goo blog サービス終了のお知らせ 

熊さんのトリ小屋通信

800羽のトリを飼いながら自給自足の農業をつづけている農家の日々の思いを綴ったもの

3Dはえらい

2010-04-25 21:37:01 | エコ
 3D映画(立体映画)の「アバター」は見ないまま終わった。今度は「アリス・イン・ワンダーランド」という3D映画が来ているらしい。これからは3D映画が主流になるのだろうか?そのうち、映画の中で、匂いや衝撃も体験できるかもしれない。乱闘シーンのある映画の後、映画館から出てきた誰もが顔が赤く腫れ、びっこを引いているかもそれない。
 30年前、3Dのカンフー映画を見たことがある。いきなり刀が目の前に飛び出したときは、思わず身をかわした。今あるかどうか知らないが、ハウステンボスには、特殊なイスに座って画面を見ると、自分が空を飛んでいるような臨場感に浸れる映画があった。3Dの絵本が流行したこともあった。どれにも捨てがたい興奮があった。
 中国から来た水墨画の山水もまた、近くの風景を下に置き、上の方に行くほど小さく薄く遠くの風景を描き、一枚の絵に立体的な遠近感を表そうとしたものである。
 3Dを簡単に見る方法がある。眼鏡も装置もいらない。野山の風景を見ればよい。立っている一本一本の木には遠近の奥行きがある。もう少し奥の風景と比べてみよう。人間に3Dの能力が備わっていることに気づく。そして、それは2D(平面)としてみる風景とは全く異なり、まるで山々の木々の上を魔法の絨毯で飛んでいるような気分になるだろう。
 目の前にはアカメガシ。下に、まだ耕していない田が広がっている。田の向こうにはクヌギの木が数本、今を盛りの藤の花が下がっている。梢の向こうには廃校になった高校の建物の一部。その向こうには低い山が幾重にも重なる。 山は新緑が芽吹き、色の異なる饅頭を置いたように見える。楠は、入道雲のようにもりもりと萌え、花びらを落とした桜はエビ色に染まり、辺りを柔らかく包んでいる。何という臨場感か。目の前の風景を独り占めである。観客は一人。ポップコーンの音をガリガリさせても誰も文句を言わない。一度も入場料を請求されたこともない。春の山は贅沢の極みである・・・。
 テレビも3Dを売り出すという。「君たち、正気か?」と、お聞きしたい。「この前、デジタル・ハイビジョン・テレビを売ったばかりじゃないか。舌の根も乾かないうちに次かい」。こんな商売をしていたら、国内消費は絶望だ。テレビの3Dは危険この上ない。
 高校生の頃、白黒テレビでマリリン・モンローを見て息が止まった。3Dテレビからモンローの巨大な胸が飛び出したなら、今の私は卒倒し、たちまち命を失うだろう。

タケノコ族?

2010-04-23 21:13:07 | エコ
 山菜の攻撃が続く。しかも「波状攻撃」である。このところ、田に鶏糞を運び、市が失業対策で切っている木をトラックに運び入れ(暖房を薪ストーブに頼っている私にはお宝だが、民間人にはゴミである)、帰りにワラビを取ってくる毎日である。ついに、倹約家の妻からも「もう、ワラビは結構です」と悲鳴を上げられてしまった。たしかに、これ以上食べると、肩から葉っぱが生えてくるかもしれない?
 山菜取りは、3月のセリに始まる。ツクシを採り、ふきのとう、ウド、タラの芽、椎茸、ワラビ・タケノコと続く。おおむね所有者には断り無く「捕獲」するが、椎茸は栽培し、タケノコは知り合いにもらう。今年もさい先良く、妻が7本ものタケノコを手に入れてきた。掘ってから30分もしないうちに糠を入れて湯がくのだから不味かろうはずがない。煮てよし、青海苔をつけて天ぷらもよし。山菜おこわもよしである。
 親父が竹を切り出す商売をしていたので、竹やタケノコについては詳しいと思っていたのだが、そうではなかった。先日のラジオで気象予報士が「タケノコは1日で十数センチ伸びます。その栄養は誰にもらうのでしょう。それは竹からもらいます。タケノコに栄養を与えるために、竹の葉が、この時期、黄色くなります。これを竹秋といいます。」と報じていた。驚きであった。鶏もカロリーが不足すると、羽を落として玉子を産む。竹も身を削って子孫を育てようとするのである。「いわんや、人間をや」である。「子供が泣くから、蛇口にくくりつけ、食べ物を与えない」、 「お漏らしをするから、壁に投げつける」。このところの日本の若者は、竹以下、鶏未満に成り下がった。どうしてこうなったのか。わからない。
 タケノコが終わると蕗の季節になる。職業欄には農業と書くが、3月から5月は「狩猟」と書かねばならない。ある日の昼食。タケノコと同級生が海で取って持ってきてくれたワカメの煮物。買ったものが何もない。最後に妻が漬け物を出す。ついに買ったものが出たと思いきや、「去年、お前が鶏のエサにもらったハイトウリを漬けたのだ」と母。ちゃん、ちゃん!

デジタルは偉い! か?                                ・

2010-04-15 18:36:55 | エコ
オセアニアを「放浪」している娘から時々写真やメールが届く。なんとか生きているようである。世界のどこにいても気軽に通信できる。デジタルは偉い。デジタル様々である。 
デジタルとは何か? 辞書によると、『デジタルとは「離散的」という意味で、信号を全て数字の0と1で表す。アナログ(連続的)に対して、信号伝送の正確・効率性で上回る』とある。
全てのことは0と1に還元できるというのである。要するパソコンはは電気だから、電気がつながるのは1,つながらないのは0と考える。「天気がいい」は1,「天気が悪い」は0。「出かける」は1、「出かけない」は0。1・1とつなげると「天気がいいから出かける」。0・0とつなげると「天気が悪いので家にいる」。1・0は「天気がいいけど家にいる」となる。
 2進法だから、0+0=0(つながらない)、1+0=1(つながる)、1+1=10となり、一桁上の回路につながる。これを複雑にして、恐ろしいスピードでつなげていくと「アメリカの失業率が下がったので、株を買った方がいい」などと打ち出され、とんでもない能力を発揮する。
 しかし、次のような場合はどうか? 「芸のためなら女房も泣かす」,演歌である。デジタルなら、「女房を泣かせないために芸を磨く」と出そうである。「どうしょうもない男だけれど別れられない」とか「なんとなく嫌い」などというのもデジタルは苦戦すると思う? 人間には1か0で(、白か黒、丁半で)割り切れないことの方が多いのである。
 高級一眼レフカメラもデジタルになった。望遠レンズで撮ると、焦点のあったところはくっきり。遠くになるほど次第にボケる。これをボケ味と呼んでいる。高度化しているので、連続的に (つまりアナログ的に)ボケているように見えるが、1と0は、男と女の間にある深くて暗い川のように連続はしていない。アナログとデジタルのボケ具合は永遠に残るだろう。私はどちらも持っている・・・。
 タイでは争乱が続き、日本人カメラマンを含め数十人の死者も出ている。キルギスでは、国民に銃を向けたバキエフ政権が、反政府デモをきっかけに崩壊した。中国では新しい地震が発生した。アイスランドで火山爆発。イタリアでは、自転車に鍵をかけていても、瞬く間に、三角のフレームだけになり、タイヤやチェーン、ハンドルまで盗まれるという?
 「かわいい子には旅をさせよ」というが、それが女の子であるなら、コンピュターのデジタルは「旅を続けさせよ」と判断するのか「やめさせた方が無難」と判断するであろうか?

photo 「チューリップ」

届けたい話

2010-04-12 03:09:24 | エコ
 私の声の届く範囲の全ての人に届けたい話。朝日新聞のエッセイ欄「男のひといき」に寄せられた「10年日記 妻の大切な一日」。(2010年4月10日)
 『前夫との間に息子がいること、その息子とは3歳の時に別れたきりであることは結婚前に妻から聞かされていた。
 2年前に乳がんの再発がわかった時も、妻はすでに成人しているはずの彼に会いたいとは言わなかった。妻の気持ちを測りかねているうちに時機を逸し、その年の秋に妻は逝ってしまった。 
 彼に連絡することが私の役目だと気付いて、気が重くなった。相続業務をする銀行を通じて彼の住所を知り、私なりの思いを込めた手紙をようやく投函したときには、妻の死からすでに半年が過ぎようとしていた。そして連絡がつき、会うことになった。
 別れた母親に悪い感情を持ってはいまいかー。私の前に立った青年に妻の面影を発見し、穏やかな表情を目にした時、心配は消えた。妻が生前使っていた部屋に案内した。妻が書いていた10年日記に話が及んだ時、「5月21日のページを見せていただけませんか」と彼は言った。
 彼の誕生日だと気付き、そのページを開いて渡した。彼の目がうれしそうに輝いた。そこには、心ならずも別れた息子の成長に思いを巡らす母親の気持ちが毎年つづられていた。妻に、もう少し何かをしてやれたのではないかと今も時々思う』 大学教員 54歳
 文章が練られ、完璧なため、一言一句、そのまま掲載した。奥さんの気持ちを測れなかったことに後悔はは残るだろうが、奥さんが「会わない」(会えない、会ってはいけない!)決意をしたのだから、それで良かったのではないかと思う。この日記は、書かれるべくして書かれ、必ず読まれる運命にあったのだと思う。   
 いつも一緒に暮らしていても分かり合えないこともある。離れていても繋がっていることもある。


                           photo 「シャクナゲ」


「声が聞こえない」

2010-04-06 12:44:16 | エコ
 冬鳥が去って春鳥に変わった。散り始めた桜の梢で鳴くのはコマドリ。「ピー、ピーポ、ピーポ、ピーポ」。5秒くらい続ける。実におしゃべりな鳥である。体半分と尾はオレンジ、腹の方は青い灰色。全長14センチほどの鳥である。メジロやヒヨドリのようにフレンドリーな鳥ではないから姿を見るのは難しい。
 コマドリといえば「こまどり姉妹」。「ソーラン渡り鳥」である。50代以上の人しかわからないと思うが、私が物心ついた頃は、三味線を持って歌う二人は大変人気があった。
 歌謡曲のこまどり姉妹に対し、ポップス界の人気姉妹が「ザ・ピーナッツ」である。田舎育ちの私は、演歌のこまどり派であったが、ピーナッツにも好きな歌が何曲かあった。「手編みの靴下」「コーヒー・ルンバ」、「大阪の人」、「ウナセラディー 東京」、「悲しきタンゴ」、「恋のバカンス」・・・。なんと、こまどり姉妹は「ソーラン・・」しか知らないのに、ザ・ピーナッツの曲は次々と思い出す。天才作曲家にして、天才パフォーマー、宮川泰が付いていたこともあるが、ポップスからラテン、歌謡曲に至るまで幅が広い。日本の歌謡界でも屈指の存在であった。意外にも自分の音楽のルーツは彼女らであったのかもしれない。
 「いま一度、ザ・ピーナッツを見直すべきだ」などと考えながら畑仕事をいていると、ウグイス嬢が名前の連呼を始めた。市会議員選挙らしい。「嬢」というには少し無理があるが、田舎では50代後半、いや、60代半ばまでは若妻と呼ばれるから、「嬢」と呼んでも差し支えないか?
 名前を連呼するが、もともと、さしたる思想もないのだから無理もない。通りがかりにポスターを覗いたが、みすぼらしい顔ばかりであった。彼らにお願いすることは何もない。いや、あるのにはあるのだが、私の考えていることは彼らの能力を超えている。
 一台が過ぎると次のカラス嬢、もとい、ウグイス嬢がやってくる。もっとましな方法を考えたら良さそうなのだが、未だに「カバン」にものを言わせようとしている輩もいるそうなので、当分、田舎は変わりそうもない。「分かった、分かった、どうでもいいから向うへいきなさい!コマドリの声が聞こえないじゃないか」と申しあげたい。
 ザ・ピーナッツは70年代に引退し、見ることもないが、こまどり姉妹の方は、いまも流しをしているようで、先日テレビに出ていた。さすがに往年の美貌にはほど遠く、声の伸びも我が家の周りで鳴くコマドリには及ばなかった。(当たり前か?)

はじめまして

朝日新聞、大分版で5年続いた「熊さんトリ小屋通信」は2008年3月で終わりました。1年の空白がありましたが、再びブログで再開します。ごぶさたしました。そして、始めまして。 私たち夫婦は相変わらず半島の片隅で800羽のトリと少しばかりの田畑を耕しています。二人の子供たちも家から仕事場に通っていて変化はありません。たった一つ変ったことと言えば、毛嫌いしていたパソコンの練習を私が始めたことぐらいでしょうか。  もともと都会に背を向けて生きてきておりますから「100年に1度の金融危機」には関係が無く(万年不景気と言えばそれまでですが…)、住む家と食べ物があり、自分の仕事があります。今更ながら、農家であることに感謝する毎日です。 あ~、重大なことを忘れていました。トリ小屋を守ってくれていた愛犬トランクスが2009年2月17日に亡くなりました。14歳と6か月私たちと暮らしました。動物でも人間でも命の重さに変わりはありません。一時は、立っても涙、座っても涙でした。あ~してやればよかった、こ~してやればよかったと反省の連続です。私が貰ってきた犬ですから、トリ飼いをしているのが見える場所に私が丁寧に埋めてやりました。彼は生きてそこに眠っていると思うことにしています。朝晩、「トラ君元気か」呼びかけています。(返事はしませんが…) 養鶏を取り巻く状況は1年前と少しも変わっていません。鳥インフルエンザの原因はいまだ不明だし、幾らか下がったとはいえエサ代は高騰したままです。燃料のガソリンも高止まりしています。世の中でもっとも悲惨な職業それは養鶏業だということは今も変わりません。  良寛は「死ぬ時に死ぬがよろし」と述べています。そこまでの「悟り」には至りませんが、自分で始めた仕事ですから、何かがあったとしても誰を恨むものではなく、自業自得と受け入れようと考えています。ありがたいことに日々の忙しさは全ての悩みを忘れさせてくれるのです。 「行けるところまで行こう」と始めた養鶏ももうすぐ30年になろうとしています。これから始めるブログは私と妻が日々の暮らし、その中で考えた思いを拙い言葉で綴ったものです。しばらくのお付き合いを…