「今日が山です。」そう先生に言われてから、危篤状態で6日間父は頑張った。家族・父の姉・妹が交代で夜は付き添い、母はほぼ寝ていない日が続いたが弱音は吐かなかった。母が倒れるのではないかと思い、私と母と夜中二人で交代しながらみていたが、私は限界を感じていた。しかし、目の前で苦しそうに息をしている父は、人生のゴールを目指しているようで、母と「人生のフルマラソンを今走りきろうとしているから、応援せんとね」と話した。
仕事から帰って、微かな呼吸を聞くだけで安心したが、こんなに苦しんでいるのが続くのはかわいそうで複雑な気持ちが私の中にあった。
何だか明日が危ない気がすると思い、会社を休んで母と付き添った。以前見舞いに行った際、ギターを買ったばかりの私に、「清志郎(モンキーズ)のデイドリーム ビリーバーをやればいい」と言い、私も好きな曲だったのでそうするこにしたが、まだ全く弾けなかったので、音楽を流し大声で父に聞こえるよう歌った。今にも死にそうな病人に向かってすることではなかったかもしれないが、何だかそうせずにはいられなかった。
その日の昼に、往診に来ていた先生が脈があまりふれないと話し、今日がその日と言うことが何となく分かった。着替えをさせて体位交換をした時、顔を見ると目をぎゅっーと閉じていくのが見えた。母が「呼吸してない?」そう言うと看護師が帰ろうとしていた先生を呼び止め、急いで脈と瞳孔を確認した。
「ダメかもしれません」先生がそう言うと、「14時5分です」。
母と私は茫然とした。何だかあっけない。手を握り静かに息を引き取る、そんな最期を想像していたので、私は「何で?何で?」と呟き、母は「お父さん楽になったわ」と声をかけていた。
父はフルマラソンのゴールテープを静かにきった。無念でもその生涯を最後まで生き抜く姿を私たちに見せてくれた。
通夜には、父が本当は会いたかった人たちがきてくれれば、喜ぶのではないかと思い、何人かに連絡すると他の友人にも声かけると言ってくれた。自然卵養鶏会でともに過ごした同志や大学の友だち、消費者の方々等々集まってくれた。宮崎県から夜、車を飛ばして駆けつけてくれた人もいた。そのまま帰って夜勤だとおっしゃっており、気の毒だったが、父は本当に喜んだことだろう。
養鶏をやめて2週間経てば、みんな自分を忘れるだろう。
そんな風にブログに綴っていた父だが、馬鹿だなと思う。こんなに父を思ってくれている人がいたのに、勝手に一人になったような気になって。
棺には、原稿用紙と鉛筆、アンデスの楽器、ラニングのユニフォーム・シューズ、星野道夫さんの本、チェ・ゲバラのTシャツ、鷹の写真、ゆず、そして大好きだったカーネーションで埋めつくした。あの世があるのなら、好きなことを存分にして楽しいんで欲しい。そんな思いだった。
父は何者かになりたかった人だと私は思う。その想いが一番強かったのが、作家だったのではないだろうか。あまり色んなことが長続きする人ではなかったが、文章を書く事だけは続けていた。作家になれたのかは私には分からないが、信念を貫き通した養鶏家、そして愛妻家だったことは間違いないだろう。
インタビュアー:「この完走を誰に伝えたいですか?」
熊さん:「最期まで、支えてくれ応援し続けてくれた、愛する妻に感謝の気持ちを伝えたいです。 今まで苦楽をともにしてくれて、本当にありがとう。」
父なら最後はそんな風に話すのではないだろうか。

アディオス・アミーゴ!!