とんとんのヒトリゴト

のんびり成長中のムスメの成長記録と趣味や日々の徒然話など。

マタニティブルーの悲劇 その3

2005-10-04 | 子育て
しばらくしてネットで隣町におっぱい外来をやっている助産院がある事を知った私は、無理を承知でそこに電話をして出張マッサージをやってもらう事になった。
その時きたのはおばあちゃんに手が届きそうな助産婦さん。のんびりマッサージをしながら半べそをかきながら話す私の話に耳を傾けてくれた。私のおっぱいはちゃんと出ている事。子供が吐くまでミルクを足さなくても充分やっていけること。お母さんが不安になると子供も不安になって泣いちゃうんだよ・・・なんて他愛のない話をしつつ、「子供が横にいて寝ているのをぼんやり見ていけるようになれればいいんだけれどね」と励ましてくれた。
あかちゃんはこうあるべきだ。私が頑張らなくてはいけない。
そんな風に思いつめていた私に、こうしろともああしろとも言わず短い時間だけれど寄り添ってくれたその助産婦さん。そのお陰で、ぴんぴんに張り詰めていた私の心はほんの少し緩まった。

そのぐらいになると、マタニティブルーでおかしくなっているという事が自分自身わかる様になってきていた。
いつまでもこんな事じゃいけない。しっかりしないとぶーちゃんが可哀想だ・・・そう思って何とかこの状況を脱出する為にあれこれ行動を開始した。泣き止まないぶーちゃんになるべく笑いかけるようにしたり、それまで寝ている間はぶーちゃんの側を離れて過ごしていたのをなるべく横にいるようにしたりなど・・・今考えれば笑っちゃうような馬鹿馬鹿しい行為を、本気で私は努力してやっていた。
でも、そんな事でうつ状態から抜けれるわけ無いんですね。
頑張ってるつもりでもどうしても慣れないそんな生活の中、事件は起きた。
天気のいい日の夕方。「何処か出かけるの?」との呼びかけにふと我に返った。その前、自分が何をやっていたのか良く覚えていない。ただその呼びかけに我に返ってみると、上は寒くなっているにも関わらずTシャツのまま、下はパジャマのまま私はつっかけサンダルをはいて、家から少しはなれた道路の手前の所に立っていたのだ。
声をかけてくれたのは隣の住んでいる奥さんだった。
あんまり付き合いの無いお隣さんだけれど、あまりに怪しい私の姿にいたたまれず声をかけてくれたのかもしれない。
私は動揺を隠しつつ、ちょっと・・・なんていってそそくさ家に帰った。そして、大声で泣いた。
怖かった。自分の気持ちがどうにも出来ない事がただひたすら怖かった。


そうはいいながらも、里帰りの期間はもう少しで終わりを迎えようとしていた。
そんなある日。あまりに眠れない私を見かねて、母が一晩だけぶーちゃんの面倒を変わってくれた。
これ幸い、ぶーちゃんはおっぱいでもミルクでも全然問題が無かったので、ある意味これは私にとっても久しぶりの休息になるはずだった。
ところが、やっぱり気になって途中途中起きてしまう。そのうち、一晩中飲んでもらえないおっぱいがどんどん張ってきて、あまりの痛さに眠れなくなってしまったのだ。
・・・一人になって眠りたいといったってこんな様か・・・・。
一人リビングで私は張り詰めたおっぱいをほぐして余計な母乳を搾り始めた。
今は辛いけれど、苦しいけれど、もうどうしようもないのだ。
泣きながらでもぶーちゃんと一緒にこうやって生活していくしか私にはもう残されていないんだと。
胸の痛みと共に、何故か痛切にそう感じた。
一人おっぱいを絞りながら考えた事がこれなんて笑い話にもなりゃしない。
でも、そんな風に思ったのを今でもよく覚えている。


そんなこんなで私は母に心配されつつ相方と東京の家に戻っていった。
その頃だってまだ私のマタニティブルーは続いていたのだが、それでも少しずつぶーちゃんとの生活に馴染んでいくうちにあれほど辛かった授乳や寝かしつけも何とかこなせるようになっていた。
相変わらずぶーちゃんは寝ない子だった。そしてよくなく子だった。そんなぶーちゃんを手放しでカワイイカワイイって言うほど私の母性は豊かじゃなかったみたいだけれど、それでも三人の生活に慣れていくにしたがって私のぶーちゃんに対する思いもゆっくりゆっくり育っていった。
そうなると、今度はぶーちゃんが可哀想で仕方なかった。自分自身の事で手一杯で私は結局ぶーちゃんの姿を何も見ていなかった。寝ている顔、泣いている顔、ほおけている顔。あんなに側にいたはずなのに何も思い出すことが出来なかった。ぼやけた写真を見ながら手繰り寄せる記憶は自分の苦しかった思いと、ぶーちゃんの泣き声ばかりだ。
本当、どこにこんな不幸な子供がいるだろう?ふがいないオカンですまなかった・・・。でも、それがアタシだから。それがぶーちゃんの母親だから、申し訳ないがそんなアタシに付き合って一緒にのんびり育っていこうと、反省の意味も込めてそんな風に思うようにしている。

この春、私は療育手帳を申請する為に、担当の方の面接を受けた。
その時に、ぶーちゃんが生まれる前から生まれた頃の事をたずねられたので、マタニティブルーの事も含めて色々お話をさせてもらった。すると、担当の方が「どうやってマタニティーブルーを乗り越えたのですか?」と聞いてきた。
改めていわれて見ると謎なんですよね。今になってみればあんなに我慢しないで、それなりの病院とかに行けばよかったと思いはするけれど、現実は特に何もしないで少しずつ収まっていったような気がしていたから。
そう、でも私はあの時思ったんですよ。今はどんなに辛くても、きっといつか時間が解決してくれる・・・と。
そして何でもかんでも思い通りにいくように頑張るのはやめようと思った。
どうにもならないぶーちゃんの事を考えて頑張ってぷっつんくるなら、「まぁショウガナイカナ」って感じで諦めてしまえば、ぎすぎすした空気がほんの少し和らいでいく。そしてそれは決して悪い事ではないと私は思っている。(頑張んなきゃいけないところは頑張りますけどねぇ・・・)
そんな感じで自分に折り合いをつけるようにしていますって答えを返した。
ってか、そんな簡単な答えを出すのに4年もかかったとんとんでございます・・・。

マタニティブルーの後日談ですが。
ぶーちゃんのお世話になれて、落着き始めた6ヶ月の頃、私はぶーちゃんの発達に問題があるということをかかりつけの先生に宣告された。
ようやく立ち直ったと思った側からの宣告に、正直かなり参りました。
それでも、あのマタニティブルーで苦しんだ時間を思い返せば、私はどんな状態でもぶーちゃんと一緒に生きていけると思ったんですよ。
そう思うと、あの辛かった時期は神様が私に与えた試練なのではないかと思うようになった。

ちょっと難しい子供をあなたに預けるんだからね。
ちゃんと乗り越えられるか、あなたを試さしてもらうからね。
このぐらいでひーひー言っててどうするの?
ちょっとやそっとでへこたれないでしっかり頑張んなさい・・・って。

そのお陰かどうか、私は正直ぶーちゃんの障害を告げられた時、以外に早く受け入れられる事が出来た。
本当何事も経験だな・・・と思う今日この頃です。


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