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熊さんのトリ小屋通信

800羽のトリを飼いながら自給自足の農業をつづけている農家の日々の思いを綴ったもの

「二人なら・・・」

2010-11-27 12:51:47 | エコ
 廃鶏を出しに行く。トリも1年半程産むとくたびれる。卵は大きくなるし、変形も出やすい。しかも産卵率が落ちる。エサ代がもったいないので処理場に出すことになる。以前は、妻がさばいて売ることもあったが、鳥インフル騒動で気分が乗らないし、僅かなお金のために、冬場寒い思いもさせたくない。2時間かけて処理場に運んでも、1羽40円。ガソリン代にもならないのだが、もたもたしているとエサ代がかさむので仕方ない。
 前日の夜捕まえて籠に入れておく。鳥目というが、暗闇でも鳥は目が効き逃げ回る。全てを捕まえるのは容易ではない。私はマラソンの修行があるので、捕まえるのは妻の仕事になっている。面目ない!
籠の中でも卵は産むし、フンもする。積み込むときは鼻が曲がるほど臭い。運ぶ途中、後ろについた車は気の毒だと思う。信号で止まる度後ろの車に気を使う。積んだままガソリンを入れたことがあるが、最初から最後まで「申し訳ない」の連発であった。農家はどっちを向いても頭を下げねばならない。
 処理場は山の中にある。当初は女の人が一人で処分していた。トリを逆さにつるし喉を切る。血反吐を吐きつつトリはこと切れる。死んだトリを毛むしり機に放り込む。血反吐と糞尿、抜けた毛を始末する。地獄の黙示録。常人のなせる業ではない。われわれのようにトリを見慣れているものでも一瞬でも早くその場を逃げたかった。
 彼女の年齢は不詳。いつもパーカーをかぶっているので性別も不確かであった。話しかけたら、かすかに返事をしたので、彼女が女性であることだけは分かった。どんな理由でこんな仕事をしているのかは分からなかったが、14~15年、ひたすらこの仕事を続けていた。
 ある日、処理場の係が30代の青年に代わっていた。自分がこんな仕事をしていることを他人に知られたくないと思っているのか、いつも恥ずかしそうに下を向いていた。「こんな仕事は50万円ぐらいもらいたいですね」と話しかけると「50万円では足りません」と返した。半年も持たずに彼はやめた。
 次の方は、威勢が良かった。「おれは、こんなところにいる人間じゃない」と言いたげであった。「みじめな仕事をしている貧乏人がー」と私たちを見ていたと思う。バリバリ仕事をするので長続きすると考えていたが1年持たなかった。名物であるらしい唐揚げは、こんな人々によって支えられている。
 次は人のよさそうな二人に変わった。「こんな仕事は二人でなきゃできませんね」と話しかけた。彼らもそう考えていた。苦しい仕事も二人ならしのげる。今度は続くだろうと思う。
 農業、特に畜産。一人では続かない。なかには、女一人で果敢に養鶏をしている人もいるが、私は、妻が里帰りして30分経たないうちに養鶏をやめようと思う。養鶏だけではない。生きることもやめようと思う。私の場合、幸運にもパートナーに恵まれた。死ぬ間際になって「いい人生だった。君と結婚できて良かった。ありがとう」と言っても遅いので、いま書き遺しておく。


                                        photo 「由布岳 遠景」

連勝するには早すぎた

2010-11-17 21:24:55 | エコ
 白鵬が負けた。63連勝していた白鵬が負けた。相撲ファンでなくとも、このニュースは見たに違いない。仮にも、私は双葉山の出身地大分県の生まれである。どこのものとも分からない異国人に、郷土の英雄がまかされたのではたまらない。「よかった」、「よかった」と思う。いきなり差別主義、国粋主義に変身・・・?
 先場所から 白鵬の相撲が気になっていた。このまま連勝してはいけない。白鵬が強いのでなく他の力士が弱すぎるのだ。ずるがしこい誰かが奇襲を使って白鵬を破れないかと願っていた。
 あっけなく事態は好転した。その日の相手は稀勢の里。万年大関候補。馬力はあるが、むらっ気があり、安定感に欠ける。白鵬は幾分この相手を苦手にしていた。予想どおり立ち負けた。自分十分になれない白鵬はあわて、一瞬引いた。それに乗じて相手は攻め込んできた。しかし、土俵際で何とか両まわしを引く。ここで一呼吸置くべきであった。しかし、この日の白鵬はあわてていた。勝負を早く片付けようとした。それが命取りとなり、稀勢の里に突き飛ばされ観客席に転がった。敗れた白鵬は言葉にできない表情をしていた。朝青竜が白鵬に投げ捨てられたときに、こんな表情をしていたと思う。茫然自失とは、あの顔であろう。
 双葉山の事は知らない。顔もよくわからない。ヒナの受け取りやエサの集荷で双葉山の生家の近くしばしばを通る時、立派な看板が出ているが立ち寄ったことはない。記念館を造っても立ち寄る人はいないのじゃないかと心配していた。しかし、いつもは7~80名しかいない入場者が、白鵬が破れた次の日、午前中だけで300余名の入場者があったという。私と同じ感想を待っている人がいたわけだ。
 朝日の「天声人語」氏によると、敗れた双葉山は翌日、その翌日も黒星であったという。双葉山を破った平幕の安芸ノ海は、その語横綱に昇進した。なんというドラマか。私の予想どうり、翌日、白鵬は勝った。そして稀瀬の里は負けた。白鵬は双葉山ではなく,稀瀬の里は安芸ノ海ではなかった。白鵬は69連勝するには早すぎた。いまだその域には達していなかったのだ。
 今回の件は、白鵬にとってもよかったと思う。若いので、まだチャンスはある。この次は、もっと立派な横綱として立ち現われるだろう。その時は応援団長を引き受けてもいい。


                                               photo 「皇帝 ダリア」

ちくご川を下る  その2

2010-11-09 22:24:23 | エコ
 車は市街地に入る。トリ飼いの古い仲間がいるので久留米には何度も来ているのだが、そのたびに行く道に迷う。同じ道を通った記憶がない。右往左往して目的地に着いてはいるのだが、「もう一度同じ道を行け」と言われたらもう行けない。
 今回訪ねる農家は2か月前に1度来ている。ところが、前回間違った道をまた繰り返し間違ってしまう。恐るべき脳みそである。何とか着いたのは約束時間の10分前。家をスタートして4時間後の事であった。
 Kさんの家は住宅地にあり、教えられなければ農家と気付かない。以前、周りはみな水田であったという。後継者の息子さんは40歳を超えたばかり。2町歩の水田を有機栽培している。腰のまがった汗臭い農家というより、商社マンか銀行員の風情。どこかの作家が描くように「農が何たらかんたら・・・」などという古い人間ではない。作ったコメはコンピューターを駆使して全国に配送している。30キロに換算すると、1万7~8千円。それでも安いという。
 「無農薬で2町歩耕すと、除草が大変だろう」と問うと、「除草機があるのです。足りない分はジャンボタニシが始末してくれます」と返す。ジャンボタニシは他の農家にはイネを食う害虫であり、人為的に放すと村8分になりかねない。しかし、「自然に広がったもの」は仕方ない! 彼の目算だと,タニシの被害は5パーセント、除草機だけだと2~3割の減収は覚悟しなければならない。「私の農業はジャンボタニシあっての事です」ときっぱり。
 わが町の隣までジャンボタニシは広がっている。私がタニシを拾ってポケットに入れる~あぜ道でつまずく~ポケットからそいつが落ちる~5~6個、8~9個、いや、20~30個…秋の日の幻想である。
 K宅を後にして、古い養鶏仲間の家に立ち寄る。虫に食われ網の目になった白菜畑で話す。高校を卒業して八ヶ岳実践農場を出たが、就農は諦めていた息子さんが「自分の食うコメは作る」と宣言したのがうれしかったのか、キャビン付きの35馬力のトラクターを入れている。私より10歳上だが元気がいい。常に、返すべき借金があるというビハインドが彼を老けこませないのだろうか..?
「まだ夜も現役だぞ~」とのたまう。恐れ入る。「あと5年、75歳までいまの農業を続ける」という。「75歳といえば、私には15年ある」と返辞をすると、「しばらくは楽しめるな~」と応じてくれる。「楽しめる」という言葉に、これまでの彼の農家としての生き方がしのばれる。ここ数年、私の忘れていた感覚である。
 ちくご川が育てた二人の農家に勇気をもらって帰途に就く。途中、河川敷を12~13キロランニングし、帰りに日田の温泉につかる。家にたどり着いたのは星空の輝く夜7時。秋の日の1日の事である。


                                    photo  「紅葉2」



                                                                    













 












「ちくご川を下る」

2010-11-07 21:23:46 | エコ
 早朝、5時半。家を出る。東の空に上限の月。中空にオリオンが輝く。冬の空である。その日は久留米の農家までエサ(大麦のクズ)を取りに行くことになっていた。眠い目をこすりながら国東半島を西に向かう。時折車とすれ違う。どんな用事か知らないが、こんな時間からしなければならない仕事もあるのだろう。
 中津から南進し、耶馬渓を経由して日田の町に向かう。途中の気温1度。初霜である。日田に入ると、川から朝霧が立ち込め、街全体を覆っている。九重・津江山系から流れ出た水はここで合流し、夜明けダムを経てちくご川にそそぐ。
 ダムを過ぎると浮羽町。福岡県である。国道を右折し、旧道を数キロ走ると、道はちくご川の土手に上がる。車2台がやっとすれ違える広さの道が永遠二十数キロ、河口の久留米まで続く。40キロ制限の道だが、殆ど信号がなく、法定速度を守る人もいないので?国道を下るより時間の短縮になる。道は狭く、大型車が来るとハラハラするので景色を見る余裕はないが、河川敷につながる斜面の夏草は刈りこまれていて見晴らしがいい。年に2回刈っているという。牛馬を飼っている時代は草の入札が行われていたようだが、いまでは梱包したほし草が希望者に無料で配布されている。どれだけ注文があるのかは不明である・・・?河川敷のところどころには樹木も見え、一部は農地にもなっている。遊歩道が整備されていて、私のようなランナーは「走り心」を誘われる。
 川面に降りて水の中に指を入れると、思ったより冷たく、水は濁っていた。目を凝らすと水中に魚影が見える。ダムが出き、河川整備が行われてから絶滅危惧種も増えたようだが、今でもこの川では80種類ほどの魚介類が生息するという。
 大きな川には違いないが、河川敷が広く、水は低い位置を滔々と流れている。取水のためには様々な苦労がされてきた。朝倉の三連水車は、高いところへ水をくみ上げるための知恵であった。「アオ取水」(アオとは淡水のこと)という方法も考えられた。満ち塩の時、有明海の水は逆流し川に入ってくる。塩水は重いので淡水の下に潜り込む。そこで、表面の淡水を上手にクリークに取り込み灌漑とした。驚くべき知恵である。
 「筑後川」という合唱曲が作られ、盛んに歌われているらしい。川が与えてくれた恩恵と、古人の川への思い入れがどのように歌われているか知らないが、いま一度、流域の人々が、川とどう向き合ってきたのかを振り返るのも悪くないと思う。歴史を学べば、冬鳥が遊ぶ偉大な川にアナログテレビを捨てることはできなくなるであろう?
 久留米に行くことがあったら、「百年公園」の隅にある「ちくご川資料館」(くるめウス)を訪ねるといい。ちくご川の魚介類50種ほどが展示され、ちくご川の川と人々をめぐる歴史物語の全てが学べるだろう。車は土手を外れ市街地に入るー。
photo 「紅葉」

「会議は踊る」

2010-11-01 06:45:05 | エコ
 最近バカの類が増えたことはすでに書いた。重ねて繰り返すが、人間の事ではない。タネを動植物にくっつけて運んでもらう「くっつき虫」のことである。ある日犬の散歩コースを変えて驚いた。道の両脇に一番たちの悪いバカ、コセンダングサ(三葉鬼針草 熱帯アメリカ原産の一年草)が繁茂していて通れない。こいつは、茎の匂いは良くないが、花は黄色で、可愛くないことない。しかし、その実は恐ろしい。1センチ余りの棒状のタネが放射状に広がり、その先端は二つの爪に分かれ、通り過ぎる動植物を待ち受ける。シュナウザーのような毛の長い犬は、毛の中まで入り込み皮膚に刺さるので大困りする。
 米の値段がそこそこだったころは畦草を何度も刈っていたので、こんな厄介な草は育たなかった。しかし、減反が始まり、今では減反の補助金をもらうためだけに、仕方なくタネをまくという現状である。草がはびこるのも無理がない。
 私たちが引っ越してきた時、このニシヤマという集落には3軒の家があった。ところが、転出したり、介護施設に入居したりして、いつの間にか私の家族だけになってしまった。私が放任すれば、コセンダンクサは一面に繁茂し、あたりを席巻するに違いない。各地にそんな場所が見られる。そのうち人間を駆逐し始めるだろう。この集落の景色と生態系を壊さないために「バカの壁」になるのは私しかいない。穂が出たら手をつけられないので、草刈り機を持ち出し、目に入るすべてのものを切り倒した。「生物多様性を守る」ために汗を流すのは気持ちよかった・・・。
3~4日後、「成果」を味わうために同じ場所に足を向けた。バカは茎を切られて半分萎びていたが、それにもかかわらず花は成長して立派に結実していた。驚くべき生命力。家の中で熱中症になるような軟な連中ではなかったのだ。
 「トリ小屋通信」(南方新社刊)にも書いたが、この盆地を一周する道路をコンクリートで舗装した。雨のたび削られて大きな溝になっていた道路は一新した。そのため、道路に生えていた小さな草花の一部は盆地から消えた。人間の経済活動によって生き物が消えていくのは宿命なのかもしれない。
 しかし、私たちがここで農業を始めたことで増えたものもある。ケイフンをまいて野菜を作ればタネが落ちる。土が肥えれば雑草の種類と生育の勢いが違ってくる。それらを食する虫(害虫?)や土中微生物も格段に増える。コセンダングサのようなたちの悪い草が消えると、こいつらに抑制されていたほかの植物が育つ。私たちが鶏を飼い、田畑を耕すことで、動植物の種と数は、はるかに増えたと思う。悪い奴もいい奴もである!
 遠回りになった。今年、名古屋でコップ10(生物多様性条約)が論議された。大騒ぎした揚句、彼らが合意した具体性のない玉虫色の結論により救われる生物より、彼らが乗ってきた飛行機の排ガスで滅ぶ生物の数のほうが多いのではないか・・・?「同じような会議を何度も開くより、自分の国に帰り、有畜複合農業を始めなさい。今すぐに。問題は一時に解決するだろう」と申し上げたい」。ニシヤマのバカの壁防衛隊からのメッセージである。


photo 「コセンダングサ」

はじめまして

朝日新聞、大分版で5年続いた「熊さんトリ小屋通信」は2008年3月で終わりました。1年の空白がありましたが、再びブログで再開します。ごぶさたしました。そして、始めまして。 私たち夫婦は相変わらず半島の片隅で800羽のトリと少しばかりの田畑を耕しています。二人の子供たちも家から仕事場に通っていて変化はありません。たった一つ変ったことと言えば、毛嫌いしていたパソコンの練習を私が始めたことぐらいでしょうか。  もともと都会に背を向けて生きてきておりますから「100年に1度の金融危機」には関係が無く(万年不景気と言えばそれまでですが…)、住む家と食べ物があり、自分の仕事があります。今更ながら、農家であることに感謝する毎日です。 あ~、重大なことを忘れていました。トリ小屋を守ってくれていた愛犬トランクスが2009年2月17日に亡くなりました。14歳と6か月私たちと暮らしました。動物でも人間でも命の重さに変わりはありません。一時は、立っても涙、座っても涙でした。あ~してやればよかった、こ~してやればよかったと反省の連続です。私が貰ってきた犬ですから、トリ飼いをしているのが見える場所に私が丁寧に埋めてやりました。彼は生きてそこに眠っていると思うことにしています。朝晩、「トラ君元気か」呼びかけています。(返事はしませんが…) 養鶏を取り巻く状況は1年前と少しも変わっていません。鳥インフルエンザの原因はいまだ不明だし、幾らか下がったとはいえエサ代は高騰したままです。燃料のガソリンも高止まりしています。世の中でもっとも悲惨な職業それは養鶏業だということは今も変わりません。  良寛は「死ぬ時に死ぬがよろし」と述べています。そこまでの「悟り」には至りませんが、自分で始めた仕事ですから、何かがあったとしても誰を恨むものではなく、自業自得と受け入れようと考えています。ありがたいことに日々の忙しさは全ての悩みを忘れさせてくれるのです。 「行けるところまで行こう」と始めた養鶏ももうすぐ30年になろうとしています。これから始めるブログは私と妻が日々の暮らし、その中で考えた思いを拙い言葉で綴ったものです。しばらくのお付き合いを…