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熊さんのトリ小屋通信

800羽のトリを飼いながら自給自足の農業をつづけている農家の日々の思いを綴ったもの

「大政翼賛的輩が・・・」

2011-04-24 07:41:36 | エコ
 震災とは「直ちには」関係のない九州の端っこで、変わらない毎日を送っている。が、「直ちに」関係ある事態になった。ある日の夕方、県の職員をしている息子から電話があった。「今度、東北に派遣されることになった。5月の中旬から2週間。場所は名取市。すでに保健所が先遣隊として行っている。情報はわかるし、チームで行くので心配は無い。一応、明日までに返事をしなくてはいけないが、自分は行くつもり」と言う。「その時期、家に特別な用事は無いか?」と家を気遣う。いつもは「どうしょうか?」と優柔不断なのに、今回はキッパリ。いくらかの使命感とまだ見ぬ土地への誘惑があるのかもしれなかった。私は「そうか。分かった」と答え、受話器を置いた。
数日前、派遣職員の候補に挙がっていることは聞いていた。あわてた妻は「知事に防護服と放射能測定機を用意してもらうべきだ」と心配していた。現状を考えると、無理のない心配であった。
 仕事から帰ると、家族全員がそろっている。「笑える話と笑えない話が一つずつある。とりあえず、笑えない話を先に話す」と、震災派遣の話を始めた。孫を心配した母は「そんなところに行ったらいかん」と即座に反対。妻も何か言おうとしたが、「大分県も、危険と分かっているようなところに職員を送るまねはしないだろう」という私の発言で思いとどまった。
 笑える話に移った。娘の勤め先のプロジェクトが毎日新聞の大分版に載り、驚くほどのアップで顔写真が紙面を飾った。しかし、笑えない話が糸を引いて、誰も笑うことのないまま記事はお蔵になった。こんなことなら笑える話を先にすべきだった…。
 3月11日の午後、翌日の卵の配達の準備をしていた。突然NHKラジオが地震速報を始めた。また大げさな報道かと思い、無視して作業を続けた。ところが、いつまでたっても報道をやめない。家に帰ると、母と娘がテレビを見ていた。画面には漁協の建物が浸水していて、流されてきた桟橋が突き当たろうとしていた。屋上に駐車場があり、誰かが下を覗いていていた。
 津波の画面に変わった。アナウンサーは「津波が観測されました」と声を上げた。しかし、逆流してきた水はわずかで、津波と呼ぶには無理があった。1斗缶から漏れた水のようであった。アナウンサーはオオカミ少年の様な発言を繰り返した。
 画面は漁協の建物に変わった。危うく建物に当たろうとした桟橋はまた沖の方に戻ろうとしていた。屋上にいた男は車に乗り込んだ。「この人は逃げなくては」と誰かが叫んだ。
画面は津波の場面に戻った。いくらか水の量が増えたような気がした。水の先端がビニールハウスを襲い始めた。辺りに人影は見えなかった。そこいら一帯は野菜の産地らしく、ビニールハウスやトンネルハウスが林立していた。
 画面は再び漁協の建物に戻った。桟橋は押し戻されて建物にぶつかった。屋上の男はまだ右往左往していた。この男が何を考えているのか誰にも分らなかった。突然、男は車に乗り込み、「逃げ」始めた。
 津波はさらに激しくなった。濁流に壊れたガレキが加わった。汚水はビニールハウスを襲い、数千万円の補助金で建てたガラスハウスを粉々にした。漁協の画面は映らなくなった。テレビは「怪我人が数名」と繰り返しているが、そんな生易しいものでないことは画面で分かった。濁流はうねるように加速した。高速道路の下に何人かの人が集結していた。軽トラが数台あったので地元の人だろう。すぐ近くまで津波が押し寄せているのに気づいていないようだった。「逃げて」と画面に叫んだが手遅れだった。一度、高速道路にあたった濁流は反転し、人と軽トラを飲み込んだ…。ここが名取市であることを後で知った。
 「がんばれ日本」、「日本人は強い」・・・。大政翼賛的言辞が続く。「公共広告機構」とは何者で、時世に乗じて何をしょうとしているのだろうか。原発の処理にあたっている職員は英雄ではなく、特攻隊員でもない。まして、自分の命と引き換えに、火山に降りていくグスコーブドリ(宮沢賢治)でもない。反対運動を無視し、原発を推し進めた会社、行政、学者たちの一番の犠牲者なのである。わが息子は「日本」、「日本人」の為に行くのではない!困っている東北の人に協力しようとしているのだ。「日本」、「日本人」・・・、怪しい奴らが国粋主義を鼓舞している・・・。 

                                       photo 「ジャーマン アイリス 」

「一生同じ歌を歌い続けるのは」

2011-04-16 12:46:41 | エコ
 震災の最中にも季節は進む。遠くに山桜がボタンを伏せたように山を飾り、足元にはチューリップが咲いてきた。人の命を奪うのも大地なら、生き物を育て育むのも大地のなせる業か。
 移り行くのは花だけではない。4月から政府の小麦売り渡し価格が18パーセントも跳ね上がっている。おかげでエサの価格も上昇。震災に気を取られているうちにこの有様である。まったく油断が出来ない!
  震災の陰でこっそり逝った人もいる。岸田衿子(えりこ)さんである。詩人で童話作家であり、岸田国士の娘にして、あの奇才、岸田今日子の姉である。
 以前、茨木のり子さんの「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)という本を紹介したことがあると思う。岩波ジュニア新書に収録されたこの本は、魯迅の「隋感禄 北京通信 魯迅選集 第3巻」(岩波文庫)と並んで私が生涯を通じて繰り返し読んできた本であるが、その中に岸田の詩が数編取り上げられている。
 「くるあさごとに くるくるしごと くるまはぐるま くるわばくるえ」(岸田衿子詩集 「あかるい日の歌」より)
日常の生活はかなり緩くなってきたのだが、我々養鶏農家は、何があろうとも(盆正月も、原発事故も)朝からエサやり、採卵だけは欠かせない。1年365日である。暇が出来ると、「何かする仕事は無いか」と探すので、一年中歯車のように働いている。卵の配達も機械のように正確で、私の顔を見て消費者は、今日が何曜日で、今が何時なのかを知る。時にコースを変えるとたちまち配達ミスを犯してしまう。機械仕掛けのテディベアーである。衿子さんの様に「くるわばくるえ」と、3か月分のエサを与えて世界旅行?に出かけたり、気が向いたら配達をするという具合だといいのだが…。  
 茨木さんによると、彼女は「くるわばくるえ」を地でいっていて、「約束の時間、つまり人間のとりきめた時刻にはあんまり従いません」し、一緒に旅行しても「指定券を買った列車には乗れそうもなく」、「子供の友達のお父さんの行商について行って、道端でイカノスミトリ器やホーキーという掃除機を一緒に売りさばきながら岩手をさすらっていたり 、かと思うと、スイスの片田舎でパイをたべていたりする」、「同じ空気を吸いながら、まったく自分のペースで生き、人に何とおもわれようともかまわず、自分の歌しかうたわない」人だったらしい。まさに岸田今日子の姉ではないか。同じ本の中に「一生おなじ歌を 歌い続けるのは」という詩もある。
  「一生おなじ歌を 歌い続けるのは だいじなことです むずかしいことです あの季節がやってくるたびに おなじ歌しかうたわない 鳥のように」。茨木さんは、「変わらなければ進歩ではないという強迫観念にかられて、なぜか焦るのが人の世ですが、短い一生に、一人の人間がなしうる仕事は、その主調音は、そう変わるものではないのかもしれません。むしろそれを簡単に手放さないことのほうが、だいじなことです、むずかしいことです」と結んでいる。
 震災の前も後も、いや、この30年、私と妻の身の丈に合った小規模循環型農業の生き方は変わっていない。鳥を飼い、米を作り、野菜やシイタケを自給する。夕方マラソンをして焼酎を飲む・・・?一時、脚光を(新聞に5年記事を書いた)浴びた(でもないか?)こともあるが、ほとんど「忘れられた日本人(宮本常一?)」として生きてきた。
 本人たちが忘れていなければいいのだが、震災直近の時流(東大をはじめとする学者、朝日新聞の山本精作記者をはじめとするマスコミ)は「2パーセント足らずの農民を気にして、TPPに乗り遅れると、日本経済は取り残される。(私のような)小さな農家には引退してもらって、大きな農家に土地を集中し近代化を図れば、日本の農産物は品質が良いから、中国の富裕層が買ってくれる」であった。たった一つの地震で(私はまた起きると思っている)自動車の部品は調達できず、日本の農産物は放射能で信用を失った・・・ 。
 しかし、「時流」がこれを機会にわれわれの側に付くと楽観視しているわけではない。彼らは立ちあがると、また破滅の道に「復興」しかねない。彼らは彼らの歌を歌い、私は同じ歌を歌い続けるのだろう。未来は彼らが私の様な暮らし(約30年前の暮らし)に戻れるかどうかにかかっていると思うのだが・・・。
 震災報道は他のニュースを希薄にさせるが、こんな憎めなくて、チャーミングな女性がいたことだけは忘れてほしくない。


photo 「チューリップ~平和の象徴」

「がんばれ会津」

2011-04-11 13:03:41 | エコ
 水田にトラックでケイフンを運んでいた。播き終わったので、袋を重ねていたら指を切った。一瞬の事である。袋に何か針の様なものが刺さっていたのかと裏返してみるが、針も金物も見えない。使い古したコメ袋の底が少しはがれてこちら側を向いていた。はがれた紙で切ったとしか考えられなかった。おかしなこともあるものだ。袋は一度使ったものを再利用している。袋には「福島のコメ」と書いてあり、底のほうには「会津エコ米」とある。私は三十四~五年前、会津若松で3カ月仕事をしたことがある。
 大騒ぎになっている「フクシマ」県は縦に三つの地域に分けられる。原発のある海岸側が「浜通り」、東北自動車道の通る矢吹、郡山、福島を結ぶ線の地域が「中通り」、そして西部の新潟に近いほうが「会津地域」である。私たちは会津若松の神指(こうざし)という所に古家を借りて、ホンダのカブで通える範囲を担当していた。福嶋第一原発からかなり離れてはいるのだが、風評で会津の観光もみじめな状態らしい。市長が「市の職員は2次会も3次会もして消費を増やしてくれ」と話していた。原発事故の町が大熊町という我が家の姓と同じことも何かの縁。ここは一人でも観光客を増やす手助けをしなくてはなるまい。      
 会津といえば「会津白虎隊」。大政奉還の翌年、旧幕府の残党が新政府に反乱を起こした戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い、上野の彰義隊、会津白虎隊などの反乱の総称)で敗れた白虎隊(藩士の子弟で15~17歳の少年決死隊)は飯盛山から城が焼けているのを見て落城と即断し自刃した。19人の少年たちの最後は長くこの地に伝えられ、立派な記念館がある。桜の名所でもある。
 私が最初に入ったのは、会津の東、猪苗代町である。ここには野口英世記念館がある。猪苗代湖というのは大きくて海にしか見えない。遊覧船だけでなく船も走っていたと思う。ご存じ、磐梯山も背中にある。裏磐梯の五色沼と言うのはとてもきれいであり、秋の観光客でにぎわう。「いつでも行ける」とおもっていて、とうとう行かずじまいになってしまった。
 北にある喜多方市は喜多方ラーメンで有名。その北、山形に近い所に熱塩加納村(あつしおかのうむら)がある。このあたりのイネの掛干のやり方は九州とは異なる。長い杭を一本立てそれに放射状(原発を思い出してしまうが…)に稲束を重ねていく。塔のように見える。高い位置から夕暮時に見下ろすと感動する風景であった。農家の人は「猿っパカマ」という男女共用の縦じまのモンペを履いていた。「遠くから来たんだなす~。寄らんしょ」と迎えてくれる。「輸入したナス」と言っているわけではない。「遠くから来たんだね」くらいの意味か。後ろにに「なす」とか「なし」が付く。語尾を上げるので、とても優しいイントネーションである。岩手に行くと「がす」になり、「そうでがすか」と使う。
 只見線を下って新潟の十日町方面の景色も素晴らしい。川ともダムともつかない湖が延々と続く。山のすがたと家々のたたずまいは水墨画の様に幻想的である。この世のものとは思えないほどの景色である。
 私はバイクで会津鉄道沿いに本郷(焼き物で有名。買ったぐい飲みを今も持っている)、田島方面にも下った。道は狭く九十九折になっていて何度も危ない思いをしたが、紅葉の始まったころの景色はすばらしい。下のほうに見え隠れする川の水はコバルトブルー(また原発を思い出して腹が立つ)。あれほどの景色は日本中(北海道と北陸以外の)を歩いた私も見たことがない。加藤茶の故郷でもある。さらに下ると、ミズバショウで有名な尾瀬に達する。県境を越えたかったが、これも果たせず。
 会津は酒がうまかったと思う。酒蔵も巡れるはず。赤べこ(べことは牛の事。揺れると首が動く)もここのお土産。一度は見たことがあるだろう。会津塗も有名だ。高くて、当時の自分の給料では買えなかった。残念ながら、いまの養鶏の収入ではもっと買えないだろう!
 若い人や子供たちは放射能の影響があるかもしれない。しかし、50歳以上は放射線の影響は無いという。しかも会津は海岸から離れた盆地である。浜通りと中通りの間には阿武隈高地も控えている。素晴らしいところだから、定年を迎えたような裕福な人達は出かけて、どんどんお金を使い、疲れた商店街を励ましてもらいたい。私もいつかキャンピングカーを買って、若いころ歩いた東北を回ってみたいものだと考えているのだ。そんな日が来る事を願っている。約束必再訪!

                                             photo 「福島 カムバック」
   

「旅立ち」

2011-04-06 21:37:01 | エコ
 キャベツの草を取っている。妻が植えたキャベツには、ホトケノザとハコベが茂り見る影もない。ハコベはともかく、ホトケノザは臭いがきつくて鶏にやる気もしない。日中に世帯主がやる仕事とは思えないが、妻も忙しく、子供たちも自分の仕事がある。誰かがやらなければならないので自分でやることにした。
 ケイフンを多投した地面は柔らかく、長靴は地面にめり込む。私たち農家は、せいぜい50センチを耕し、その上で牛や鶏を飼って生きているにすぎないが、地中はさらに続き、100キロメートル付近までが地殻、3000キロメートル付近までがマントル、5000キロメートルまでが外核、そして6371キロメートルの地球の中心までが内核である。地殻は一枚岩のように思えるが、所々に割れ目があり断層となっている。断層は石積みの様にお互いが力を支えあって、かろうじて安定している。大きな声を出したり、余計な震動を与えたら断層に響きそうなのでそろりそろりと草を抜かなくてはならぬ…。、
 私たちはこの冬200万羽近くの鶏を地中に「処分」した。死んだ鶏の涙はミクロの水滴となって地中に沈んでいく。それは他の水滴と合流し小さな流れになる。糸の様な水流は狭い断層の隙間をくぐりぬけ、途中、日本の各地から滲んできた水滴と合流し、細い川となって断層の間を何キロも何キロも突き進む。そして地殻の力の要になっている岩に到達し、ほんの少しだけ岩を濡らす。鶏たちの涙に濡れた岩が誰の耳にも聞こえない音を「コトリ」と出して動いた。互いを支えていた力は、わずかなバランスを欠いても持ちこたえられない。体に感じることのできないほどの微かな震動は連鎖して拡大し、450キロにわたって断層を「ズルリ」と引き裂いていった…。私たちのどんな科学もこの巨大な力を抑えることはできない。「耐震」などという言葉は身の程を知らないもののたわごとである。私たちにできることいえば、断層の上で暮らさせていただいている身をわきまえて、断層に刺激を与えないつましい生き方をするしかない。養鶏家の妄想である。しかし、私には、あれだけの無実の鶏を殺しておいて、人間だけが無事とは考えられないのだ。
 人間は知覚出来なくとも足の下では地殻は常に動いているらしい。今度の9・0の地震も新たにやってくるだろう巨大地震の「予震」にしか過ぎない。地球の45億年の歴史は、壊れては止まり、また壊れては止まる、その繰り返しであった。 ある日キャベツ畑の下の地殻で変動があり、途中まで取っていた草を握ったまま私は断層の隙間に落ちていく。そんなことはあり得るのだ。その原因が、遠くの国でしいたげられ、被災地の人たち以下の暮らしをしている人々の涙や、放射線を避けて逃げていった飼い主に見放され、辺りに生えている放射能だらけの草を食んでいる「野良牛」の涙であるかもしれないと考えると、私たちは、世界のどんな事件にも無関心ではいられなくなる。
 世界を二人旅して無事帰還した娘たちは長い休暇に幕を下ろして別々の新しい道を歩き始めた。相方の香ちゃんは古巣の保育園、わが娘は、ある市の観光協会の仕事を得た。2人の道がこの後重なるのかどうかは分からない。どんな未来を築くのかも不明だが、27カ国の人々の暮らし、そして笑顔、喜び悲しみを感じながら生きていくことだけは間違いない。二人の未来へ乾杯!


                                  photo 「タンポポ~西洋種?日本種?」

はじめまして

朝日新聞、大分版で5年続いた「熊さんトリ小屋通信」は2008年3月で終わりました。1年の空白がありましたが、再びブログで再開します。ごぶさたしました。そして、始めまして。 私たち夫婦は相変わらず半島の片隅で800羽のトリと少しばかりの田畑を耕しています。二人の子供たちも家から仕事場に通っていて変化はありません。たった一つ変ったことと言えば、毛嫌いしていたパソコンの練習を私が始めたことぐらいでしょうか。  もともと都会に背を向けて生きてきておりますから「100年に1度の金融危機」には関係が無く(万年不景気と言えばそれまでですが…)、住む家と食べ物があり、自分の仕事があります。今更ながら、農家であることに感謝する毎日です。 あ~、重大なことを忘れていました。トリ小屋を守ってくれていた愛犬トランクスが2009年2月17日に亡くなりました。14歳と6か月私たちと暮らしました。動物でも人間でも命の重さに変わりはありません。一時は、立っても涙、座っても涙でした。あ~してやればよかった、こ~してやればよかったと反省の連続です。私が貰ってきた犬ですから、トリ飼いをしているのが見える場所に私が丁寧に埋めてやりました。彼は生きてそこに眠っていると思うことにしています。朝晩、「トラ君元気か」呼びかけています。(返事はしませんが…) 養鶏を取り巻く状況は1年前と少しも変わっていません。鳥インフルエンザの原因はいまだ不明だし、幾らか下がったとはいえエサ代は高騰したままです。燃料のガソリンも高止まりしています。世の中でもっとも悲惨な職業それは養鶏業だということは今も変わりません。  良寛は「死ぬ時に死ぬがよろし」と述べています。そこまでの「悟り」には至りませんが、自分で始めた仕事ですから、何かがあったとしても誰を恨むものではなく、自業自得と受け入れようと考えています。ありがたいことに日々の忙しさは全ての悩みを忘れさせてくれるのです。 「行けるところまで行こう」と始めた養鶏ももうすぐ30年になろうとしています。これから始めるブログは私と妻が日々の暮らし、その中で考えた思いを拙い言葉で綴ったものです。しばらくのお付き合いを…