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熊さんのトリ小屋通信

800羽のトリを飼いながら自給自足の農業をつづけている農家の日々の思いを綴ったもの

「一生を二足の革靴で~」

2014-07-29 22:24:31 | エコ

 田舎に就農した時一番驚いたのは村民の服装であった。作業時はともかく、お祭りの祭典に着て来る服装に驚いた。ズボンの膝はつるつるてんで飛び出していて、色違いの上着は、よれよれでズボンと織りは異なっていた。縮んだ体には上着は大きすぎ、ひきつって見えた。まるでチャップリンのいでたちである。
 金が無いわけではなかった。隣りが農機具を買えば、1段大きい農機具を買う。カネのあるはずの奴がこんなみすぼらしい恰好をしているのが理解できなかった。
  30年が過ぎてやっと理解できた。「着て行くところが無い」のである。冠婚葬祭(冠婚はほとんどないが・・・)は礼服で足りる。ネクタイを換えるだけでどちらにも行ける。こんな便利なものはない。当然、スーツを着る機会はない。役場に転作の届けに行くのにネクタイはおかしい。農協に小銭の貯金に行くのにブランド物スーツも恥ずかしい。会議もなければパーティーもない。
 息子が県庁に入った時、「2着めは半額」というコマーシャルに乗せられて私もスーツを買ったが、どこかの節句に一度着ただけ。10年に1度だけで、今どこにあるのか分からない。
 スーツを着ないのだから、サラリーマン時代、トレンチコートと取り換えたお気に入りのコートなど出番はない。革靴の出番もなかった。
 ある日、葬儀に出掛けようと履いた革靴の裏に穴が開いていた。「晴れでよかった」と妻に告げた。次の葬儀の時、反対側の靴にも同じところに穴を発見。幸運にも、その日も晴れであった。斎場に着いて知り合いの後を歩くと靴の裏が見える。「まずい。歩くと穴が見えるのだ」・・・。焼香の時も足の裏を見られないように歩き方に注意していたら戻ってくる人にぶつかった。
  妻に事の次第を話すと「お父さん、スリ足で歩きよ!」と言う。ちんまいおいさんが式場で忍者歩きをしていると香典泥棒に間違えられる?
 複合商業施設の隅に靴の修理屋があることを思い出した。電話すると「どんな靴ですか?」と問う。「40年ほど前のリーガルだと答える。「たぶん、修繕は無理でしょうけど、一度見せてください」と言う。高いことを言うなら断るつもりであった。行く前に、いまの市販されている靴の値踏みをしておいた。安いものなら5千円。普通のものなら1万4~五〇〇〇円。ちょいと良いものは二万4~五〇〇〇円した。どれも先が尖っていて奇天烈な恰好であった。相手の腹にケリを入れるのに便利なようにデザインされているのかもしれなかった。
 高校に入る時に親父が初めての革靴を買ってくれた。大学は草履と下駄で事足りた。水道機器の会社の何回目かのボーナスでこの革靴を買った。生涯で2番目の革靴である。
 修繕屋の兄ちゃんは私の革靴をしげしげと眺めた。「かっこいい靴ですね。こんな壊れ方をするのはいい靴の証拠です。いまの新作リーガルにはこれほどの靴はありません。私なら迷わず修理します」と言う。私はにいちゃんの意見にことさら感心した。40年も連れ添ってきたのに、底が破れただけの革靴を捨てようとした自分を恥じた。1万円ちょいの修繕費は安くはなかったが、二人の子供が「父の日に・・・」とくれた大2枚がサイフに残っている。年齢を考えると、革靴を履ける時間はそう長くもない。今更革靴の新品もないだろう。残された人生、この靴を履き続けたいと思っている。                          F HOTO  「ゆうすげ」in 九重高原     


「何処かに神が・・・」

2014-07-26 07:19:15 | エコ

 神様は確かにいて、土用の丑の日にウナギを買えない貧乏人を無慈悲に見捨てることはなかった・・・・。
 なんと前日に浸けたウナギ籠に1匹のウナギが入っていた。上から覗くと小物に見えたのだが、帰って開けると思いの他良い型だった。
 早速さばいて冷蔵庫に・・・。配達先のお客さんにこの話をすると、「わぁ~天然ウナギ。でもウナギをさばけるんですか?」と質問された。冗談ではない。ウナギをさばくほど簡単なことはない。
 親父はウナギ釣りの達人であった。夏は田んぼの水回りを終えると毎日ウナギ釣りに出かけた。この界隈では某と並んでウナギ釣りの2大名人と称されていた。親父に連れられて、私も某と同行し、その技を見たこともある。
 帰った親父は取ったウナギの頭を錐で刺し、鮮やかにさばいていった。この錐を押さえているのが私の役目なのである。その私に「さばけますか?」などと聞くのは笑止千万。
 小学校の低学年のころは、夏休みになると子どもたちは川で魚取りをした。時にウナギを捕まえることもあったが、所詮遊びである。高学年になると親父は私をウナギ釣りに連れて行った。親父の釣り技術は日々改良されていたが、惜しげもなく私にその神髄を教受した。ある時、隣町の川で(今では3方コンクリートになってウナギはいない!)13匹釣ったことがあったが、そのうちの4匹は私が釣ったものである。  それから、それから、私は都会人のはしくれとなってウナギ漁から遠ざかっていた。
 帰農してからも穴釣り(親父の釣り方)をする余裕はなかったが、養殖ウナギを食う気もなかった。誰かからもらったウナギ籠は十数年家の飾りになっていた。「飾りじゃないのよ涙は~」という歌があった。道具は使われて何ぼである。農業の先輩に籠の浸け方を聞いていたので、棕櫚の皮を入れて、餌のミミズを投入した。水の集まったところにしっかりと固定した。翌朝行くと運の悪いウナギが入っていたわけである。初めての実験がホームランと出た。
 親父は77歳でこの世を去った。もう一人の名人は元気だがウナギ釣りは止めた。この二人がウナギ釣りをやめたのだから、このあたりの膨大な数のウナギの命が救われたはずである。それが希少生物に指定されたのはコンクリートの護岸に責任がある。 
 当時の私は知る由もなかったのだが、もう一人の名人は弁護士崩れの「やくざ弁護人?」であった。私がゴルフ場問題で苦境に立った時、彼はド迫力の大立ち回りを演じて私を救ってくれた。この時ほど人間の本当のすごさを感じたことはなかった。独学で法律をものにし、「実践」で鍛えた度胸は、学校で習って国家資格に安住する弁護士などが歯の立つ相手ではない。私はウナギの縁に救われた!
 一度で味をしめた私は次の獲物を探して籠をつけることにした。今年の夏は天然ウナギで乗り切ろうと思う。 

Fhoto 「老人クラブが休耕田を借りてひまわり、その意気やよし」


「ひぐらしの声を聞く、そのひぐらしの私」

2014-07-17 20:14:34 | エコ

 7月の夕暮は遅い。6時まで働き、6時半に夕食を終えても外はまだ明るい。お湯割りの焼酎を抱え一人戸外に出る。家の前を狭い道路が下がっていて、正面は杉林。道路に座るとコンクリートは昼の太陽の熱ををとどめていて少しだけ暖かい。焼酎を一口。
 空に浮かぶ千切れ雲には「簡単には終わらないぞ」という梅雨の末期の意地が感じられた。「あんたがどんなに粘っても太平洋高気圧には(若い者にゃあ)勝てない。若いものに道を譲りなさい」と私。
 家を囲んだ周囲の山から息つく間もないほどのひぐらしの声。 前で鳴き、後ろでも鳴く。あちらの山からこちらの山まで「カナカナカナ~」。焼酎を一口・・・。
 ついに住宅ローンを繰り上げ払いし終えた。「65歳で払い終える」、それだけを楽しみにに生きてきた。ところが、ある日、これに付随した特約火災保険の連絡に31年のなんとか云々。特約保険だけが31年のはずはなかった。銀行で確認すると、私のローンの完済予定日は5年後の平成31年であった。愕然とした。あと2キロの距離を錯覚した駅伝の監督は「あと1キロだ。ラストスパートをかけろ!飛ばせ」と怒鳴る。選手は1キロを死に物狂いで頑張る。1キロ走ったが中継点は来ない。一呼吸置いて「あと1キロだ」と監督がつぶやく・・・(実話)そんな状況である。
 550万借りて、20年払ったのに残金はまだ200万。これから下がるとはいえ、毎月32000円払ったうちの6000円は利息だという。今日、1億円貯金しても月に6千円の利子は付かない。(してないから確かなことは分からないのだが・・・) 妻が「自分のカネも出すから繰り上げ償還をしょう」と言うので貯めた年金を全額出して繰り上げ償還することに決めた。蓄えが減るのは心配だが年金はまたくれる。
 完済したのは7月14日。フランス革命の日である。ジャコバン党を支持するロベスピエールはルイ16世をギロチンにかけ、国を裏切り、 庶民を冷たくあしらったマリー・アントアネットは引き回しの上獄門に送った。しかし、過激な革命を恐れた国民は反動に転じる。ナポレオンが台頭し、王政復古があって、市民(ブルジョア)革命の実現は80年の歳月を必要とした・・・。
 払い終わった銀行員に「奇しくも今日はフランス革命の日である。しかし、自由、平等、友愛という革命の主張は日本では未だ成就されていない。住宅公庫の借金は返したのでもうすることはない。ワシの残りの人生はこれに費やす」と伝えた。「革命を起こすのですか?」と行員が聞くので「その通り!」。
  「老前整理は終わった・・・。いつでも野で死ねる・・・」、飲み終わったコップを抱え、私は静かに立ち上がった。8月になると隣町の花火がこの位置から見える。激しい音と遠花火。待ち遠しい。

                   Fhoto 「濡れ落ち葉?」


「奇跡が起きたⅢ」

2014-07-11 20:28:35 | エコ

 5日前の天気図では台風8号は国東半島のど真ん中を通過する予測になっていた。幾らか幅はあったが絶体絶命。930ヘクトパスカルという巨大さに加えて暴風域も広かった。屋根のトタンは四方八方に飛び、鶏舎はもんどりうって倒れるのは間違いがなかった。
 これまで,鳥小屋の屋根は2回飛んだ。1回目は夜間だったからよかったが2回目の時は日中であった。釘の抜けた屋根は途中まで吹きあがってはまたバタンと落ちた。その度、「ああ~、飛ぶ~。ああ~、飛ぶ~」と夫婦は雄たけびを繰り返した。最後に「バタン」と屋根は裏返った。二人とも心臓は極限状態に陥った。心肺停止にならなかったのは奇跡だったと思う。
 折れたトタンを集め、使えるものは再利用、足りないものは近くの建材屋に走った。しめて30数万円。2つ年下の建材屋の亭主は卸値で渡してくれた。曰く、「あんた達は、かわいそうで見ちゃ~おれん」と言ったのである。それから1カ月半、私は「屋根の上のバイオリン弾き」ならぬ、「屋根の上のトタン打ち」になった。
 今回、予定どうり台風が来ていたらあの時の二の舞になることは間違いなかった。大きさから想像するとあの時よりひどい結果が待ち受けている。台風が沖縄の南にいるうちから心臓が痛くなった。お客さんには「これまで屋根は2回飛びました。夫婦で話した結果、3回目は修繕しないでたたむと決めています。建材は高くなり、屋根組みの材料も傷んでいます。私の体の土台も以前のものではありません。60万円も70万円もかけて修繕しても取り返せないので、もう来週は来れないかもしれません。私たちの事を忘れないでください。どうかご無事で」と申し上げたのでした・・・。
 スーパーコンピューターの台風予想は外れた。私たちはまた生き延びた。(死にそこなった!) 不思議なことに今回を含め、この10有年は幸運が続いてきた。 こちらに向かっていた台風は途中で逸れる、急に勢力が落ちてしまう・・・、そんなことが続いてきたのだ。 これを「偶然」や「幸運」と呼ぶのには無理がある。誰かがわたしたちを生かし続けたいらしい。・・・天の命に従うことにする。
 「気候という、時には気まぐれもおこす、大いなるもの、豊かなるもの、ありがたきものを相手にし~略、太陽と土と水の恵みに感謝し、時に自然が不機嫌な顔を見せても、妻のヒステリーに耐えるが如く運命と考えて泰然と耐え忍ぶ。そして収穫の季節が来たとき、~略、満ち足りて眠り、幸せを感じ、陽が上がれば又同じ繰り返しを生きる。本来日本人の暮らしというものは、恵まれた四季に依存したそういう循環ではなかったか」(中島正著「都市を滅ぼせ」 双葉社刊より 倉本 聰の特別寄稿)から。

 (註)長らく絶版になっていた「年を滅ぼせ」は倉本の推薦もあり、この度双葉社から再販された。私には師匠から1冊謹呈された     Fhoto  「七夕の願いが通じたか」  


「レ、ミゼラブル~鎖を引いて・・・」

2014-07-07 21:14:08 | エコ

 朝から鎖(チェ~ン)を引いている。飢えた妹を助けるために人さまのパンに手をつけたわけではなく、アフリカからの奴隷でもない。田の草を取っているのである。
 「奇跡のリンゴ」の木村秋則さんが昨年、アウトドア雑誌の「Be-PaL」に除草法を6回にわたって連載した。私はこのての人を信用しないが、その執筆を受け持った 板井 拓冶氏の文章に惚れて実践してみる気になった。
 「どこかに読める文章を書く奴はいないか?何処かに面白い文章はないか?」と探してきたが、この方の誠実な態度、謙虚な文章には賛辞を惜しまない。どんな人なのか、何をしてきた人なのか知らないのだが・・・。
 「田植えをしてから一週間ごとに4回鎖を引け」と言うのが木村の「教え」である。しかし、楽な作業ではない。最初、苗を倒さないように後ろ向きに歩きながら鎖を引いた。ところが、還暦を過ぎたとはいえ、「福岡マラソン」にエントリーしている現役のマラソンランナーの私であっても、1反分を後ろ歩きするのは耐え難かった。よろけては隣のイネを踏みつけ、最後には泥田の中にこけてしまう始末。わが身のあまりの惨めさに天を仰いで「おい~、おい」と泣きだした。「去年までの中耕除草機とどちらが楽か」と問われても答えようがなかった。
 泣いて草がなくなるわけではない。私はヨロヨロと立ちあがった。周囲を見回し、私の哀れな姿を誰も見ていないことに安どのため息をした。我が田に草が生えるのは北の策略でもなければ閣議決定で憲法解釈を変える政権与党のせいでもない。不始末は自分で片付けるしかない。誰も助けてはくれないのだ。
 どんな愚か者でも知恵はつく。2回を終えて3回にかかるあたりで少しだけ馴れた。重い鎖にすると、土は反転し、畝間に草は見えなくなった。こんなご時世に一人鎖を引いている自分の姿がいとおしくなった。が、それはつかの間の幸せだった。
 4回目に入ろうとしたら、田は草だらけだった。これまでの3回はなかったかのようだ。信じた私がバカだった・・・。木村の家に報復に行きたいけど秋田までの旅費がない?とりあえず例年通り秘密兵器で始末するしかない。
 倉庫から熊手を取り出した。それで草の多いところだけはひっ掻いた。さらに4回目の「引き」を敢行した。結果はどうなるか予測はつかなかったが、今年の草取りはこれまでとし、あとは見なかったことにする。
 効果が無かったわけではない。作業も幾らか楽だった。もう少しの工夫は必要だ。来年へ~。

                      Fhoto 「無農薬トマトの収穫」

 

 


はじめまして

朝日新聞、大分版で5年続いた「熊さんトリ小屋通信」は2008年3月で終わりました。1年の空白がありましたが、再びブログで再開します。ごぶさたしました。そして、始めまして。 私たち夫婦は相変わらず半島の片隅で800羽のトリと少しばかりの田畑を耕しています。二人の子供たちも家から仕事場に通っていて変化はありません。たった一つ変ったことと言えば、毛嫌いしていたパソコンの練習を私が始めたことぐらいでしょうか。  もともと都会に背を向けて生きてきておりますから「100年に1度の金融危機」には関係が無く(万年不景気と言えばそれまでですが…)、住む家と食べ物があり、自分の仕事があります。今更ながら、農家であることに感謝する毎日です。 あ~、重大なことを忘れていました。トリ小屋を守ってくれていた愛犬トランクスが2009年2月17日に亡くなりました。14歳と6か月私たちと暮らしました。動物でも人間でも命の重さに変わりはありません。一時は、立っても涙、座っても涙でした。あ~してやればよかった、こ~してやればよかったと反省の連続です。私が貰ってきた犬ですから、トリ飼いをしているのが見える場所に私が丁寧に埋めてやりました。彼は生きてそこに眠っていると思うことにしています。朝晩、「トラ君元気か」呼びかけています。(返事はしませんが…) 養鶏を取り巻く状況は1年前と少しも変わっていません。鳥インフルエンザの原因はいまだ不明だし、幾らか下がったとはいえエサ代は高騰したままです。燃料のガソリンも高止まりしています。世の中でもっとも悲惨な職業それは養鶏業だということは今も変わりません。  良寛は「死ぬ時に死ぬがよろし」と述べています。そこまでの「悟り」には至りませんが、自分で始めた仕事ですから、何かがあったとしても誰を恨むものではなく、自業自得と受け入れようと考えています。ありがたいことに日々の忙しさは全ての悩みを忘れさせてくれるのです。 「行けるところまで行こう」と始めた養鶏ももうすぐ30年になろうとしています。これから始めるブログは私と妻が日々の暮らし、その中で考えた思いを拙い言葉で綴ったものです。しばらくのお付き合いを…