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熊さんのトリ小屋通信

800羽のトリを飼いながら自給自足の農業をつづけている農家の日々の思いを綴ったもの

「40年目の記念日には」

2012-06-27 00:55:22 | エコ
 2012年、6月30日。われわれがこの地(国東半島)に帰省してから30年を迎えた。「よくぞ、まぁ~」の感あり。梅雨を押して山に入り、もらった間伐材の枝を落とし、皮を剥いて運び、鶏舎の材料とした。最初に入れたヒナは豪雨で流され、3羽しか残らなかった。そこから私たちの養鶏は始まった。途中、母屋は火事にあい、3度の巨大台風に見舞われ、ゴルフ場開発で10年痛められた。そして、いまも鳥インフルに脅かされ、さらなる消費税に見舞われようとしている。宇宙人だから堪え切れたが、民間人なら、こんな苦労には耐えきれなかっただろう?
 何度も苦境に立たされたが、誰彼の思わぬ力がわれわれを救った。もし、一度でも「救いの手」が欠けていたら生きてはこれなかった。儲からなかった事も効をそうしたのかもしれない。下手に欲を張らず、自分らの力の範囲で運営し、誠実に同じことを繰り返してきた。10年前、20年前も経営形態は変わらない。消費者も同じ人が続いている。どんな職業でも、われわれの様に地道にやれば生きることだけはできると思う。「神は生かすべきものを生かす」。実感である。
 久し振りに竹田のO氏に電話する。O氏は私の元同僚にして、九州自然卵養鶏の精神的支柱である。「僕は詳しくないが~」といいながら、何についても知らないことが無い。驚くことに、2か月前に養鶏をやめていた。近くに、もう一人養鶏をやめた人物がいて、その農場を引き継いだ人間に自分の鶏も託したのだという。 驚き、桃の木、サンショの木とはこのことか。彼がやめたら九州の自然卵の養鶏会は雲散霧消するかもしれない。
 私も困った時は彼の話に励まされ、物質的にもお世話になって来た。ついに大分県の本格的平飼い養鶏家は、九重のIと私だけになった。そのIも70歳を超えた。私と妻には「ここがロードス島(ナポレオン)」。O氏は議員年金があるが、私には母より少ない泪年金。妻にはそれもない。(幸いなことに?看護師資格がある!) 止めることもできず、進むことも許されない、立ち往生の30年。
 が、石の上にも3年という。立ち往生も30年となると筋金入りである。消費者からは「よく頑張ったね~。まだやめないで~」と感謝の念。支えてくれた方々に記念の配り物でもと考えるが、いまは具合が悪い。「40周年の時は、大きな配り物を予定しています」と告げ、何とか切り抜けている。
草取りを終え、妻の母の送ってくれたJINROのマッコリを夫婦であけていると、裏山で今年初めてのひぐらしの声。30年、春の夜の夢のごとし。

                              Fhoto 「ハンギング」  




 

「薩長連合?」

2012-06-22 20:32:27 | エコ
 私の「熊さんの トリ小屋通信」を出版した南方新社というのは鹿児島にある小出版社である。鹿児島や奄美の本を中心に300冊ほどの本を出版している。例えば「南九州 里の植物」、「川の生き物図鑑」、「屋久島 高地の植物」、「琉球弧 野山の花」といった具合である。その他、「たのしい不便」福岡賢正著、「地球でここだけの場所」浜本奈鼓著、「生活農業の時代」萬田正冶著など、経済成長=大量生産、大量消費の時代に背を向け、縮少、後退、自給自足の本も出している。もちろん、私の「熊さんの トリ小屋通信」もこの線上にある。
 小さいながらも他出版社に一目置かれているのは、怪物のような社長の個性によるところが大きい。ぶっきらぼうのくせに繊細で、いい加減の様で丁寧で、不気味なようで人懐っこい。ドジョウの様だが、このところドゼウ?の評判は地に落ちていて、不細工なしかめっ面で「消費税増税」と「原発再開」ばかりを一日じゅう繰り返しているので、この社長を「ナマズ」 のような男と書いておく。
 この向原祥隆社長が鹿児島県知事選に出るらしい。社長は他の事にはおおざっぱでも原発だけには昔から徹底抗戦の構えを見せていて、これまで何度もゲリラ闘争を繰り返している。今回の出馬もその延長線にある。
 ユーチューブで「ネクタイ・スーツは珍しい」と話しているが、私の本の宣伝に来てくれた時は開襟シャツにゴム草履。首に汚いタオルを巻いているといういで立ちであった。あの時、革靴を履き、ネクタイをして、首にタオルをしていなかったら、わたしの本は5倍は売れていたと思う。
  鹿児島県知事選。第一声は「この選挙は日本中の原発を止める第一歩。国は原子力政策を変えられない。大飯(原発)も止めることが出来ない。だったら鹿児島から変えていこう」。その意気やよし。 彼の主張の詳細はユーチューブに詳しい。参照されたし。
 佐賀県民と福井県民の望むものは分かった。播磨、浪速、近江、京の首長連合(官軍)どもの腐った手の内も最初から分かっていた。長州の知事選では飯田哲也という反原発の候補者が手を挙げた。こんな時こそ薩摩(鹿児島県民)が試される時だ。


                           Fhoto 「花菖蒲」    

「退職者の集い」

2012-06-20 21:57:35 | エコ
 机の上に一通のはがき。「農文協退職者の会」便りとある。昨年の第2回の集いで定年退職者と中途退職者を会員とするこの会の名称を農文協・OB会から上記に変更するとある。第3回集いは10月6日(土)港区の「芝パークホテル」開催する。会員から原稿を募集するらしい。題材は思い出、現状報告、農文協について、世相に思う、など自由らしい。農文協について書くことにする。
 この呼びかけ人の斎藤というとんまな野郎がどんな人物か知らないが、先の会報で「農文協の本を売ろう」、「農文協の本で学ぼう」などと中途退職者に間抜けた呼びかけをしている。
 一般の人には良心的とされているらしいこの出版社は大きな罪を重ねてきた。現業の職員は一週間単位で支部から出張し、土曜日の夜に事務所へ帰る。日曜の朝会議をして午後には現地に向かう。出版社職員とは名ばかりで、売れない本を売るセールスマンである。自動車や電気製品なら借金をしても相手は買う。ところが、農家向けの340円の本は売れない。厳しいノルマの中で日々苦しむことになる。私が担当した東北の人は人柄がいいので、自分の話をフムフムと聞いてくれるので勝算ありと思った瞬間、「まんずは~、眼が悪くて~」などと断るのである。「断るなら早く言ってよ~」と怒鳴りたいところなのだが、相手もこちらに気を使っているのである。
 こんな暮らしに疲れて有能な友人たちから順番に職場を去った。「去った」のならいいのだが、多くの人間が集金の金を持って行方知れずとなった。その数は、私のいた9年間で20数名に上ったと思う。定年退職まで勤めるのはまれで、その数十倍の中途退職者がいるという異常さだ。私の同期は20数名いたと思うが、一人残らず止めた。
 行方知れずになった人たちも、普通の会社に勤めていたら惨めな辞め方をしなくて良かったと思う。不運な選択で彼らは人生を棒に振ったのだ? 願わくば、土曜日の午後、港区の芝パークホテルへ駆けつけられるほどの余裕ある暮らしをどこかでしていることを願うばかり。(もちろん私は行くつもりはないし、当時のことは思い出したくもない)
 私をここに紹介したのは、東大の名誉教諭にして農業経済学の重鎮、近藤康男博士である。事の詳細は省くが、訪ねて行った私を家に入れ、「私の紹介できるのはここだけ。労働基準法違反に限りなく近い。前に紹介した奴は10日で辞めた」というものであった。それまで勤めていた水道機器の会社に戻る選択肢はなかったので、試験を受けて中途採用された。
 どこにいても主義は曲げないので、上司との摩擦は日常茶飯事。私と組んだ他の2人も同様の性格であったので、人呼んで「あいつらは梁山泊」。山賊の様に誰からも恐れられた。理論は立ち、仕事はできるので、上司も説得出来ない。一人は早死にし、一人は柏崎原発の近くで郷土史の編集に取り組んでいる。そして、私は九州の端っこで養鶏をしている。彼らからシャガールや佐伯祐三の絵画を教えられ、北一輝を学び、ジャズに親しみ、酒の修行をさせられた!
 何処に行ってもわれわれは、その町の一番安い宿を探し当て、一番安い飲み屋を見つけた。小銭を一つかみして飲み代を払い、相手が勘定している間に走って逃げた事もある。も、申し訳ない!( 逃げたのはOです!私ではありません! )
 あと10日で、帰省して30年を迎える。農文協に行かなければ養鶏をすることもなかったし、いまの妻にめぐり合うこともなかった。また、文章を綴ることもできなかったかもしれない。多くの犠牲を払い、苦渋の日々を浪費させられたが、農文協の9年が私の人生にあやどりを与えたことは間違いない。他の中途退職者の人生もそうであることを祈るばかり。みんな、元気かい?

                       Fhoto 「同級生 利光にもらったバラ満開」

「自念信影道」

2012-06-17 23:30:32 | エコ
 梅雨前線が九州を北上し、今朝は朝から雨模様。小さな霧雨が休みなく降り続ける。山には霞がかかり、木々が墨絵の様に陰影を映し出している。田植えの終わった田んぼには人影は無く、村は静まり返っている。時折、ホトトギスの声が山の向こうで響き渡る。
 神社の前の田んぼで男が一人。黒いカッパを着て立っている。ブツブツと悪態を吐きなら何かを押している。「…再稼働。・・・消費税。そのうちTPP・・・。ノ、ノダ、な、直れ~、手、手打ちにしてくれる~」。男が押しているのは中耕除草期。このあたりでは「八反取り」と呼ばれている。40~50年前にはどこのうちでも使われていたが、もはや、こんなものを使うものはいない。
 男は時々止まって欠株に苗を捕植する。また止まった。靴底に手を入れ、もぞもぞと苦労して泥の中から石を抜き取った。田の外へ放り出す気らしい。投げた小石は畦に届かず、また田んぼの中に落ちた。男は「チェ!」と悪態を吐いた。
 雨は本降りに変わった。カッパは雨を弾いたが、男の体温から発する湿気はシャツを内側から濡らし、体温を奪った。男は一度だけ休んだ。神社の床にすわり、用意したドリンクを一口飲むと「フ~」とため息をついた。濡れたシャツを脱ぐと、トラックに積んであったメリヤスの下着と取り換えた。男はまた立ち上がり、神社の鈴を一度鳴らして田に向かった。
 雨はさらに強くなった。男は小さなポケットラジオを持っていた。ダイヤルをくるくる回すが、男の退屈を紛らす番組は無かったのだろう。またしても「チェ!」と悪態をついてスイッチを切った。すでに5時間がたっていた。男は辛抱強かった。よろめいて隣の畝に何度も足をついたが、作業だけは休まなかった。時々止まって、これまで終わった量と残った量を比較しているようだった。時計も見る。今日中に終わるかどうか心配しているのだろう。
 6時を過ぎた。作業を始めて7時間近くになった。残りは少ないが男のペースは上がらない。何度もよろけた。泣いているようにも見えた。しかし、作業だけはやめなかった。何かに取りつかれたような執念。草を取ろうとしているのか、何かの道を極めようとしているのか。
 家々に灯がともり、時間は7時に近い。最後の畝を終えて、また「フ~」とため息をつき、男はトラックの方へ向かって歩き始めた。路上に達した男はくるりと振り返り、田んぼに向かって深々と一礼をした。雨は霧雨に戻っていた。


                      Fhoto 「大好きな青い矢車草」

「時代が追いついた…?」

2012-06-13 06:45:31 | エコ
 最大のチャンスが来ているというのに、脱原発を唱えてきた市民運動の連中は身内を集めて講演会ばかりを繰り返している。こんな体たらく(松下流ごまめの歯ぎしり?)では大飯原発は再稼働する。「大飯が稼働できるなら、うちの原発はさらに安全!」ということになる。日々の暮らしに困っている一介の養鶏農家に体制側が嫌がるような妙案は浮かばないが、いまのままでは押し切られる。私の予想はめったに外れない。
 消費税増税の方も自民公明をまきこんで落着しそうな気がする。頼みもしない公共事業で浪費し、困れば納税者に泣きつく。バブル崩壊時の銀行の不良債券処理をまた繰り返すことになる。
 かくして、都市住民は涼しい夏を迎え、企業はアジアに輸出するために日夜工場をフル稼働する。そして、今日もたくさん人々が大型ドラッグストアーの無料のレジ袋?に安いものを詰め込んで帰途に就く・・・。
 選挙で民主党が負け、元の自民党に戻るのだろうか。それとも、大連立という形の併合になるのだろうか。どちらも、自分の生きているうちには見たくない光景である。こうなれば、自然派の受け皿となる政党を作らなければならないのだが、選挙を戦うには5千万から1億円いるらしい。松下竜一の「底ぬけビンボー暮らし」の中に次の1節がある。
 『・・・よく二人はこんな会話を交わしている。「そろそろ、何か思いがけない収入がこないもんかなあ」「きっと近いうちに思いがけない収入がくるような気がするわあ」 なにしろ、確実に当てにできる収入は何もないのだから、あとはもう思いがけない収入を期待するしかないわけで・・・』。~そして、本当に月に1~2度5万円の思いがけない収入がくる。
 我が家の「思いがけない収入」といえば、「今日、いつも来るおじさんがやって来て、鶏1羽と卵を2パック買ってくれたわ・・・」。〆て1400円。思いがけない幸運でも2000円以下なのである。しかも、一月に1~2回どころか、2~3カ月に一度である。それでも我が家にとってはありがたいお客である。が、この程度では政党はできそうもない。
 市民運動の機関誌に「緑の党」を作ろうと呼びかけたチラシが入っていた。「みどりの未来」というのが母体になるようだ。杉並区の美人議会議員や新潟市会議員などが顔を連ねているが、知った顔はいない。「経済至上主義を排し、脱原発、そして地球環境と共存できる持続可能社会、草の根の市民活動が支える参加民主主義・・・」などとある。以前、中村敦夫(木枯らし門次郎の)が議員の時も同様な主義で選挙が戦われた。その綱領には経済至上主義をやめるどころか、暮らしを昔に戻すと書かれていた。作った人間は知らないが、かなりの名うての人間が加わっていたようだ。我が養鶏の師、中島 正 作かと思ったほどだ。
 われわれ平飼い養鶏家にはごく当たり前の主張であったが、時代も運動に参加した人間自身もついてこれなかった。肝心の中村が落選して国会議員が一人もいなくなり雲散霧消となった。 今回の呼びかけを本気で実行しょうとすれば自然循環型小規模農家になるほかは無い。それ程の覚悟があるのだろうか。
 妻の口癖は「私たちは時代の少し先を来た」である。おかげで、この数十年、周りには受け入れられず、小さな軋轢を繰り返して苦労してきた。「いよいよわれらに時代が…」とも思うが、まだ隔たりは多く、準会員3000円也にとどめようと思う。
 
(注)我が自然卵養鶏界では、どんなに立派な事を言う人間であっても自分で耕さない者は「不耕貪食集団」(他人の作った食い物を搾取してむさぼり食う輩の意)と呼び、その他の人間と同列と考えている! 世の中は、耕すも者と耕さない者の2種類しかないのだ。私は「農家さん」と言うのを聞くと相手を張り倒したくなる!
                         「大川さんに貰ったアマリリス開花」

はじめまして

朝日新聞、大分版で5年続いた「熊さんトリ小屋通信」は2008年3月で終わりました。1年の空白がありましたが、再びブログで再開します。ごぶさたしました。そして、始めまして。 私たち夫婦は相変わらず半島の片隅で800羽のトリと少しばかりの田畑を耕しています。二人の子供たちも家から仕事場に通っていて変化はありません。たった一つ変ったことと言えば、毛嫌いしていたパソコンの練習を私が始めたことぐらいでしょうか。  もともと都会に背を向けて生きてきておりますから「100年に1度の金融危機」には関係が無く(万年不景気と言えばそれまでですが…)、住む家と食べ物があり、自分の仕事があります。今更ながら、農家であることに感謝する毎日です。 あ~、重大なことを忘れていました。トリ小屋を守ってくれていた愛犬トランクスが2009年2月17日に亡くなりました。14歳と6か月私たちと暮らしました。動物でも人間でも命の重さに変わりはありません。一時は、立っても涙、座っても涙でした。あ~してやればよかった、こ~してやればよかったと反省の連続です。私が貰ってきた犬ですから、トリ飼いをしているのが見える場所に私が丁寧に埋めてやりました。彼は生きてそこに眠っていると思うことにしています。朝晩、「トラ君元気か」呼びかけています。(返事はしませんが…) 養鶏を取り巻く状況は1年前と少しも変わっていません。鳥インフルエンザの原因はいまだ不明だし、幾らか下がったとはいえエサ代は高騰したままです。燃料のガソリンも高止まりしています。世の中でもっとも悲惨な職業それは養鶏業だということは今も変わりません。  良寛は「死ぬ時に死ぬがよろし」と述べています。そこまでの「悟り」には至りませんが、自分で始めた仕事ですから、何かがあったとしても誰を恨むものではなく、自業自得と受け入れようと考えています。ありがたいことに日々の忙しさは全ての悩みを忘れさせてくれるのです。 「行けるところまで行こう」と始めた養鶏ももうすぐ30年になろうとしています。これから始めるブログは私と妻が日々の暮らし、その中で考えた思いを拙い言葉で綴ったものです。しばらくのお付き合いを…