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高麗屋三代の新春を寿ぐ~歌舞伎座夜の部「勧進帳」に想う~

2018-01-06 05:34:32 | 劇評

巻、躍動感あふれる弁慶役者の誕生に、歌舞伎座は連日大いに沸いている。歌舞伎座百三十年、二代目松本白鸚・十代目松本幸四郎・八代目市川染五郎 三代同時襲名披露興行は、またひとつの伝説を生んだといえよう。

歌舞伎を私がいつも見ていく中で、「血」の重さや「芸」が代々受け継がれていく事の醍醐味を、あまり意識せずにいた。しかし今回、新・幸四郎の「勧進帳」の弁慶と、吉右衛門の富樫をみながら、しきりとその感慨の深さを感じ取ったのである。

すなわち、七代目幸四郎・初代吉右衛門~十一代目團十郎・初代白鸚・二代目松緑兄弟~当代白鸚・吉右衛門兄弟~そして、当代の幸四郎や海老蔵たちにつづく、「伝統」という名のDNAのリレーが見事に渡されていることを、私もようやく認識したのだった。

新・幸四郎の弁慶の成功は、一つ一つの動き、台詞、型を丁寧に演じるだけではなく、曾祖父の七代目幸四郎などへの畏敬の念を最大限表した点にある。顔の拵えも、叔父の吉右衛門の面影を宿すのに___それは初代白鸚へのリスペクトにほかならないのだが__私は驚嘆したものである。

小顔で、弁慶役者には不向きという声を横目にして、新・幸四郎は堂々たるセリフ回しと踊りの入った身体性を最大限生かすことで、弁慶のもつ躍動感、疾走感を全力で演じ切ってみせた。特にそれが最大限生かされているのは、山伏問答の「たとわば人間なればとて」と見せるすさまじい怒気や、石投げの見得のマスクの立派さ、延年の舞の晴れやかかつ爽快な充実ぶりにであった。

吉右衛門が富樫につきあい、美少年の新・染五郎が義経を演じることで、この家のDNAがまさに「勧進帳」のために生まれてきたことを改めて痛感させたのである。

また、感心なのは、花道の引っ込みの折に、一切手拍子を起こさせなかったこと。観客の意識の高さもうかがえるが、新・幸四郎の弁慶の気魄の賜物であり、気力の充実ぶりが舞台の芸となって昇華したといえよう。まさに渾身の弁慶であった。

吉右衛門の富樫にも触れよう。まさにそびえたつ巌のごとく、新・幸四郎弁慶の前にたちはだかり、巨大な存在感を見せ秀逸であった。初代白鸚への敬意とともに、彼自身の矜持を感じさせる、またとない味わいの富樫であり、超一級品の出来ばえである。名乗り、見とがめ、そして泣き上げ・・すべての動きが規格正しく、芸術品のように美しい。この舞台をみたら、泉下の初代吉右衛門、初代白鸚もそれぞれ涙するに違いない。そう思わせる、まさに至芸。80歳で弁慶を演じたい、と常々語る吉右衛門であるが、その未来像が大変たのしみでもある充実の舞台であった。

驚嘆すべきは、義経を演じた、12歳の新・染五郎の抜群の存在感である。その端正なたたずまいは花道の出から尋常ならざるものがあり、発声はまだ変声期だからやむをえまいが、品格といい、貴族性といい、第一級の義経になっていたのは立派である。「判官御手をとりたまい」の美しさは、比肩できぬものであり、この個性が大事にすくすくと育つことを願ってやまない。行く末恐ろしき大器である。

四天王も豪華。鴈治郎、芝翫、愛之助、歌六と並ぶと、誰が弁慶で誰が富樫でもおかしくない配役だが、これも世紀の襲名興行ならではのごちそうであろう。芝居のひとつひとつの動きが丁寧であり、ドラマに並々ならぬ緊迫感を生んだのは、この四天王あってこそと思う。高麗五郎、吉三郎、吉五郎の番卒も神妙である。里長、三右衛門の長唄も、朗々と冴え、高麗屋の春を寿ぐ。

歌舞伎の未来にまたひとつ、大きな星がきらりと光った。新春の風にふかれ、芝居談義もあちこちでわく、東銀座の夜であった。



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