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熊さんのトリ小屋通信

800羽のトリを飼いながら自給自足の農業をつづけている農家の日々の思いを綴ったもの

「認知行動療法」

2014-01-27 21:30:45 | エコ

この市の春の風物詩、市内一周駅伝が終わった。私も40代のところを走った。もとより、こんな競争大会に出る気はなかったのだが、40代に欠員が出て「補欠のあんたにお願いします!」ということになったらしい。監督に「ジョギングでいい。なんとかつないでもらいたい」と頼まれた。思想信条に触れることでなければ頼まれたら断らないことにしている。
 40代とは20歳以上離れている。去年は20代のところを走らされた。前のメンバーが奮闘してケツから7~8番目でタスキを受けたが、私は彼らの頑張りを帳消しにした。今年の40代も強敵である。しかし、わたしにはプレッシャーはなかった。いま流行りの認知行動療法を学んでいるからだ。プレッシャーやストレスを克服するには、前もって最悪の事態に対処すればいい。どんな結果に襲われてもそれ以下にはならないのである。
 たとえば、一人だけ遅れる。そんなみじめな状態になっても、街頭で応援する人たちは石を投げつけることはないだろう。卵の売り上げに影響することもないだろう。合併してはいるが、元は隣町。私を知る人がいるとは思えない。むしろ、応援を(同情混じりだが)一人占めできる。遅れてつないでも、仲間には、「あんたのおかげでゲームが出来た」と感謝されるだろう。もし、途中で倒れてタスキをつなげなくても、「あんたに頼んだおれたちがバカだった」と役員は反省するに違いない。私は引き受けた。
 早い組が何人か通過した。「次の選手が来たら一斉にスタートします」と係員に告げられた。言われたように次の選手と残ったわれわれは一斉にスタートした。が、スタートダッシュで出遅れた。何処まで行っても離される。「走れコウタロー」状態である。一人だけ遅れた。応援されるのは恥ずかしかったが耐えた。長い登り坂をひたすら登った。応援?する声が聞こえたが地面ばかりを見ていた。「ここから加速する」と決めていた地点に届いたがそんな情況にはなかった。
 下りになった。残りは300メーター。ほんの少しだけギアを切り替えた。なんとか選手らしくなった。遠くに次の走者の中学生が見えた。あまりに私が来ないのであくびをしていた。私は加速した?なんとかタスキだけはつないだ。
 飲み会に行くと、大きな拍手で迎えられた。「申し訳ない。走れコウタロウーになった」と告げた。誰かが「でも、最後にコウタロウーは勝つんでしょう?」と言う。「最後に騎手を振り落とし、ゲームを台無しにするんだ」と私は応答した。
 そう、風物詩なのは駅伝大会ではなく、私が若者に交じって力走する姿なのである。「あ~、大熊さんが来た。今年の駅伝も終わった。いよいよ春が来た」と人々は納得するのである。
 放置していた藁の処分をしている。稲作りが楽しいと思っている人もいるだろう。私は違う。嫌で嫌で仕方ない。どんな認知行動療法をすればいいのだろうか?

 

                         Fhoto   「春の予感」

 

 


「雑感十五~一両が見たい」

2014-01-13 18:52:51 | エコ

 〇もの皆枯れた寒の時期、赤い実のなる木があると嬉しい。こに時期赤いのはナンテン、トキワサンザシ、モチの木、オモト、センリョウ、マンリョウか。センリョウとマンリョウの区別がつかない人がいるらしい。この二つは、まったくの別物であり、間違うことはあり得ない。センリョウはセンリョウ科センリョウ属、マンリョウはヤブコウジ科ヤブコウジ属である。見た目も違う。マンリョウは30~40センチ。椰子のように生えた葉っぱの下に何本かの花茎が出て大豆ぐらいの赤い実をつける。センリョウは小さな切れ目の入った葉の上側に小豆粒ほどの実をつける。背丈も1メートル程になる。
 そんなことをお客さんと話していると「イチリョウという木があるらしいですね。ヒャクリョウは知っているけど・・・」と言う。私はヒャクリョウも見たことはなかった。
 ところが、ある日、ホームセンターでヒャクリョウを見る機会に恵まれた。一見マンリョウなのだが、実の下に葉が生えている。まさに、センリョウとマンリョウノ中間なのである。(中間は五千両だが・・・) もともとあった品種なのか、誰かが育種したものなのか。とにかく笑える。こうなると、イチリョウがどんなものかを見極めないと死んでも死にきれない。
 〇遊歩道を歩いていた。道路に何か落ちている。ミカンである。ガードレールに近づいてみると、二箱のミカンが道路に散乱していた。一部は潰れていた・・・。
 このミカンを見ているのは私だけではなかった。男2人も見ていた。フラフラと近づいた年配の方はガードレールを乗り越えた。ミカンを拾う気らしい。「やめろ!」と私は叫んだ。高速道路では、止まっている車と人が何度も被害にあっている。「おい、やめさせろ。車に引かれて死ぬ」と若い方に叫んだ。伝えている最中にも右へ左へ車がミカン箱を避けて飛ばしていく。「やめよ。もうミカンは戻らない」と若い男が叫んだ。オヤジは渋々諦めて歩道に戻った。「道路維持課に知らせれば済む」と私は教えた。以前、息子が県職のその課にいた。
 歩き終えて戻ったら2人はいなかった。ミカンはそのまま放置されていた。別府方面からパトカーがやってきた。赤色灯をつけたままミカンの前で止まった。警官2人が降りてきてミカンを拾い始めた。私も手伝った。警官は「ありがとうございます。でも、けっこうですから・・・」と言う。立派なミカンだった。親父はミカンが欲しかったのか、みんなに迷惑をかけたくなかったのか。その両方だったのかもしれない。いずれにしても、その場を離れ(逃げて?)、罪を問われなくてよかった。ミカンの値が安いうえに罪まで問われたのではやりきれない?
 〇7日は七草がゆ。隣の市では、「農家が七草の出荷に余念がない」と報道されていた。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ。スズナ、スズシロ。昔、本当にこれをたべていたのだろうか?ナズナはにおいがする。ゴギョウ(ハハコグサ)はパサパサしている。ホトケノザは臭くて鼻が曲がる。私は雑草を餌にやっているが、ホトケノザだけは避けている。こんな匂いが卵に移ってしまったら大変である。さらに、正月7日にセリはない。たぶん、昔は旧暦の7日だったのだろう。出荷されているセリはハウスものである。七草は買うものではなく、春の野に出て「わが衣手に 雪は降りつつ」摘むものである。出荷して儲けている農家を攻撃する気は毛頭ないが、ハウスもので季節を感じる都会人の愚かさよ!
         Fhoto  「ヒャクリョウ」


「雑感十四~それぞれの子供たち」

2014-01-08 22:26:48 | エコ

 ある新聞に「20円~30円の卵が高いですか?」という投書が載った。養鶏業を家業としてきた夫婦の子供さんからの投書である。盆も正月も、土日も祭日もなく、家族を支えるために日夜働いたご両親。子供たちも学校が終わると採卵を手伝ったという。しかし、作れば作るほど卵は安くなる。利益を確保しょうとしてさらに規模を拡大する。卵はさらに安くなる。イタチごっこである。ついに力尽き、一昨年、40年続けた養鶏業を廃業したという。「20~30円の卵は高いですか?」と読者に問いかけている。「鶏を平飼いし、少量の卵を丁寧に作って、自分の付けた値段で売る」私の養鶏といささか趣も違うだろうが、私とて思うままに値段をつけれるわけではないし、全く消費者に阿ねないで生きているわけでもない。どちらかと言えば「何と腰の低い卵屋かしら~」と評判をされているのである?
 私の2人の子供達は養鶏業を続けてきた親たちをどう感じていたのだろうか?きっと、このお子さんと同じ思いでいるだろう。もっとも、私が何を主張し、どうしてこんな生き方をせだるを得なかったかを本当に理解したときには、私はこの世にいない。
 12月31日の6時前、私は「走りお納め」の為に農道を走っていた。後ろから来た軽トラが私を追い抜いて行った。知り合いの奥さんである。私と気がつかなかったのだろう。車を左折し、畑の前で止まった。エンジンはかけたままである。車を降りた奥さんは長ネギを2本抜いて車に戻ろうとした。あわてて近づいた私は「奥さん、久しぶり。ちぎったイチゴはあります?」と問うた。彼ら夫婦は、この町一番のイチゴ農家であり、米麦を20数町歩作るほか2反分のイチゴを作っている。自給自足の小農家の代表が私なら、企業的農家の代表が彼ら夫婦である。数千万円、いや、それ以上の補助金を受けながら、7台のトラクターを駆使して大規模経営をしている。末ッ子が後継者になったと聞いている。
 「今年はイチゴの半分が枯れて、とっているイチゴはないのよ」と言う。「米麦をこんなに広げたので手が回らなくて・・・」と続けた。若いころは清楚な色白美人だった奥さんの顔は疲れ、正視するのも失礼と思われた。亭主は千葉の方で堅い仕事に従事していたのだが、父親の死をきっかけにこの街に帰ってきた。「騙されて」連れてこられた奥さんは、昼飯を食う時間を辛抱して働いてきたのだ。売り上げは数千万円(私たちの10倍)に上るだろうが、借入金も少なくないのだろう。コメの値段は作れば作るほど、毎年、安くなっている。 額の皺は、生活が楽でないことを物語っていた。
 帰ろうとすると、料亭をやっている長男の息子さんがやってきた。私に黙礼をした彼は、「おかん、イチゴはあるか?」と言う。奥さんは、私に答えた言葉を繰り返した。「仕方ない。~今日はうちにおいで」と言う。「昨日もいただいたから、今日はいいわ」と奥さん。息子は、奥さんが握っていたネギに目を落とした。31日、時は6時を回っていた。「配達で少し遅れるが、俺が何か一品作ってくる」と言い残し、去って行った。私は黙って親子の会話を聞いていた。
 踵を返して来た道をゆっくり走って戻った。冷たい向かい風が頬をかすめ、手袋をしていても突き刺すような痛みが襲ったが、こころの中はほんのりと明かりがついていた。                                                   
 今月中旬、同級会がその料亭である。私は、その時、彼女の息子さんにかけたい言葉を探している。

                                     Fhoto 「冬枯れの空」

 


「こ、今年も臭虫じゃ~」

2014-01-03 21:33:23 | エコ

 年末、押し寄せる借金取りどもをチェンソーで追っ払い、なんとか新年を迎えた。農協貯金は去年とトントン。銀行の残高は10万円ほど少ない。(あえて額は秘す) コメの代金は、すこしプラス。今すぐ養鶏業をやめた方が傷口が広がらないだろう。考え時である。4月には消費税の増額がある。ただでさえ、飼料代は過去最高を更新中である。
 4月、卵代の100円アップを切り出すしかない。そこで皆が止めれば仕方ない。貯金を減らしてまで安い卵を提供する義務は私にはない。2014年は私たち夫婦の決断の時になるだろう。
 古巣、雑誌「現代農業」によると、2014年は国連が定めた「国際家族農業年」であるらしい。日本の政府や、それに追随する大手紙(朝日新聞の編集委員、原 真人ら)は「農業の規模拡大が必要である。小さい農家に補助金をやるな。あんな蛆虫が生き残るから大きな農家が育たない。蛆虫を殺せ!」と繰り返してきた。
 ところが、世界農業の75パーセントは「蛆虫」によって支えられているらしい。いかにぜい弱であろうと、彼らが生きていけなければ世界は滅ぶ。「小規模経営が持続的に農業経営を行うことが出来るように生産基盤や生産基盤を改善するための投資を行うことが世界の食料保償に向けた現実的な道である」と国連はいうのだ。異議なし!
 この1年、いや、30年、私は同じ主張を繰り返してきた。国連も、やっとそのことに気が付いたらしい。遅すぎたが、気付かない朝日新聞の編集委員 原 真人よりましである。
 飲み過ぎて寝転んでいると電球の周りを臭虫(カメムシ)がブンブ、ブンブと飛んでいる。箒に止まらせ、そっとチッシュでつかみマキストーブに投げ入れねばならない。失敗して怒らすと、辺りに息のできないほどの悪臭をまき散らす。2014年。私は今年も臭虫であり続けたいと思う。愚かな人間などにはつかまらない。もし捕まったら、息もできないほどの悪臭を放って窒息させてやる。     ・・・年の初めに。


                                   「こずえの向こうにほのかな希望が・・・」


はじめまして

朝日新聞、大分版で5年続いた「熊さんトリ小屋通信」は2008年3月で終わりました。1年の空白がありましたが、再びブログで再開します。ごぶさたしました。そして、始めまして。 私たち夫婦は相変わらず半島の片隅で800羽のトリと少しばかりの田畑を耕しています。二人の子供たちも家から仕事場に通っていて変化はありません。たった一つ変ったことと言えば、毛嫌いしていたパソコンの練習を私が始めたことぐらいでしょうか。  もともと都会に背を向けて生きてきておりますから「100年に1度の金融危機」には関係が無く(万年不景気と言えばそれまでですが…)、住む家と食べ物があり、自分の仕事があります。今更ながら、農家であることに感謝する毎日です。 あ~、重大なことを忘れていました。トリ小屋を守ってくれていた愛犬トランクスが2009年2月17日に亡くなりました。14歳と6か月私たちと暮らしました。動物でも人間でも命の重さに変わりはありません。一時は、立っても涙、座っても涙でした。あ~してやればよかった、こ~してやればよかったと反省の連続です。私が貰ってきた犬ですから、トリ飼いをしているのが見える場所に私が丁寧に埋めてやりました。彼は生きてそこに眠っていると思うことにしています。朝晩、「トラ君元気か」呼びかけています。(返事はしませんが…) 養鶏を取り巻く状況は1年前と少しも変わっていません。鳥インフルエンザの原因はいまだ不明だし、幾らか下がったとはいえエサ代は高騰したままです。燃料のガソリンも高止まりしています。世の中でもっとも悲惨な職業それは養鶏業だということは今も変わりません。  良寛は「死ぬ時に死ぬがよろし」と述べています。そこまでの「悟り」には至りませんが、自分で始めた仕事ですから、何かがあったとしても誰を恨むものではなく、自業自得と受け入れようと考えています。ありがたいことに日々の忙しさは全ての悩みを忘れさせてくれるのです。 「行けるところまで行こう」と始めた養鶏ももうすぐ30年になろうとしています。これから始めるブログは私と妻が日々の暮らし、その中で考えた思いを拙い言葉で綴ったものです。しばらくのお付き合いを…