2012年、6月30日。われわれがこの地(国東半島)に帰省してから30年を迎えた。「よくぞ、まぁ~」の感あり。梅雨を押して山に入り、もらった間伐材の枝を落とし、皮を剥いて運び、鶏舎の材料とした。最初に入れたヒナは豪雨で流され、3羽しか残らなかった。そこから私たちの養鶏は始まった。途中、母屋は火事にあい、3度の巨大台風に見舞われ、ゴルフ場開発で10年痛められた。そして、いまも鳥インフルに脅かされ、さらなる消費税に見舞われようとしている。宇宙人だから堪え切れたが、民間人なら、こんな苦労には耐えきれなかっただろう?
何度も苦境に立たされたが、誰彼の思わぬ力がわれわれを救った。もし、一度でも「救いの手」が欠けていたら生きてはこれなかった。儲からなかった事も効をそうしたのかもしれない。下手に欲を張らず、自分らの力の範囲で運営し、誠実に同じことを繰り返してきた。10年前、20年前も経営形態は変わらない。消費者も同じ人が続いている。どんな職業でも、われわれの様に地道にやれば生きることだけはできると思う。「神は生かすべきものを生かす」。実感である。
久し振りに竹田のO氏に電話する。O氏は私の元同僚にして、九州自然卵養鶏の精神的支柱である。「僕は詳しくないが~」といいながら、何についても知らないことが無い。驚くことに、2か月前に養鶏をやめていた。近くに、もう一人養鶏をやめた人物がいて、その農場を引き継いだ人間に自分の鶏も託したのだという。 驚き、桃の木、サンショの木とはこのことか。彼がやめたら九州の自然卵の養鶏会は雲散霧消するかもしれない。
私も困った時は彼の話に励まされ、物質的にもお世話になって来た。ついに大分県の本格的平飼い養鶏家は、九重のIと私だけになった。そのIも70歳を超えた。私と妻には「ここがロードス島(ナポレオン)」。O氏は議員年金があるが、私には母より少ない泪年金。妻にはそれもない。(幸いなことに?看護師資格がある!) 止めることもできず、進むことも許されない、立ち往生の30年。
が、石の上にも3年という。立ち往生も30年となると筋金入りである。消費者からは「よく頑張ったね~。まだやめないで~」と感謝の念。支えてくれた方々に記念の配り物でもと考えるが、いまは具合が悪い。「40周年の時は、大きな配り物を予定しています」と告げ、何とか切り抜けている。
草取りを終え、妻の母の送ってくれたJINROのマッコリを夫婦であけていると、裏山で今年初めてのひぐらしの声。30年、春の夜の夢のごとし。
Fhoto 「ハンギング」
何度も苦境に立たされたが、誰彼の思わぬ力がわれわれを救った。もし、一度でも「救いの手」が欠けていたら生きてはこれなかった。儲からなかった事も効をそうしたのかもしれない。下手に欲を張らず、自分らの力の範囲で運営し、誠実に同じことを繰り返してきた。10年前、20年前も経営形態は変わらない。消費者も同じ人が続いている。どんな職業でも、われわれの様に地道にやれば生きることだけはできると思う。「神は生かすべきものを生かす」。実感である。
久し振りに竹田のO氏に電話する。O氏は私の元同僚にして、九州自然卵養鶏の精神的支柱である。「僕は詳しくないが~」といいながら、何についても知らないことが無い。驚くことに、2か月前に養鶏をやめていた。近くに、もう一人養鶏をやめた人物がいて、その農場を引き継いだ人間に自分の鶏も託したのだという。 驚き、桃の木、サンショの木とはこのことか。彼がやめたら九州の自然卵の養鶏会は雲散霧消するかもしれない。
私も困った時は彼の話に励まされ、物質的にもお世話になって来た。ついに大分県の本格的平飼い養鶏家は、九重のIと私だけになった。そのIも70歳を超えた。私と妻には「ここがロードス島(ナポレオン)」。O氏は議員年金があるが、私には母より少ない泪年金。妻にはそれもない。(幸いなことに?看護師資格がある!) 止めることもできず、進むことも許されない、立ち往生の30年。
が、石の上にも3年という。立ち往生も30年となると筋金入りである。消費者からは「よく頑張ったね~。まだやめないで~」と感謝の念。支えてくれた方々に記念の配り物でもと考えるが、いまは具合が悪い。「40周年の時は、大きな配り物を予定しています」と告げ、何とか切り抜けている。
草取りを終え、妻の母の送ってくれたJINROのマッコリを夫婦であけていると、裏山で今年初めてのひぐらしの声。30年、春の夜の夢のごとし。
Fhoto 「ハンギング」