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熊さんのトリ小屋通信

800羽のトリを飼いながら自給自足の農業をつづけている農家の日々の思いを綴ったもの

完走~信念を貫き通して~ その2

2016-09-19 18:12:51 | エコ
 

 「今日が山です。」そう先生に言われてから、危篤状態で6日間父は頑張った。家族・父の姉・妹が交代で夜は付き添い、母はほぼ寝ていない日が続いたが弱音は吐かなかった。母が倒れるのではないかと思い、私と母と夜中二人で交代しながらみていたが、私は限界を感じていた。しかし、目の前で苦しそうに息をしている父は、人生のゴールを目指しているようで、母と「人生のフルマラソンを今走りきろうとしているから、応援せんとね」と話した。
 仕事から帰って、微かな呼吸を聞くだけで安心したが、こんなに苦しんでいるのが続くのはかわいそうで複雑な気持ちが私の中にあった。
 何だか明日が危ない気がすると思い、会社を休んで母と付き添った。以前見舞いに行った際、ギターを買ったばかりの私に、「清志郎(モンキーズ)のデイドリーム ビリーバーをやればいい」と言い、私も好きな曲だったのでそうするこにしたが、まだ全く弾けなかったので、音楽を流し大声で父に聞こえるよう歌った。今にも死にそうな病人に向かってすることではなかったかもしれないが、何だかそうせずにはいられなかった。
 その日の昼に、往診に来ていた先生が脈があまりふれないと話し、今日がその日と言うことが何となく分かった。着替えをさせて体位交換をした時、顔を見ると目をぎゅっーと閉じていくのが見えた。母が「呼吸してない?」そう言うと看護師が帰ろうとしていた先生を呼び止め、急いで脈と瞳孔を確認した。
 「ダメかもしれません」先生がそう言うと、「14時5分です」。
 母と私は茫然とした。何だかあっけない。手を握り静かに息を引き取る、そんな最期を想像していたので、私は「何で?何で?」と呟き、母は「お父さん楽になったわ」と声をかけていた。
 父はフルマラソンのゴールテープを静かにきった。無念でもその生涯を最後まで生き抜く姿を私たちに見せてくれた。

 通夜には、父が本当は会いたかった人たちがきてくれれば、喜ぶのではないかと思い、何人かに連絡すると他の友人にも声かけると言ってくれた。自然卵養鶏会でともに過ごした同志や大学の友だち、消費者の方々等々集まってくれた。宮崎県から夜、車を飛ばして駆けつけてくれた人もいた。そのまま帰って夜勤だとおっしゃっており、気の毒だったが、父は本当に喜んだことだろう。
 養鶏をやめて2週間経てば、みんな自分を忘れるだろう。
 そんな風にブログに綴っていた父だが、馬鹿だなと思う。こんなに父を思ってくれている人がいたのに、勝手に一人になったような気になって。

 棺には、原稿用紙と鉛筆、アンデスの楽器、ラニングのユニフォーム・シューズ、星野道夫さんの本、チェ・ゲバラのTシャツ、鷹の写真、ゆず、そして大好きだったカーネーションで埋めつくした。あの世があるのなら、好きなことを存分にして楽しいんで欲しい。そんな思いだった。


 
 父は何者かになりたかった人だと私は思う。その想いが一番強かったのが、作家だったのではないだろうか。あまり色んなことが長続きする人ではなかったが、文章を書く事だけは続けていた。作家になれたのかは私には分からないが、信念を貫き通した養鶏家、そして愛妻家だったことは間違いないだろう。
 
 
インタビュアー:「この完走を誰に伝えたいですか?」
    熊さん:「最期まで、支えてくれ応援し続けてくれた、愛する妻に感謝の気持ちを伝えたいです。 今まで苦楽をともにしてくれて、本当にありがとう。」

 
 父なら最後はそんな風に話すのではないだろうか。






                       
                                                                          アディオス・アミーゴ!!

完走~信念を貫き通して~ その1

2016-09-18 22:27:49 | エコ



インタビュアー:「完走した今のお気持ちは?」

    熊さん:「いや~きつかったですね、特に最後の坂なんか必死で走りましたよ。」

 父は、人生のフルマラソンを走り終え、天国に逝ってしまった。
 どれだけの人が、このブログを読んでいるかは分からない。そんなに読んでいる人はいなかったかもしれない。(私も母も兄もほとんど読んだことはない。)
 アディオス・アミーゴと締めくくった最期のブログだったが、ずっと文章を書くことにこだわった父の為に、勝手に娘の私が父のことについて少し長くなるが書こうと思う。
 
 食道癌を宣告され3か月間、本当に苦しい日々だったと思う。最後まで希望を捨てず必死にもがき、苦しみ生き抜いた。
 時には孤独を感じ、親しい人とも距離を置いた。私は「家族も一緒に頑張るし、お父さんの友達も心配している」と伝えたが、あまり父には届いていないようだった。
 それほど、追い詰められていたのだ。
 やりたい事がたくさんあるのに自分の体は癌に侵され、いつまで持つか分からない突破口のない日々は私たちの想像を遥かに超えて、本当に苦しかっただろう。
 趣味も執筆、カメラ、俳句、マラソン、自転車、登山、ジャンベ等多く、また、政治や歴史、地理といろんな事に詳しく、その知識の多さには
驚かされる。大抵のことは父に聞くと教えてくれた。今となっては、もっと色んな事を聞いておけばよかったが、こんなに早く最期の日が来るとは、思ってもみなかった。
 
 父は、小さな村で初めて大学に進み、両親は教師になると思い自慢の息子だったそうだ。しかし、あっさり期待を裏切り普通の会社員となった。
 その後、農文協という雑誌の営業で日本各地を回った。しかし、我が強く人のもとで働くことが嫌になったのか、兄が生まれてすぐに地元に帰ることにしたそうだ。
 内心母は、「これからどうなるのだろう」と不安だったに違いないが、「何かあれば、私が看護師としてまた勤めに出るから。」と後押しし、母も看護師を辞めて大分で養鶏を始めることになった。貧しいいや、質素な生活でも一代で築き上げた養鶏家としての実績は誇りだったのではないだろうか。実際に幼い頃、貧しさを感じた記憶はない。父も母もそれを感じさせなかった。おもちゃが沢山家にあったわけではないが、特に欲しいとも思わなかった。自然の中で遊ぶ楽しさを生活の中で、二人から教えてもらった。
 それでも、生き物を飼っているので長い旅行には出られなかった。母の実家は広島の小さな島で、父は30年以上帰っていなかった。配達のない日でも、草刈りや畑に植えものしたり薪を割ったりと、休もうとしなかった。
「養鶏辞めたら、ヨーロッパ旅行したいなぁ。やっぱりスペインがいいなぁ。」そんな事を母に話していた。ヨーロッパ旅行は無理でも、北海道旅行くらいなら、二人にプレゼントしようと思っていたが、それも叶わなかった。
「親孝行したい時に親はなし」、「いつまでもあると思うな親と金」。なぜかいつも父は口癖のようにその言葉を呟いていた。若くして倒れた祖父や去年亡くなった祖母を思い、口にしていたのかもしれない。
 しかし今、痛いほどその言葉が身に染みる。
 「ほかの人は、孫がおるから死ねんと言うけど、うちはいないからなぁ。」
 結局兄も、私もその夢は叶えてあげられなかった。

 病院に入院している時は、会社の帰りに見舞いに行き、1時間以上二人で話しをした。最初は行くたびに、「そんに来なくていい」と言っていたが、だんだん言わなくなった。私が帰った後はいつも母に電話していたようだった。新聞を見ながら二人であれこれ話し、リオ・オリンピック開催中は、ウサイン・ボルトが連覇したことを笑顔で心から喜んでいた。400mリレーで日本チームが銀メダルをとった時は、体がきつそうだったが、「いいもの見たな」とまた喜んだ。
 抗がん剤により肝臓も悪くなり、腹水が父の体を苦しめる日々が続く。結局癌の治療はほとんどできず、自宅療養するように医師に言われ、帰りの車の中で「あっさり治療を辞めたな」と母に話したそうだが、見捨てられたような気持で、やりきれなく悔しかったに違いない。病院での治療ができないなら自宅で過ごしたいと希望した為、帰ってからは母が自然療法でビワの葉を腹部に貼ったり、豆腐パスタを頭に貼ったりして熱をとった。点滴は昔から卵を買ってくれていた町医者に往診をお願いした。
 それでも痛みが日に日に強くなり、薬の量も増え言動も不安定になり、会話が難しくなった。それでも最後まで家で看取りたいと母の決意は固かった。
 ある日母が、鶏の餌をやり終え家に戻ると、食卓の椅子に父は座り、ペンを握って机に何か書いてた。立って歩く事が出来なくなっていたので、這って来たのだろう。母が紙を差し出して、「これに書きよ」というと、「わしゃ、もう書けん。お前が書け」と言ってまた部屋に戻った。意識がはっきりとしない中でも、まだまだ何か書きたかったのだろう。
 亡くなった次の日の朝まで誰も気づかなかったが、食卓に何か書かれているのを母が見つけた。ボールペンでかかれたその文書は何と書いているか読み取れなかったが、父の執念の一筆を家族で静かに眺めた。

はじめまして

朝日新聞、大分版で5年続いた「熊さんトリ小屋通信」は2008年3月で終わりました。1年の空白がありましたが、再びブログで再開します。ごぶさたしました。そして、始めまして。 私たち夫婦は相変わらず半島の片隅で800羽のトリと少しばかりの田畑を耕しています。二人の子供たちも家から仕事場に通っていて変化はありません。たった一つ変ったことと言えば、毛嫌いしていたパソコンの練習を私が始めたことぐらいでしょうか。  もともと都会に背を向けて生きてきておりますから「100年に1度の金融危機」には関係が無く(万年不景気と言えばそれまでですが…)、住む家と食べ物があり、自分の仕事があります。今更ながら、農家であることに感謝する毎日です。 あ~、重大なことを忘れていました。トリ小屋を守ってくれていた愛犬トランクスが2009年2月17日に亡くなりました。14歳と6か月私たちと暮らしました。動物でも人間でも命の重さに変わりはありません。一時は、立っても涙、座っても涙でした。あ~してやればよかった、こ~してやればよかったと反省の連続です。私が貰ってきた犬ですから、トリ飼いをしているのが見える場所に私が丁寧に埋めてやりました。彼は生きてそこに眠っていると思うことにしています。朝晩、「トラ君元気か」呼びかけています。(返事はしませんが…) 養鶏を取り巻く状況は1年前と少しも変わっていません。鳥インフルエンザの原因はいまだ不明だし、幾らか下がったとはいえエサ代は高騰したままです。燃料のガソリンも高止まりしています。世の中でもっとも悲惨な職業それは養鶏業だということは今も変わりません。  良寛は「死ぬ時に死ぬがよろし」と述べています。そこまでの「悟り」には至りませんが、自分で始めた仕事ですから、何かがあったとしても誰を恨むものではなく、自業自得と受け入れようと考えています。ありがたいことに日々の忙しさは全ての悩みを忘れさせてくれるのです。 「行けるところまで行こう」と始めた養鶏ももうすぐ30年になろうとしています。これから始めるブログは私と妻が日々の暮らし、その中で考えた思いを拙い言葉で綴ったものです。しばらくのお付き合いを…