城県の防災対する意識の高さが伺えます。ハード・ソフト両面、防災訓練等を通じて地域の繋がりなど非常に機能的で優れていて、高知県もすぐにでも見習わなければならない部分がいくつもありました。
予想を遥かに超えた被害の大きさに無力感を抱きながら、被災地の為に「自分が出来る事をやる」と心に誓い、被災地を後にしました。
(東日本大震災支援フォーラムの開催)
帰高した私は、とにかく広く県民の皆様に被災地の真の現状を知って頂き、近い将来必ず起こると言われている南海地震に対して、学び備える機会を作りたいと思い、仲間と共に準備を進め、去る5月9日高知市内において「東日本大震災支援フォーラム」を開催致しました。
当日は、宮城県から旧知でお世話になっている畠山和純県議会議長と安部孝県議会議員にお越し頂き、実際にお二人が被災された状況や報道では知る事が出来ない現状を語って頂きました。
パネリストには尾崎正直高知県知事も会場に駆けつけて頂き、予想を上回る600名を超える方々にご参加頂きました。この支援フォーラムは、震災発生後全国でも初めて開いた大規模なフォーラムであり、ご来場下さいました皆様の関心も非常に高く、その後の活動の基礎となりました。
(再び被災地へ)
次に仲間の輪を広げ、被災地のニーズに沿った支援を実施するべく「宮城県を元気にする高知応援隊」という有志によるボランティアグループを結成致しました。
総勢57名が集い、避難所での炊き出しや被災個所の清掃、瓦礫の撤去、支援物資と被災者ニーズのマッチング、各種専門調査を行いました。
期間は6月17日から19日までの3日間。宮城県南三陸町・気仙沼市の避難所を中心に活動を行いました。震災から3カ月、まだまだ避難所で生活を余儀なくされる方は多く、気仙沼市のある避難所では実家や親御さんを亡くした44名の高校生が、柔道場で暮らしていました。とにかく皆が明るく気丈に振舞っていたのが印象深かったです。励ますはずの私達が逆に励ましを受けました。
3日間のボランティア活動を終えた後、私は2ヵ月間単身で被災地に滞在する事になります。1000年に一度と言わる大震災の惨状を知り、そこから立ち上がる政治・行政・民間・地域・住民の姿や復旧・復興への行動を学ぶ為に。実は出発前に心に決めていた事です。そして、宮城県を中心に救援・調査活動を続けて参りました。
滞在中は主に、
① 高知県や他県からのボランティアグループや調査団の窓口としての調整
② 一般ボランティアへの参加
③ 被災した自治体並びに学識経験者からの聞き取り調査や現状調査
④ 被災地・被災者にその時々に応じた必要な支援のニーズを聴きとり、届けられた支援物資の収集と配給
⑤ 避難所や仮設住宅の訪問
⑥ 策定中の宮城県震災復興計画に関係する会議の聴取・調査
⑦ 復興に対しての提言や要望・パブリックコメントにも参画
以上の内容を中心に、被災地や被災者の方々と向き合い知り得た実情と、肌身で感じとった課題を模索し提案しながら活動を行いました。
(現地での活動について)
震災から4カ月を迎える頃には、支援物資はある程度充実化しており、物資を保管してある倉庫を拝見させて頂くと、生活用品以外にもテレビ・洗濯機・冷蔵庫といった家電製品等も置いてありました。物資の配送に関しては、災害協定を締結している民間運送会社が配送を行い、手の届かないところは町内会長や自治会長を経由して配るなど、震災当初のように物資その物が行き届かない事はありません。
しかしこの頃になると、使用時期やニーズが異なり山積みに保管されたままの状態や、仮設住宅入居者には配給されない等の問題もでてきました。
とにかく全国から集まった善意を被災者の為、地域復興の為に有効活用して頂きたいものです。
さて、現地でのエピソードをご紹介させて頂きます。南三陸町には、幼稚園・保育所が計4ヶ所ありましたが、3ヶ所は被災に遭い、唯一高台にあった保育所に3つの施設の園児87名が集まり、保育士さんが力を合わせ運営されていました。
保育所を訪問した際、まずは物資の聞き取り調査を行いました。そこで、最もニーズが高かったのは子供用の長靴でした。現地では丁度梅雨入りの時期で、しかも整備されたアスファルトの道路は皆無の為、長靴は不可欠でした。大人用は比較的手に入りやすいのですが、子供用サイズはありません。
さっそく高知にいる応援隊の仲間に連絡し、子供用サイズの長靴を届けてもらうようにお願いをしました。
続いて、気仙沼市にある八幡太鼓ジュニアベストチームと申しまして、地元の小・中学生で構成されている全国トップクラスの実力を誇る和太鼓のチームです。実はこのチームが、今夏8月に中国北京で開催される国際児童親睦会に日本代表として招待される事が決まっていました。この大会は、世界19カ国のジュニア世代が集まる文化・芸術のビッグイベントです。しかし、気仙沼市はご承知の通り、宮城県内でも被害が甚大なところです。今回、大会で着用する衣裳が全て津波で流された事実を伺いました。そこで、東日本大震災支援フォーラム開催時に来場者の皆様から寄付して頂いた支援金を、衣裳代として使用して頂くよう贈呈して参りました。その際に是非、「宮城県・気仙沼の誇りとして日本をPRして来て下さい」と激励を送りました。衣裳(半被)には決して1人じゃないという意味を込め、高知応援隊で使用していた土佐人魂のロゴマークを付けて頂いております。
これから何十年という年月を掛け新しい街づくりに取り組んでいかなければならなりません。大人の中には途方に暮れ下を向いている方々も沢山います。そんな中次の時代を担う子供たちの眼差しは、しっかりと力強く前を見据えていました。まさに被災地で出会った希望そのものでした。
2カ月間の滞在中、こうしたボランティアの他に率先して自治体の震災復興計画に関わる話し合いや会議等に参加・傍聴させて頂きました。こうした場への回数を重ねるうちに、自治体の復旧作業に関して確信をした事があります。
被災地では被害の規模や地域の事情など、被災の影響は個々に違いはありますが、
それでも復旧のスピードや住民生活のフォローに差が付くのはなぜか?必要なのは、地域の団結力とそれら自治体を引っ張る行政と首長のリーダーシップです。
ひとつご紹介をさせて頂くと、岩沼市という人口約43,000人の自治体があります。ここは、宮城県南部の太平洋沿岸、仙台空港を抱える商工業都市であります。街の特筆すべきところは、住みやすさ・安全度・財政健全力・街の成長力をなどあらゆる指標で宮城県内でもトップクラスの自治体です。また、高知県南国市とも姉妹都市を結んでいます。ここは震災により、全壊住宅が705戸、半壊住宅が672戸、死者250名、沿岸部の農村を中心に壊滅的な被害を受けました。
津波による瓦礫の山々。国道や県道に散乱している瓦礫の中には、自動車など個人の所有物が存在します。これらは法律のもと個人資産と定められており、国の措置や特別な命令がなければ通常勝手に動かす事はできません。しかしまずは道路を確保しない事には復旧に取り掛かれません。
本来なら国の方針を待ってから対応を行うのですが、岩沼市の井口市長は震災4日後に自らの権限で撤去をはじめました。(他の自治体は国から許可が下りた震災14日後にはじめて撤去)また、土地や建物に掛かる固定資産税の免除や仮設住宅の建設についても、国が対応するよりもいち早く自らの権限で実行しました。また、青年海外協力協会(青年海外協力隊OB会)と業務提携を結び、お年寄りのお世話や街の見守りなどが行えるよう、市長独自で住民へのフォローを手掛けていました。
その逆で、復興への意欲や首長のリーダーシップが欠けているところは復旧のスピードが遅い事は勿論、細かなところまで手が届きません。
何を言いたいかと申しますと、こうした緊急時においては自治体をあずかる首長のリーダーシップの発揮如何によって、その後の住民生活に大きな差が生まれてくると言う事です。これは非常に重要な事だと改めて考えさせられました。
宮城県の村井嘉浩知事と面会させて頂いた際も、県のトップとしての強いリーダーシップと覚悟を感じました。
策定中である震災復興計画いわば新たな街づくりにおいて、様々な意見があると思いますが、住宅や公共施設の「高台移転」と職場と住居の場所を離す「職住分離」は、震災から県民の命を守る為に絶対に譲れないと語られておりました。
今回の震災で被害に遭われた方々の中には、1次産業に従事する方々も多くいらっしゃいました。特に、農業・漁業で生活を営む人々にとっては職場と住居がほぼ同じ圏内です。住みなれた環境から離れたくないという気持ちは誰もが持っていますし、誰しも生まれ育った土地は特別です。
今後、次の街づくりへ向けて協議を行う中で住民感情を含めて難しい判断や決断を迫られると思いますが、今回の震災から学んだ事を最大限に活かし復興計画の策定に取り組んで頂きたいと強く願います。
最後に私個人のお話しをさせて頂きます。現在、高知市議会や香南市議会をはじめとした方々からの視察依頼の相談を受けております。しかし、被災地への視察は全国から殺到しており、国の2次補正予算が付いた事もあり、現地自治体などは本格的な復旧作業に向けて多忙の最中であります。そうしたなか、2ヵ月間の滞在で培った現地とのパイプを活かし、最大限効果のある視察ができるよう調整のお手伝いをさせて頂いております。
高知県のように次の南海地震が予測される自治体の運営等に関わる方々が、現地の状況をしっかりと直視され、それぞれの機会で反映していただく事が大事だと思います。私も被災地での貴重な体験を活かし、次の南海地震に備える意味で、高知県をはじめ沿岸部の市町村に提案していきたいと思います。
結びになりますが、この2ヵ月間耳を疑うような体験ばかりでした。本当に言葉に表す事は難しい。テレビで報道されているのはごく一部の場面で、正直田舎ほどまったく手が付けられていない状況。
毎日瓦礫の中を歩いている子供がいて、避難所生活をしている高齢者の中には日に日に体調が悪くなっていく方がいる。
震災から半年経っても、こういった状況が放置されているのが現状です。
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